◆三河島紀行(フィールドワーク)


 三河島へ行ってきた。

 筆者は、常々「鉄道は嫌いではないが、別に鉄ちゃんではない」と公言している。だがさすがに今回のように事後現場巡礼までしてしまうと、「事故鉄」と呼ばれても仕方ないかなと思う。


 まずは、三河島駅に降り立った。

 それから事故現場目指してしばらく歩いた。天気もよく、まさしく巡礼日和であった。

 実は、筆者の父は、むかーし荒川区に住んでいたことがある。それで三河島のあたりというのは街並みが独特だと以前から聞かされていたのだが、今回歩き回ってみて納得した。なにが特徴的って、家々の密集の度合いが半端ではないのである。

 否、密集というよりもむしろ、街の一画一画それぞれが固まってひとつの集合住宅になっているような印象を受ける。ギチギチに詰まっているのだ。

 筆者の住んでいる山形県では、いくら家が隣同士とは言っても、必ず建物と建物の間に隙間がある。しかし三河島にはそれがないのである。これは驚きだった。 

 とにかくギチギチに住居がひしめいている中で、ちゃんと改築されたらしい小奇麗な家もあれば、昔ながらの古びた住宅もある。それらが、並んで建っているというよりもはや「食い込み合っている」とでも言いたくなるような形になっているのである。

 道路の幅は、ほとんどが車一台通るのがやっとである。一体、住宅の改築の時にはトラック等の車はどうやって入ってきたのだろう? と不思議になってくる。

 それでも、街を歩いていると、住民の乗用車は狭い狭いスペースにきちんと車を押しこんで駐車したりしている。きっと三河島に住む人々というのは、昔から車を停めるコツを心得ているのだろう。

 この街は、東京から見るといわゆる「周縁」に属する地域なのだと聞いたことがある。たとえば朝鮮の人たちがこの周辺には多く住んでおり、屠刹場も多くあったと聞く。まあそれは断片的な情報ではあるのだが、そうした事柄が街の独特の雰囲気を形成しているのだと考えると納得のいく部分もある。

 父いわく、三河島あたりに住んでいる人々の連帯意識はとても強かったという。地域の連帯意識ということでいえば、筆者の住んでいる山形県の田舎などももちろんそうだ。だが三河島はそれに引けを取らないほどだというから、人の心は似たり寄ったりなのだなと思ったりもする。所変わっても品変わっても変わらない心はある。そうした心が、遠い時代の、遠い場所の、凄惨な事故の記憶によって共鳴するのである。

 さあ事故現場が近付いてくる。正面にいる2人は筆者の友人である。

 そしてこれが事故現場である。

 この高架のほぼ真上で、あの伝説の三重脱線事故は発生した。

 動画で観て頂くと分かるが、当時の三河島事故の現場は土手の上である。その土手が、今はこのような高架になっている。

 さすがに、高架上に行けるような階段はない。よって下から撮影するしかない。事故現場の正面には小奇麗なマンションが建っているので、建物の後ろから覗き込むようにパチリ。

 昭和37年5月3日、上野行き上り2000H電車はここから脱線・転落したのである。

 ついでに反対側からもパチリ。

 次は慰霊碑である。三河島駅から徒歩で3、4分の場所にある浄正寺という場所にあると聞いているので、さっそく向かう。

 不思議なことに、線路を越えると街の様子が一変する。三河島地区はものすごい住宅密集地域だったが、こちら側はごく普通の住宅街といった趣だった。線路一本挟んだだけでこうも違うのかと少し驚く。

 到着。

 こんな案内板もあった。

 三河島事故の説明もちゃんと書いてあり、きっと遺族以外にも筆者のようなマニアが来たりするのだろうと思う。事故の説明もあった。


 慰霊碑である。

 犠牲者の冥福をお祈りします。本当に心からお祈りします。日本の文化を陰から支えている多くの事故死者たち。戦後日本の裏歴史に刻み込まれたすべての英霊たち。それら全てに祈りを捧げます。

 卒塔婆に、お寺の写真。

 どうも都会のお寺は狭苦しい。

 ちなみに、同行してくれた2人の友人は鉄道事故にはまったく興味のない人間である。よって終始「きうり氏、一体なにが面白いの?」という顔をしていた。

 だから筆者もなんとなく悪い気がして、想像していたほどじっくり三河島地区を見物することはできなかった。今思うと、駅のそばの公園で井戸端会議をしていたお婆ちゃんたちにでも話しかけて、事故当時の話でも聞ければ良かったと思う。

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◆トライアングルシャツウエスト工場火災(1911年・アメリカ)

 今から100年ほど前にニューヨークで発生した火災である。

 言うまでもなく、ニューヨーク市と言えば今では押しも押されぬ大都市で、産業・商業・情報等の分野における最重要都市である。だがその成長の歴史は意外に短く、当時のニューヨーク市はまだ他の街との合併を果たしたばかり。大都市としては駆け出しもいいところで、成長はこれから――という時期だった。

 そして、日本の例を挙げるまでもなく、こうした都市の成長の陰では多くの人々の犠牲がつきものである。婦人用古着再生工場だったこのトライアングルシャツウエスト工場で発生した火災は、その分かりやすい実例のひとつだといえる。

 さらにこの火災は、その社会的・歴史的な影響のため、災害史のみならずアメリカ史全体においても大きなインパクトを残している。

 当時、アメリカでは労働運動が盛んで、多くの工場で労使間の対立と和解があった。その端緒となったのが他でもないこのトライアングル社であり、そして最後まで決着がつかなかったのもトライアングル社だったのだが、火災が発生し多くの女工が死亡したのが、こんなグダグダの状態のさ中だったのである。彼女たちは文字通り劣悪な労働環境の犠牲になったのだ――ということで、労働環境の是正がより一層求められるようになったのだ。

 これから火災の経緯を記すが、その前にひとつだけ。この「トライアングルシャツウエスト工場」という名称についてなのだが、実は最初、資料によって「トライアングルシャツウエスト」だったり「トライアングルウエストシャツ」だったりと、まちまちだったので困った。

 で、しばらくの間分からないままで放置していたのだが、読者の方からいただいた情報でやっと分かった。これはアルファベットでは「Triangle Shirtwaist」らしい。筆者は最初、ウエストはwestだと思っていたのだが、実際にはwastで「腰」のこと。そしてシャツウエスト(shirtwaist)で一つの名詞となり、これはシャツブラウスのようなものなのだとか。

 だから、Triangle Shirtwaistの工場というのは「シャツウエストを作っているトライアングル社」、もしくは「トライアングルシャツウエスト社という名の会社」のいずれかの工場、という意味なのだと思う。

 とりあえずそんなことを踏まえつつ、本文では現場の建物については省略して「トライアングル工場」と表記させていただく。「トライアングル社」と表記されているのは、工場ではなく本社という意味である。

   ☆

 日本では明治44年にあたる1911年、3月25日のことである。

 ワシントン・プレースとグリーン・ストリートが交わる交差点、その北西の角にアッシュ・ビルという10階建ての高層ビルがあった。

 トライアングル工場は、このビルの上から3階分のフロアに施設を構えていた。8階と9階が工場で、10階は事務室である。

 工場での就労時間が終わる午後4時半のことだ。終業ベルが鳴ると、その日の労働を終えた女性たちは帰り支度を始めた。縫製会社とあって、従業員のほとんどが女性である。

 会社の守衛たちもまた、盗難防止のために、社員たちのハンドバックを調べる準備を始めた。

 外は快晴、清々しい天気である。

 しかしこの直後に異変が起きた。8階にいた裁断係の男性が、布の切りくずが入っている箱から出火しているのを見つけたのだ。グリーン・ストリート側の窓のそばにテーブルがあったのだが、その下の箱が火を噴いていたのである。

「うわっ火事だ! 水持ってこい水。支配人にも知らせろ」

 知らせを受けて、9階だか10階だかにいたらしい生産担当支配人、サミュエル・バーンスタインも駆け下りてくる。おお、本当に火事だ。だけど心配ご無用。俺、2週間前にもボヤを消し止めたもんね。さあバケツ持ってこい――!

 そんなに頻繁に火事が起きてたんかい、とツッコミを入れたくなるところだが、それはさておき、バーンスタインは他の男性社員とさっそく水をかけ始めた。この男性社員も、2週間前に一緒に消火活動を行っていた。

 この工場、実は防火設備に関しては意外にしっかりしていた。各階に消火用バケツや屋内消火栓が備え付けられており、それを用いた消火が試みられたのだ。だが火は消えなかった。

 工場内の環境も悪かったのだ。出火場所の周辺には、木綿生地やたくさんの紙型がぶら下げられていた。その上、ミシンからの油漏れのため床は油で汚れており、とどめに予備のミシン油の樽が壁にずらり。洒落にならん。

「くそっ消えない、みんな逃げろ!」

 避難指示の言葉を英語でどう言うのか知らないが、とにかくバーンスタインは、消火活動を行いつつ従業員に避難と脱出を促した。

 こうして8階での混乱が始まった。もともと、この階にいた225人(275人とも)の従業員は、グリーンストリート側のいつも開いているドアから帰宅しようとしており、皆がそこから脱出を始めた。

 同時に、バーンスタインは機械工のルース・ブラウンにこう指示を出した。

「もうひとつドアがあるだろう、そっちの鍵も開けろ」

 そっちというのは、ワシントン・プレース側に出られるドアである。こちらは窃盗とサボり防止のために常に施錠されており、ブラウンはさっそく解錠しようとした。

 ところがこのドアが曲者だった。当時(今はどうなのか不明だが)のニューヨーク州の労働法第80項では、「工場のドアは可能な限り外開きでなければならない」と定められていたのだが、ドアの向こうの踊り場があまりにも狭すぎたため、これは内側に向かって開くように作られていたのだった。

 結果、どうなったか。怯えて脱出をあせる労働者がドアに押しかけたため、内側に向かって開けることができなくなったのである。笑い話のようだが本当にそうなのだ。

 ブラウンは当時のことを、このように語った(意訳)。

「ドアを開けるために、彼女らを押し戻さないといけなかった。ドアにびっしり押し寄せているんだもの。俺が全力でドアを引っぱると少しは開くんだけど、彼女たちはドアに押し寄せてくるからまた閉じる」

 ゾッとする話である。それでもやっとこさドアが開かれ、20インチ(50センチほど)の幅のドアから一人ずつ逃げ始めた――。

 8階からは、こうして大半が無傷で脱出することができた。ところが問題はそのさらに上階である。

 当時、8階にいたダイナ・リフシッツは、社内電話を使って、10階の電話交換手メアリー・オルターに通報している。少し海外ドラマの翻訳風に、当時のやり取りを書いてみよう。

ダイナ「ハーイ、メアリー。大変なのよ、今8階が火事なの! お願いよ、10階と9階の人たちに知らせてくれる? 今8階もパニックで、交換手のあなたに頼むしかないの。お願い」
メアリー「え~? ちょっと待ってちょうだい、それ本当なの? じゃああたしたちも早く逃げないと!」
ダイナ「駄目よメアリー、その前にみんなに連絡して! そうでないと大変なことになるわ、メアリー、メアリーったら!」

 もちろん想像上の会話である。だが大体こんな感じだったのではないだろうか。この交換手のメアリーが交換台をほったらかしにして逃げたため、9階にいた260名~300名の従業員はまったく危険を知らされなかったのだ。

 10階にいた人々は、全員が無事に脱出できた。だが9階にいた従業員は、フロアの窓の外が炎と煙に包まれるまで火災にまったく気付かなかった。

 もともと、アッシュ・ビルの壁はレンガ造りだった。そして窓枠などの部品も金属が用いられており床もコンクリだったので、炎が壁や床を突き抜けることはなかった。しかし8階の窓から噴き出した火炎によって、9階もたちまち火の手に包まれたのだった。

 さあ、9階フロアは大混乱である。トライアングル工場で働いている身内の名を呼ぶ者、縫製機械のそばで呆然と動かなくなる者、即座に逃げ出す者などがいたという。

 逃げ出したグループは、さらに二手に分かれた。8階の従業員たちと同様に、グリーン・ストリート側と、ワシントン・プレース側のドアへ向かったのだ。

 結果、グリーン・ストリート側のドアからは100人ほどが無事に脱出。こちらの螺旋階段は幅33インチ(約84センチ)という狭さでしかも急勾配だったが、避難には充分使えたようだ。

 だがこの階段も途中から使用不能に陥った。火炎のため通れなくなってしまったのだ。

 またワシントン・プレース側のドアは、これも8階と同じように施錠されており使えなかった。不幸にして、解錠できる人間がこの階にはいなかったらしい。

 こうして脱出し損ねた従業員たちは、慌てて別の避難経路を探す。残るは屋外にある非常階段と2基のエレベーターだけだ。

 運命の二者択一である。だがもはや、どちらも安全な避難経路とは到底呼べない状況だった。

 まず屋外非常階段だが、これは幅が17インチ(約43センチ)とひどい狭さだった。しかも避難する人々の重みと、ビルからの火炎の熱でもって、人々が避難している最中に階段そのものが崩壊してしまった。

 次がエレベーターだ。これはワシントン・プレース側に設置されており、運転員もいた。当時の避難の様子について、この運転員はこう証言している(意訳)。

「従業員たちは、私の髪の毛を引っぱって、頭上に飛び込んできた。私も人々の頭の上に人々を詰め込んだ。エレベーターの屋根によじ登る者もいた」

 またこんな証言もある(エレベーターの運転員は2人いたと思われるが、この2つの証言が同一人物のものかどうかは不明である)。

「9階でエレベーターのドアを開くと、避難者の大群がいた。そのすぐ後ろは物凄い炎と煙だった。私は何度かエレベーターを行き来させて人々を脱出させた。そして3回目に9階へ上った時には、もう周辺は火炎だらけ。多くの人が逃げ場を失い、窓枠に立っていた」

 鮨詰めのエレベーターは、こうして数回に渡って上下階を行き来し、多くの被災者を救っている。最後の数回は、実に定員の2倍の人数を輸送したという。

 しかしこの2基のエレベーターも、やがて停止した。一台は火災の熱でエレベーターの通路が歪んだためだった。またもう一台は、炎を逃れようと通路へ飛び降りた者が多数おり、その重みで箱が動かなくなったからだ。

 上階にはまだ逃げ遅れがいたのだ。やがて、停止したエレベータの箱の上に、彼らが飛び降りてくるドシンドシンという音が響いてきたという。後に消防士が確認したところ、エレベーターの箱の上には計19の遺体があった。

 エレベーターが2台とも停止したのが4時45分。火災が発生してから僅か15分のうちに、従業員たちは9階から脱出するすべを失ったのだった。

 不運だったのは、ちゃんとこのビルには火災用の避難口があったのに、大半の者がそれを知らされていなかったことだろう。従業員たちは防火訓練を受けておらず、建物内のいつも見慣れたシャッターの向こうにそれがあることなど、思いつきもしなかった。

 飛び降りも、数え切れないほど発生した。非常階段が崩壊したことは先に述べたが、それ以外にも多くの人が窓から落下している。

 エレベーターの運転員はこう証言していた――「多くの人が逃げ場を失い、窓枠に立っていた」と。つまりこの、「窓枠に立っていた」従業員の末路が「飛び降り」となってしまったのだ。

 当時、現場周辺は野次馬でごった返していた。火だるまになった犠牲者が高層階から落下してくる姿を、大勢が目撃している。

 野次馬の一人の証言。

「最初は、オーナーが高級な製品だけを窓から外に投げているのかと思った。だがよく見ると、それは窓から飛び降りる従業員たちだった」

 また、たまたま近くを通りかかった『ニューヨーク・ワールド』(雑誌か何かだろうか?)の記者はこう証言している。

「500名ほどの群衆が、いっせいに怯えた声をあげた。風で衣服を巻き上げながら落下してきたのは、若い女性だった。彼女は街頭に叩き付けられて即死した。群衆が、なにがなにやら分からずにいると、もう一人の若い娘が窓枠に飛び上がった。彼女は、拳を固めて窓を叩き破ったらしかった。頭髪も衣服も燃えていた。一瞬、両腕を突き出して窓枠で制すると、すぐに落下してきた。同時に、別の窓からも3名の女性が身を投げ、あとからも別の女性たちが窓枠へしがみついていた。息をあえがせ、このまま室内で死ぬか、眼下の歩道や側道で死ぬか、決断しようとしていた」

 なんだか、さすがに筆者も書くのが苦痛になってくる光景である。あまりにも凄惨だ。

 ともあれ、この落下によって46~60名以上が死亡。辺りは死屍累々たる有様だった。消防士の救命網も、高層階からの飛び降りには役に立たなかった。

 消火活動は難航を極めた。梯子が届かない上に、犠牲者が次々に飛び降りてくるので危険極まりなく、消防隊も警官も近寄れない。難航を極めたというよりも、もはや消火活動は「できなかった」というのが本当のところだろう。とにかくボトボト人が降ってくるものだから、エレベーターで無事に脱出した従業員すらも、危なくてビルの外には出られなかったという。

 それでも、消防が到着してから30分以内には鎮火しているようだ。ほほう、なかなか手際がいいね……と言いたいところだが、喜んでなどいられないのである。この1時間弱の火災で、なんと死者は146名というべらぼうな数に上ったのだ。
 
 工場内から救助された者は、一人もいなかった。

 最初、遺体は道路に積み上げられていたが、警官たちは大急ぎで棺を調達。そして、東26番ストリートの埠頭に臨時の遺体安置所を作った。

 一部の犠牲者は、賃金を大事に服にしまっていたり、あるいはその手に握り締めたりしていたという。

 また、娘の死を目の当たりにして、埠頭から身を投げようとした母親も十数名いた。警官は彼女たちを止めるのにもひと苦労だった。

 さて、裁判である。この悲惨極まりない事件の責任者は誰なのか?

 これについて、当時ニューヨーク・タイムズはこう書き立てたという――「この恐るべき失態は、何者かが引き起こしたのだ。しかし難しいのは、これだけの人命が失われたことの責任の所在を突き止めることだろう」。

 面白くもなんともない予言だが、これが的中した。アッシュ・ビルと工場の管理に携わった者たちは、誰も彼もが互いに責任をなすり合ったのだ。いわく、

1・州知事「俺じゃねえよ! 悪いのは建築局だ」
2・地方検事の主張「俺じゃねえよ! 悪いのは州の労働局、共同住宅局、水道局、警察だ」
3・トライアングル社のオーナーのアイザック・ハリスとマックス・ブランク「俺たちじゃねえよ! 悪いのは建築基準法だ」

 素人の印象では「会社が一番悪いんじゃないの?」と感じるところだが、しかしここで注意しなければならないのは、トライアングル工場は法令違反をまったく行っていなかったという点である。

 例えば避難階段も、熱式火災報知システムも、各階の水バケツも、屋上タンクも、屋内消火栓もあった。また外部からの送水も可能だったし、地階の散水設備も充実していた。数十年後のどこぞの国のホテルや旅館やデパートに比べても余程しっかりしているし、またこれは当時の法令の示す基準にもきちんと合致するものだった。

 つまりトライアングル工場火災は、「これだけの設備があれば火災が起きても大丈夫だろう」という行政の予測を遥かに越えていたのである。うんざりするような言い方になるが、いわゆる「想定外」だったというわけだ。

 行政にも、決して落ち度がなかったわけではない。消防設備について言えば、梯子は届かないし放水の水圧も足りなかった。また市の建築課も、アッシュ・ビルの欠陥を認識していながら放置していたフシがあった。

 それでも、結局最終的に起訴されたのは、トライアングル社の2人のオーナーだった。先に名を挙げたアイザック・ハリスとマックス・ブランクである。

 法廷では、遺族からの報復を防ぐため、被告人には常に警備がついていたという。

 裁判では、問題を単純化するべく、死亡した1人の女性について争点が絞り込まれた。ワシントン・プレース側のドアが施錠されていたことが、犠牲者の発生に繋がったのではないか――?

 審理は3週間の長きに渡り、証人は155人に上った。

 そして陪審員が、1時間50分の協議の末に出した結論は「無罪」。

 146人の死者が出た事件で無罪の結論を出すというのも、勇気があるというかなんというか、頭の下がる思いである。「あいつら気に入らないからとりあえず有罪にしちまおう」などという判断は下されなかったのだ。

 だがこれは、当時のアメリカ人にとっても意外な結末だったようだ。民衆は怒った。死んだ従業員たちは犬死になのか、冗談じゃないぞ――そしてこの怒りこそが、アメリカの労働政策の改善に繋がっていくのである。

   ☆

 さてここからは、この火災がアメリカ社会に与えた影響について記していくことにする。地味な歴史記述になるので、退屈になりそうな方はここで終わりにして頂いても構わない。

 時間を少し遡り、時は1909年。

 トライアングル社の凄惨な大火災が発生するよりも、2年ほど前である。

 この時期は、シャツブラウスという衣服が女性に人気だった。デザイナーによる魅力的なデザインと、一人一人に寸法を合わせる技術のおかげである。ちょうどこの頃は、女性がどんどん社会進出を果たしており、シャツブラウスはそんな彼女たちの標準的な衣装だった。

 さてそんな中で、トライアングル社は業界でも最大大手のメーカーだった。安っぽくもなく、無駄に高級志向でもないバランスの取れた品質と、それに大量生産の技術がこの会社を成功させたのだった。

 ところがこのトライアングル社、職場環境は劣悪もいいとこだった。工場内は不衛生、サボりや盗みの防止のために窓やドアは釘付け。湿度も高く、そんな中で社員たちは週6回、合計56時間働かされていたのだ。

 また賃金は余分に出ることはなく、縫製ミスがあれば賃金から差っ引かれる。さらに私語、喫煙、鼻歌だけでも罰金を取られるという「ヒジョーにキビシー」状況だった。

 そんな中、ひとつの出来事があった。社員の女性が、労働組合を結成する会合に参加したのである。

 これが、トライアングル社のオーナーのアイザック・ハリスとマックス・ブランクの耳に入ったからさあ大変。会合に参加した女性たちは、職場から閉め出されてしまった。ロックアウトである。

 これに対して、社員の女性たちはさらに反発。ユダヤ系の女性もイタリア系の女性も、この時ばかりは民族の壁を越えて一致団結しストライキに参加した。

 これが、大規模な労働運動に火がつくきっかけとなった。11月には、ニューヨーク市全域の集会場で労働組合の会合が行われ、ストは全ての縫製産業に拡大。今までにないスケールでほとんど冬の間中続けられたという。

 もちろん、雇用者のほうだって黙っちゃいない。当時は「組合潰し」はごく当たり前のことだった。特にトライアングル社のハリスとブランクについて言えば、彼らには警察も味方についている。戦いの準備は万端だった。

 それでも、労働者の抗議活動は止まらない。新聞記者、ソーシャルワーカー、学者から、果ては社会主義思想家やラビなどの僧侶までもがこの運動を擁護。さらに女性労働者によるデモ活動ということで、裕福な女性層も運動を後押しした。

 おそらく、この運動は一部の労働者の単なる思い付きではなかったのだろう。当時の労働者の不満は頂点に達しており、運動が起きるのは当たり前、時代の趨勢だったのだ。

 というわけで、雇用者側も時代の要請に押される形で妥協案を提示した。調停でもって、多くの工場と労働組合が仲直りをし、1910年2月15日にはストライキもほとんど終了した。

 ところが、労使双方の主張がいつまで経っても平行線で、ちっとも示談に至らない会社が13社あった。どれも1,000名以上を雇用する大企業で、その主たるものがトライアングル社だったのである。当時、ある雑誌ではこう書かれた――「トライアングルで始まったストは、トライアングルには勝てなかった」。

 火災が発生したのが、それから1年余り経った頃のことである。

 やるせない巡り合わせだ。労働運動盛んなりし頃はストを潰すために躍起になっていた警官たちも、この火災では労働者たちを弔う側に回ったのだった。

 彼らは、路上に散らばった焼死体が通行人に踏みつけられるのを防ぎ、救急車でもってそれらを運ばせ、それぞれの遺体を棺に入れたのである。彼らの心中にはどんな思いがよぎっていたことだろう。

 そして、裁判で雇用者の2人が無罪とされたことで、市民のやるせない思いは社会運動のほうへと振り向けられることになった。

 ここで登場するのが、フランシス・パーキンスという女性である。トライアングル火災の後、ニューヨークでは工場調査委員会なるものが設立されたのだが、この執行委員に選任されたパーキンス女史は、その後の労働政策に大きく関わっていくことになる。

 この工場調査委員会は、州内におけるあらゆる労働問題の一掃を試みた。とにかく、女性が午前5時に出社して10時間交代勤務していたり、5歳の子供が缶詰工場で働いていたりするこんな社会状況はなんとかしなければいかん、と考えたのである。

 また公聴会を開き、一部の機械の危険性や、適切なトイレ設備が欠如していること、さらに児童労働や病気の蔓延などの問題も証言。そして忘れちゃいけない火災対策についても防火局を設置し、防火安全規則を更新させた。

 こうした流れが、最終的にはアメリカ一洗練された新・労働法の完成へとつながっていき、これは他の州でもお手本にされたという。

 改革に一役買ったパーキンス女史は、さらに州労働局では局長のポストに就き、10年間勤務している。そして、最初はいち執行委員として所属していただけだった工場調査委員会においても局長へと押し上げられたのだった。

 この「押し上げ」を行ったのが、当時はまだニューヨークの州知事だったフランクリン・ルーズベルトである。どうやら、彼はパーキンス女史に絶大な信頼を寄せていたらしい。自分が大統領になると、さっそく彼女を労働長官に任命した。これは女性閣僚としては初めての抜擢だったという。

 ルーズベルト大統領が打ち出したニューディール政策は、かの大恐慌を克服し、アメリカ経済を蘇生させるための一大プロジェクトだった。その中には労働者の待遇改善という問題ももちろん含まれており、ニューディール政策そのものの成否は兎も角としても、パーキンス長官はこの政策の推進のためになくてはならない人材だったのである。

 さてその後、一躍労働長官へとのし上がったパーキンス女史は、講演でこう語っている。

「我々はニューディール政策を公約しているルーズベルト大統領を選んだ。しかしこの政策は、1911年3月25日の恐るべき火災で、哀切極まる犠牲者を多数出したというニューヨーク州の経験がその基盤になっているのである。彼らは犬死したのではない。我々は決して彼らを忘れないであろう」

 火災の犠牲者が、まるで名誉の戦死を遂げた兵士のように語られている。

 実はパーキンス女史は、トライアングル工場火災の惨状を目の当たりにしていたのだ。当時の彼女は、働きながらコロンビア大学の大学院に在籍していたのだが、そんな彼女の目の前で、アッシュ・ビルが火を噴き、そして女工たちがボトボト落下する光景が繰り広げられたのである。これは確かに、政治活動にでも昇華しない限りトラウマになりかねない体験だったことだろう。

 というわけで、もうお分かりであろう。トライアングル工場火災が、その後のアメリカの労働政策に大きな影響を与えたというのは単なるこじつけではない。この火災事故は、その後の国家政策の源流そのものだったのだ。

 そんなこともあってか、この火災事故は今でもかの国で語り継がれている。

 例えば事故の50年後には、今はニューヨーク大学となっているかつての現場に「全国女性縫製労働組合同盟」とやらがブロンズの額を設置している。また、火災の最後の生還者だった女性が107歳で死亡したことも、ニュースで取り上げられたという。

 こういった情勢を見ると不思議に思ってしまうことがある。なぜ日本人は、身内に降りかかった事故災害について、ああもたやすく忘れてしまうのだろう。

 例えば、日本初の高層ビル火災は白木屋火災ということになっているが、これについて語り継がれているのはせいぜい「当時の女性従業員はノーパンだったから避難できなかったらしいよ」というデマばかりである。

 こうした傾向は実に嘆かわしい――と言ったらなにを偉そうにと怒られそうだが、まあでも、やっぱり変えられるものなら変えるに越したことはないよね。こういう精神的風土。

 まあそのへんは、文化や民族性の違いということになるのだろう。アメリカ人にとってはリメンバー・パールハーバーならぬ、リメンバー・トライアングルシャツウエスト・ファクトリー・ファイアといったところなのかも知れない。

「長すぎてタンコブが引っ込んじまったよ!」

 ――というオチをつけられそうな気がしたところで、お後が宜しいようで。

【参考資料】
◆『火災教訓が風化している!①』近代消防社
◆アレン・ワインスタイン、デイビッド・ルーベル『ビジュアル・ヒストリー アメリカ―植民地時代から覇権国家の未来まで』(2010年・東洋書林)

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◆聖水大橋崩落事故(1994年・韓国)

 格闘漫画『バキ』でシンクロニシティという概念が登場する。偶然の一致としか言えない事象の背後になんらかの要因や意志の働きを見出そうとする考え方とでも言おうか。こうしたシンクロニシティの背後に、神秘的な力の存在を見出す立場もあるようだ。

 そして困ったことに、事故災害の歴史を紐解くと、このシンクロニシティの例には枚挙に暇がないのである。日本で言えば八高線での連続事故、三河島事故と鶴見事故、千日デパート火災と大洋デパート火災、航空機事故などなどがある。そして話がこのような人災ともなれば、神秘的な力のせいということで簡単に片付けるわけにもいかない。原因の究明が急務となることは言うまでもないだろう。

 今回挙げるのは、1994年にソウルで発生した建造物崩壊事故である。この翌年には三豊百貨店の崩壊事故も起きており、これもまたシンクロニシティであろう。

 その建造物の名は聖水(ソンス)大橋。ソウル市内の漢江にかかり、城東区と江南区を繋いでいた橋だった。これが1994年10月21日の午前7時40分、突然崩壊して20メートル下へ落下したのである。

 崩壊といっても、橋全体が崩れたわけではない。橋の一部分がパキッともげて、その部分だけが落下したのだ。だが間の悪いことに、当時は朝の通勤通学時刻だった。その上、橋上では雨による交通渋滞が発生していたのである。

 さらに、当時の漢江は渇水中だった。よって崩壊した橋のパーツが完全には水中に没せず、落下した車はもろに橋の舗装部分に叩き付けられ大破する結果になった。川の水がクッションの役割をこれっぽっちも果たさなかったのである。

 結果、死者は32人。うち17名は通学のためスクールバスに乗っていた女子中高生だった。

 事故の原因は、手抜き工事と判明した。

 もともとこの聖水大橋は、走行中の揺れが激しいということで多くの苦情が寄せられていたという。それもそのはず、この橋は施工当時から要所要所の溶接がいい加減で、鋼材の腐食やひび割れもひどかった。

 また、その後のチェックによって溶接部分の異常が何度も確認されていたにも関わらず、橋を管理していたソウル東部建設事務所は補修工事を一切行っていなかった。事故当時は、ソウル市のほうでようやく橋の補修を始めたところだったのだ。

 当時の韓国では、都市部での大規模建築が盛んだった。だがしかし、関係者の技術もモラルも危機管理も時代の要請に応えられる状態ではなく、「安く早くドンドン建築すべし」という風潮だけが先走っていたようだ。さらに、橋上の交通量が当初の想定の2倍に上っていた点も惨劇の呼び水になったと言えるであろう。聖水大橋は建造物としては比較的新しいものだったにも関わらずこうして崩壊し、人々に衝撃を与えた。

 だがさすがに、こんな事故が起きては国民も黙ってはいない。国内に蔓延する手抜き工事への対策を練るべし、という声に押されて、当時の金泳三大統領は全国の道路や橋梁の一斉点検を始めた。

 聖水大橋については、国内の業者ではなく外国の専門企業が復旧工事を行うことになった。この工事契約を落札したのは英国のコンサルタント、レンデル・パルマ-・アンド・トリトン(RPT)社だった。

 まあ「RPT社だった」などと言ってみてもそれがどんな会社なのか筆者はさっぱり分からないのだが、再設計の後に1997年に再び開通した聖水大橋、2001年にはまた手抜き工事が発覚したというから、どうせロクな業者ではなかったのだろう。……というのはちょっと言い過ぎかな。これは根拠のない呟きと思って頂きたい。

 ちなみに、日本の橋はどうなのだろう。

 この聖水大橋の事故は日本にも衝撃を与え、多くの技術者がコメントを寄せている。そしてこの技術者たちの回答は以下のようなものだった。

「日本の橋は、通常の供用条件で、いきなり崩壊落下するようなことが絶対にないように安全に設計され、厳重な品質管理がされている」。

 そして2008年8月28日には、新潟市の朱鷺メッセ連絡デッキ橋が「通常の供用条件」でいきなり崩壊落下した(怪我人なし)のだから、まったくいい加減なものである。

【参考資料】
◆ウィキペディア
◆失敗知識データベース

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◆三豊百貨店崩壊事故(1995年・韓国)

 1989年からソウルに存在し、1995年に姿を消した三豊(サンプン)百貨店。

 この百貨店がソウルから「姿を消した」のは、決して閉店して取り壊されたなどという真っ当な理由からではない。冗談のような話だが、この建物は真ッ昼間にいきなり崩壊してしまったのである。

 ソウルの一等地に建てられたこのデパートは、その日、1995年6月25日もごく普通に営業していた。しかし午後5時55分に建物がメキメキグラグラ、ガタガタと音を立て始めたかと思ったら、20秒ほどで崩れ落ちたのだ。

 死者502人、負傷者937名というこの被害の大きさは、もはや天災クラスである。どんなに規模の大きい炭鉱事故や飛行機事故でも、なかなかこうはいかない。

 大変だァ、地震かガス爆発かそれとも北朝鮮のテロか!? 崩壊直後にはそんな憶測が飛び交い、海外の多くのニュースソースがこの大事件に注目した。そして救助活動が難航する中で原因の究明が進められていった。

 しかし、この崩壊がまさか本当に「ただの崩壊事故」だったとは、当初誰もが考えなかったに違いない。地震もガスも爆弾も、ましてやお隣のならず者国家などはこれっぽっちも関係なく、この三豊百貨店はまるきり自分自身の重量を支えきれずに崩れ落ちたのだった。

 実はこの事故、「いずれこういうことになるんじゃないか」と薄々勘付いていたひとりの人物がいた。当時の施設マネージャーだった男性である。

 彼は、事故前夜には「建物から異様な音がする」という報告を受けていた。また彼自身も、あるフロアの床で、柱の周辺がひび割れているのを目撃していたのだ。だがその時は、この柱があった食堂を封鎖する程度でお茶を濁していた。

 まずいな、この建物、まさか崩れるんじゃないだろうな――。彼には、その不安を杞憂として笑い飛ばせないような理由があった。

 そもそも三豊百貨店は、建設の段階からして、その強度には問題があったのである。建設途中で建物の用途を変更してしまったり(もともと地上4階のオフィスビルにする予定が、急遽5階建てデパートになった)、柱の材料をケチったりしたせいで、建物の総重量とそれを支える強度とのバランスがおかしくなっていたのだ。
 
 しかも事故の前年には、地下の売り場で違法の増改築を行っていた。さらに言えば最上階のレストランにも床暖房を入れたせいでさらに重量が増しており、これで不安に思わないほうがおかしい、というような状態だったのである。

 挙句の果てに、である。事故直前には屋上にあったエアコンを移動する作業を行ったのだが、この時に、屋上の床に盛大にヒビが入っていたからもういよいよ洒落にならない。普通ならクレーンあたりで持ち上げて空中を移動させるべきところを、費用をケチるためにズズズッと引きずって動かしたのだ。それで床が壊れたのである。

 マネージャーの脳裏でこうした不安要素がよぎりまくっている間にも、建物の中ではミシミシガタガタと異音が響き渡っていた。「この建物あぶないんじゃないか」という噂が店員の間でも囁かれており、ああもうこれは一刻の猶予もない。マネージャーはオーナーに相談した。

「オーナー、かくかくしかじかで、営業を停止して建物を点検したほうが」
「バカモン、営業を停止するとは何事だ! そんなものは閉店後に行えばいいのだ!」

 ちなみに、三豊百貨店の建物の用途を建築段階でいきなり変えてしまったり、それに反対した建築業者を解雇したりしたのもこのオーナーである。

 オーナーの思いつきで、行き当たりばったり、出たとこ勝負で建築された悲劇の商業施設、三豊百貨店。これは変更に次ぐ変更、追加に次ぐ追加で、気がつけば最早まともな建物ではなくなっていたのだった。しかも、こうした変更を行政に認めてもらう見返りにと、経営陣はちゃ~んと役人に賄賂を渡していたという。

 どうせ労力と費用を注ぎ込むなら、建物の修繕のほうにすればいいのにねえ。思わず「そっちかよ」と突っ込みを入れたくなるのは筆者だけではあるまい。

 かくしてこの百貨店は崩壊した。崩壊一歩手前の状態に最後のとどめを加えたのは、業務用の巨大エアコンだったと言われている。ヒビだらけの建物では、エアコンの振動には耐えられなかったのである。

 百貨店の経営陣は、3人が業務上過失致死傷罪で逮捕された。オーナーは懲役刑を食らい、さらに全財産を没収までされて2003年には病死している。

 まあ、「あり得ないだろうこんなの」と言いたくなる事故ではある。だが少し考えてみれば、我々(日本人)が今までこのような事故に遭遇せずに済んできたのは、たまたま幸運だったからに過ぎない気もするのである。

 建物の崩壊とまではいかなくとも、たとえば日本で70年代に多く発生したビル火災では、やはり建築構造の杜撰さから大量の死者が出ている。結果は違えど、建造物に関するルールをいかに守らせるか――という問題は根っこでしっかり共通していると思う。

 そうした事例を教訓とし、今では建築基準法や消防法の遵守も徹底されるようになってきた。だが、遵守の実態というのは本当に抜き打ちでの点検でもしない限り把握できないものだと思うし、それに一級建築士が強度の偽装を絶対に行わないとも言えないだろう。

 こうしたことを踏まえて考えると、この三豊百貨店の崩壊事故は、日本にとって決して縁遠い「トンデモ事故」ではないのである。

【参考資料】
◆ウィキペディア
◆ディスカバリーチャンネル

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◆パロマレス米軍機墜落・核爆弾紛失事故(1966年)

 核爆弾で意図的に大量殺戮の目標にされたのは、全世界中で今のところ日本人だけである。だが「核爆弾を落とされた」国が日本だけかというと実はそうではない。少なくとも1960年代には、スペインとグリーンランドにもボトボト落とされている。

 落としたのは全部アメリカである。しかも、どれもこれも「間違い」で落としたというのだからたまったもんじゃない。今回ご紹介するのはそんな事例である。

   ☆

 1966(昭和41)年1月17日。場所はスペイン、アンダルシア州アルメニア。地中海に面する田舎町パロマレスにて、この大失態は発生した。

 発端は、一機の爆撃機の衝突事故だった。上空3万1千フィートで空中パトロールをしていた爆撃機が、空中給油に失敗して給油機に追突したのだ。

 機体は墜落。爆撃機の乗員は全員が脱出したが、給油機のほうは全員が死亡した。

 追突した爆撃機というのは、アメリカのB-52F爆撃機256号機である。そして驚くなかれ、このB-52Fにはマーク28RIという水爆4発が搭載されていた。

 マジかよ、なんでそんなものが!? ――だが冷戦まっただ中の当時、これは不思議でもなんでもないことだった。この頃、米戦略空軍は24時間態勢で爆撃機を旋回させていたのだ。核戦争勃発ということになった場合、ただちにソ連の戦略目標目がけて攻撃できるように、である。

 これを「クロムドーム作戦」と呼ぶ。現代の視点で見ればまるきり常軌を逸した作戦だが、アメリカが過敏になるのももっともな話だった。この頃、ソ連はアメリカに先んじてスプートニクの打ち上げに成功していた。アメリカはいつ上空から爆弾を落とされるかと気が気でなかったのだ。

 さてそれで、パロマレス上空の衝突事故の結果、搭載されていた水爆のうち2発はまっすぐ地上へ落下。残り2発はパラシュートが開き、西風にのってふわふわり、どこかへ行ってしまった。

 前代未聞の事態である。核爆弾が「どっかいっちゃった~♪」(by東京少年)のだ。

 核兵器が関わるこのような事故を、アメリカは「折れた矢」Broken Arrow作戦と呼ぶらしい。

 ヒロシマとナガサキには平気で爆弾を落とした米軍も、これにはさすがに真っ青。慌てて探して、行方不明になった2発のうち1発は海岸で、もう1発は海の底で発見された。特に海の底のやつは回収までに相当難儀したようだ。海軍の深海調査船までもが動員され、水深700メートルの海底から引き揚げられたのは約3カ月後のことだった。

 だがしかし、陸上に落ちたほうの爆弾はもっと大変である。

 爆発したのだ、落下の衝撃で。

 とはいえヒロシマ・ナガサキのようにキノコ雲が上がるような大爆発ではなく、起爆剤が破裂したという程度だったらしい。少なくとも怪我人や死者が出たという規模ではなかったようだ。

 だが、汚染物質を撒き散らすにはそれで充分だった。おかげさまで周辺はプルトニウムまみれ、辺り一帯の土地と海水はたちまち高濃度の放射線に汚染された。

 アメリカは、汚染された土砂と農作物のトマト合計1,400トン(1,750トンという資料も)分を本国へ持ち帰る羽目になった。数にしてドラム缶4,810個。これらはサウスカロライナ州の核廃棄場で処理されたという。

 またアメリカは、スペインの人々に対しても必死に取り繕った。引き揚げられた核爆弾の傍らで軍高官が笑顔で立っている写真を公開したり、アメリカ大使を海で泳がせて「汚染の心配はないですよ~」とアピールしたりと、実に涙ぐましい努力である。

 スペイン政府も、アメリカに歩調を合わせてすぐ「安全宣言」を出した。間の悪いことに、当時のスペインには原子力発電を推進中だったのだ。原発利権が絡むと、どの国もやることは一緒である。

 そしてこの事故には、しょうもない「続き」がある。それがグリーンランドの一件だ。2年後の1968(昭和43年)1月21日に、アメリカの爆撃機がチュール空軍基地に墜落、炎上したのである。

 これが、スペインの時とおんなじB-52F爆撃機というだけでも「またお前か!」という感じなのだが、恐ろしいことにこの爆撃機、やっぱり同じ型式の核爆弾4発を搭載していた。冷戦の中の懲りない面々。またしてもクロムドーム作戦である。

 墜落した爆撃機は炎上すること6時間。グリーンランドの氷を3メートルも溶かし、海底へ沈んでいった。

 そしてここでも爆弾はしっかり爆発した。怪しい爆弾セシウムさんならぬプルトニウムさんに汚染された氷、雪、水およそ6,700リットル分を、アメリカは4カ月かけて本国へ持ち帰った。この回収作業を行った米兵はどうなったのか気になるところだが、ちなみに残骸の処理を行った地元のイヌイットたちはしっかり被爆したという。

 たった2年の間でこのザマである。冷戦時代全体で見たらこの手の事故はもっと起きているのでは? 誰しもそう思うことだろう。

 実際、噂は存在する。落下場所や落下後の経緯については極秘情報として不明であるものの、アメリカは他にも30件以上もの爆弾落下事故を起こしているとかいないとか。そんな風に言われている。

 この2度の事故を受けて、さすがのアメリカ政府も「クロムドーム作戦はもうやめよう」という結論に達した。

 しかしこの事故の話は、これで終わりではない。特にパロマレスでの一件は現代も尾を引いている。どうも新世紀になった頃から、パロマレスは急に危険地域と見なされるようになったらしいのだ。

 それまでスペイン政府は「パロマレスの大気中の放射線値は基準値より低く、住民の健康にも影響はない」と述べていた。しかし環境団体はそれはウソだと主張しており、そんな中でパロマレスでは普通に農業が営まれていた。

 ところが2004年、政府は突然パロマレスの土地2ヘクタールを買収。2006年には660ヘクタールの土地の調査を始め、地中5メートルの深きに渡り規制値以上のプルトニウム汚染が進行していることを確認した。そしてその中でも特に汚染のひどい41ヘクタールは、2007年までに柵で囲われ、立入禁止になっている。

 現在も、パロマレスの土地にはプルトニウムが残留しているという。土地の回復を含め、事後処理をどうするかについてスペインとアメリカは協議中だそうな。

 まあ、これについてはきっとオバマ大統領がなんとかしてくれるだろう。ノーベル平和賞もらってるしね。我々も応援しようではないか、「宿題やれよ! 歯ぁみがけよ! 責任とれよ!」てなもんである。

【参考資料】
◆西村直紀『世紀の失敗物語 兵器・乗物編―他人の失敗は蜜の味!』グリーンアロー出版社 1998年
◆ウィキペディア

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◆グレート・ノーザン鉄道ウェリントン雪崩事故(1910年・アメリカ)

 1910年、すなわち日本では明治43年にあたる年に、アメリカで発生した鉄道事故である。

 もっともこの事故、鉄道事故というべきか雪崩災害というべきか微妙なところだ。日本の事例との比較でいえば1922年の北陸線の事故と似ており、実際『事故の鉄道史』でもその絡みでこの事例を挙げている。

 アメリカのグレート・ノーザン鉄道は、かつてこの国で売り上げナンバーワンを誇っていた第一級鉄道である。巨大な大陸横断鉄道で、開通は1893年だった。

 実はこの1893年という年は、アメリカ史上でも有名な恐慌のひとつが発生した年でもある。南北戦争直後の産業化によって経済のバランスが崩れてしまったのだ。しかしそんな時代状況でも、このグレート・ノーザン鉄道は生き延びており、すげー生命力である。

 とにかく、アメリカを代表する大鉄道で起きた大事故ということである。

 1910年(明治43年)3月23日、ワシントン州は猛吹雪に見舞われた。

 この日は、グレート・ノーザン鉄道の5両編成の旅客25列車と、それに27郵便列車が、スカポーン-シャトル間の約500キロの距離を走行する予定だった。だがこの大雪のためにまずスティーヴンス峠の手前で丸一日動けなくなってしまい、やっと動いたかと思えば、今度はその先でのウェリントンでも停止せざるを得なくなった。

「なんだこの先は除雪されてないのか! これじゃ進めないよ!」

 というわけで、この2本の列車は、ウェリントン駅の西側の待避線に並んで停車した。

 24日は丸一日スティーヴンス峠の手前で過ごしたが、ウェリントンの場合はもっとひどく、25日も26日も列車を動かすことは叶わなかった。小規模な雪崩もちょこちょこ発生しており、それによって除雪用のロータリー車も動けなくなってしまったのだ。

 さらには電信も不通になり、列車は完全に「陸の孤島」状態。ウェリントンの当時の積雪は3・7メートルと電柱もほとんど埋まってしまうほどのもので、24日から除雪作業ばっかりしていた駅員も、もう体力的に限界だった。

 また、いつ大雪崩が来るかも分からない。それを恐れた乗客の一人は、鉄道会社の監督にこう要請した。

「列車をトンネルに入れてくれよ。俺、怖くてさ」

 だがトンネルはトンネルで水が流れており、中に入ればホテルから食事を届けてもらうことはできなくなる。またトンネル内は湿気はあるし、機関車の煤煙が溜まれば危険だ。要請は却下された。

「まあまあ、除雪車の救援も来るはずですから。もう少し我慢して下さい」

 仕方ねえなあ、ブツブツ。だがこの判断が正しかったのかどうかは、この後で起きた結果を見れば微妙なところであろう。

 2月27日は日曜日で、たまたま乗り合わせていた神父がミサを行ったという。この日、天候はまたしても大荒れになっていが、これで乗客も少しは落ち着いた。

 状況が変わったのは28日からである。急に暖かくなって雪がみぞれになり、さらに雨になったのだ。寒波が去り、南風が吹いてきたことを乗客は素直に喜んだ。……が、これは大惨事の予兆だったのである。日付が変わったばかりの3月1日、ついに雪崩が発生した。

 深夜の午前1時20分のことだった。雨で緩み切った積雪が幅470メートル、長さ700メートルの塊となって列車に襲いかかったのである。二本の列車、二両の蒸気機関車、4両の電気機関車、貨車とロータリー車、しまいには機関庫と給水塔までもがこれに押し流され、何もかもが50メートル下のタイ川に叩きこまれたのだった。

 当時の乗客の証言。

「客車は手品師のボールのように、空中に放りあげられてグルグルと回転した。私達は天井と床の間を跳ねとばされて往復した。客車はまるで卵の殻のようにはじけてしまった」

「客車はフワッと空中に浮かび、えもいわれぬ音をたてて谷底へ落ちていった。私は前の方に飛ばされ、気がつくと、パジャマのままで雪の中に倒れていた」

「私はうつぶせに倒れ、背中には重いものがのって身動きができなかった。悪夢のような痛みにうめき、時々意識も薄らいだ。だが背中の割れるような重さだけは頭に残っている。何時間たったかはわからない。私は自分の耳を疑った。人の声でシャベルの音が聞こえたのだ。勇気をふるい起し、しかしかぼそく、助けてくれ、と叫んだ」

 犠牲者96名、生存者22名。死者数こそ2ケタにとどまっているが、死亡者の割合は航空事故並みの高さだという。

 『事故の鉄道史』によると、アメリカと日本では、雪崩というか雪そのものの質が違うのではないかということである。この事故の例を見る限りでは、日本ではさほど珍しくないような積雪量で、あちらでは雪崩が起きてしまっているからだ。

 そのあたりのことは、筆者もいずれ確認することがあるかも知れない。山岳事故や雪崩事故の詳細を調べれば、きっとそういう話になると思うのである。とりあえず今回はこれで話を〆させて頂こう。

 ところでこの記事は、例によって『事故の鉄道史』を参考にしている。まあ、まる写しプラスアルファと考えて頂いて差し支えない。巷には『雪崩・その遭難を防ぐために』という文献があり、それにも詳細が載っているらしいが筆者は未読である。

 その文献に限らず、どこかで資料になりそうなものを見つけたら(無関係と思われた文献に、唐突に事故の話の詳細が載っていたりするのだ)また書き加えていきたい。雪の質の問題とあわせて、事故災害研究室は日々「成長」中である。

【参考資料】
◆佐々木冨泰・ 網谷りょういち『事故の鉄道史――疑問への挑戦』日本経済評論社 (1993)
◆ウィキペディア

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◆ココナッツ・グローブ火災(1942年・アメリカ)

 ココナッツ・グローブの火災であれほどの死者が出たのは、どうも炎や煙などの単純な理由からではないらしい。

 では何かというと、どうやら火災当時は有毒ガスが発生したらしいのだ。当時、建物の冷房に使われていた媒体がメチル塩化物で、これは熱によってガスを発生させる。それが人間には致命傷になるのである。

 ――と、こんな報告がなされたのが1999年のことである。

 ココナッツ・グローブ火災は、アメリカの火災史を語る上で外せない大火災の一つだ。

 1942(昭和17)年11月28日の深夜、ナイトクラブで出火し488~491名という目を疑うような数の死者が出たのだ。これについて57年後に事故の再調査が行われ、上述のような報告となったのである。

 それにしても57年後の再調査である。別項になるトライアングルウエストシャツ工場火災に関してもそうだが、そんな昔の出来事をよくしつこく調査するものだと思う。過去の出来事に対し、米国人というのはものすごく執念深いようだ。その点には頭が下がるというか呆れるというか、とにかく素直に脱帽である。

 日本でもこれを見習って、古い事故の再調査を行ってみてはどうだろう? 当時は分からなかった新発見なども色々出てくると思うのだが……。例えば鶴見事故の脱線の原因、六軒事故の信号機の謎、大洋デパートの失火の原因、等々。

 もっとも我が国は、縁起の悪い事柄は「水に流す」のが基本である。きっと、負の記憶を蒸し返すことに渋い顔をする方も多かろう。当研究室は、こうしたお国柄に対するささやかなアンチテーゼでもあるのである。

   ☆

 ココナッツ・グローブ火災が発生したのは、先述の通り1942(昭和17)年11月28日のことである。土曜日の深夜だった。

 米マサチューセッツ州ボストンにあったこの店はナイトクラブの老舗で、当時はフットボールの応援客が大勢来ていたという。その人数たるや1,000人をゆうに越すほどで、これはすでに定員を数倍上回る人の入りだった。

 時刻は午後10時。失火があったのは地階だった。

 メロディ・ラウンジ(筆者はメロディ・ラウンジと言われてもどういう場所なのかよく分からないのだが)に作り物の椰子の木が飾られていたのだが、それがいきなり燃え出したのである。ココナッツ・グローブという名前に相応しく、店内にはこうした飾りの椰子の木がたくさんあった。

 出火の原因だが、これは火災直後には16歳のウェイターの少年のせいではないかと言われた。電球の取り付けを行おうとしてマッチを擦ったのだが、それが引火したのではないかと考えられたのだ。

 もっとも、それも憶測に過ぎなかった。そしてこの火災の責任の追及は、最後の結論に至るまでに二転三転することになるのである。その点は後述しよう。

 火災発生直後には、ボーイやバーテンダーが協力して消火を試みている。だが失敗。あげく、燃える椰子の木を移動させようとして倒してしまい、このため火は一気に燃え広がってしまった。

 さあ、パニックである。地階の客達は出口の階段へ殺到した。

 だが火勢は想像以上だった。2分から4分ほどで階段は炎に包まれ、ほとんどは脱出出来なかったという。火炎はたちまち1階へ上っていった。

 人々は一斉に避難を開始したが、この時に仇となったのが「回転ドア」である。客たちがこぞって正面玄関の回転ドアに殺到したものだから、ドアが詰まって回らなくなってしまったのだ。

 犠牲者たちはこのドアの後ろで折り重なって倒れており、回転ドアはギチギチに詰まっていたという。消防士が中に入る際にはドアを分解しなければいけなかったそうだ。

 では他の出入り口はどうだったのかというと、これは全て従業員によって閂がかけられており、脱出には使えなかった。お客が料金を踏み倒すのを避けるための措置だったそうだが、考えてみればどっちみち死んでしまえば踏み倒されたようなものだろう。皮肉な話だ。

 そして建物の中は可燃物だらけだった。店内の椰子の木は紙で出来ていたし、布製のカーテンがあちこちにかけられて可燃性の家具を覆っていた。おかげで玄関や食堂など、建物の主要な部分が炎に包まれるまで5分程度しかかからなかったという。

 消防署が通報を受けたのは10時23分。別件で出動していた消防隊が、帰りにこの火災を発見したのである。

 さあ救出作業である。だが消防隊がココナッツ・グローブに接近した途端、出入り口から猛火が噴き出して来たからたまらない。突入は無理だ。しかも正面の回転ドアも先述のような有様で使い物にならない。

「まずは火を消せ!」

 消防隊は焦りに焦ったことだろう。通りに面した建物の壁の一部はガラスブロックで出来ており、屋内で次々に人々が倒れるのが見えたというのだ。悲惨この上ない。

 可能な限り迅速に、消火活動は進められた。だが消防隊が間もなく店内に入ると、もう中は遺体だらけ。犠牲者の中にはちょっと火傷を負った程度でテーブルに座ったままの者もいたらしく、おそらくこれが、最初に書いた有毒ガスの犠牲者だったのだろう。

 さあてお待ちかね、吊るし上げタイムである。

 なにせ500名弱というのは、米国の火災史上でも二番目の犠牲者数である。新聞でも、いっとき第二次世界大戦がらみのニュースの見出しに取って代わるほどの注目度だったのだ。世論が黙っているわけがない。

 まず叩かれたのが、先述した16歳のウェイターだ。

 しかし、彼の素性がはっきりするにつれて世間の非難は止んだ。彼は病気の母親の世話とアルバイトに精を出す成績優秀な少年だったのである。また自分が火元であることを自ら認めた潔さも、非難の矛先をかわす結果に繋がった。

 だが実際には、この少年が本当に火元なのかは謎のままである。彼はマッチの火はちゃんと消したというし、それが椰子の木に燃え移った瞬間を目撃した者は誰もいないのだ。厳密にはこれは定説ではない。

「さて、それじゃ次に悪いのは誰だ?」

 というわけで次に叩かれたのが、ココナッツ・グローブに営業許可を出していた監督官庁である。この場合は消防署ということになるが、実は火災の1週間前には、査察担当の消防職員が「この建物は問題なし」という判断を下していたのだ。

 よしコイツで決まりだ――。というわけでこの職員は殺人の従犯および故意の職務怠慢の容疑で起訴されたが、陪審員の結論は「無罪」。彼は別にいい加減な査察を行ったわけではなく、ちゃんと査察要領に従って職務をこなしただけったのである。要するに、制度のほうが現実の火災の実態に即していなかったのだ。

「だったら本当に悪いのは誰なんだ!」

 それで今度は、ココナッツ・グローブのオーナーがつつかれる羽目になった。

 このユダヤ人のオーナーは「悪徳オーナー」として世間の非難を浴び、たちまち悪者扱いされた。一体何が悪徳だったのか詳細は不明だが、ウィキペディアで調べてみるとマフィアや市長との繋がりが云々という文章があったので、そのあたりが都合よく標的にされたのだろう。

 結局、検察はこのオーナーひとりを起訴した。19の訴因に基づく殺人罪である。

 こうして12年から15年の懲役刑を食らったこのオーナー、その後は比較的短期間で出てきているものの、ほどなくして病死した。

 しかしこれは明らかに「横井秀樹現象」であろう。火災の責任を一人の人間におっかぶせて、とりあえず生贄にするというアレである。当時、捜査と裁判の成り行きに釈然としなかった人もきっといたに違いない。

 この火災によって、当時のアメリカの建築基準法は大幅に改正された。レストランやクラブなど、大勢が出入りする場所では、回転ドアだけではなく普通のドアも取りつけるべし。店内の装飾は不燃材を使うべし。非常灯とスプリンクラーは必ず設置すべし――などといった内容である。

 それらの決まりごとは、今の時代から見れば当たり前のようなものばかりである。だがその「当たり前」も、たくさんの犠牲者が出ないとなかなかものにならないのは、どこの国も同じらしい。

 追記:スティーヴン・ピンカー『21世紀の啓蒙』によると、アメリカでは19世紀に、火災鎮火のための消防隊が専任の職業として確立されている。これが20世紀以降には「火災予防」にも力を入れるようになったのだが、その大きなきっかけの一つがこのココナッツ・グローブ火災だったらしい。最初に書いた通り、この火災が「アメリカの火災史を語る上で外せない大火災の一つ」であることが、こんな所からも窺い知れる。

【参考資料】
◆森本宏『火災教訓が風化している!〈1〉』近代消防ブックレット、2001年
◆広瀬弘忠『人はなぜ逃げおくれるのか――災害の心理学』集英社新書、2004年
◆スティーヴン・ピンカー『21世紀の啓蒙』草思社、2019年
◆ウィキペディア

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◆シドニー空港「キース君」転落事故(1970年)

 今、筆者の手元に、1枚の奇妙な写真がある。



 まず旅客機が1機、画面を横切っている。角度からしておそらく離陸したばかりなのだろう。

 問題はその機体の左下である。人の姿が写っているのがお分かりだろうか。一体なぜこんなところに? なにが起きたというのだろう?

 以下、この写真が掲載された当時の新聞から引用し、その説明にかえさせて頂く。

 ◆1970年(昭和45年)2月24日・毎日新聞朝刊より

  『密航少年、日航機から転落 シドニーで』

   【シドニー(オーストラリア)二十三日UPI】日本航空のDC8型ジェット旅客機が二十二日、シドニーのマスコット空港からマニラに向けて飛立ったさい、機首の車輪格納部に隠れていた少年が転落して死亡した。
   警察の調べによると、この少年はキース・エマニュエル・サプスフォード君(一四)といい、密航しようとして車輪格納部にしのびこんだが、同機が地上約六十㍍に上昇したところで格納部から転落したらしい。義父のサプスフォード教授は「息子の望みは世界を見ることだけだった」と語った。

    (写真説明)日航機から転落する密航少年。この写真はアマチュア写真家が撮影した(AP=共同)

 お分かりいただけただろうか。ちなみに筆者はさっぱり分からない(笑)。

 何がなにやら、である。大体いきなり「義父のサプスフォード教授は」とか言われてもアンタ誰? としか言いようがない。

 とにかく、大学教授の義理の息子が家出をし、世界旅行を夢見て事故死したということらしい。背景に何かドラマがありそうだが、これ以上の詳細は不明である。

【参考資料】
 毎日新聞

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その他

シドニー空港「キース君」転落事故(1970年)
聖水大橋崩落事故(1994年・韓国)
三豊百貨店崩壊事故(1995年・韓国)
三河島紀行(フィールドワーク)
パロマレス米軍機墜落・核爆弾紛失事故(1966年)
ルクソール熱気球墜落事故(2013年)
ロックハート熱気球墜落事故(2016年)

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◆天六ガス爆発事故(1970年)

 1970(昭和45)年4月8日、三島由紀夫が割腹自殺を図るよりも半年ほど前に起きた事故である。

 場所は大阪市北区天神橋六丁目、通称「天六」。大阪駅から東北に2キロほど行った所にある繁華街である。

 この頃、この「天六」の地下では大規模な工事が行われていた。地下鉄工事である。ちょうどその年に開催された万国博覧会をきっかけとして、大阪市は再開発が急ピッチで進められていたのだ。そして当時の大阪は世界第9位の地下鉄都市で、今度は周辺都市への路線延長が計画されていたのである。

 工事の方式はオープンカット方式と呼ばれるものだった。道路に穴を掘り、作業員はその穴に下りて作業を行う。そして穴の上にはコンクリートの板を敷いて、車や歩行者はそこを行き来できるようにするというものだ。

 フタをした鍋を想像すると良いかも知れない。フタの上を人々が行き来しており、鍋の中で作業員が工事をしているという構図である。

 さて、大事故の予兆があったのは午後5時15分頃のことである。地下での配管工事が行われている時、いきなり都市ガスが噴出したのだ。

 この段階で作業員27名は即座に脱出したというから、噴出の勢いは相当なものだったのだろう。ガスはたちまち地下の「鍋の中」に充満し、地上にも溢れてきた。道路に敷き詰められたコンクリート板の隙間から不快なガス臭が漏れ出て、付近の住民たちは一体何事かと外へ出てきた。

 そして最初にガス漏れが発生してから5分程経った午後5時20分、ガス会社のパトロールカーもこのガス漏れを発見。緊急車輌や工作車が呼び出され、消防車も駆け付けた。天六周辺はもう大騒ぎである。

 騒然とした中で、野次馬や、通行人や、付近の住民たちに避難が呼びかけられた。

 そしてもちろん、現場は火気厳禁である。しかし作業員たちの必死の呼びかけにも関わらず、結果的には多くの人々が爆発に巻き込まれることになってしまった。

 昔のながいけんならきっと「どぼずばああああああん」と書くところだろうが、笑い事ではない。推定5万立方メートルの規模まで漏れたガスは2トン爆弾に匹敵する破壊力を持つ。たちまち10メートルを超す高さの炎がビルの上まで噴き上がり、工事の穴を塞いでいたコンクリートの板(1枚につき重量400キロ)が何百枚も跳ね上がった。道路は長さ200メートル、深さ150メートルに渡って陥没したという。おいおい戦争じゃないんだからさ、と言いたくなる惨状である。

 結果だけを見れば、最初のガス漏れの段階で自衛隊あたりが駆け付けてもおかしくないほどの事態だったのである。

 言うまでもなく、現場にいた野次馬も、作業員も、事故車輌も、信号待ちの車も、全てがぽぽぽぽーんと爆風で吹き飛んだ。その結果、工事中の地下へ落下して79名が死亡。負傷者は420名に及んだ。

 また悪いことに、そこは夕刻になると仕事帰りの乗用車が多く通過する場所でもあった。

 消火と救助活動は、翌10日の午前1時頃まで続いた。地下に落下した犠牲者をクレーンでまとめて吊り上げたり、電柱に引っかかった遺体を収容したりと、その作業は凄惨かつ難航を極めたものだったらしい。死因のほとんどは全身打撲だった。

 家屋は全部で26戸が全半焼、損壊が336戸。ドアや窓ガラスが破れただけの家も含めれば被害は1000戸を越えた。

 さて問題はガスに引火した原因だが、これが今になってみるとよく分からない。一応、エンストを起こした事故処理車がエンジンをかけ直しているうちに火花が引火した――というのが通説になっているが、それも推測の域を出ないようだ。

 次は裁判である。この工事の施工監督は大阪市で、これが業務上過失致死で起訴された。だが大阪市は、実際に工事を行った建設会社やガス会社と責任をなすり合う形になり、このなすり合いは15年もの長きに渡って続いたのだった。どうもネット上で調べてもどういう判決になったのかよく分からないのだが、きっともうグダグダだったのだろう。

 ただし、補償は早かった。上記3者は、事故の8ヵ月後には被害者や被害者遺族に対する補償を終えていたのである。そしてついでに言えば事故の7ヵ月後には工事も再開されていたというから、とにかくさっさと丸く治めて工事を予定通り進めてしまおうという意図もあったに違いない。

 そうした観点で言えば、被害者や被害者遺族たちは、迅速な補償によってかえってうまくガス抜きをされてしまったのではないかという気もする――ことがガス爆発事故なだけに、と、これは悪い冗談だが――。

 慰霊碑は存在する。天六の近くにある国分寺公園の中にあるという。

 当初は、1994(平成6)年を最後に慰霊祭は行われていないという情報を得ていたが、その後の2021(令和3)年4月8日には、ちょうど事故から50年ということで、当時現場で工事を請け負っていた建設会社の幹部たち15名が集まり、慰霊の儀式が行われたようだ。新型コロナウイルス感染予防のため参列者は間隔を空けて並び、それぞれ手を合わせたという。

【参考資料】
◆ウィキペディア
◆失敗百選
◆アサヒグラフ

◆二又トンネル爆発事故(1945年)

 事故が起きたのは終戦直後だが、戦争のおまけみたいな大惨事である。

 事故が起きたのは1945(昭和20)年11月12日。

 場所は福岡県田川郡、添田町落合地区。日田彦線という鉄道路線がこの部落を通っているのだが、その路線上に二又トンネルは存在した。ただしトンネル自体は貫通して完成していたものの、戦争のため工事は中断されており、トンネルの手前で鉄路が途切れている状態だったという。

 戦時中、日本軍はこの二又トンネルに大量の火薬を隠すことにした。

 当時、北九州市の小倉には軍事施設が多く存在し、膨大な量の火薬や弾薬が備蓄されていた。だが、なんか当時軍事施設の一部が焼失したせいで火薬の置き場所がなくなってしまったらしい。またこの頃、日本軍は「来たるべき空襲や本土決戦に備えて、火薬類を分散させて隠しておかねばならない」と考えており、必要に迫られての火薬移動となったのだった。

 移送先として選ばれたのは、二又トンネルと吉木トンネルという二つのトンネルである。搬入作業は1944(昭和19)年から1945(昭和20)年の2月にかけて行われた。地元の婦女子が駆り出されて、トロッコを用いてこの二つのトンネルに火薬を詰め込んだという。

 よーし、これでいつ本土決戦が起きても大丈夫! ――と、軍の人々が本心から安心したのかどうかは定かでない。とにかくこの後、8月15日に終戦と相成ったのは周知のごとくである。

 さて、第二次世界大戦が終結すると、この大量の火薬はアメリカ軍に引き渡されることになった。具体的に言えば「連合国福岡地区占領軍」である。

 8月末には、さっそく在庫の確認が行われた。願いましては火薬が532,185キロ、爆弾の信管が185キロときたもんだ。凄まじい量である。筆者は最初、女性たちが手作業で運び込んだと聞いた段階で、火薬の量はそう多くなかったのかなと考えたものだ。だから、この具体的な数字を目にした時は目が点になってしまった。

 内容物についてもう少し詳しく述べよう。前述の火薬というのは「三号帯状火薬」である。綿に硝酸と硫酸を染み込ませ、アルコールとエーテルで練り合わせたものだ。これを25グラムぶんだけ亜鉛管に詰め込んだものがぎっしり木箱に入っており、これが先述の約53トンぶんというわけである。

 さあ、それでは米軍は、この厄介なブツをどう処理することにしたのだろう? 答えはこうだった。

「ヘイ、こんなもん燃やしちまえばいいのさHAHAHA!」

 このへんから暗雲が立ち込めてくる。まず11月8日、添田警察署で、火薬の数量が書かれた書類が米軍に引き渡された。これで実質、あのトンネルの中の危険物は全部米軍の管理物となったわけだ。

 そしていよいよ、運命の11月12日がやってくる。この日、占領軍のH・ユルトン・ユーイング少尉は部下を引き連れてジープで添田警察署に到着。火薬の焼却作業を行うので、手伝いに何人か寄越すよう要請してきた。

 はいはい、アメリカ様にゃ敵わねえ。警察官らも同行し、一行はまず吉木トンネルへと向かった。最初に述べた二つのトンネルのうちの片方である。こちらにも爆発物が詰まっている。

 ユーイング少尉率いる米軍の皆さんは、この吉木トンネルで、まず火薬への着火を実演してみせた。トンネル内の箱から火薬を取り出し、火をつける。当然火薬は燃える。爆発はしない。

「ヘイ、分かるか日本人諸君。火薬は火をつけたからって爆発するわけじゃない。てゆうか爆発の危険性は絶対ないから大丈夫」

 へえ、そうなんだ。でもそれじゃ火薬の意味ないんじゃないの? 絶対安全てことはないだろう――と筆者は素人なりに考えてしまうのだが、とにかくこれを鵜呑みにした警官たちは、付近の住民にもそのように知らせた。地域住民の皆さんもひと安心である(点火した時だけ住民を避難させた、という記録もある)。

 こうして、まず吉木トンネルの火薬が焼却処分された。導火線を仕掛けて着火すると、一同は移動を開始。次は二又トンネルのほうである。

 到着したのは、例の線路が途切れている北口のほうだ。入口から10メートルほど離れた場所から導火線を伸ばし、点火したのが15時頃。しばらく見守っていたが、これも爆発の危険性はなさそうだった。

「ヘイ、後は任せたぜ日本人。オレたちは帰るぜ」

 ユーイング少尉一行は、見張り作業を警官へ任せてジープで立ち去った。これが15時30分頃。

 見張りというのは、つまり付近の住民が近寄らないように……という趣旨である。ところがこのおよそ1時間後、もはやそれどころじゃない事態が発生した。トンネル内から火が吹き出してきたのだ。

 この火炎、最初はチロチロと細いものだったらしい。だが、これが次第に拡大して火柱のようになり、ついには付近の民家に燃え移った。

 おいおい、なんだこれ。爆発はしないって言ってたけど、火事になるなんて聞いてないぞ――!

 火災だヨ全員集合! というわけで火の見の警鐘が乱打され、住民たちが集まってきた。働き盛りの男性30余名である。

 後からはなんとでも言える。それは分かっている。だがあえて考えてみるなら、被害を最小限にとどめるチャンスがあったのはおそらくこの時だったのだろう。ここでなすべきは消火活動ではなかった。トンネルから火炎が吹き出した段階で、警官たちは住民を避難させるべきだったのだ。

 もうお分かりであろう。二又トンネル内の火薬が大爆発を起こしたのはこのタイミングであった。

 どぼずばああああああああああああああああああああああああん。

 はい、いつもより余計に回しております。この時の爆発音は、60キロ以上離れた福岡市や別府市でも聞こえたらしい。それどころかウィキペディアによると、地元の人々にとってそれは「大きすぎて聞こえない」ほどの轟音だったそうな。なんか、人間の聴覚の限界を超えるような音だとかえって聞こえないんだとか? そんなこと本当にあるのかね。

 こうなっては、直前に起きた火災などもはや瑣末事である。爆発によって巻き上げられた土砂が、岩石が、瓦礫が、降ってくる降ってくる。爆風で吹き飛ばされて命を落とす者、飛来物が命中して絶命する者、土砂により逃げる間もなく生き埋めになる者が続出した。周辺の建物は全壊、田畑は埋没、消火作業にあたっていた連中も、見張りに立っていた警官も、またどんぐり採集の帰り道だった落合小学校の児童なども巻き込まれて死亡。もうめちゃくちゃだ。

 最終的な被害状況は、以下の通りである。

●爆発日時 昭和20年11月12日17時20分(地元では15分と言われている)
●被害地 福岡県田川郡大字落合二又 丸山のトンネルを中心に約2キロ内外
●死傷者数145名(147名とも)
●負傷151名(149名とも)
●家屋被害 埋没9戸 全壊25戸 半壊28戸 破損70戸

 次第に土煙が収まっていく中、一命を取り留めた住民たちはトンネルのあった方向を見た。そして驚愕した。そこにあったはずの山がなくなっていたのだ。二又トンネルがあった場所を境にして、山は二つに割れたような形になっていた。

 添田警察署に連絡が入ったのは、爆発から5分後のことである。署長は署員を総動員し、救助活動を開始した。しかしこんな惨状では人手がそうそう足りるはずもなく、隣接の各部落にも応援を要請。よっしゃ任せろとばかりに救助隊がやってきたものの、救助も遺体収容も難航を極めた。

 最初、遺体や負傷者は小学校へ運ぶ予定だったらしい。だが校舎もおそらく爆風のためだろう、ガラスが割れまくっており人が入れる状況ではなかった。仕方なくむしろを敷いて道の傍らに並べたり、なんとか役場出張所の中庭あたりに置いておくしかなかった。

 無事で済んだ地元住民や、駆け付けた占領軍は手分けして怪我人を病院へ搬送。しかし終戦直後で物資不足の状況ではいかんともしがたく、カンフルはすぐにタネ切れ。病院へ担ぎ込まれた重症者たちは次々に息絶えていった。

 翌日、13日の早朝には県警の救援隊も到着。国鉄も職員を派遣し、ただちに線路の復旧作業にあたったという。こんな時に線路直してる場合かという声が聞こえてきそうだが、周辺の駅や線路が全てお釈迦になっていたのだ。救援活動のためにも、鉄道の復旧は最優先課題だった。

 記録によると、事故の翌日には雨が降ってきたという。降雨の中での土砂の除去と、増水した河川に浮かんだ遺体の収容は実にやり切れないものだったろう。

 米軍も、この爆発は自軍にも責任があると早い段階で判断したようだ。米軍小倉司令部のウォッチ中佐は、負傷者の入院している病院を訪問し、菓子の見舞いを贈るなどして慰問を行っている。また現場の視察も行ったという。

 そうそう、二又トンネルの爆発に対する米軍反応ということでいえば、報道管制のことを書かないわけにはいかない。はっきりしたことは不明だが、この事件は当初、完全に報道が規制されたらしい。なにせNHKや中央の新聞でもこれは一切報じられず、ようやく最初に報道されたのが事故発生から2日後の14日、それも地元の九州だけでのことだったのだ。

 おそらく米軍のスキャンダルになりうるということで、報道の仕方についてチェックが入ったのだろう。先述した中佐の慰問というのは、その管制が解かれたタイミングでのものだったのだ。

 さて。気になる爆発の原因だが、これは「爆弾の詰め込み過ぎ」だった。

 トンネルの容量に対して、搬入した爆弾が多すぎたのだ。火災発生から爆発に至るまでの化学的なメカニズムはよく分からないが、おそらくトンネル内の酸素が足りなくなってくすぶった状態だったのではないだろうか。それが酸素と結び付いて急激に燃焼、要するに爆発に至ったということだろう。

 ちなみに、同様に爆弾処理が行われた吉木トンネルは、40日間燃え続けてついに爆発は起こらなかった。こちらはトンネルの全容量中2割程度までしか爆弾が詰められていなかったが、二又トンネルは7割までいっちゃっていたのだ。

 これ、明らかに米軍のチェックミスだよなあ。2発の原爆に続いて、国内最大級の大爆発事故もアメリカさんによって引き起こされていることを、日本人は覚えておいてもいいと思う。アメリカ非難とかそういう意味ではなくて、歴史的事実として。

   ☆

 ここからは、その後の話である。

 敗戦からわずか3カ月。戦火に巻き込まれずに済んだ平和な田舎町が、まさか今になってこんな事故でほぼ全滅という憂き目に遭うなんて、あまりにも理不尽だ。福岡県は11月15日はさっそく戦時災害保護法の適用を決定、死者1人につき500円(現在の400万円相当)を支給した。

 また被害者たちの一部が復興委員会を結成、地元の復興を目指した活動を行い、国と県にさらなる救済要請を求めている。

(ちなみに当時、アメリカに対しては、こうした被害の補償を求めないのが一般的だったらしい)

 この復興委員会の活動の成果は、なかなかのものだったようだ。佐世保援護局から旧軍人の古着4,000点を譲り受けるなどし、昭和23年4月には慰霊碑を建立。合同慰霊祭も行っている。しかし金銭的な補償についてはふるわないまま、この委員会は解散した。

 さらに動きがあったのは、昭和23年の11月のことである。地元出身の弁護士の勧めがあり、被害を受けた16世帯が国を相手取って損害賠償請求を行ったのだ。

 訴えの趣旨は、こんな感じである。

「トンネル内の爆弾の量の危険性について、警察官はアメリカ軍の将校に伝えなかった。そのせいで爆発が起きたのであり、これは警察官の注意義務違反である」――。さあ、判決やいかに。

 1952(昭和27)年4月12日の第一審判決では、訴えは棄却された。「悪いのは警官じゃなくて占領軍だよ」という判決だった。

 しかし1953(昭和28)年5月28日の控訴審判決では、逆転勝訴。「責任は旧陸軍と警察官たちにある」とされた。

 そして最後の1956(昭和31)年4月10日には、最高裁判所は国の上告を棄却。住民の勝訴である。

 またこの裁判とは別に、1954(昭和29)年3月には日本政府の特別調達庁(のちの防衛施設庁)から全ての被害者に対して見舞金が支給されている。

 良かったじゃん、言うことないじゃん! ――と思われそうだが、ところがどっこい。この事故の補償についてはまだ紆余曲折があった。

 先述の裁判に参加できなかった遺族がいたのである。不参加の理由は簡単で、裁判費用が工面できなかったのだ。彼らは独自に遺族会を結成して、国に陳情を運動を行ったが、これは実を結ばなかった。なにせ日本国内で占領軍が狼藉を働きまくったせいで、当時日本は2,000件以上の陳情案件を抱えていたのだ。これだけ特別扱いするわけにもいかない。

 というわけで致し方ない。民事調停である。

 これは1957(昭和32)年1月25日に行われた。そして3月20日には調停が成立。遺族たちは裁判所から慰藉金を受け取り、遺族会も解散となったのだった。

 今度こそ良かったじゃん、言うことないじゃん!

 ――と思うだろうか。今そう思ったでしょ? と・こ・ろ・が、この後にトラブルが発生した。1961(昭和36)年11月11日に施行された「連合国占領軍等の行為による被害に対する給付金」の支給に関する法律のせいである。読んで字のごとく、戦後にアメリカ軍によって被害を受けた人々にお金が支給される法律だが、二又トンネル事故の被害者たちはこの対象にならなかったのだ。

 理由は、訴訟も調停も解決していたからだ。しかも調停に関しては、裁判所は遺族会に「申立人は今後本件についていかなる名義を以ってするも何ら要求をしない」という一札まで差し入れさせており、これをそのまま解釈すれば、もうお金はもらえないことになる。そんなのってありか。

 というわけで遺族会は再結成。地元の有力者の協力も得て国に請願と陳情を繰り返した。だが当然というべきか、国はなかなかウンと言わなかった。

 だが最終的には遺族会の粘り勝ちだった。1963年、国は防衛施設庁長官や法務省の訴訟課の意見などを踏まえて、法律の適用を決定した。すべての遺族たちが救済金を受け取れることになったのだ。まったく天晴れな話である。

 しかもしかも、1967(昭和42)年1月18日にはこの法律が改正され、遺族たちは1970(昭和45)年にさらに追加金の支給まで受けている。よかったよかった。もっとも、ここまでで支給されたお金の総額は、爆発事故の被害総額の3パーセントにも満たないものだったそうだが――。そしてこの遺族会に協力した弁護士や地元の有力者たちというのも、この支援活動には全くの無給であたったというから大したものである。

   ☆

 さて、二又トンネルを吹き飛ばし、そして添田集落を見事に壊滅させてくれたH・ユルトン・ユーイング少尉はどうなったのか。

 軍法会議が行われたのは、事故直後の1946(昭和21)年2月4日のこと。場所は小倉である。かつて旧陸軍将校の集会所だったという建物で少尉の処遇は決められた。

 実はここで、情報に食い違いがある。ウィキペディアでは「降格・不明除隊」になったとあるが、『事故の鉄道史』によると「免官降等」で一兵卒の身分になり本国へ送還されたともある。こんな調子なので、本当のところがどうなのかは不明である。

 ちなみに、事故の被害者たちに対して、アメリカは現在まで一切の補償を行っていない。

   ☆

 こんな凄まじい事故であるが、ようやくその詳細が明らかになったのは18年後の1963(昭和38)年のことだった。よく分からないが、最初の報道管制の影響が続いていたのだろう。10月に発行された「サンデー毎日」でトップ記事として扱われたことで、福岡県外の人々もやっとこの大惨事のことを知るに至ったのだった。

 今でも、JR日田彦山線彦山駅には、爆発で受けた傷跡が残っているという。また当時、二又トンネルの手前までしか敷かれていなかった鉄道も1956年には開通し、かつてトンネルのあった場所は今でも一日数本の列車が行き来している。吹っ飛んだ山の形もそのままだそうな。

 ちなみに彦山駅からトンネル跡を経て、さらに進むと「爆発踏切」という笑うに笑えないネーミングの踏切があるらしい。このあたりの情景については、ネットで検索すると結構見つかるので興味のある方はどうぞ。

 二又トンネルと同じ日に火薬処理がなされた吉木トンネルは、今も残っている。ただし名前は深倉トンネルとなっており、なかなか当時の面影を探すのは難しそうである。もっともこの周辺地域では、今でも工事などで地面を掘り返すと、爆発で飛び散った砲弾の破片やら信管やらが見つかるらしいが――。

 かように知る人ぞ知る事故であるが、これを題材にした文芸作品も存在する。ひとつが、作家の佐木隆三が書いた「英彦山爆発事件」。それから佐々木盛弘氏の書いた『三発目の原爆』という絵本で、佐々木氏はこの事故で全身を負傷、家族を失った方だという。

 これが日本最大の爆発事故である。二又トンネルは当時の運輸相の所管に関わるため、これを鉄道事故のカテゴリに分類することも可能かも知れないが、やはり当研究室では爆発事故として記録しておきたい。

【参考資料】
◆『続・事故の鉄道史』佐々木 冨泰・網谷 りょういち
◆ウィキペディア

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◆山陽本線列車脱線転覆事故(1938年)

 1938(昭和13)年の6~7月は特に雨が多かった。それもちょっとやそっとの多さではない。7月3~5日には神戸市と阪神地区で、大雨による「阪神大水害」が起きている。この水害は、1995(平成7)年の阪神・淡路大震災と並ぶ大災害として、今でも現地で語り継がれているという。

 今回ご紹介する事故が起きたのは、同年の6月15日である。

 まだ夜も明けない午前3時頃、山陽本線の上り線を、13両編成の110列車が走っていた。下関発京都行きの夜行列車である。この時も当地は大雨で、そのため列車の運行には30分ほど遅れが出ていたという。

 列車は岡山県和気郡熊山村大字奥吉原地区(現在の岡山県赤磐市熊山地区)に入り、熊山駅を通過。それから700メートルほど進んだ場所で事故は起きた。

 その場所は、大まかに言えば「でかい窪地」である。吉井川の堤防と崖に挟まれてた地形で、竹藪になっている。線路は、堤防に沿った形で敷設されていた。

 時刻は午前3時56~59分頃分頃。この堤防の一部が崩壊し、機関車と前四両が脱線した。そして竹藪の中に転覆した。

 堤防の高さは約4メートルあり、転覆した車両は竹藪をなぎ倒しながら「く」の字を二つ重ねたような形で横倒しになった。機関車は車輪を天に向けてほとんど逆さまに引っくり返り、車体の半ば以上が土砂に埋まったという。

 客車もひどい有様だった。木造だった一両目の車両はねじ曲がり、原形をとどめないほどにバラバラになった。それ以外は鋼鉄製だったため一両目ほどのダメージはなかったものの、窓ガラスなどは全て破損した。

 さらに、これだけでは済まなかった。五両目以降の車両は転覆を免れて線路上に残っていたのだが、これが隣の下り線にはみ出す形になっていたのがよくなかった。反対から下り列車がやってきて、五両目の車両に衝突したのだ。

 ぶつかってきたのは京都発宇野行き(資料によっては、鳥羽発宇野行きとも)の801列車である。この衝突により、ぶつかられた車両は右半分をざっくり切り裂かれる形になった。全ては、最初の脱線転覆から一分以内の出来事だった。

 この時点での死者は25名、負傷者は91~108名(資料によって少し表記が違う)。死者のうち3名が、堤防の上での衝突によるものだった。

 転覆した車両の方で死者が多く出たのは、先述した通り、先頭車両が木造でもろかったせいでもある。事故が起きた1938(昭和13)年以降、新しく造られる客車は全て鋼鉄車となったのだが、既に造られた木造車はそのまま使い続けられていたのだ。この、両者が併存している状況は1959(昭和34)年まで続いた。

 痛ましいことに、死者の中には小学生も含まれていた。和歌山県橋本高等小学校の二年生71名が、先生3名に引率されながら修学旅行中だったのだ。児童たちは、奇跡的に無傷だった一名を除いて、全員が何かしらの死傷を負ったという。

 一行は6月11日に旅行へ出発し、四国の琴平宮と、広島の宮島に参拝するというコースで旅をしていた。そして14日の22時30分に宮島駅で乗車し、日付が変わってから事故に巻き込まれたのである。木造だった先頭車両というのも、これは実は修学旅行用にと広島でわざわざ増結されたものだった。

 以下は、児童のうちの一人の証言である(資料からの引用だが、読みやすくなるように少し手を加えた)。

「昨日、広島での見物が終わって、午後11時頃に列車最前部の一両に乗って出発した。寝ていると、ドカンと大きな音がしてひっくり返ってしまいました。あとは何が何やら分からなかったが、這い出して救われました。先生が亡くなられ、私たちはどうしていいか判りません」。

 それからもうひとつ。これは証言ではなく手記から(手を加えている)。

「今晩は家で寝られるな。こう思いつつ、深い眠りに落ち、どのくらい眠ったか。突然なんだか大きな衝撃を全身に受けた。ハッと見廻すと辺りは真っ暗、身を起こそうとすると動けぬ。胸から下が石炭やら赤土の中に埋まっているのだ。大変だ、皆はどうしたか知ろうにも皆のわめき声やら何やらで何が何だかわからぬ。約半時間ももがいていると一人の兵隊さんが、「生きているものは声をあげろ」とすぐ傍らで怒鳴った。「ここにおります」「よし」たちまち掘り出してくれた、と思った瞬間どのように助かったか覚えておりません。みやげ物もすっかりどこかへ行ってしまった。ただ助かって何よりだ。機関車にすぐ連結された木造車の前部から三つ目の座席にいたから助かったのだろう、こんなことを全身の痛みに坐り込んで考えていると、人夫さんがこちらに来いと肩に負って救護所に連れて行ってくれました。その途中、先生の遺骸が見えた。友だちの血に染まった姿も見えた。たまらなく涙が出ました。死なれた先生や友だちを思えば筆も進みませぬ。」

 以上の証言と手記は、『続事故の鉄道史』からの孫引きである。当時の大阪毎日新聞に、こういう記事が載っていたらしい。

 今の時代から見ると、こういう「手記」を児童に書かせるというのも奇妙なやり方である。うるさ方から「子どもにこんな残酷なことを思い出させる文章を書かせるとはけしからん! PTSDになったらどうする!」と抗議が来そうだ。

 さて、児童たちの言葉の通り、引率の先生も亡くなっている。それも3名全員だ。重傷を負いながら「誰々は大丈夫か、避難したか」「みんな怪我はないか、講堂へ集まれ」などとうわ言のように口にしていた先生や、堤防の上で児童を助けている最中に、下り列車の衝突に巻き込まれた先生もいたという。まさに殉死だった。

 もうひとつ児童の証言を載せておこう。

「先生の手が、抱きかかえるように私の前に見えたと思ったら、辺りが真っ暗になりました。先生がいなかったら死んでいたと思います。叱る時は怖い先生でしたが、いつもはいい先生でした」。

 広島鉄道管理局は、事故発生と同時に岡山と姫路の師団に救援を要請。両師団の軍隊はただちに出動して、翌日まで救助と復旧にあたった。現場の線路も当日の午後2時には復旧したというから、実に仕事が早い。

 事故原因は何だったのだろう? その答えは「地滑り」だった。手抜き工事のため、堤防の盛土が雨の水量に耐えられなくなったのだ。そして「円弧滑り」という現象を起こし、線路の下の地面が崩れたのである。

 事故が起きた山陽本線の線路は、ほとんどが平坦である。これは、鉄道建設時に、当時の社長が「建設にあたっては、線路の勾配を100分の1以内(10パーミル以内)にすべし」という方針を打ち出したためだ。

 その結果として、丘を迂回するカーブなどが増えることになった。今回の脱線転覆の現場でも、事故が起きた年の1月に、丘を削って斜面を切り崩し、削った土砂を盛って堤防を造り、そこに線路を敷設するという作業が行われている。要は、線路を支える土台が人工的なものだったのだ。

 この工事で、手抜きがあった。本来こうした場所では、土砂の中に水が溜まってもすぐに排水できるような設備を整えなければならない。そのための作業は「水抜き工」と呼ばれるそうで、現在は特殊なパイプを盛土の中に埋め込むという。当時は、目の粗い割栗石などを雨樋のように並べて、盛土の中に暗渠を造るというやり方だった。これが行われなかったのだ。

 このため、事故当時は、盛土がたっぷり雨水を含んで排水されず、グズグズになったのだった。もともと、そこは窪地の斜面に土が盛られる形になっていたので、その斜面の形――すなわち円弧の形に添って土砂が崩れ落ちる「円弧滑り」が発生したのだ。

 つまり事故が起きた時、現場の線路の枕木は土台を失っており、宙に浮いた状態だったのである。そこに機関車が通りかかったのだから、もつはずがない。

 資料によると、円弧滑りそのものはありふれた現象らしい。水抜き工と、また斜面の「段切り」、さらに土を固めて密度を上げる「転圧」という作業をしっかりやれば、大部分は防げるという。

 もちろん、筆者も土木工事については門外漢である。だが、水を抜くとか土を固めるとか、そういう作業が必要なことは、子供でも分かる理屈ではないかと思う。きっと読者の皆さんも、昔砂場でやった泥遊びなどを思い浮かべているのではないだろうか。

 だから、この事故の最大の原因は工事の施工不良だろう――と素人考えでも想像がつくのだが、ところが裁判ではちょっと意外な判決が出た。後から衝突した801列車の機関手と機関助手、それから岡山保線区和気分区の保線員が検事拘留処分となったのだ。

 判決の要旨は不明だ。ただ、機関手と機関助手は百歩譲るとしても、保線員の巡回点検にミスがあったというのは奇妙である。設計者と施工者はどうして責任を問われなかったのだろう。この事故の、ちょっと不思議な点である。

 さて、多くの児童が死傷した橋本小学校だが、その後、被災した児童のうち9名が亡くなったという。公式な記録では事故直後の死者数までしかカウントされていないのだが、同校の敷地内にある慰霊碑には、後で加わった児童の名前も刻まれているそうだ。どこまでも痛ましい話である。

 現場にも慰霊碑が存在する。丸山公園というところらしく、地蔵菩薩像と、お経が書かれた石碑が建っているそうだ。いずれも、建立されたのは事故からちょうど22年目にあたる1960(昭和35)年6月15日。参考資料によると、事故があった6月15日には毎年法要が行われているという。「何回忌」ではなく「毎年」というのは、慰霊式のサイクルとしてはかなり珍しい。

 余談だが、現地では「この場所には今でも機関車の車体が埋まっている」という噂があるとか。本当かどうかは分からない。

 既に80年前の事故なので、地元でもこの出来事を知っている人は少ないという。だが、なんとなく関連情報をぐぐっていたら、最近ちょっとした動きがあったことが分かった。儀礼者の同窓生で構成される「六友会」という団体が保存していた関連書籍が、2015(平成27)年に郷土資料として地域の公共施設に寄贈されたというのだ。

 この書籍は『列車遭難同情者芳名録』。香典という形で、被害者に対し募金をしてくれた人たちの氏名が載っているらしい。全国の学校、幼稚園、小学校、愛国婦人会、軍隊、会社、商店、農漁業などの氏名や団体名が千件以上記されており、金額は一件につき1円から500円。御供花、お菓子などを贈ってくれた人もいたようだ。中には、ベルリンオリンピックで金メダルを獲得した兵藤秀子(旧姓・前畑)の名もあるという。「前畑がんばれ」のあの人だ。

 当時の1円は現在の3~4千円。この事故が、どれほど当時の人々の同情を誘ったかが分かる記録である。

 ちなみに戦前の大事故は、天皇陛下からの金一封の下賜によって一見落着となるのが通例で、この事故もそうした形で処置がなされた。さらに当時の鉄道省でも、千五百人の職員から募金を募って事故遭難者に贈ったという。

【参考資料】
◆『続・事故の鉄道史』佐々木 冨泰・網谷 りょういち
斜面の安定
「同情者芳名録」保存依頼へ~山陽線事故・児童ら犠牲
磐梨通信(イワナシツウシン)☆昔の列車転覆事故☆
◆ウィキペディア

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◆ささやかなる被災

 2011年3月11日、14時47分。

 その地震がやってきた時、筆者は仕事中であった。

 仕事上の用事があり端末機を操作していたのだが、その時にユラユラと揺れ始め、すぐにその揺れ方が大きく長くなっていったのである。いかんこれはかなりの大地震だ、という直感が働いた。

「机の下に!」

 筆者はそばにいた同僚に声をかけ、自分も急いでそのようにした。

 電気はたちまち消え、事務所はやけに静かになった。薄暗い静けさの中で、ユサユサ、ガタガタと音を立てながら、随分と長い時間揺れていたように思う。さすがに根源的な恐怖を感じた。

「あれっ? きうり君、みんな外に出てるよ」

 揺れが鎮まると、さっき声をかけた同僚は、机の下から出てきてそう言ってきた。

 後で知ったのだが、最近は「地震の時は机の下に隠れる」というのは若干時代遅れらしい。とにかく建物が倒壊するほどの地震も多いということで、今は素早く外に出られるならそのようにするのが王道なのだとか。

 そこは臨機応変に対応すべし、ということなのだろう。まあ実態としては、「他の人が外に出たから自分も出る」というのが多かろうとは思うが。

 さて揺れはおさまったものの、全ての電気が完全にストップしもはや仕事にならない。電話もメールも通じなくなった。固定電話だけは何かのはずみでたまに繋がるが、それもあてになるほどじゃない。

 とりあえずはそのまま職場にて、機械関係の復旧と故障の有無の確認などを行った。

 だがとにかく、電気が通らないことには、そこから先へは進めない。暖房も切れたので、皆で厚着をして、少しでも状況が進展しないものかと待った。

 そのうち、外に出ていた同僚たちも帰ってきた。

「いやあ、揺れた揺れた。大丈夫かって? 大丈夫んねず。停電だ停電。信号も全部ストップしったっけずー」

 なんだって。デカい地震とは思ったがそんな酷いことになっているのか――。

 そうこうしているうちに、他の部署からは、ワンセグ携帯で確認された情報がいろいろと聞こえてくる。どうも震源は東北の太平洋側らしい。津波が来るらしい、あるいは来たらしい、等々。

 筆者は早く帰りたかった。仕事なんざどうでもいい。そういうのは、地震が起きても仕事を優先にする人がやってくれればいいのだ。筆者にとっては家族や友人知人の安否のほうが一大事だった。

 その気持ちを察してくれたのか、上司の一人が「きうり君、帰ったらいいんねが」と声をかけてくれた。助かった。

 さてそれで帰路に着いたものの、その頃には道路はおそるべき状況だった。

 とにかく信号が完全にストップしているし、誰もかれもが筆者と同じように帰路についているので渋滞も渋滞、大渋滞である。中には交通整理の人がいる交差点もあったが、基本的には人々の善意と譲り合いでもって順繰りに少しずつ通過できる、そんな場所が大半だった。

 寒かった。雪もちらついていたと思う。

 まずは無事にアパートに着いた。

 筆者は、妻と義母の2人と生活している。玄関口に最初に顔を出したのは妻のほうだった。

「あっおかえり」

「ただいま。怪我は?」

「ないよ」

 どうやら2人とも無事らしい。それは良かったのだが、食器棚が倒れていた。そのうちやろう、と考えて転倒防止器具をの取り付けをさぼっていたのが悪かった。

 食器棚を元に戻そうか……という話になったが、やめておくことにした。床には割れた食器が何枚か散らばっており、停電はまだ続いている。暗い中で破片でも踏んだらことだ。

 妻と義母は、地震の時には近所の風呂屋にいたという。湯船がプチ津波のように揺れたそうだ。それで帰ってきたら、食器棚が倒れていたのだった。

 それはそれで幸いだったかも知れない。食器棚が倒れる瞬間なんて、目の当たりにしたらそれはそれで心臓に悪い。

 他にも幸いなことはいくつかあった。まず、停電はしているものの水道は無事だった。また我が家には反射式ストーヴがあり、これなら電気がなくとも電池と燃料さえあれば寒さは凌げる。繰り返すが、これは本当に幸いだった。

 とりあえず、筆者はもう一度外に出て、実家へ行ってみることにした。

 外は薄暗く雪もちらついていた。それで信号も民家の明かりも消えておりスーパーもコンビニも真っ暗なものだから、なんだか街全体が灰色がかっているように見えた。

 実家でも怪我人はなかった。ただ反射式ストーヴがないためやはり寒そうで、非常用のカンテラを囲むようにして、両親はもこもこ厚着をしていた。いつもはやんちゃな実家の飼い猫も、今日ばかりはおとなしい。やはり何かただならぬ気配を感じているのだろう。

 ともあれ無事は確認できたので、再びアパートへ帰宅した。

 まだ少し明るかったので、部屋の状況を改めて確認してみた。

 まず食器棚が倒れていたのは先述の通りで、それが一番大きな被害だが、さらに棚の中にあった家電製品も外に飛び出し、ひっくり返っているのが嘆息ものだった。

 例えば炊飯器と電気ポットは逆さまになっており、ポットからはお湯がぶちまけられている。また電子レンジも、倒れた勢いで扉が開いており、ぎりぎりの位置で落下せず踏みとどまっていた。

 食器棚はただ倒れたのではなく、下に椅子なども挟まっていた。そこに家電などがはまり込み、なんだか複雑な散らかり方をしていたのだった。

 それから、筆者の部屋も決して無事ではなかった。机の上に、100円ショップで買った小さなアクリル製の本棚があり、そこに辞書や電卓などを立てているのだが、それが落下して散らばっていたのだ。

 携帯電話も通じない。とにかく今夜は、なんとか暖を取ってやり過ごすしかない。筆者たちは家族三人で反射式ストーヴの前に集まり、暖を取りながらどうでもいいことを話して時間をつぶした。

 明かりは、さっき実家から借りてきた懐中電灯が一本だけ。それを頼りに時計を見たり、トイレに行ったりした。

 素直にすごいなと思ったのが、ワンセグ携帯の威力である。とにかく、電気が一切通じていなくとも、電池さえもてばテレビが見られるのだから大したものだ。

 カミさんの携帯にワンセグ機能がついていたのである。それで、ときどきテレビを見てみると、例の信じられないような映像が次から次へと流れてくるものだから慄然とした。世界の終わり、というほど大げさではないけれど、自分が今いるアパートは非日常的で、唯一外の世界と通じているワンセグの画面からも、まるでこの世の終わりのような情景が送られてきているのである。「只事じゃない」「何かとんでもないことが起きている」そんな間抜けな言葉が頭の中で何度も繰り返された。

 しかしワンセグもいつまでも観賞しているわけにはいかない。電池の問題がある。

 思えばこの時から、もう燃料や電池などの問題は始まっていたのである。反射式ストーヴだって灯油がなくなればお手上げだ。街中が停電している状態がこのまま続けば、給油も充電もできなくなる。まさかそんなことはないと思いたいが、大丈夫なのだろうか? 多かれ少なかれ、この頃誰もが感じていたことだろう。

 夜の10時頃になると、さすがに空腹が著しくなってきた。

「ちょっと外に行って来る」

 筆者はカミさんと義母にそう断って、街の様子を見がてら、どこか開いているところがあれば食糧を調達してくることにした。

 住宅街はとにかく真っ暗だった。街灯も、商店の明かりも、家屋の電灯も全てが消えている。たまに、住宅の中で懐中電灯の明かりらしきものが蠢くのが見える程度だった。

 さらに言えばこの夜は曇りときどき雪、といった按配の天気で、月明かりすらなかった。

 筆者が外出したのは、「だめもと」であったが、やはりホームセンターもスーパーもコンビニもドラッグストアも全て真っ暗。閉店状態である。

 実は職場から帰って来る時、こういった商店には凄まじい台数の車が停まっていたのだった。皆、地震の大きさに恐れをなして、慌てて食料や燃料や電池の類いを買い占めにかかったのであろうことは容易に想像がつく。おそらく停電ばかりではなく、単純に商品の売り切れのため閉店した店もあっただろう。

 信号も相変わらず仮死状態である。

 とはいえ、状況を興味深く観察する程度の余裕はあった。街中が真っ暗なんて、こんなのは二度とお目にかかれないかも知れない。様子を見がてら少しドライブしてみよう――という気持ちがあった。

 果たして、少し車を走らせていると、ローソンの駐車場に何台も車が停まっているのを見つけた。まさか、と思って筆者もそこに入ると、なんとそこはまだ営業していた。

 もちろん停電している。だが多分店員の車だろう、駐車場の車がライトでもって店内を照らしており、それでなんとか買い物ができるようになっていた。

 大勢の人が買い物をしていた。サラリーマン風の人、赤ちゃんを連れた若い夫婦、派手なカップル、大学生らしい男子二人連れ……。みんな意外に元気で、暗い顔をしている者はいなかった。わりとさばさばした明るい表情で、「みんな逞しいな」と思いつつ、奇妙な連帯感を感じた。ここにいる誰もが、今夜のこの苦労を分かち合っている仲間なのだという気持ちが湧いた。

 そんな中で、筆者もとりあえず適当なものを買った。

 おにぎりや弁当、パンなどは完全に売り切れていたので、買ったものはといえばじゃがりこ、おつまみよ用らしい砂肝、チョコ、冷え切って隅っこで売れ残っていた中華まんくらいのものだった。

 買い物を終えると、さらにぐるりと街を回ってみた。ローソンが開いているのだから他にもやっている店があるかも知れない、という甘い見込みもあった。だがさすがにそこまで幸運ではなかった。

 もう本当に何度でも繰り返し書くが、街中が真っ暗だった。数十年を過ごして、身体に馴染み切ったこの街が、これほどの闇に包まれているのは観たことがなかった。

 ただ一件だけ明かりのついている建物があって、それは市役所の2階だった。非常用の電源でもあるのだろう。

 見ものなのは、筆者のアパートから程近い歓楽街である。温泉施設と風俗営業店が立ち並ぶごちゃごちゃした場所なのだが、いつもは「不夜城」であるここも完全に真っ暗。夜こそ賑やかになるこの場所の静けさに、僕は思わず車内で笑った。心から楽しくて笑ったのではない。悲しいくらいに不条理で滑稽なものを目にすることでこみ上げてくる「笑い」というものもある。

 ときどき、試しに車を停めてライトを消してみたりすると、極めて原始的な恐怖が湧いてきた。筆者は暗い場所が苦手なのだ。

 車のラジオは聞くことができた。だが何を聞いたかはよく覚えていない。

 雪がちらついてきた中でアパートに帰宅し、部屋に戻ると、とりあえずローソンで買い込んだ食糧――というより「おやつ」――を胃に入れた。ほんの少しでも、身体がほっとした。

 それで、筆者はとりあえず寝ることにした。

 じっとしているしかないのなら、布団にくるまって寝た方が体力も回復するし建設的である。「大きく揺れたらすぐ起こしてくれ」とカミさんに言っておいて、自室で布団にくるまると目を閉じた。カミさんと義母は眠れなさそうなので、そのままストーヴの前で夜を明かすしかなさそうだった。

 とはいえ、筆者も気持ちが高ぶってなかなか寝付けない。そして、目を閉じてなんとか休もう休もうと思っていたその時、突然携帯が鳴り出したので飛び上るほど驚いた。

 メールが届いたのである。それは、ネット上でずっとお世話になっているribataさんからで、筆者の安否を問い合わせる内容だった。

 もしかしてメールのやり取りはできるのだろうか? そう思い、返事を何度か試してみたが駄目だった。

 しかもこの時には筆者の携帯の電池はもう残り僅かで、メール送信で無駄に電池を使ってもいけない。一か八か、ここはツイッターで無事を報告しておこうと思った。

 ツイッターなら、フォローし合っているribataさんに対する返事にもなる。また翌日にはブログにまとめ投稿されるので、ブログ読者に対しても無事を報告できるはずだ。

「とりあえず無事です。停電でひたすらヒマしてます。皆様また後ほど!」

 この文章を送信してみたところ、これがうまくいった。

 だがそこまでで、携帯の電池は切れてしまった。

 後から考えてみても、電池が切れる直前にメールを送受信できたのは実に幸運だったと思う。 

 これでネット上では無事を報告できたはずだ。それだけで少し安心して、なんとか眠ることができた。何度か余震を感じることもあったが、とにかく寝た。

 そして翌朝は、たしか7時頃に目が覚めたと思う。

 妻と義母は、反射式ストーヴの前でほとんど一睡もできなかった様子だった。

 地震の翌日は、晴れたいい天気だったと思う。

 だがしかし、まだ停電は続いているし余震も止まない。

 それでもやれることはやっておこうと思い、筆者はとにかく片付けられるものは片付けることにした。

 まずは自室からである。昨日は帰宅して以降は一気に日が沈んだので部屋も暗くなり、脱ぎ捨てた服や、荷物などを片付けることができなかった。それを整理した。

 それから、いよいよ割れた食器と、倒れた食器棚の後始末である。これが面倒臭かった。

 食器棚の倒れ方も中途半端なら、棚の中身の飛び出し方も中途半端である。とにかく動かさないことにはどうにもならん、そう思い、ちょっと力を加えてみたら、中の食器が何枚か飛び出して割れてしまった。

 ついでに電子レンジもおっこちて、中の耐熱皿も割れてしまった。

 今ここではあっさりした書き方になっているが、その時の惨状たるや凄まじかった。棚をちょっと動かしただけでガチャンバリングワシャーン! といった感じだったのだ。耳をふさぎたくなる、目を覆いたくなる、目もあてられない、そんな状況だった。そこだけが紛う方なき「被災地」という感じである。

 棚を動かすのは、一人では無理に思われた。それで筆者は一度実家へ行き、父親に頼んで来てもらい、なんとか片付けを済ませたのだった(ちなみに実家には反射ストーブはなく、実に寒そうだった)。

 状況に進展があったのは、この直後である。

 父親が帰っていった直後のことだった。冷蔵庫が動き出す、ブウウーンという音が聞こえたのだ。

 それは実に何気ない音だったが、それが聞こえた瞬間、筆者と妻は思わず「あっ!」と叫んで顔を見合わせたものだ。電気が復旧したのだ! それで家中の電化製品の状態をみたところ、確かに通電している。時刻は午前10時頃だったと思うが、この時は本当にほっとした。

 さて、妻はこの直後にこう言った。

「食器の割れた破片が、まだ床に残ってるかも知れない。踏むと危ないからスリッパを買ってきてほしい」

 電気も通ったし、天気もいい。少しはましな気分になったので、筆者は歩いてホームセンターへ向かった。

 歩いていったのは、理由があった。さっき実家へ行き、父に助けを求めた際、念のためスーパーとホームセンターの様子を確認したのである。どちらも店の前に大大大行列ができていたのだ。電池や懐中電灯、それに食糧を買い求めに来た人たちだろう。よって駐車場も満車で、車で行っても停める場所はなかろうと考えていたのだ。

 だがさすがに、スリッパを買いに行った時にはもう行列は解けており、そのかわりホームセンターの店内は客でごった返していた。

 店の中は暗い。どうもスイッチを切った状態にしているらしく、店員に聞いてみたら、現在は発電機を回してなんとかレジだけを稼働させている状態だという。なるほど。念のため、自分のアパートには電気が通ったということを、この店員には話しておいた。

 そして帰宅し、ようやくインターネットにも接続することができ、ネット上での無事の報告を改めて行った。さらにメール送信を試してみたところ、5回に1回くらいの割合でうまくいったので、友人知人にも安否の確認と無事の報告をしておいたのだった。

 テレビから流れてくる地震の情報と、ネット上の混乱ぶりに、ようやく改めて「これはやはりとんでもない災害なんだ」という認識を新たにした。

 以上、ここまでが、地震当日の被災体験である。

 とはいえ岩手や宮城、福島や茨城などに比べれば、山形は「被災」などと言うのもおこがましいような平和さだった。だから筆者はなんとなく遠慮して、他県の人に話す時は「地震で被災した」とは言わずに「地震の影響があった」という言い方を選んでいる。

 だがこの「影響」が、精神的にはけっこう響いた。

 なにしろ、東北の流通や商業の中心地である宮城県が思い切り被災したのである。また高速道路も使えなくなってしまい、その後の燃料と物資の不足にはほとほと悩まされた。

 以下、そうした「不足物」ごとに項目を作って、お話ししようと思う。

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◆ささやかなる被災・燃料の不足のこと

 何をさしおいても、まずは燃料の話であろう。

 山形県の3月といえば、まだやはり「冬」である。来月にはもう春が来るということが分かっているとはいえ、まだまだ冷たい風が吹き、一度くらいは冬の最後っ屁とでも言えるようなドカ雪が降ってもおかしくないような、そういう季節なのだ。

 よってまず恐ろしいのは、灯油の不足であったと思う。

 それからガソリン。

 東北では自動車が必須、とはよく言われるがまさにその通りである。そして今回ガソリンが不足してよく分かったが、東北地方の冬というのはとりあえず「食料品よりも燃料」なのではないかと思う。ガソリンがなければ出勤にも買い物にも支障を来たす。ガソリンがあってこそ生活が成り立つのだ。

 ともあれ、この灯油もガソリンも不足した。

 地震直後に皆が寄ってたかって詰めたり買いだめをしたりしたため、ガソリンスタンドのタンクは軒並み空っぽ。だけど製油工場や製油所が被災した上に、陸路も航路も地震直後からガタガタになったので輸送がままならず、定期的な補充もなかなかなされない。

 また仮になされたとしても、「今朝○○のスタンドにタンクローリーが停まっていたぞ」という情報でも流れるのか、そのスタンドには皆が朝から車で行列を作るようになる。また、行列ができれば「この行列に並べばガソリンが詰められるらしい」と、他の車もどんどん列に加わる。結果、数キロに至るほどの行列が出来上がるようになるのだ。

 この「行列並び」の習慣は、地震が起きてから、燃料の供給ペースがやっと平常に戻る3週間後くらいまでの間にほぼ完全に定着した。

 スタンドには、ガソリンが確実に供給されるところと、そうでないところがある。簡単に言えば大手であればあるほど供給されやすいし、個人経営の小さいスタンドはそうはいかない。よって消費者の中には、「ここなら明日はガソリンが入るだろう」とあたりをつけて、前日の夜からスタンドの入り口前に並ぶ者も出てきた。そこに車を置いていったん帰宅し、翌朝、スタンドの営業が始まる頃に再び車に戻って来るのである。要するに「場所取り」である。

 この、行列並びの習慣が定着する頃になると、それに伴っていくつかの事故も起きた。

 厳密に確認したわけではないが、筆者の地元の山形では4つくらいの事例があったと思う。たとえば、70代の男性が、前日の夜から軽トラックで「場所取り」をしていて、暖を取るために車内に持ち込んでいた火鉢により一酸化炭素中毒で死亡した。また、携行缶にガソリンを詰めて車に乗せていた状態で喫煙して引火、車が全焼したこともあった。その他、行列に並んでいた乗用車にトラックが突っ込んだとか、玉突き事故が起きたとも聞いている(最後の2例は同一の事例かも知れない)。

 それでも警察は、こうした行列や場所取りについては、あまりうるさく言わなかったようだ。ガソリンスタンドの前で連日行列が出来ているというニュースで、警察関係者が「できるだけ路肩に寄せて停めてほしい」と述べていると報じていたことがあった(もっとも、あまり目に余る状況の場合は見回りもしていたようだが、その辺りの基準はどこにあったのかは不明である)。

 またスタンドに並ぶ車も、基本的にマナーは良かったと思う。路肩にはきちんと寄せていたし、個人の家や商店の前に列が及ぶ時は、車の出入り口を塞がないように多くの車が気をつけていた。

 筆者も、一度だけこの行列に並んだことがある。

 なぜ一度だけで済んだかというと、筆者の勤めている会社で、定期的にガソリンや灯油を「配給」してくれたからだ。あれは大いに助かったが、一度だけガソリンが足りなくなったのである。朝6時20分頃から行列に並び、10時半にようやく詰め終えたのだった。待ち時間の間に読書もずいぶんはかどった。

 そんなガソリン・灯油情勢は、地震から3週間目でようやく平常通りに戻った。業界のことはよく分からないが、もしかすると3月中にはあらかた通常の供給量を確保できていたのかも知れない。4月という区切りの月から、ほとんどのガソリンスタンドが通常営業に戻ったというのは若干できすぎのような気もする。

 もはや「超・被災地」としか言いようのない岩手や宮城では、山形県よりもずっと燃料が不足していることは分かっている。そう考えれば、燃料の供給を需要に追い付かせるための努力はこれからもまだまだ必要で、その意味では戦いはまだ終わっていないのだと思う。だがとりあえずは、気の遠くなるような車の列の整理や誘導に奮闘していたガソリンスタンドの店員さんには、実にお疲れ様であったと言っておきたい。

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◆ささやかなる被災・物品の不足その他(備忘メモ)

 ▼ドラッグストア・・・筆者がいつも使っている薬や、家族が愛用しているハンドソープが品切れになっているのは参った。

 ▼スーパーマーケット・・・地震直後は、冷凍食品やアイスは軒並みダメになっていたと思う。牛乳は比較的早く入荷するようになっていたが、ひとり2本まで、などの個数制限がかかっていた。生鮮食品もわりと早く棚に並ぶようになったが、加工食品の類は最初の頃は一切なかったと思う。3週間後には普通に買い物できる程度には商品が入荷されるようになっていたが、それでも乳製品は空っぽ、缶詰とカップ麺は品薄、という状況。節電のため店内が寒く、レジの人たちが厚着していたのが印象的。

 ▼コンビニ・・・ファミマ、ローソンは地震直後から、もう完全に諦め切ったような感じでどこも閉店。セブンイレブンだけが、たとえ品薄でも営業している店が多かったのは、やはりATMの需要が高いからだろうか。地震直後もまだ食べ物を少し売っているセブンイレブンがあって、聞いてみたら「うちは弾数があったので全部放出するだけです」と店員さんが言っていたのが印象的。

 ▼書店、図書館・・・しばらく閉店。後日、営業時間を2時間縮めて営業を再開していた。図書館も似たようなもので、町によっては完全に閉館していた。

 ▼買いだめ、買い占めについて・・・筆者は特に責める気にはならなかった。家族がもともとトイレットペーパーの消費量がものすごいので、普通に買っているだけで傍目には「買い占め」と言われても仕方ないような形であったし。

 ▼ACのコマーシャル

 ▼友人がくれた、お米。待ち合わせたファミレスでは、やはりメニューに制限がかかっていた。

 ▼地震からしばらくして、山形を襲った大雪。昼間の間に60から70センチは降ったであろう豪雪。東北地方は踏んだり蹴ったりであった。

 ▼計画停電・・・やるぞやるぞ、と言って結局なし。

 ▼火事場泥棒、アナウンサーのヘルメット、仙台ナンバー、岩手ナンバー、不謹慎狩り。

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東日本大震災体験記

ささやかなる被災
ささやかなる被災・燃料の不足のこと
ささやかなる被災・物品の不足その他(備忘メモ)

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◆青森県鯵ヶ沢の鉄砲水(1945年)

 1945(昭和20)年3月22日のことである。青森県青森県西津軽郡赤石村(現在の鰺ヶ沢町)の大字・大然(おおじかり)地区にて奇妙なことが起きていた。村を流れる赤石川の水かさが、やけに少なくなっていたのだ。

 村人たちはこの異常事態に気付いたが、その意味するところまでは誰も考えなかったようだ。

「なんだこれ? 変だな。まあいいや、明日確認しようか」

 とまあ、こんな感じだったのかも知れない。こうして、村はそのままで夜を迎えた。

 だがもはや状況は手遅れだった。実は、赤石川の上流では水の流れがせき止められていたのだ。おそらく、この冬の豪雪と雪崩によってダムができたのだろう。さらにこの日の夜の天候は豪雨であり、これによって雪の天然ダムは決壊してしまった。

 時刻は23時頃から、翌午前3時頃の間と言われている。大量の雪、土砂、水が村に襲いかかった。

 このような雪混じりの鉄砲水を、専門用語では「雪泥流」と呼ぶらしい。これの直撃を受けた集落は家も住民もたちまち押し流され、大然では13戸、佐内沢という集落では7戸が一瞬にして流されて88名が死亡(87名という記録もある)した。死者の内訳は男性が41名、女性が46名というものだった。遺体は7月11日になってようやく全て発見されたという。

 これほどの人数が死亡し、しかも村落がほぼ壊滅したのである。国内の土石流災害の被害としてはかなりものだ。だがこの災害、一般的にはほとんど知られていない。それは何故か?

 答えは簡単で、報道されなかったのである。

 時期が1945(昭和20)年という微妙な時期だったためだ。終戦直前である。メディアの側にも詳細を報じる余裕がなかったのか、あるいは士気を殺いではいかんということで報道管制がかかったのか、とにかく少なくとも中央では全く報道されなかったのだ。おかげで終戦を迎えて以後も、この災害は、地元民しか知らないモノホンの「知られざる災害」としてのみ語り継がれていたのだった。

 そんな災害の記憶の「発掘作業」が始まったのが1987(昭和62)年のことである。東奥日報新聞社が、「消えた村」と題して3月16日から26日にかけて惨劇の顛末を連載。さらに翌年には郷土史家の手によって単行本にまとめられた。

 天然ダムの崩壊と雪泥流による被害事例は、国内でもあまり例がないという。よってこの事例研究は、専門の研究者にとっても極めて貴重なものだった。

 この災害が起きた赤石川の周辺は、もともと地滑りなどの土砂災害が発生しやすい地質だった。地滑りと地質の関係については前にバス事故の項目でちょっと書いたことがあるが、第三紀層を形成する箇所が多く存在するのだ。

 雪泥流はあくまでも雪と水の組み合わせで発生するが、水流が発生すると途中で土砂などを巻き込んでいくことになる。よってそこが脆い地層であれば被害も拡大することになる。この水害はこうした悪条件が重なって発生したものだった。

 青森県で最初の砂防ダムが設置されたのがこの赤石川だったというのも、決してゆえなきことではないのである。「青森県砂防発祥地」の記念の石碑もあるそうだが、そこには「雪泥流」という言葉もきちんと刻み込まれているという。

 なお、慰霊碑も存在する。なんでも「鰺ヶ沢町自然観察館ハロー白神」なる施設のそばにあるそうで、これは昭和26年11月に建立された。そしてその裏面ではこのような説明がなされているという。

「昭和二十年三月二十二日夜来の豪雨により流雪渓谷に充塞河水氾濫し舎氷雪に埋まり大然部落二十有戸悉く其影を失ふ夜来のこととて死者八十七名生存者僅かに十六名のみ實に稀有の惨事たり爾来七星霜犬方の同情と復員者の苦闘により漸く復典の緒を見るに至る茲に浄資を集め遭難者追悼の碑を建て以て厥の冥福を祈らんとすと爾云
    昭和二十六年十一月
    赤石村有志代表
    村長正七位 兼平清衛識」

 この記事を書くにあたり、本当は先述の「郷土史家がまとめた記録」とやらを読んでみたかったのだが、ついにそれは叶わなかった。たぶん青森の地元とか国会図書館とかそれ専門の大学の図書館でないと置いてなかったりするのだろう。

 というわけで、筆者はネット上の情報をつなぎ合わせて今回の記事を書くしかなかったのだが、一応文献のタイトルも掲載しておこう。興味がある方は読んでみて下さい。

『岩壁(くら)――昭和20年・大然部落遭難記録』
 著者・鶴田要一郎
 発行・青沼社
 昭和63年12月20日初版発行

 まあ仙台から青森まではそう遠くないし、山形在住の筆者としては、青森県の図書館にそのうち直接調べに行こうかな~なんて思わなくもないのだが。

【参考資料】
レポート『新しい雪氷災害「雪泥流」とその予測』小林俊一
総務省消防庁防災課『災害伝承情報データベース整備検討報告書(平成16年度分)』平成17年3月発行
個人ブログ『砂防に関する石碑 碑文が語る土砂災害との闘いの歴史』2008年06月30日公開記事「2-1.大然部落遭難者追悼碑」
◆ウェブサイト『東北自然ネット』内記事「赤石川の砂防と大然部落の全滅」(リンク切れ)

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水害

青森県鯵ヶ沢の鉄砲水(1945年)
◆羽越水害(1967年)
◆プラハ地下鉄浸水(2002年・チェコ)
◆山東省済南市の洪水(2007年・中国)
◆博多駅地下街浸水事故(2009年)

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群集事故

京都駅将棋倒し事故(1934年)
萬代橋花火大会事故(1948年)
横浜歌謡ショー将棋倒し事故(1960年)
松尾鉱山小学校転倒事故(1961年)
大阪造幣局「通り抜け」将棋倒し事故(1967年)

山岳事故

駒ケ岳大量遭難事故(1913年)

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◆駒ケ岳大量遭難事故(1913年)

1913年(大正2年)に起きた山岳遭難事故である。

 長野県の中箕輪尋常高等小学校では、8月になると、中央アルプス北部にある木曽駒ケ岳(2956m)に修学旅行に行くという行事があった。完全な年中行事として定められていたのかは不明だが、とりあえずこの学校では1911年(明治44年)も、また1912年(明治45年~大正元年)もこの行事がなされていた。

 で、今年もやろうということになったのだが、ここでこういう反発があった。

「校長先生、マジっすか!? もうそういう時代じゃないっすよ~」

 登山によって心身を鍛練するなどというのは、教育方法としてはもう古い――というのがこの時代の「流行の」考え方だったのである。

 当時、日本の教育界では「生徒の自由を尊重し個性を育てる」のをモットーとした理想主義的教育がブームとなっていた。いわゆる白樺派の影響である。どうもその実態は現代のゆとり教育と似たようなものだったらしいが、とにかくそれで、軍国主義的な鍛錬教育なんて古い! なにより生徒を大勢連れてアルプスに登るなんて危険だ! と言われたのである。

 しかしこの登山修学旅行を立案企画した赤羽長重校長は、反対を押し切る形で決行した。

 結果的には、これが悲劇を招くことになった。

 生徒から希望者を募ったところ、手を挙げたのは25名。さらに地元の青年会のメンバーが9名、引率教師が3名参加することになり、合計34名となった。大所帯である。

 これだけの人数を率いていく以上、準備には細心の注意を払わねばならない。まず何よりも心配なのは山の天候だ。これについては、校長は直前まで何回も側候所へ電話をかけ、確認をしている。

「26日に駒ケ岳に登りたいんですけど、大丈夫ですかね?」

 これに対する回答は「北東の風、曇り、にわか雨」というものだった。まあ夏の天気としては普通であろう。

 こうして1913(大正2年)8月26日、登山は決行された。

 しかし、この後の天候の変化については、とにかく赤羽校長一向は不運だったとしか言いようがない。当時、八丈島のあたりに停滞していた低気圧があったのだが、これが26日の夕方にいきなり動き出したのだ。

 当時の気象台はこれを「低気圧」と呼んでいたが、今でいえば立派な台風である。これがどの側候所でも予測できないほどのスピードで発達し、どえらい速さで移動し始めたのだ。

 まさに韋駄天低気圧とでも呼ぶべきこ奴は、26日の夜には東京を通過。そして銚子港付近を北上すると東北地方を縦断し、津軽海峡に抜けていった。このため日本海側、特に新潟や富山で大きな被害が出たという。

 そして長野県でも、直撃というほどではなかったものの、この低気圧の影響で激しい風雨があったようだ。赤羽校長以下37名は、よりにもよってアルプス山中でこいつに遭遇してしまったのだった。

 さて問題の木曾駒ヶ岳であるが、この山に登るのはどのような感じなのだろう。これについては、某サイトで文章を見つけたので引用させて頂こう。

『木曾駒ヶ岳は中央アルプス北部にあり、古くから信仰の対象とされ、既に1532年には山頂に駒ヶ岳神社が建てられたそうです。10本程の登山コースがありますが、標高2640mの千畳敷へのロープウェイ開通後は登山道の利用者は少なくなっています。
 95年前、ここで教師と生徒たちの大量遭難がありました。先日、そのコースをたどってみたのですが、テントを背負っての登りは結構きつく、コースタイムの7時間弱をかなりオーバーしてしまいました。当時は登山口まで余分に数時間歩かなければならなかったわけで、14-15歳の彼らの脚力に驚かされました。』
 ウェブサイト「読んで ムカつく 噛みつき評論」より
http://homepage2.nifty.com/kamitsuki/08B/seishokunoishibumi.htm

 筆者も十代の頃にちょこっと山に登ったことはあるが、それでも7時間弱はなかった。確かに当時の学童の脚力には驚かされるが、しかし、いずれにせよその疲労は尋常なものではなかったに違いない。

 むしろ脚力の問題だけならまだ良かったのである。登山の途中から、文字通りに「雲行きが怪しくなって」きて雨風にさらされたことで、彼らの体力は途中からみるみる奪われていった。

 それでも、一行は進んでいった。山頂付近の地点に小屋があったのである。とりあえずそこに入れば雨風も凌げるし暖も取れる。それまでの辛抱だ――。

 ところで下調べの段階では、この小屋にはちょっとばかり問題があることが分かっていた。この登山旅行の前に、山の付近の村人に聞いていたのである。その村人によると、くだんの小屋は去年に比べて破損が激しく、修繕しないと使えない状態だということだった。

 でもまあいい、これは鍛錬教育なのだ。皆で力を合わせて小屋を修繕し、そこで達成感を味わおうではないか! と、赤羽校長は前向きに考えていたかも知れない。

 ところが、である。

 いざ到着してみると、この小屋はもはや、修繕すれば使えるとかいうレベルではなかった。壁や屋根が全部はぎ取られており、残っていたのは壁の石垣だけだったのだ。焚火の跡も残っていたというから、どこぞの馬鹿たれが暖を取るために小屋を破壊したのは明らかだった。

 ちょっと信じられないような話だ。到着した一行が真っ青になったのは言うまでもない。それでもめげずに、赤羽校長は号令をかけた。

「ま、まあいい。これは鍛錬教育なのだ。残った石垣を利用して小屋を建てるぞッ!」

 というわけで、台風が迫りくる天候の中、登山メンバーたちは急ごしらえの避難小屋を作った。近くの樹木を切り出して、残った石垣の上に並べてゴザを敷き、屋根が飛ばされないように石を乗せていく――。

 小屋の広さは4坪。ここに37名が入ったのだから、計算すると畳一畳に5人が固まることになる。まるきり鮨詰め状態で、天井も、立ち上がれないほど低かったという。

 しかも、いかんせん敵様は台風である。火を焚こうにも何もかもが濡れているし、雨漏りのためすぐ消える。やっと火がついたかと思えば小屋に煙が充満して燻製状態、その上寒い。そして風は一向に鎮まる気配を見せず、厳寒地獄にさらされた学童たちは意識も朦朧としてくる。暴風で小屋が壊れるのも時間の問題と思われた。

 そんな中、よりにもよって小屋の中で死人が出た。おそらく今で言う低体温症だったのだろう。これにより小屋の中はパニックとなった。

「ふざけんな、こんな鍛錬授業やってられっか! 帰る!」

 こうしてメンバーは散り散りになり、嵐の中を下山し始めた。風雨による寒さと往路の疲れで誰もが疲労困憊していたはずで、これはほとんど自殺行為だった。途中で倒れる者が続出し、登山に参加した37名中11名が死亡した。

 この山では、標高2600メートルのあたりに稜線があるという。上りにしろ下りにしろこの稜線を通ることになるわけだが、これが3時間ほど続くのだ。雨風を一切凌ぐことができないその場所で、遭難者のほとんどは昏倒していった。

 死亡した11名の中には、登山の企画立案を行った赤羽校長も含まれていた。彼は途中で動けなくなった学童に自分の防寒シャツを与えるなどして、最終的には帰らぬ人となったのだった。

 そして、なんとか麓の村に辿り着いた者が遭難を知らせた。

 最初に知らせを受けた内ノ萱という地域は、僅か十数戸の小さな村だったという。だがそこは古くからの駒ケ岳登山口の集落として有名で、案内人組合の組織まで組まれているほどだった。よって暴風時の駒ケ岳のことは多くの者がよく知っており、この天候の中で登山と下山を行ったパーティがあったと聞いた村人は、それだけで色を失ったという。

 こうして、この内ノ萱を始めとして、近隣の横山、小屋敷、大坊、平沢といった集落でそれぞれ半鐘が鳴らされた。そして伊那町消防団員、西箕輪村消防団員、南箕輪村消防団員などが救助隊として参加した。

 総数200名超の大規模な救助活動だった。彼らはまる3日もの間、山中で露営するなどして救助と捜索にあたった。

 特に29日の夜などは、駒ケ岳の周辺で灯りがいくつも揺れ動き、この世のものならざる光景であったという。近くのある学校の校庭からは、山中で無数の灯人が行き来するのが見え、まるで鬼火か人魂のようだったとかなんとか。

 こうして、登山に参加した37名のうち、10名の死亡が確認された。残る行方不明者は1人である。

 29日には「救助隊」が「捜索隊」へと名前を変更し、さらに30日も未明から捜索、捜索、捜索が行われた。しかしどうしてもこの最後の1人だけが見つからず、あとはなんとなくグダグダと遺体探しが行われたようである。最終的には、この最後の1人の生死確認に対しては懸賞金がかけられた。

 さて、ここからは、事故を起こした学校の歴史になる。ちょっと蛇足めいてくるが、関係のない話ではないのでお付き合い頂けると幸いである。

 言うまでもなく、事故を起こした中箕輪尋常高等小学校は轟々たる非難を浴びることになった。まあ子供たちが死んでいるのだから、無理からぬことであろう。

 これがきっかけとなり、学校は荒廃した。学童を大量に死なせたという悪名から、誰も校長になりたがらず、さらに例の自由主義教育の悪影響から、校内暴力や学級崩壊が蔓延したという。大正初期だというのに、なんだかついこの間の話みたいである。歴史というのは、かくも繰り返すものなのか。

 しかし大正12年に赴任してきた新しい校長が、ここで思い切って方針を転換。教育者に対しても、また生徒に対しても、逸脱を許さない厳格な教育方針でもって臨んだ。これが功を奏し、やっと学校は蘇ったのである。

 教育思想的にも転換期にあったようだ。それまでの自由主義的な考え方は下火になり、教育でもきちんと統率が取れなければいかん、という空気になっていたようである。

 さてその流れで、駒ケ岳の登山イベントも復活することになった。

「えっ、またやるの!?」

 12年前の悪夢を思い出した者も、大勢いたことだろう。だが、当時のこの上伊那郡という地域の「空気」がどんなものだったのかは推し量るしかないが、どうもこの頃には、この辺りの学校で駒ケ岳修学旅行登山を実施していないほうが少数派だったようだ。

 こうして大正14年の7月26日に、新校長は村人の反対を押し切って登山修学旅行を決行した。周到に準備が整えられ、そして校長自らが高等科2年生を引率する形で行われたこの登山は大成功に終わり、遭難現場に建てられていた記念碑に対しても献花がなされたという。

 そしてここからがドラマである。

 この登山旅行が行われた日は、上伊那郡青年会による「駒ケ岳マラソン大会」が行われていた。

 それで、この大会に来ていた青年会の人々が、一匹の兎に遭遇したのだ。

 その日は快晴だった。マラソンの最後の走者が走り去った後、彼らはこの辺りでは珍しい白兎を見つけた。それでなんとなく追いかけてみると、兎は駒飼ノ池の近くのハイマツ地帯に走りこんだのである。

 兎は、そこでじっとしていた。だがよく目を凝らしてみると、それは風化した白い布切れで、ぼろぼろの布と人骨があったのである。12年前に行方不明のままだった遭難者の遺体だった。

 登山イベント再開の日に、最後の行方不明者の遺体がようやく見つかったのである。筆者は別に神秘論者ではないけれど、さすがに「なにかの巡り合わせ」を感じずにはいられない出来事だ。

 ちなみに、事故があった直後の1915年(大正4年)には、駒ケ岳山頂には「伊那小屋」という避難小屋が建てられた。これはその後も増改築がおこなわれ、「西駒山荘」という名前で残っている。建物には、今でも事故当時そのままの石垣が使われているという。

   ☆

 ところで、この遭難事故については、新田次郎が『聖職の碑』というタイトルで小説化している。これは後に映画化もされた。

 内容的には、この山岳遭難事故を通して、舞台となった長野県上伊那地方の学校教師やその周辺の人々の人間模様を描いたものである。もちろん新田次郎の作品なので「山岳小説」には違いないのだが、同時に教師の教育に対する愛と情熱を描いた「教育小説」でもある。

 新田は、事故そのものに前から興味を持っていたそうだ。だが実際に書くための大きなきっかけになったのは、遭難現場に建てられた「遭難記念碑」だったという。

 この記念碑は実際に存在する。当時の教育委員会が建てたものだ。事故から12年後に登山旅行が復活したさい、記念碑に献花がなされたと先に書いたが、その記念碑というのがこれである。

 それを見た新田次郎は、なぜ「遭難慰霊碑」ではなく「遭難記念碑」なのか? という疑問を抱いた。そしてその建立の経緯を取材しながらノベライズしていったところ、できあがったのが『聖職の碑』だったというわけである。そのへんの取材の経緯は、新田お得意の巻末取材記に詳しい。

 それでこの「遭難記念碑」の由来なのだが、これは学校側が建てたものらしい。学童たちの登山授業を行う上で、もう二度とこんな事故は起こすまい――。そんな誓いが込められているのである。だから亡くなった人々を慰めるための単なる「慰霊碑」ではなく、未来へ向けて「念を記した」まさに記念碑となったのだ。

 筆者としては、これは感心する。事故災害の記録を読んでいると、最終的に当事者によって慰霊碑が建てられて、それでこの話はおしまい、水に流しましょう、という流れになっているのをよく見かける。それではイカンのだよと思うところがなくもないのだが、ともかく「慰霊」という習慣が日本にはあるのだから仕方がない。この習慣をもうちょっと改善すれば、日本の事故災害はもう少し減らせるかも知れないのにな、と思っていた。

 この大量遭難事故は、決して他人に対して誇れるようなものではない。新田も述べているが、この事故は登山時に案内人をつけなかったこと、下調べをしなかったこと、悪天候時に判断ミスがあったこと、などが重なって起きた人災である。しかし「教育」という普遍的テーマが背景に据えられることで、この事故はかえって未来の教育に対する「記念」となったのだ。

 本来、事故災害の記録というのはこうあって欲しいと筆者は思うのである。

 そしてそのためには、過去、現在、未来に繋がっていく普遍的なテーマを、事故の背景から読み取らなければいけない。「事故の教訓を生かす」「尊い犠牲」という言葉は、事故災害が起きるたびによく使われるが、そのような普遍的テーマの読み取りがなければ、こうした言葉もただの言葉で終わってしまうのである。

 特に「尊い犠牲」という言葉について言えば、悲惨な事故の被害者として慰霊するだけでは、それは「尊い犠牲」などではないと思う。それが本当に「尊い」ものになるかどうかは生きている者次第なのだ。ただ単に「慰霊」されただけで忘れられてしまっただけの犠牲者などというのは、こう言ってはなんだが、尊くもなんともないのだ。

 そうした意味で、この山岳事故は、日本の事故災害史上において犠牲者の霊が明確に「英霊」となり得た希少な例だと思う。事故が起きて以降、この山での修学登山において、死亡者が出るような重大事故は発生していないという。

 事故があった地域の学校では、今でもこの修学登山は行われているのだろうか。山を登り切ったところで遭遇する記念碑を前にした時、学童たちはどんな思いに捉われるのだろう。別に『聖職の碑』の文章の熱意にあてられたわけではないが、書いていて感慨深くなる事例であった。

【参考資料】
◆新田次郎『聖職の碑』
箕輪町立 箕輪中部小学校ホームページ
ウェブサイト「読んで ムカつく 噛みつき評論」
ウェブサイト「山小屋ナビ.com」

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◆参宮線六軒事故(1956年)

 ATSという装置がある。

 正式にはAutomatic Train Stopという。自動列車停止、すなわち鉄道を強制的に停止させる装置である。たとえば、鉄道車両が速度超過に陥ったり、あるいは信号無視を行ったりすると「はいダメー」ということで自動的に作動する。

 このATS、現在では全ての鉄路に備え付けられているという。まあ安全管理という観点からは当たり前なわけだが、しかしこれが「当たり前」になったのはごく最近のこと。そう、当研究室の読者諸賢ならもうお分かりであろう。これが普及し定着するまでには、戦後のいくつかの大事故の発生を俟たなければならなかったのだ。ATS配備の歴史は、そのまま鉄道事故の歴史と言っても過言ではない。

 今回ご紹介する参宮線六軒事故は、1965年(昭和31年)に発生した。この事故によって、国鉄は「車内警報装置」の全線設置を決めたのだが、この時はまだ列車の停止は手動で行う必要があり、警報装置はいわばATSの単なる前身に過ぎなかった。やっぱりただの警報装置では生ぬるい、ということで問答無用に列車を停止させるシステムへと切り替わったのは、伝説の鉄道事故・三河島事故以降の話である。

 そう考えると、この六軒事故は知名度こそ低いものの、三河島事故の前触れというか予兆みたいなものだったのだろう。それまで鉄道というのは「なにがあっても列車は停めるな」が基本であった。だがそれがこの六軒事故や三河島事故を経て「異常時にはすぐ停めろ」へとパラダイムシフトしたのだ。今となっては地味ではあるが決して外せない前身。プロレスで言えば、力道山に対するボビー・フランスやハロルド坂田。それがこの六軒事故なのである。

   ☆

 1956年(昭和31年)10月15日18時22分のことだ。

 現在は紀勢本線である、当時の「参宮線」の六軒駅で、上り・下りそれぞれの快速列車がすれ違うことになった。

 本来のダイヤではこのすれ違いはあり得ないのだが、そんな風に急遽変更となったのは、下り快速列車に10分の遅れが出たためだった。よって下り列車は、いつもならもっと先の松坂駅ですれ違うところを急きょ六軒駅で臨時停車し、上りの列車をやり過ごさなければならなくなったのだ。

 ただ問題は、下り列車の運転士に、この緊急の変更内容が伝わっていなかった点であろう。当時は携帯電話なんて便利なものは存在せず、こうした決定が先に駅の内部で行われ、運転士は駅構内で止められた後で事後的に知らされることもあったのだ。

 通信手段が充実している現代の視点で見れば「危なっかしいなあ」と思うのだが、とにかくそうだったのだから仕方がない。なあに、駅でちゃんと信号を操作して確実に列車を止めれば、大丈夫だ問題ない。――というわけで、六軒駅では下り快速列車を受け入れる態勢を整えて待っていた。

 ところが一体どうしたことか。駅に入ってきた下り列車が、停止せずにそのまま駅を通過していくではないか。

 少し進んだところで、運転士がアッと気付いて非常ブレーキをかけたがもう間に合わない。列車は安全側線に突っ込み、そのまま車止めを突破してしまいドンガラガッシャン。機関車2両と客車3両が脱線転覆し、「反対車線」にあたる上り線の線路をふさぐ格好になってしまった。

 これだけでも大事故だが、もしかするとこの段階では死傷者は比較的少なかったかも知れない。このほんの数十秒後に、六軒駅ですれ違うはずだった上り列車が進入してきたからさあ大変、線路をふさいでいた車両に激突してしまった。

 この激突によって、上り列車の機関車2両と客車1両がさらに脱線転覆。しかも、先に転覆していた下り列車は押し潰されてしまった。死者42人、負傷者96人という大惨事のできあがりである。

 下り列車の乗客の多くは、修学旅行中の学生であった。

 この学生たちは、当時の東京教育大学(今の筑波大学)付属坂戸高校の生徒だった。死者42名のうち、24名がこの生徒たちだったというから痛ましい。

 さらにこの事故が悲惨なものになったのは、上り列車の機関車の破損によって、犠牲者たちが蒸気と熱湯を浴びたことだった。蒸気機関のパイプやバルブからそれらが漏れ出したため、生存者は大火傷を負い、死者の遺体は激しく損傷せられたのだ。

 そして救助活動が始まったものの、これもひどく難渋したという。消防署、消防団、機動隊、陸自などが出動したものの列車の破損があまりにひどく、さらに上にのしかかっていた機関車の撤去にも骨が折れたという。

 さあ、裁判である。まあ事故の原因は明らかで、下り列車のオーバーランのせいなのだが、ではそもそもオーバーランはなぜ発生したのか? 裁判ではそこが問題になった。

 救助された下り列車の機関士は、こう証言している。

「六軒駅に入った時、信号は確かに進行を現示の状態でした。だけど駅ホームの半ばあたりまで来たら、出発信号機が停止現示になっていたんです。それで慌てて非常ブレーキをかけたのですが間に合いませんでした」

 要するに、青信号だったので安心して進んで行ったら、当然青であるべきその先の信号が赤になっていたいうことだ。この話が本当ならば、事故の責任は駅にあることになる。信号機の赤青を変えるのは駅の信号掛の役目だからだ。

 しかし駅はこのミスを全面否定。彼らと、前述の運転士の主張は真っ向から対立した。

 裁判所の最終的な結論は、「事故の原因は運転士による信号の見間違いである」というものだった。六軒駅の関係者は全員無罪、運転士のほうが禁固2年・執行猶予5年、機関助士には同じく禁固1年と執行猶予3年という判決が下っている。しかしこの結論を証拠づける物的証拠は特になく、ぶっちゃけ真相は闇の中である。証拠なしでこんな結論、出しちゃいけないと思うのだが。

 とはいえ、実際のところなにがあったのか、まったく推測できないわけでもない。

 当時は伊勢神宮の大祭が行われており、大勢の人が行き来していたせいでダイヤは乱れがちだった。よって、先述したような列車の遅れや駅での緊急のすれ違いが発生したのである。だが六軒駅ではこのような変更は珍しいことで、慌てた駅員が信号の操作をミスったのかも知れない。全てが手動だった時代、こうした操作がいかに煩雑だったかは想像するしかないが、今までやったことがない操作をその日いきなり「やれ」と言われれば誰だって慌てる。

 また一番最初にも書いたが、下り列車の運転士は、六軒駅でいったん停止することを事前に知らされていたわけではない。ちょっとぼんやりしていれば、青信号を見落として、まったくいつも通りにこの駅を通過しようとしてしまうことだってあり得るだろう。

 いずれにせよ同情せずにはおれないところである。

   ☆

 最初に述べたように、この事故の直後から、主要幹線では車内警報装置の導入が進められていった。さらに信号も色灯化や自動化が進められ、これでひと安心となるはずだったのだが、6年後に三河島事故が発生したことでぜんぶ台無し。金はかかるけどやっぱりATSでなきゃ駄目だという結論になったのである。

 それにしても、このあたりのエピソードを書いていて思い出すのは、三河島事故が起きた時に付近の住民だか乗客だがか言っていたという言葉である。「人間が動かしているものをなんで人間が止められないんだ」と、その人は憤っていたという。

 だが皮肉なもので、ATSの導入は「やっぱり全ては機械サマ頼み」という結論を示すものだった。人間が動かしているものをなんで人間が止められないんだ――。その答えは簡単で、人間は間違うものだからである。人間なんてアテにならないからである。

 とはいえこのATSという機械も万能ではない。緊急停止したあとは改めて手動で発進させるわけで、けっきょくそれで事故ったというケースもある。いやはや、くり返して言うが人間なんてアテにならないものである。せっかく機械を導入しても、それを台無しにするのはやっぱり人間なのだ。

 この参宮線六軒事故の事故車両は、今でも和歌山県橋本市の運動公園に展示されているという。下り列車を押し潰した、あの上り列車の機関車である。

【参考資料】
◆『続・事故の鉄道史』佐々木 冨泰・網谷 りょういち
◆ウィキペディア

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◆鶴見事故(1963年)

 鶴見事故は、戦後の鉄道事故としては最悪のものである。161人が死亡、120人が重軽傷を負うという目を覆わんばかりの大惨事だ。

 しかし、それではその「戦後最悪の鉄道事故」はいかにして起きたのか? 事故原因はなんなのか? という話になると、これが分かりにくい。掴みどころがないのだ。しかも調べれば調べるほど、あろうことかこの事故が起きたのは「運が悪かったから」だという結論に至らざるを得なくなるのである。

 まずは、惨事が起きるまでの経緯をご説明しよう。ただこの事故、なにせ伝説の三河島事故と双璧をなすほどの知名度なので、すでにネット上では写真やイラスト付きでさんざん解説がなされている。よってここでは簡単な説明にとどめたい。

 1963年(昭和38年)11月9日のことである。場所は当時の国鉄東海道線の、新子安駅と鶴見駅の間でのことだった。滝坂不動踏切という踏切があるらしいが、そこから鶴見に近いほうの約500mの地点である。

 まず、きっかけとなる事故が起きたのは午後9時50分頃。下り貨物線を走っていた貨物列車がいきなり脱線したのだ。ホントにいきなり――である。

 この貨物列車は佐原発・野洲行きの下り2365列車で、全部で45両編成。そのうち、後ろの3両がいきなりレールから外れて、線路脇の電柱(架線柱というらしい)に衝突して止まった。前方の42両はそのまましばらく進んだから、この3両はいわば線路上に「置き去り」の状態である。

 だが、これがただの「置き去り」だけならまだ良かった。脱線した3両は、3メートルほど離れた隣の線路にはみ出してしまったのだ。そこは、海岸側を走る東海道本線の上り線だった。

 さて、驚いたのは貨物列車の運転士である。後方で脱線事故が起きたことで急ブレーキがかかり、この列車は線路上で停止した。

「わわわ、やばいよ事故発生だ!」

 というわけで、運転士は急いで列車を下りると発煙筒を焚き、事故を知らせた。しかしこの発煙筒、どういうわけかごく短時間で消えてしまい、事故を知らせるにはほとんど役に立たなかったという。

 さてこの第一事故が発生してから間もなく、東海道本線の下り線を12両編成の列車が走ってきた。東京発・逗子行き下り2113S列車である。

 この列車の運転士は、前方で異常が発生していることにすぐ気付いた。

「あれ? なんかヘンだぞ、パンタグラフが火花を噴いてる。架線もたれ下がってるみたいだ」

 運転士が見たのは、さっき貨物列車がぶつかって壊れてしまった電柱である。彼は異変を感じ、ブレーキを踏んで速度を落としながら進んでいった。この2113S列車が走っていたのは、貨物列車がはみ出してしまった線路の、そのさらに隣の路線である。この時点では、衝突の危険はまだなかった。

 ところが、である。ほとんど間をおかずに、2113S列車の反対方向から久里浜発・東京行きの上り2000S列車(これも12両編成)が走行してきた。

 本来ならば、この2つの列車は、上りと下りの並んだ線路でなんの問題もなくすれ違うはずだった。ところが今、上り線のほうには貨物列車が転がっている。しかも2000S列車の運転士はどうやら貨物列車の事故には気付かなかったか、あるいは気付いていても遅かったらしく、時速90~92km/hという速度で突っ込んできたのだった。

 結果、2000S列車は、例の3両の貨物車両と衝突。

 この衝突の勢いで、2000S列車の先頭車両は横にはじき飛ばされる形になった。そして、隣の下り線を走っていた2113S列車に横から突っ込んでしまったのだ。

 ここからは、物理現象の説明である。

 まず2113S列車の4両目の側面に、斜め横方向から2000S列車の先頭車両が突っ込んだ。

 2000S列車はスピードが出ていたし、後続車両からも押される形になったので簡単には止まらない。あっという間に2113S列車の4両目を破壊し、続けて5両目車両の壁や天井もえぐり取り、合計2両分の車両を蹂躙し尽くした。

 最終的には、2113S列車の5両目と、2000S列車の先頭車両がクロスする形で止まったようである。鶴見事故の写真といえば、このクロスした光景が有名だ。

 衝突の憂き目に遭ったこれらの車両は、原形をとどめないほど破壊された。当時の現場写真を見るとまるで爆発事故でも起きたかのようで、これが鉄道事故だと言われてもちょっとピンとこないかも知れない。

 ちなみに2000S列車の2両目以降は、幸いにして衝突には巻き込まれずに済んだ。衝突と脱線の勢いで先頭車両との連結が外れてしまい、後続の車両は少し進んだ先で脱線して停止したのだ。こちらにどのくらい死傷者がいたのか、あるいはいなかったのかは不明である。だが、死者と負傷者の大半が、木端微塵になった3つの車両に集中していたことは言うまでもない。

 すべては、最初の貨物列車の脱線からほんの2、3分の間の出来事だった。

 さっき登場した2113S列車の運転士や、発煙筒を焚いた貨物列車の運転士は無事だったようだ。だが2000S列車の運転士だけは、さすがに先頭車両から突っ込んでいっただけあって即死している。彼が、貨物車両に衝突する直前にブレーキを踏んだのかどうかは、ついに永遠の謎となった。

 ところで当時は、アメリカのテレビドラマ『ハワイアン・アイ』が放送されており、近所の住民は事故発生の時刻をはっきり覚えていたという。ドラマ鑑賞中に大音響と悲鳴が響き渡ったのだから、確かに嫌でも印象に残ったことだろう。

 そしてすぐに、救急や警察が駆けつけ、近所の住民も手助けに出てきた。現場は血みどろの地獄絵図。サイレンがひっきりなしに鳴り響く中、悪夢のような救助活動が行われたのだった。

 遺体の多くは、總持寺(なんて読むんだ?)という寺に運び込まれた。その縁でか、今でもこの寺には鶴見事故の161名の犠牲者氏名が刻まれた慰霊碑があるという。

 ついでに言えば、この寺にある慰霊碑は鶴見事故のものばかりではない。どうもそういう役回りの寺なのか、かの桜木町火災の慰霊碑も同じ敷地内にある。

 考えてみれば、どっちも横浜市なのである。戦後を代表する鉄道事故が2つも同じ町で起きているというのは、妙に因縁めいたものを感じる。

 ちなみに当時の横浜市というのは、現代の我々が思い描くような都市のイメージとは遥かにかけ離れた、ゴミゴミした町だった。横浜が今のように垢抜けたのはわりと最近のことで、当時はまだ首都圏に対する「周縁」でしかなかったのである。

 そして戦中から戦後にかけての鉄道事故を見ると、五本の指に入るような事例は必ずこの首都圏に対する「周縁」の地域で発生している。三河島、八高線、桜木町に鶴見事故……。気が向いた方は、これらの事故現場を地図でチェックしてみて欲しい。見事に首都圏をぐるりと囲んでいるのである。

 これがありのままの歴史の姿である。「周縁」は中心部よりも人の動きが大きく、されど鉄道車両は戦時中のボロいやつをそのまま使っていたりするので、ひとたび事故れば大惨事となるのだ。

 さて事故原因の話になるが、そもそも最初の貨物列車の脱線はなぜ起きたのだろう。それがなければこの大惨事は起きなかったのだから、原因究明の焦点は俄然そこに当てられた。

 事故後にさっそく調査が行われ、まず以下のことが判明した。どうやら、脱線した3両の貨物のうち、先頭車両の車輪が線路に乗り上げていたらしいのだ。

 線路に残った痕跡から、乗り上がりが発生したのは脱線の直前であることも分かった。この貨物車両はその状態でしばらく走っただ、ついに車輪が線路から外れたため、脱線して後続の車両もろとも吹っ飛んだのだ。

 こういうのを「せり上がり脱線」という。

 せり上がり脱線――。それは車輪のフランジ(車輪の内側にあるツバ)がレールの上に上がってしまうというという、名前そのまんまの現象である。まあ、わざわざ名称が与えられているぐらいだから全くあり得ない現象ではないのだが、しかし実はこのせり上がり脱線、国鉄でも年に1度くらいしか報告がないような極めて珍しいものらしい。

 ただ困ったことに、そもそもこの「せり上がり脱線」がなぜ起きるのかは誰も知らなかった。当時の国鉄の人たちも、「原因はいろいろ考えられるので今から調べます。てゆうか下り線の電車、スピード落とさないで突っ切ってればもっと犠牲者少なくて済んだんすけどね~」とか言い出す始末。もはやザ・他人事である。

 しかし他人事で済ませてもいられない。鶴見事故の前年には三河島事故があり、国鉄総裁の辞任ものの大惨事が連続して発生したことになるのだ。これはさすがにヤバイと感じたのか、国鉄は大々的な実験を行った。北海道の根室本線の旧線を使い、わざと車両を脱線させて事故原因を突き止めようとしたのである。いやあさすが金持ちはやることが違うね。

 で、その実験の果てに出た結論が「鶴見事故はたくさんの原因が重なって発生した競合脱線でした」というもの。

 ここでいうたくさんの原因とは、車両や線路の状態・積荷の重量・運転状況・過密ダイヤ等々である。これらの不運な要因がたまたまいちどきに重なってしまい、鶴見事故は起きたというのだ。

 読者の皆さんはどうお感じになるだろう? 筆者などは「原因不明って最初から言えよ」と思わず突っ込みたくなるところだ。

 とはいえ、北海道での脱線実験のすべてが単なるパフォーマンスに終わったわけでもない。この実験の際に採取されたデータのおかげで、国鉄の車両はさらに安全に改良されていった。具体的には護輪軌条の追加設置、塗油器の設置、二軸貨車のリンク改良、車輪踏面形状の改良などがなされたそうだが、ごめんなさい筆者には何がなんだか分からない。要するにアレだろう、それまでの国鉄の車両というのはそれだけ粗悪品だったということだ。

 ここまで読めば、冒頭で筆者が「鶴見事故は運が悪かった」と書いた理由ももうお分かりであろう。「たくさんの要因」が重なってたまたま脱線が起き、運転士の焚いた発煙筒がたまたま短時間で消え、そこへたまたま上り下りの両線から電車がやってきて、たまたま夜だったため運転士たちは状況の把握がうまくできず、そしてこの事故は起きたのである。

 鶴見事故が起きたのは誰のせいでもない。むしろこれは、鉄道事故というよりも自然災害に近いものだったのではないかと思う。だから、同時期に起きた三河島事故に比べるといまいち知名度が低いのだ。特定の誰かの失敗談でないからドラマ性に乏しく、自然災害に近いため個性もない――。それがこの鶴見事故なのである。

 余談だが、鶴見事故は、奇しくも日本史上最悪の炭鉱事故・三井三池炭鉱の炭塵爆発事故と同じ日に起きている。おかげでこの1963年11月9日のことは「魔の土曜日」とか「血塗られた土曜日」とか呼ばれたらしい。

 そして皆さんご存じの通り、11月9日というのは今では「119番の日」として定められている。これは1987年に消防庁が制定したもので、周知のごとく、この日から11月15日までの1週間は秋の全国火災予防運動が行われるのである。

 しかしこの「119番の日」は、鶴見事故や三井三池炭鉱事故とはなんの関係もない(笑)。119番ダイヤルが定められたのは戦前のことである。

 まあでも、せっかく覚えやすいのだから、読者諸賢には「11月9日は119番の日で魔の土曜日で血塗られた土曜日である」とぜひ覚えて頂きたいと思う。こうでもしないと、重大事故の記憶なんてすぐに風化してしまうものなのだから。

【参考資料】
ウェブサイト『誰か昭和を想わざる』
図説 鶴見事故
◆ウィキペディア

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