◆横浜歌謡ショー将棋倒し事故(1960年)

 1960(昭和35)年3月2日のことである。横浜市中区の横浜公園体育館とその周辺では、午前中から大勢の人々が集まっていた。

 この体育館は元は米軍体育館で、形はかまぼこ型で面積は約3,000平方メートルの大型のものだった。1958(昭和33)年に接収解除されて興行場法の適用を受け、横浜市が国有財産のまま委託管理していたという。普段はスポーツくらいにしか使えない、粗末な施設だった。

 当時ここに集まっていた人々の目当ては、夕方からこの体育館を会場に開催されるイベントである。開局1周年を迎えたラジオ関東(現アール・エフ・ラジオ日本)が、「開局1周年ゴールデンショー」なる歌謡ショーを催すことになったのだ。

 このショーの出演者がまた豪華で、林家三平、島倉千代子、青木光一に若山彰と、現代でいえばさしずめEXILEとAKB48がいっぺんにやってきたような――すいませんこの例えはテキトーです――絢爛たる顔ぶれだったのである。最高のショーだ。

 当時はこのような、芸能人を呼んで集客を図ろうとするイベントが一般的になりつつあった。ところがこの横浜の歌謡ショーでは、こうした豪華さそのものが仇となった。

 問題は、主催者のラジオ局が前もって配布していた無料招待券の枚数である。ラジオ局側は「招待券を配っても実際には来ない人がたくさんいるだろう」と考えて、会場の定員のなんと2倍近い6,000~8,000人にこの無料招待券を配っていたのだ。

 ところが主催者の予想は完全に外れた。ショーの出演者の顔触れがあまりにも素晴らしいため、欠席する者はほとんどいなかったのである。

 さあ大変、興行場法で決められた横浜公園体育館の定員は3,500名である。立ち見を入れても4,000名がいいところだ。午前10時の段階でも、すでに島倉千代子や青木光一目当ての10代の少女たち2,000人近くが押し寄せていたともいい、会場にはすでに暗雲が立ち込めていた。

 それでも、最初は目立った混乱もなかった。会場の体育館には正面と北側にそれぞれひとつずつ入口があり、それぞれに2列ずつ並ばせることができたからだ。

 いよいよ惨劇の時が近づいてくる。

 17時30分に入場開始となり、最初は人々も整然と入場していた。しかしほどなく館内は満席となり、立ち見として無理やり詰め込んでもこれ以上の収容はもうアカン、という状態になってしまったのだ。

 そこで主催者側がとった措置が、「それ以上の収容はあきらめる」というものだった。会場の入り口で、アルバイトの警備員などが呼びかける。

「館内はもう満席です。これ以上は中へ入れません」

 これを聞いた人々の感想は「はぁ~~?」といったところだったろう。これでは、整然と並んで入場を待っていた招待客こそ好い面の皮である。当然納得して帰るはずもなく、一部の人たちが警備員相手に騒ぎ立てた。

「ふざけるな、こっちは入場券を持ってるんだぞ。中に入れろ!」

 時刻は17時45分頃。3月のこの時刻というとほとんど夜のような暗さだったことだろう。体育館周辺に集まっていた顔の見えない群集が闇の中でわめき始め、警察官の制止を無視して突っ込んできた。

 どうやら、最初は列に並んでいない人々が割り込んできた形だったらしい。しかしそれをきっかけに、整然と並んでいた人々も隊列を崩して我先にと入口へ殺到したのだった。

 当時、会場でもぎりをしていた大学生のアルバイト学生たちによると、主に押し寄せてきたのは「早く入れろ」と叫ぶ10数人の若者だったという。

 かくして惨劇は起きた。北側入口のドアの下に、縁石が12センチほどの段差になっている部分があったのである。おそらくそこに蹴躓いたのだろう、まず2、3名が転倒し、後続の者がさらに折り重なって倒れた。

 将棋倒しは止まらない。ドドドドドッとそのまま100名ほどが巻き込まれ、うち女性や子供ばかり12名が圧死。加えて14名が重軽傷を負った。

 こんな事態になっても、招待客たち数千人はまだ暴れ、わめいていたというから呆れる。現場はかなりの混乱状態だったようだ。

 この事故から2日後に行われた衆議院本会議では、事故について緊急質問が行われている。その際、現場の状況については以下のように述べられている。

「……新聞等の描写によれば、倒れた人の上にまた倒れ、その上を踏み越えるというありさまで、一瞬、泣き叫ぶ者、うめく者、助けを求める者、血を見る騒ぎとなりました。そうして、入口付近には、すでに息絶えた者、どろまみれの者など、数十人が小山のように積み重なり、世にもむごたらしい光景を描き出しました。死者十二人、すべて女の人と子供であり、重軽傷十四人も同様であります。……」
 (第34回国会衆議院本会議議事録第11号)

 こんな阿鼻叫喚の地獄の中、横浜市内の中、南、磯子の各消防署から救急車が出動して、さらに現場は騒然とした。怪我人は警友病院、横浜中央病院、花園橋病院、国際親善病院、大仁病院などに搬送されたが、人出が足りず、警察車両や通りすがりのタクシーなども動員されたという。

 この事故のため、歌謡ショーはもちろん中止。ラジオ関東はこの日の夜の番組放送もすべて取りやめた。

 19時には神奈川県警による現場検証と関係者からの事情聴取も始まっている。群集の混乱や先述の縁石の存在ももちろんのこと、現場の北側入口のドアが狭いうえに当時は片側しか開いていなかったのも事故の原因と考えられた。

 一応、当時の現場にはラジオ関東の社員10名、アルバイト学生25名、制服警官12名、私服警官7名が配備されており、招待客の誘導や現場の警備にあたっていた。派遣された警官の数は通常の3倍だったというが、だがそれでも数千人の群集には勝てず、事故は防ぎ切れなかったのである。

 この事故のあと、警備にあたっていた加賀町警察署から、読売新聞に対してこのようなコメントが寄せられた。

「主催者(ラジオ関東)からの届出では来場者数は4千人程度との事でその数なら混乱は発生しないと判断し特に警備を通常より増員する事などしなかった」。

 まあさすがに、警察も、よもや主催者側が定員の倍以上の人々に招待券を送っていたなんて想像だにしなかったことだろう。

 後からではなんとでも言えるが、そもそも入場整理の時点でも、アルバイト学生や警察たちの連携は杜撰なものだったという。人手は足りず連絡も不十分、さらに言えば整理のための設備も不手際だらけと、これは完全に主催者側の判断ミスによって引き起こされた事故だった。

 当のラジオ関東は、先述したように事故直後には当日のイベントとラジオ放送をぜんぶ取りやめ、そして事故の詳細について報じた。さらに翌日には当時の社長が新聞にお詫びの広告も出している。

 歌謡ショーに出演することになっていたという林家三平にちなみ、ここは最後に「もう大変なんすから」でシめようかと思ったが、なんか笑えないのでやめておこう。どうもすいません。

【参考資料】
◆ウィキペディア
事件事故まとめサイト(仮名)
ウェブサイト『警備員の道』
◆衆議院会議録情報 第034回国会 本会議 第11号

back

◆第二京浜国道トラック爆発事故(1959年)

 時は1959(昭和34)年12月11日、午前4時53分のこと。

 横浜市神奈川区子安台46の第二京浜国道を、一台の砂利運搬トラック――通称砂利トラ――が走行していた。

 で、このトラックがすでにして大問題。運転手がグースカ寝ていたのである。

 しかし事情を知ればそれも無理のない話で、相田みつを風に言えば「寝ちまうよなあ、にんげんだもの」である。

 なにせこの運転手、前日の早朝から砂利の運搬のために相模原と川崎を往復しており、それももう5往復目だったのだ。ほぼ24時間、まともに睡眠もとらずに一人で行ったり来たりしていたのである。

 ついでにいえば、彼は運転免許をとりたてでもあった。

 こんな事情があり、居眠り運転のトラックは対向車線にはみ出してしまう。そして折悪しく反対方向からやってきたトラックには約4トンのTNT火薬が積まれており、これと正面衝突をかましたものだから「ワッチャ~」である。

 どぼずばああああああん。

 爆発したほうのトラックは昭和火薬(現・日本工機株式会社)という会社のもので、勝浦市の工場から、横浜の戸塚工場へ向かっている最中だった。荷台には、米軍の砲弾を解体した際に生じた火薬が積まれていたのだった。

 かるく調べてみたのだが、TNT火薬というのは、ちょっとやそっとの熱あるいは衝撃では爆発しないという。だがおそらくこの事故の場合は、高速道路での大型トラック同士の正面衝突ということで、生半可な衝撃ではなかったのだろう。悪条件が重なってしまったのだ。

 爆発直後、もうもうと立ち込める黒煙が消え去った後で道路に出現したのは、巨大な穴ぼこだった。直径5メートル、深さ1メートルの大穴である。

 周辺への被害も著しかった。現場地点を中心に、半径500メートル以内にある民家31棟が全半壊。さらに201棟が一部損壊、そして99名が負傷した。

 こんな爆発のど真ん中にいたトラックも、もちろんタダでは済まない。双方のトラックに乗っていた計4人は全員死亡した。

「爆心地」の場所を示す穴ぼこは、現場の下り車線側にあった。よって、上り線のトラックが下り線にはみ出して衝突したのだろうと判断されたのだった。

   ☆

 それにしてもド派手な事故である。盆と正月が……、じゃなくて、交通事故と爆発事故が一緒にやってきたという悪夢のような事例だ。

 しかし歴史を俯瞰してみると、この事故の発生にはある種の必然性が伴っていたことが分かる。

 というのは、この事故が起きた昭和34年頃というのは、交通事故も爆発事故も増加の一途を辿っていたからだ。

 まず、荒っぽい運転をすることで有名になった「神風タクシー」が社会問題になったのが昭和33年。その翌年の昭和34年は、交通事故による年間死者数が1万人を突破した年でもあった。

 そして爆発事故である。戦後の技術革新と経済成長によって、この頃の日本では重化学工業が発達していた。そのため産業用の火薬類も多く用いられるようになり、やはりこれによる事故も多発していたのである。

 それを踏まえて改めて見てみると、この第二京浜国道での爆発事故というのは、旬のものをアレもコレも詰め込んだ「牛あいがけカレー」のようなものだったのだなと思う。

 ちなみに筆者は、カレーと牛丼の組み合わせまでなら許容範囲だが、ウナギと牛丼を組み合わせた「うな牛」はどうにも許しがたいと思うのである(本文と関係ねえ)。

【参考資料】
◆ウィキペディア
昭和49年 警察白書
衆議院会議録情報 第034回国会 本会議 第11号

back

スポンサー