◆川治プリンスホテル火災(1980年)

 川治プリンスホテル火災は、戦後の火災による大量死としては上から4位の惨事である。ついでに言えば商業施設の火災としては3位、宿泊施設の火災としては1位だ。 
 時は1980年11月20日、15時12分頃のことである。

 栃木県塩谷郡藤原町川治(現在の日光市)にあった川治プリンスホテルで、火災報知機が鳴動したのだ。

 あれ、火事じゃないのか? 逃げないとまずいよ。

 とまあ、誰もがそう思ったことだろう。

 ところがこの直後、ホテルの従業員が特に状況の確認もせずに「これはテストなのでご安心下さい」と館内放送を流してしまう。実はこの1時間前には本当に火災報知機のテストが行われていたそうで、それで勘違いが生じたのだった。

 なんだテストかよ、やれやれ人騒がせな……。ところがこれは本物の火事だった。1階の露天風呂で解体工事が行われており、工事のために使われていたガスバーナーが引火していたのである。作業員が休憩をしている間に燃え広がったのだ。

 とにかく1回目の非常ベルは、従業員が嘘の館内放送を流したことでほとんど黙殺された。

 そして悪いことに、この日川治プリンスホテルに滞在していた宿泊客は、その大半が高齢者だった。「高南長寿会」と「成一長寿会」の2つの老人クラブが紅葉見物に訪れていたのである。

 その平均年齢は72歳。今で言うところの「災害弱者」に該当する人々である。その彼らの足元で火災が起こり、嘘の館内放送が流されたのだ。もはや大惨事のお膳立ては万端、という他はない。

 お客の中には、まだ宴会までは時間があるからと、客室で茶を飲んで一服している者もいたという。

「なあ、火災報知機が鳴ってるけど大丈夫かな」
「大丈夫だよテストだって言ってたじゃん」
「でも様子が変だぞ。ほら窓の外で煙が上がってる」
「なにビクビクしてるのさ、ありゃ焚き火だよ」

 ちなみに結果だけを言うと、1回目の非常ベルを不審に思って避難したグループは全員が助かっている。

 そして15時18分、またしても火災警報のベルが鳴った。

 さすがにこりゃ様子がおかしい。そこでようやく従業員が大浴場へ見に行くと、既に炎と煙で手の付けようのない有様だった。

 そしてここに至り、ようやくお客たちも不審さを募らせ始めていた。客室から見える、窓の外の煙がどんどん濃くなってきていたのだ。

 いかんこりゃ焚き火じゃない、モノホンの火事だ!

 さあ避難の開始である。この時、従業員による火事ぶれや避難誘導がどのように行われたのかは、正直なところ資料の内容が錯綜していてよく分からない。ただ、出火場所の大浴場周辺にいた老人たちがとっさの案内を受けた程度で、全体として適切さを欠いた避難誘導だったことは間違いないようだ。

 状況は最悪だった。従業員の交代時間だったため、ホテル内もすっかり手薄になっていたのだ。

 炎と煙は、みるみるうちに客室へ迫っていった。

 老人たちが避難を開始した時、どうも館内では階下に下りることがほとんど不可能に近かったようだ。なにせこのホテル、1階へ下りるためにはいったん新館へ行かなければいけないのに、肝心の新館へ繋がる廊下が1本しかない上にそれはあっという間に煙の通路になってしまったのだ。

 3階と4階にいたおじいちゃん、おばあちゃんは煙と炎に追い詰められたのである。この時の様子について、生存者の一人はこう語っている。

「風呂から上がってお茶を飲んでいたら煙たくなってきた。初めは風呂場の煙と思ったが、廊下から、出て下さい、という大きな声がした。同室に足の弱いおばあさんがいた。間もなく電気が消え、助けてえ、という悲鳴が全館に響いた」

 使える避難経路は、あとは窓だけだった。

 不幸中の幸いで、3階のいくつかの部屋の窓の下には2階屋根があり、そこへ降りたことで一命を取りとめた人が多くいた。窓の下にいた人々が、工事用シートと布団を並べてくれたのも良かった。

 大変だったのは4階の人々だ。さすがにこれは2階屋根へ飛び降りても無傷とはいかず、それで助かった者も全員が病院送りになっている。だがやはり救助された者はそれだけマシだとここでは書いておこう、この4階では他にも多くの客が逃げ遅れて死亡しているのだ。

 消火活動も難航した。通報によって消防団が駆け付けたものの水利が悪く、そうこうしている内にホテルは完全に焼け落ちたのである。鉄骨造りだった4階建ての本館も、木造の2階建て新館も、合わせて3.582平方メートルがお釈迦になった。

 夜になると、栃木県警本部は今市署に「川治プリンスホテルの多数死傷者出火事件特捜本部」を設置。消防団の協力を得て犠牲者の創作活動を開始した。

 犠牲者の数は、事故当日の夜には10数人程度だった。だが翌日の昼になるとこれが20人超に膨れ上がり、最終的には宿泊客40名、従業員3名、東都観光のバスガイド1名、旅行会社の添乗員1名の合計45名の死者が確認された。負傷者も22名に上った。

 当時の川治プリンスホテルには客と従業員合わせて132人がいたというから、3分の1が犠牲になったことになる。

 ちなみにバスガイドと添乗員が死亡しているのは、これは取り残されたお客を助けようとして殉職したものである。特にバスガイドは、当時のワイドショーの情報の又聞きによると30~40代のベテランの女性だったらしく、最後に目撃されたのは階段を上っていく後姿だったという。

 断言するが、このガイドさんと添乗員の魂は確実に天国へ昇っていったことだろう。

 さて火災後、このホテルは消防査察で「火災報知機やスプリンクラーが少ない」「定期的な防災訓練の結果を報告していない」など8項目に渡って問題点を指摘されていたことが明らかになった。それでも経営側は無視して営業を続けていたのだ。

 結果、社長夫婦と、1階の工事の担当者が業務上過失致死傷罪で逮捕・起訴された。

 ちなみにプリンスホテルの社長は出火時には不在で、火災の翌朝に現場に現れると放心したように焼け跡を見上げていたという。

「スプリンクラーもなかったんですか?」
「防火責任者もいなかったんですか?」
相次ぐ報道陣の質問には、
「よく分からない。防火責任者は今はいなかった…」
と肩を落として答えるばかりだったとか。

 そして最終的には、この社長の妻が禁固の実刑判決を受けた。彼女はプリンスホテルの実質上の経営者で、専務と女将を兼務していたという。彼女以外の2人も禁固刑の判決が下ったが、これはいずれも執行猶予がついている。

 もともと、川治プリンスホテルは経営的にはあまり芳しくなかったらしい。それで社長はホテル業を辞めることも考えていたのだが、彼の妻はホテル経営を諦めたくない一心で、半ば強引に実質的な管理者として経営規模を拡大させたのだった。その結果、防災対策がおろそかになったのである。

 だがとにかく被害者や遺族への補償は迅速に進められ、示談は比較的早く成立した。

 当初、遺族から石をぶつけられたりもしたらしい被告人夫婦だが、裁判の記録によると彼らは総額八億円余りを被害者全員に対して支払い、また毎年死者の供養にも出向いていた。そのような誠意が身を結んでか、控訴審に至った際には、遺族らから「被告人に対しては寛大な処分を希望したい」という旨の上申書が提出されたという。

 個人的に、筆者はこの最後の上申書云々のエピソードを発見した時にはちょっと感動した。「そうかこの被告人たちは許されたんだな」という感慨が湧いたのである。ともすればやり切れなさばかりが残りがちな事故災害の記述における、ささやかな気持ちの落ち着けどころだった。

【参考資料】
◆ウィキペディア
◆防災システム研究所ホームページ
◆サンコー防災株式会社ホームページ
◆消防防災博物館「特異火災事例」
◆朝日新聞
◆判例時報1233号

 ※この文章は、一度ブログにて「下書き」という形で掲載・公開しております。その際に頂いたコメントの内容も、今回清書するにあたって参考にさせて頂きました。

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◆日本坂トンネル火災(1979年)

 乗用車による交通事故は、今我々がこうしている間にも、数秒に1件の割合で発生しているという。

 そんな数ある交通事故の中でも最大最悪級の規模を誇るものが、この日本坂トンネル火災である。

 この事故は、鉄道事故やビル火災に比べれば目を見張るような死者数では決してない。だがその被害の甚大さはもはや想像を絶するほどで、ほとんど事故そのものが社会問題であったかのような規模である。

   ☆

 時は1979(昭和54)年7月11日、夕方を過ぎた頃。

 静岡県・東名高速道路の日本坂トンネル内では、渋滞が発生していた。

 このトンネルは静岡市と焼津市に跨っており、焼津口の近くでトラック同士の小さな接触事故が発生していたのだ。それが原因となり、トンネル内では長蛇の渋滞となってしまったのである。

 もっともその接触事故自体は大したものではなかった。問題はこの後である。渋滞のさなか、トンネルの中で更なる追突事故が起きたのである。

 時刻は午後18時40分。場所は、出口の焼津口まであと400メートルという地点だった。トンネルを走行中していた一台のトラックが、前方の渋滞に気づき慌ててブレーキを踏んだのである。

 キキキキキッ、ピタリ。

 これは100メートル手前で無事に停止した。危機一髪である。

 ところがこの直後にケチがついた。更にこの後ろからやって来た大阪ナンバーのトラックは、停止が間に合わず思い切りゴツーン! と追突してしまったのだ。

 わわわわ、何やってんだバカヤロ~! せっかく間一髪で停止できたトラックも、それでズズズズッと前に押され結局渋滞の最後尾にぶつかってしまった。

 さあ、ここからが地獄である。

 更にまた一台、今度はサニーが走ってきたのだ。これは追突を免れず大阪ナンバーのトラックにドガチャーン! と衝突。しかも勢い余ってトラックの荷台の下に食い込む形になってしまった。

 そこへ次にやって来たのがセドリックである。これはサニーへの追突は回避し、その隣に並ぶ形で停止できた。ちょっと接触した程度で済んだという。

 ところが今度は立て続けに2台のトラックが突っ込んできた。グワシャーン! サニーはトラックとトラックの間に挟まれて大破し、セドリックも後部を押し潰されてしまった。

 かくして合計7台が巻き込まれる多重衝突事故の出来上がりである。これだけでも目を覆いたくなるような惨状だ。

 「衝突事故」が「火災事故」へと変貌するのはここからである。火を噴いたのはサニーで、どうもガソリンタンクが破損したらしい。事故車両の周辺はあっという間に炎と煙に包まれた。

 後続の車両の運転手たちは、車から降りて事故車両の乗員の救出を試みたという。だがこの時点では既に4人が即死していた。最初に追突した大阪ナンバーのトラックの運転手と、最後に追突したトラックの運転手と、それにサニーに乗っていた乗員2名の計4名である。

 またセドリックに乗っていた3名だが、これは火災直後までは生存していたようだ。だが火勢が強すぎて救出には間に合わず、結局最終的な死者は7名となっている。

 そう、もはや他人を救助している場合ではなかった。それ程凄まじい炎と煙だったのである。トンネル内に進入していた車両の運転手たちは、取るものも取りあえず逃げるしかなかった。

 さあ消火である。

 これは迅速に行われた。まず火災が発生した時点ですぐに公団管制室や消防署、管理事務所へ連絡が入っている。そしてトンネル近くの警報表示版に「進入禁止」の表示が出され、スプリンクラーも作動した。頼もしいものである。

 それもそのはずで、なんといっても当時の日本坂トンネルは公団をして「世界最高レベル」と言わしめるほどの防災レベルだったのである。抜かりはなかった。

 ……はずだった(笑)

 ところがせっかく作動したスプリンクラーは余りの猛火に歯が立たず、途中で水が切れてしまう。また排煙装置も想定外の量の煙にまるで効果なし。その上、他の消火設備も火炎のためにケーブルは断線するわヒューズは吹っ飛ぶわで、役立たずここに極まれりといった有様だった。大槻ケンヂならここでこう歌うかも知れない、「まるで、まるで高木ブーのようじゃないか!」

 おそらく、元々これらの消火設備は「トンネル内での車両火災」を想定したものだったのだろう。トンネルそのものが灼熱地獄になるような火災など誰も考えていなかったに違いない。

 そう、この時の日本坂トンネルはちょっとしたこの世の地獄だった。引火に次ぐ引火でトンネル内にあった173台もの車両が焼き尽くされ、しまいにはコンクリートの壁は破損して剥がれ落ち、鉄の支柱も完全に折れ曲がっていたという。

 内部設備に頼らない外部からの消火活動も、決して行われなかったわけではない。ただ2,045メートルに及ぶトンネルの大火災は、ポンプ車で外からちょっと水をかけたからどうなるというレベルでは最早なかった。何より危険である。自然鎮火を待つより他に手はなかった。

 火災そのものがようやく終息したのは事故発生から3日後である。

 しかしトンネルの中は結局1週間は高温のままだったし、人が入って仕上げの消火や後片付けを行うには酸素があまりにも不足していた。かと言って下手に酸素が入り込むとその辺の炎が再び燃え上がったりすることもあり危険極まりない。全てが難航した。

 流通の大動脈でもある東名高速道路でこんな事態が生じたのである。交通網は乱れに乱れた。

 火災の影響をあまり受けずに済んだ上り線は、比較的早く復旧したようである。

 また下り線の復旧作業のためにも、それは必要なことだった。だが上り下りの対面交通という形にせざるを得なかったため、下り線が正式に復旧するまではやはり渋滞が絶えなかったという。

 この不通は物流にも大きな影響を及ぼし、復旧するまでの間に国鉄貨物の売り上げが大幅にアップしたとかなんとかいう話もある。結局、迂回や代替輸送による社会全体の被害総額は60億円にも上ったという。

   ☆

 日本坂トンネルでの火災は、何故ここまで被害が拡大したのだろう?

 まあ大まかな答えは明らかである。最初に追突した大型トラックの運転手の前方不注意と、それにトンネル内の消火設備の不備が大きな原因だろう。

 ただもう一つ付け加えるならば、当時の日本坂トンネルの入口には「警報表示板」がなかったということも挙げられる。

 あれ? さっき、火災の直後には警報表示版に火災の表示が出たって書かなかったっけ? 

 ――その通りである。しかしこの表示板があったのは、日本坂トンネルのちょっと手前にある「小坂トンネル」の方だった。

 この小坂トンネルに入り、通り抜けてから、さらに日本坂トンネルの入口に達するまでおよそ500メートルの中途半端な距離があったのである。これは高速道路の走行距離としては長いほうではなく、大して離れていない複数のトンネルにいちいち警報表示版をつける必要もあるまい、というのが当時の道路公団の考え方だったようだ。

 つまりその警報表示版は、小坂トンネルと日本坂トンネルの2つのトンネルの分を兼ねていたのである。

 ゆえに、日本坂トンネルで火災が起きてから小坂トンネルに進入した車両は、火災のことなど全く知らずに日本坂トンネルへ入っていったことになる。

 だから被害が拡大したのである。警報表示版に火災の表示が出たにもかかわらず、なおもトンネル内に80台もの乗用車が進入し、そして引火の火種が増えることになってしまった。

 またドライバーたちにも問題はあった。小坂トンネルの表示板に「入ってくんな」と表示されているにも関わらず、前の車両は進入していったんだし大丈夫だろう、警報表示板みんなで無視すりゃ怖くない……というノリで突入していった者もいたのである。

 もっとも高速道路で安易に停車すること自体、大変な危険が伴う。ここで停まるか停まらないか、という一瞬の判断を迫られて、仕方なく「流れ」でトンネルに進入してしまいマイカーを焼失してしまったドライバーもきっと多かったことだろう。

 さてこの火災では、ホテル火災やデパート火災のように、特定の被害者やその遺族へ補償が行われたという話はあまりない。ただ、流通にまつわる補償の問題で道路公団が支払う分があったとかなかったとかいう話をネット上で目にした程度だ。

 その後、全国の高速道路で防災設備が徹底的に整備されるようになったのは言うまでもない。

 それにしても、である。例えば鉄道事故ならば、大事故がきっかけになって事故防止の仕組みが整備されることは多い。非常用ドアコックやATSの歴史などは、そのまま事故の歴史ですらある。

 だが道路での交通事故は発生の頻度も高く、全てが大々的に報じされる訳でもないので注目されにくく、どちらかというと問題にもなりにくい。よって、ひとつひとつの防災設備の裏にどんな歴史があるのかを知るのは難しい。

 その点、この日本坂トンネル火災だけは稀有な例外である。この事故は日本の高速道路の運営手法が見直しを迫られる強烈なきっかけになった。その意味ではこの事故、単なる「事故」という枠組みを越えた歴史的「事件」だったと言えるだろう。

【参考資料】
◆ウィキペディア
◆JST失敗知識データベース
◆杉山孝治『災害・事故を読む―その後損保は何をしたか』文芸社

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◆大清水トンネル火災(1979年)

 この火災が起きたのは、今(2011年)から30年ほど前である。数字を見ると随分前のようだが、31歳の筆者としては「自分が生まれる前年」と考えるとそう昔にも思われない。

 だが事故の内容はやけに古臭い。北陸トンネル火災の教訓もどこへやらという印象だし、出稼ぎ労働者が現場で大勢犠牲になるというシチュエーションも時代を感じる。まるで40年前か50年前の事故のようだ。

 もっとも、筆者が1歳の頃には夕張新炭鉱ガス突出事故のような事故も起きている。そう考えると、古臭い類型のように見えるこれらの事故は、ひとつの時代の断末魔だったのかも知れない。

  ☆

 1979(昭和54)年3月20日のことである。

 当時谷川岳では、日本列島改造の気運に押されてトンネルがぼこぼこ掘られていた。手始めに清水トンネル、それから新清水トンネル、とどめに大清水トンネルである。特に大清水トンネルは全長が22.2キロと日本一の長さで、世界でも有数の山岳トンネルだった。

 んで大清水トンネルでは、1971(昭和46)年のの工事着工以来、すでに13名の死者と264名の負傷者が出ていた。

「えっ、そんなひどい工事現場、問題にならないの?」

 ――という声が聞こえてきそうだ。しかし問題にはならないのである。高度経済成長期というのはそういう時代だったのだ。なにせ昭和30年代ならば工事費一億円につき死者が一人出るのは当たり前、少し安全性が高まった昭和40年でも十億円に一人は当たり前、とまで言われていたのである。

 だから、工事がひと段落した時、作業員たちはほっとしたことだろう。

 そう、この日はトンネルの穴掘り作業が終わったばかりだった。あっちとこっちから掘られた穴がやっと貫通したのである。あとは壁面にコンクリを張る簡単な作業で済む。

「あー終わった終わった。さあ機材を片付けるぞ!」

 トンネル内には、掘削作業に使われた鋼製のジャンボドリルが置いてあった。高さは3階建ての建物ほどだったというから、これはちょっとしたガンダムである。工事開始以降、ひたすら穴を掘りまくってきたこのガンダム削岩機も今夜はいよいよお役御免。トンネル内でバラバラに解体して処分することになっていた。

 この解体作業の直前には、群馬労働基準局沼田監督署の係員がトンネル内の様子を視察に来ている。

「ふーむ。このジャンボ削岩機は油ですっかり汚れていますねえ。機械の周辺も油だらけですねえ。おや、水たまりの中の鉄骨も油だらけですねえ。散らばっているおがくずも油だらけですねえ。ま、問題ないでしょう」

 お前さんの目は節穴どころか大清水トンネルだ! と言いたくなるようなボンクラ視察である。この係員、自分が立ち去った直後に大火災が発生したと聞いてどう思ったのだろう。

 というわけで、夜9時にはガンダム掘削機の解体作業が始まった。

 当夜のトンネル内には54名の夜勤者たちがいた。そのうち11人がガンダムの解体を行う。

 ではアムロいきます。溶断機のアセチレンガスに点火されると、バーナーによってガンダムは切断、ばらばらに解体されていった。火花が飛び散り、真っ赤に焼けた鉄片が落ちてくる。

 トンネル内にあるものといえば、岩盤と岩肌と湧水くらいなものである。まさかここで火事が起きるわけないだろう。誰もがそう思っていた。

 ところが、下に落ちた鉄片の熱によって周辺の水分はたちまち蒸発。油の染み込んだおがくずもすぐに乾き、白い蒸気が上げるとすぐ引火した。

 蒸気が黒煙に変わっていったことに、最初は誰も気付かなかった。解体作業の方に誰もが目を奪われていたのだ。

 そこからはあっという間だった。おがくずに引火した炎は、油だらけのガンダムを舐めるように包んでいったのだ(切断の際の火花が直接にガンダムに引火したとも言われている)。これが9時30分頃のこと。

「おい、これまずいぞ! 消火しろ消火!」

 作業員たちはようやく異変に気づく。しかし発見が遅れただけでも致命的なのに、その上備え付けの消火器は消火剤が出なかった。この消火器は加圧式で湿気に弱かったのである。この事故以降、こういう場所では特に消火器は畜圧式を使用すべしと言われるようになった。

 さあ、発見の遅れ、初期消火の失敗、それによって避難ももたついている。当研究室の読者であれば、これがいかに恐ろしい事態であるかはすぐ察しがつくであろう。

 トンネル内は黒煙で包まれ暗闇になった。作業員たちは命からがら、それぞれ群馬方面と新潟方面に分かれてトンネル内からの脱出を試みる。

 現場から最も近い出口は7キロ先の群馬方面のものである。だがそちらは風下だったため、煙は猛烈なスピードで作業員たちに襲いかかった。54名の作業員のうち46名はそちらに逃げたが、14名が煙と有毒ガスにまかれて死亡している。この14名の死者のうちの3名は、ガンダム解体作業に携わっていた人たちだった。

 また、解体作業をしていた11名のうちの残り8名は、風上の新潟方面へ逃げて事なきを得ている。こちらは現場からトンネル出口まで14キロもあったのだが、風上だった。

 さて。こうして火災が起きてもなお、トンネル関係者たちは事態を甘く見て、こっそり自分たちだけで解決してしまおうと考えた。大清水トンネルは世界有数の山岳トンネルということで、その出来栄えを世界から称賛されたばかりだったのだ。火災なんぞで評判を落とすなんて冗談じゃない、なんとか公にせずに済まそう――というわけだ。

「よし、じゃあ俺たちが様子を見に行ってきます!」

 というわけで、2名の作業員だかが空気呼吸器を装着してトンネルに入って行った。さあ、彼らの命運やいかに。

 シーン。

 まるでドラえもんの「ドロボウホイホイ」である。彼らは途中でボンベの空気を使い果たし、帰らぬ人となったのだ。

 もはや公にせずに済ますとかいうレベルではない。ここでようやく消防に連絡がなされた。

 さっそく工事関係者による対策本部が設置され、特別救助隊が編成。このメンバーには群馬県沼田市の沼田消防署員たちも含まれていた。この消防署には、当時としては画期的だったレスキュー専門の小隊もあったのだ。頼もしい限りである。

 ところが、打つ手はもはやなかった。とにかくトンネルの状況があまりにひどく、いかなレスキュー専門部隊でも中に入れば二次災害は必至である。待つしかなった。

 もちろんその間、手をこまねいていたわけではない――と書ければいいのだが、本当に手をこまねいているしかなかった。一度はちょこっと中に入り、例の後から入った2名のうちの1名を助け出した(後に病院で死亡)が、結局10時間もの間、それ以上のことは何もできなかった。

 煙が薄くなったのは夜明け頃である。

 それからさらに午前10時まで待って再び中に入り、もう1名の遺体も収容。それでもやはり、最初に遭難した14名の救助までは無理だった。

 言うまでもなく、トンネル内もめちゃくちゃである。火災の熱によって落盤は起きるわ、水は噴き出すわ、土砂で埋まるわで、せっかく掘ったのに散々である。おまけに天候も雪になった。

 ようやく本格的な救助活動が始まったのは、22日の21時30分のこと。消防隊、警察、建設会社社員の計140名の大捜索隊がぞろぞろとトンネル内に入っていった。

「ところでこのトンネル、ダイナマイトが950本あるんですよ。大丈夫ですかね?」

 この期に及んでそんなことを言い出す奴もいたが、幸いにして二次災害は起きずに済んだ。

 遺体は、23日の午前の段階までに全てが収容された。

 その後、補償などがどうなったのは不明である。だがとにかく、この大清水トンネルを今も上越新幹線が行ったり来たりしているのはご承知の通りである。今までこのトンネルを通過した人のうち、一体何割がこの事故のことを知っているのだろう。

   ☆

 ここからは、完全な余談である。

 筆者は本業の関係で、年配の人々と話をすることがよくある。そうした人たちの中には、高度経済成長期に関東圏へ出稼ぎに行き、建設現場や工場で働いていたという人も少なくない。

 その人たちと話していると、「もしかするとこの人が事故の犠牲になっていたかも知れないんだな」と思う。そして同時に、実際に事故で亡くなった人の中にも、郷里で待つ家族がいたのだろうなとも思ってしまうのである。そうなると、すべての事故がなんだか他人事ではないような気になる。

 当研究室で「あてにならない参考文献」としてケチばっかりつけている『なぜ、人のために命を賭けるのか』という書物があるが、これに印象深いフレーズがあった。「決まって、犠牲者は現場の弱者」というものである。

 それを読んだ時には、まったくその通りだとつい頷いてしまったものだ。事故災害の歴史は、犠牲になった弱者の歴史でもある。そうした名もない弱者の鎮魂も兼ねて、筆者はキーボードを叩く次第である。

【参考資料】
◆失敗百選
◆中澤昭『なぜ、人のために命を賭けるのか』近代消防社・2004年

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◆酒田大火(1976年)

「おうちが やけた」一年 おがた さとこ(新井田町)

みんなでごはんをたべていたら、となりのおじちゃんが「どこかがかじだぞ。」とあわててはいってきました。

わたしはごはんをはんぱして、みせの二かいにいって空をみました。グリーンハウスから火がでていました。

おじいちゃんが、ごはんをはんぱして
「おれ、みいてくっさげの。」とでていきました。

どうろにでてみると、空がまっかで、すごいかぜです。

きんじょの人たちは、車ににもつをいっぱいつんでいる人や、あたまの上までしょって、はしっていく人がいっぱいです。そのべさんの車には、じてんしゃをいっぱいつんで川ばたのほうに はしっていきました。

おじいちゃんもかえってきてうらにおちてくる火のこをふくでたたいていました。

そのうちに、ジャンパーの男の人が

「ひなんせー」

と大ごえではしってきました。おばあちゃんが

「じぶんのものどご、かばんさいっでもてこい。」

といいました。わたしは、入学式に買ってもらった筆入れも入れました。お姉ちゃんは、このまえかってもらったさいふももちました。ことりのみみと、犬の、チロも、いっしょに車にのせました。

車のうしろをみると、どんどん火が、こっちのほうにきました。わたしは、はんぶんなきながら、もう、おうちはやけるな、と、おもいました。

おかあさんたちは、まだのこりました。

ゆう子おばあちゃんのいえにつきましたが、まっくらで、なんにもみえません。でんちでしましたが、だれがだれだかよくわかりません。カバンをおろして
「さとこねむて。」というと、
「ふとんしいてやっがらまってれよ。」
と、すぐしいてくれました。ふくのままでねました。

あさ、「さとこ、え、みなやけた。」

と、お母さんがいいました。わたしはなきました。ねえちゃんも、おかあさんもなきました。

おじちゃんから、車でがっこうへおくってもらいました。
とちゅう、とおるくんのうちも、さとみちゃんのいえもみかちゃんのいえも、みんな、やけていました。

※       ※

酒田大火。昭和51年10月29日の夕方から深夜にかけて、山形県酒田市の繁華街を舐めるように焼き尽くした火災はそう呼ばれている。

火元は、当市の繁華街である中町にあった「グリーンハウス」という映画館だった。

このグリーンハウス、少し検索して頂ければすぐ分かるが、当時の映画館としては日本一か世界一かと言われる程に名高いものだった。何せ中には喫煙可能な特別個室や十名限定のミニシアターがあり、さらに演奏会、ファッションショー、小演劇まで行っていたという。もはや映画館というよりも総合文化施設といった趣である。

映画産業が不振だった当時でも黒字経営を続けており、今でも山形県内では知る人ぞ知る伝説の映画館として語り継がれているこのグリーンハウス。しかしその末路は、街を焼き尽くした大火の火元という極めて不名誉なものだった。

時刻は午後17時40分。従業員が、ボイラー室周辺できな臭い匂いが漂い、停電が起きていることに気付いた。

それを支配人に報せに行ったところ、火災報知機のベルが鳴動する。火事だ! 支配人は消火器を手にすると、火元と思われるボイラー室に向かって駆け出した。

ところがボイラー室は施錠されており開かない。では2階から侵入できないかと試みるも、そちらも既に黒煙が充満していた。素人が消火活動を行うには余りに危険な状況である。

「火事だ! 消防に電話してくれ!」

支配人はそう大声で指示を出し、窓から避難している。

いつもの当「事故災害研究室」ならば、ここで誰それの通報が遅かっただの、初期消火の手際が悪かっただのとケチをつけるところである。だがこの後、町全体が消し炭と化した恐るべき事実に比べれば、そんなのはもはや瑣末事であろう。

グリーンハウス自体の火事は、確かに初期消火にもたついている内に通報が遅れた。だが避難誘導はきちんとされているし、出火原因についても誰かの過失は認められなかったのである。最後まで原因不明で、消去法で「漏電じゃね?」という程度の結論に落ち着いただけだ。

街全体が焼けたのは、端的に言ってそれを食い止められなかった消防と、消火設備の不備のせいだろう。

そうそう、それに当時は天候も災いした。この日の山形県は、冬型の気圧配置の影響で荒れに荒れた。内陸部では初雪を観測している。そして酒田市のような海沿いの地域では、一日中強い季節風が吹き荒れていた。

17時50分。通報を受けた消防は早速出動した。初めはグリーンハウスの火災も大したものには見えず、彼らは建物内での消火活動を試みる。

「なんだ、これなら消せるぜ!」

と、そこまで舐めてかかってはいなかったと思うが、しかし事態は思いも寄らないことになる。風でも吹き込んできたのか、間もなく急激に炎と濃煙と熱気が押し寄せてきた。これでは屋内での消火活動は不可能である。隊員達は堪らず外へ出た。

ところで、消火の態勢には、「攻撃」と「防御」の二つがある。

「攻撃」とは、徹底的に炎に攻撃を加えて消すこと。「防御」とは、迫り来る炎から延焼を阻止することだ。この火災では、グリーンハウスの中へ攻め込んで消火を行うことが出来なかった。そのため隊員達は、「防御」の態勢で臨むしかなかった。

しかし、この段階で雲行きが怪しくなってきた。グリーンハウスの風下には木造二階建てのビルが数件あり、しかもそれらは密集した状態で建っているのだ。

「このままだと延焼するぞ。何としても食い止めろ!」

消防隊員と消防車はグリーンハウス周辺の一角を取り囲み、屋根の上にまで上って放水を始めた。

ところが、である。強風に煽られた火炎は物凄い勢いでグリーンハウスを焼き尽くし、火炎はたちまち消防隊員たちに襲い掛かってきた。トタン屋根も焼けた鉄板と化し、上っていた隊員もアチ、アチ、アチチと下りらざるを得ない。火力はちっとも弱まらなかった。

何故だ。何故放水しているのに火が消えないんだ!

その答えは簡単だ。風が余りに強すぎて、水は噴射した先からバラバラと飛び散るばかりだったのだ。これでは消火の役目を果たせない。

火の粉も凄まじかった。地面といわず中空といわず覆い尽くし、消防隊員たちの視界を遮るのだ。まるで吹雪だ。

いや、視界を遮るだけならまだいいが、煙と熱気とのコンビネーションで隊員達は息も出来ない。目も痛くてとても開けていられない。もはや消火どころの話ではなかった。

こうして、延焼を食い止めることは遂に叶わなかった。物凄い強風によって火の粉と火の玉が飛散し、主として木造の建物に次々に燃え移っていく――。

大火事である。

サイレンがけたたましく鳴り響く中、消防隊は非番の職員も駆り出して戦力増強していった。

しかし皮肉なことに、増えれば増えただけ、消防隊員たちは火炎によって翻弄されていった。

「おい、こっちに燃え移るぞ、ホースを伸ばせ!」
「届かないっす」
「だったら他のホースを繋げ」
「みんな使っちゃってます!」

カンカンカン、ウーウーウー。野次馬も集まり始め、皆さん危険ですから近寄らないで下さい! 消火の邪魔になります! 近寄らないで下さい!

「他の消防車をこっちに移動させろ、応援を呼べ!」
「こっちって、どっちですか!? あっちもこっちも燃えてます」
「うわっまた火がついた!」
「危ない、そこの消防車こっちに来るな! 今その建物に火がついた! さっさと移動させろ」

ビュゴオオオオオ。またしてもとんでもない強風だ。消防の放水も火の粉も一緒くたになって、隊員や警官や野次馬に降り注ぐ。

今消せすぐ消せ

ビュゴオオオオオ。今時こんな風に擬音を活字で書く、あかほりさとるみたいな作家っているのかな。とか思っている間に今度は風向きが変わってさあ大変、ビュゴワアアアアア!

「うわっ火の粉が目に入った、あぢぢ!」
「ぎゃあ、ホースが焼き切れた」
「お前らぼやぼやするな、そこの火を消せ、次は後ろだ、それから右も、左も、それが終わったらこっちに来い!」
「了解、ただいま」
「いや待てあっちの火勢が強い、やっぱりあっちに移動しろ! と思ったけどこっちだ、くっそー熱い!」
「おい崩れるぞ、逃げろ!」

こうして酒田の冬の空は真っ赤に染まった。出火から20分ほど経った18時頃の段階で、火の粉は1キロ先の酒田駅にまで飛来したという。

真っ赤

さて少し遡って、17時53分に通報が入ったばかりの山形県警では、厳戒態勢を敷くよう即座に県内の警察署に指示を出していた。なにせ当時の酒田市には強風波浪注意報と海上暴風警報が発令されていたのである。タダで済むわけがないという予感があったのだろう。

「全署員出動せよ! それから山形、天童、寒河江、村山、尾花沢、新庄、余目、鶴岡、温海の各署にも応援を要請し、全警官に待機命令を出せ。おっと、それから機動隊もだ――」

いやはや。こりゃ県警も本気である。山形県民でなければピンと来ないかも知れないが、山形県の上半分の地域の、主たる警察署が全て応援要請を受けたことになるのだ。またその後、秋田県側からも応援が駆けつけている。

もしかすると「大袈裟だなァ」と思った者もいたかも知れない。だが後で考えれば、この厳戒態勢は実に適切だったわけだ。この頃には、グリーンハウスから出火した火炎は、周辺の木造の建物に次々に延焼し始めていたのである。

18時10分には、酒田市警察署も現地警備本部と「酒田市繁華街大火災警備本部」を設置。グリーンハウス付近の交通規制を行い、付近の住民には風上へ避難するよう広報と誘導を始めている。

18時30分。もはやこの火災は「何件かの建物が焼ける」程度のものでは無くなっていた。グリーンハウス周辺の建物をねぶり尽くした火炎は、いよいよ「建物単位」ではなく「街区単位」で延焼する様子を見せ始めたのだ。

きっかけは、鉄筋コンクリートの「大沼デパート」に炎が入り込んだことだった。加熱のため破壊されたデパートの窓から火が進入、5階の窓から火炎放射器のような勢いて噴き出し始めたのだ。

大沼デパートによる火炎放射

これも原因は「風」のせいだった。5階の東西の窓が破れていたため、風通しが良くなってしまったのだ。

大沼デパートは、中町通りという大通りに面して建っていた。それが炎を噴出したことで、火の粉、火の玉が通りを越えて飛散したのである。

これにより、通りを挟んでデパートの向かいにあった建物に順次着火。19時30分には、消防はこちらの街区の延焼を食い止めるべく包囲しながら消火を行うが、またしても火勢が強くていかんともしがたく、撤退戦を余儀なくされた。

そして今度は風向きが変わる。グリーンハウスから大沼デパートを経て、北へ北へと移動していった炎が、今度は東へ流され始めたのである。

しかも、一度北へ流れた炎がまた南へ戻ってきて、大沼デパートから遠回りする形で他の木造建築に延焼したからたまらない。せっかくなので、当時の延焼の順序を矢印で示したものをここに挙げておこう。


ひどいものである。

「ああもう、何とかしてくれ!」

きっと消防隊員も消防団員も泣きたい気持ちだったろう。炎は強風で煽りに煽られ、密集した建物の隙間に潜り込んでは、それらを舐め回した挙句、彼らに襲い掛かり消火活動の邪魔をするのだった。

映画館グリーンハウスから出火したこの火災が、いよいよ「大火」の様相を帯びて来たのはこの辺りからである。

☆   ☆   ☆

ところで「大火」の定義とは何だろうか。

これは結論を言えば、明確な定義はない。ただ、広範囲に渡って何件もの建物を焼いたものが大火と呼ばれているだけだ。

明治以降も、大学教授やら色々な組織やらがそれぞれ便宜上の定義づけは行っているようだが、定説になっているものはない。まあ要するに、一般的には「そんなことはどうでもいい」のだろう。

だが「大火」という言葉に込められた独特の情緒が、我々の間で共有されているのは、これもまた事実だと思う(そうでなければ「小火(ボヤ)」と「大火」という言葉の使い分け自体が起こりようがない)。

空が真っ赤に染まる。多くの人々が焼け出される。街が焼き尽くされてしまう。そしてパニック、騒音、飛び交う怒号…。仮に「大火」という言葉がこうしたイメージによって形作られているとすれば、酒田大火は確かに「大火」である。

もともと山形県酒田市という地域は「大火の名所」でもあった。

海沿いに発展した港町ということもあり、冬季にはシベリヤからの季節風がもろに吹き込んでくる。また湿度の低い3月から5月にかけてはフェーン現象とダシの風にも煽られる。一度失火すると極めて消火が困難なのは、昔からの伝統でもあったのだ。

しかも水利も悪い。もともと砂丘の上に作られた町なので、掘って水を引き入れるのが難しいのだ。

こんな調子なので、明暦から幕末に至るまでには68回の火災が起きており、そのうち45回は100戸以上が焼けているという。5年に1回は火がついている計算だ(ちなみに明暦以前はまともな記録が無い)。

今回ここで話題にしている昭和51年の酒田大火は、こうした酒田の火災史で見れば実に久方ぶりの「忘れた頃にやってきた人災」だった。それも全国的に見ても焼損棟数では戦後5番目の規模で、山形県としては最大のものだ。

さらに言えばこれは、地震による火災を除けば、カラーで撮影され記録されたものとしては日本史上最初で最後の大火である。

そんな大火

この大火の直後、酒田市では異例のスピードで街の復興が進められた。その手際の良さは、あの阪神淡路大震災の際にも参考にされたと言われている。

以上これらの点を考えると、この酒田大火というのは、近代以前の時代と現代とを災害史の軸の上で結びつける結節点として位置づけることが可能になると思う。

それまでは「大火」といえば、火災の古い一形態としてしか記憶されていなかったのではないかと思う。鉄筋コンクリートの建物が存在しない前近代的な地域でしか起こりえず、白黒写真でしか当時の状況を窺い知ることが出来ない過去の災害――ということだ。

これが戦後の現代社会で突如として蘇り、なお後世の災害対策でその記録が役立てられているのである。大火自体は不幸なことではあったが、このような形で一度丸焼けになってしまったのは、神様に酒田市が与えられたひとつの役割だったのではないか、という気もするのである。

とりあえず山形県民としては、このように酒田大火を持ち上げておきたい。話を戻そう。

☆   ☆   ☆

「火のたまがとんできた」一年 すず木 しげのり(新井田町)
そらが まっかになって、
ひのたまが とんできた。
しょうぼうしゃが水をかけても きえなかった。
ちかくの にいだ川が あかくなった。
みんなは、
「だめだ。」
といって にげた。
僕も、かばんやえんぴつけずりやおもちゃをもって、にげた。
おかあさんのともだちのうちににげた。
「ねれ。」
といわれたけど、ぼくは ねれなかった。
ぼぼぼぼぼっと やけたかじ、
おもいだすと おっかない。
おとうさんが おるすじゃなかったらよかった。

※       ※

市の職員がメガホンで呼びかけるなどして、市民はただちに避難するよう促された。

とはいえ、多くの人は、外の騒ぎを聞きつけて自主的に避難する形になったようだ。まあそれはそうだろう、外ではサイレン、野次馬のざわめき、人々の怒声、強風の音が錯綜していたのだ。これで非常事態と思わない方がおかしい。

道路上は、市民と、彼らの抱える荷物でごった返した。

しかし、皆が皆、素直に黙々と避難したわけでもない。警官が設けた立ち入り禁止区域に、強硬に入り込もうとする住民もいた。

「通してくれ、俺の店の商品が焼けちまう!」
「大事な家財道具を忘れてきたんだ、ちょっとでいいから戻らせてくれ!」

と、こんな具合である。警官達は全力で彼らを説得し、時には実力行使という形でもって対抗したという。

また消防活動そのものに対する要望も尽きなかった。

「家が燃える。もう2本消防のホースを入れてくれッ」
「この強風じゃ、水だけでは消せないよ。破壊活動をやって対処しろ!」
「400リットルの工業用油が保管してある。持ち出さないと危険だ~っ」

そりゃまあ、住み慣れた街が、そして我が家が、目前で焼けようとしているのだ。声を出さずに落ち着いていられるわけもないのだが――。

さらに、現場周辺ではデマが飛び交った。やれ火事場泥棒が出ただの、どさくさに紛れて婦女暴行を働いた奴がいただの、煙の中を白狐が飛んでいっただのと、いや、さすがにここまで来ると「少し落ち着け」とも言いたくなるか。

避難そのものは比較的スムーズに行われたとはいえ、現場はやはりこのように混乱の極みであった。

人々は、火の粉が飛び交う中を、命からがら公民館や小学校に避難した。とにかく火の粉がまるで吹雪のように舞っていたというのは、酒田大火を体験した多くの人が証言しているところである。

また火の粉のみならず「火の玉」も恐ろしい。いったん延焼した家屋が焼け落ちると、崩壊と同時に焦げた板切れや紙くず、ひどいのになると瓦屋根、雨樋、外壁、看板の破片などがコブシ大の火の玉になって飛び散るのである。それが強風によって町中にばら撒かれるのだから、一体次はいつどこに延焼するのか、予想できる者はもはや誰もいなかった。

「家やげだ人たち、グリーンハウス恨んでだがもの」
「ほんなごどね、しかたないもんだ」

人々は避難先でこんな風に言葉を交わしながら、恐怖の一夜を過ごすことになる。

ちなみにこの火災、一般市民の焼死者は一人も出ていない。素晴らしい成績である。

だが生き物の犠牲が全く無かったわけではない。

酒田市内の小学校が出した文集を読んだのである。そこには罹災した小学生たちの作文が掲載されており、このブログ記事でもいくつか引用しているが、例えばその中には避難する際に家を飛び出して行方不明になってしまった飼い猫の話があった。

また、一緒に避難は出来ないからと、逃げる際に別れを告げざるを得なかったペットの小鳥の話もあった。動物のエピソードに弱い筆者などは、こんな話でつい泣きそうになる。

一方で、これも避難の際に見捨てざるを得なかった飼い犬が、焼け跡できちんと生き残って飼い主の帰宅を待っていたという話もある。これはこれで感動してつい泣きそうになるとところだが、いや筆者の泣き所なんて別にどうでもいいのである。話を消火活動の方に戻そう。



大沼デパートに延焼した辺りから、戦況は泥沼化してきた。そんな中、消防隊員と消防団の面々は、とにかく消火の糸口を掴もうと躍起になっていた。

天候は、相変わらずの強風と雨降りである。雨水を吸った煤が街に散らばり、火の粉と共に宙を舞った。

20時頃には、延焼の勢いが一度は弱まった。何故かというと、大沼デパートの東にあったマルイチ中町マートという店の中に炎が入り込んだからだ。これは南北に長い建物だったので、火炎が中を通り抜けるのに時間を食ったのである。

とはいえ、それも決して火が消えたわけではない。マルイチ中町マートを通り抜けた炎は、結果として一街区を横断する形になり、通りを抜けてさらに向かいの街区へ進行していった。中町マートの中で消すことは出来なかったのだろうか? どうも腑に落ちないところである。

全体的に見ると、炎は最初は出火場所から北東の方へ広がり、そこから一気に東へと拡大している。つまり風向きの関係でそういう進路になったわけだが、東への進行が確定的になったのは、飛び火によって中町一丁目への延焼着火が始まった頃からだった。

こんな按配

まだ戦いは始まったばかり。ここからが本番だった。これからこの大火は、ここまで焼けた範囲のさらに数倍の面積を焼き尽くすことになるのである。

「駄目だ消えない。こんな火事、どうやって消すんだ」

なんだか、こんな嘆きの声が聞こえてきそうな状況である。

消火なう

消防関係者の疲労も著しかった。

例えばこの時、消防団は酒田市のほぼ全域の団員が出動している。だがまさかこんな状況になるとは思わず、軽くはんてんを引っかけた軽装で出てきた者も多かった。

皮肉なものである。長時間の降雨はちっとも消火の足しにならず、薄着の消防団員を凍えさせるばかり。かと言って街を焼き尽くそうとしている炎で暖を取るわけにもいかないのだ――。

また、実際的に消火活動を行っている消防隊の面々も、負け戦の泥仕合で疲弊もいいとこである。

まず問題は、町中のそこいらに飛び散った火の粉や火の玉である。奴らは建物の看板の陰や、屋根の低い部分に、まるで伏兵のように潜り込んでいるのである。消防隊は屋根から屋根へと梯子をかけながら、それらを片端から消して回った。

では消火のための水は足りていたのかというと、これも駄目。とにかく水が足りないのである。

住民に水の使用を控えるよう呼びかけもしたものの、とにかくあっちで放水、こっちで放水をしているものだから結局は共倒れになる。

放水なう

目をやられる者も大勢いた。火災発生から1、2時間の間にほとんどの人間が目をやられ、激痛でとても開けていられない状態になったのである。

まあ映画の『バトル・ロワイアル』の桐山和雄程ではなかったにしろ、しかし火災にはある程度慣れているはずの消防隊も経験したことがないようなひどい症状だったという。指で瞼をつまみ上げないと物が見えない上に、水で目を洗おうものなら飛び上がる程に痛むのだ。

目をやられた者はとりあえず病院送りになった。症状は輻射熱と火の粉による結膜炎。麻酔薬入りの目薬によってやっと症状は和らぎ、治癒するまでそう長くはかからなかった。それでも今度は煙が目に入らないよう、放水に際しては腹這いにならざるを得なかったという。

駐車場に停めてあった車も、処置が大変だった。ガソリンに引火すれば爆発は必至なので動かさなければならないわけだが、持ち主が既に避難し施錠もされているとなれば、もう手で動かすしかない。これは消防団や消防隊がひとつひとつ行ったという。

タチが悪いのは、野次馬が乗り捨てていった車である。とにかく無造作に放置してあるので直接的に消火の邪魔になり、このへんはもうガラスを割って移動させるしかなかったそうな。

また消防以外にも、火災対応で尽力した者は大勢いた。例えば家々に備え付けられたプロパンボンベは、火災発生と同時にただちに業者が回収。回収し切れない分も、爆発だけはしないよう処置が施されたという。

おかげで爆発による二次被害は無かったという。……が、これは正直なところ誰に分かるものでもないような気がする。炎に包まれた家屋で爆発による二次被害があったとしても、近くでその様子を確認出来るものは誰もいないのだ。現に、各家庭の灯油の買い置きやボイラー用の重油が、この大火にどのくらい影響したのか、その点は確認されていない。

それから、東北電力も頑張った。どうも消防だか警察だかから「街を出来るだけ停電させないでくれ」と要請があったらしい。停電すると避難する人々が不安になるからだ。

ああくそ面倒くせえなあ、という声が聞こえてきそうだが、この夜東北電力酒田営業所の従業員達はぎりぎりまで電柱で粘り、焼けそうになった区間からひとつひとつスイッチを切って回ったそうな。

しかし電柱の変圧器が火災によって次々に爆発したという証言もあり、この東北電力の従業員達も命がけだったことが分かる。

さて寒さと疲労、長時間の泥仕合と来れば、次の問題は「空腹」である。

消防士A「あー先輩、白鳥が見えます」
消防士B「どうした大丈夫か! まだ消火活動は続いているんだぞ、しっかりしろ!」
消防士A「おなかすいた、なう」
消防士B「呟いてんじゃねえ!」

などというやり取りはさすがになかったと思うが、真っ赤な炎の白鳥が空を舞う幻影を見た、という警官は実際にいたらしい。

まあそれは余談である。とにかく空腹では士気も下がるし機嫌も悪くなる。消防団の分団によっては、食事と着替えのための一時帰宅を許されたところもあったし、また農協の婦人部では千人分の炊き出しも行ってくれたという。さすがは農協。

「やれ、若いしゅドゴ、めじょけねちゃ。若いうちだばすぐ腹減るもんだでば、めじょけねちゃ」

これは、消火活動にあたる人々に、お握りや茶の差し入れをしてくれた菓子屋のおばさんの言葉である。ちなみに「めじょけねちゃ」とは「可哀想だ」という意味である。

この差し入れを受けた警官は、泣いた。

21時頃になると、火災は商店街の建物を順繰りに燃やし始める。

酒田市一の繁華街・中町通りは、アーケードによって飾られた近代的な造りをしていた。だが酒田大火ではこのアーケードが完全に仇となった。アーケードの上を先兵として炎が走り、それに続いて、アーケード下で露出した可燃物に着火するという二段攻撃を食らってしまったのである。

恨みのアーケード①

もともとアーケードそのものが放水の邪魔だったのに加え、商店街はどの店もシャッターを下ろして施錠している。まあ夜だし、人々は避難しているのだから当たり前なのだが、そのせいでアーケード上に上る方法が極端に制限されてしまった。さらに看板も邪魔だし、例によって風は強いし水は少ないのである。

恨みのアーケード②

22時頃には、火炎は中町通りと内匠(たくみ)通りという二本の道路を、強風に導かれるようにして流れていった。

この二本の火炎流は、交互に火の勢いが入れ替わったり、またある時には交わったりしながら、23時頃までに中町、浜町、新井田町へと延焼していった。

消火活動の最高指揮者も、普通のやり方ではこの火災は到底鎮火できないと判断。何とか延焼を食い止めるため、例えば火炎が流れていく方向に対して横から放水を行うなどの方策を取っている。

だが先述したように水は足りず、隊員も団員も疲労困憊、ホースは足りない、さらに延焼の範囲が広すぎて命令も上手く伝達されず、効率は下がる一方だった。

そして実は23時ちょうど、消防本部ではある決断が下されていた。

「破壊消防」を行うことが決まったのだ。

破壊消防とは何か。それは、炎が延焼するのを防ぐために、燃えやすそうな建物を前もって重機で破壊する方法である。

つまり、火炎に真正面から立ち向かってももはや勝ち目はないと判断されたのである。

もちろん、これは一般市民の目から見れば素直に許容できる話ではない。

「消火そのものを諦めて、俺たちの家をぶっ壊すのか!」

まあ当然、そういう意見も出てくるわな。しかし、だからこそ「決断」なのである。これ以上この大火の拡大を抑えるにはそれしか方法がない。それ以外の方策を取るには我々は余りにも無力だ――。これが消防の結論だったのだ。

さらにもうひとつ、決断が下された。

火の手は強風によってなおも煽られている。だがその先には、ちょうど火炎の進行を妨げる形で、新井田川という川が南北に伸びているのである。

「新井田川の堤防に消防隊を配置せよ。そして放水によって水の幕を作り、火の粉の飛散を止めるのだ」
「それでも防ぎ切れない飛び火があったらどうします」
「さらに後方にも消防隊を配置する。川向こうの市民にも協力を仰いで、飛び火に対する警戒態勢を敷け。絶対に、新井田川を越えた先では火災を起こさせるな!」

新井田川は、消防隊にとっては最初にして最後の「地の利」だった。この川は火災の進行方向に対して垂直に横切る形に流れているし、何よりも水が豊富にある。ここで消せなければ末代までの恥。踏ん張りどころである。

かくして深夜の12時を回った頃から、最後の防衛戦が始まった。

まずは破壊消防である。中町通りを進行し、浜町、寺町へと流れていった火炎が内町という地区に至ったところでそれは行われた。消防隊が、これはもう駄目だと判断した家屋がショベルカーで破壊される――。

次は新井田川である。遂に火の粉と火の玉は、川向こうの東栄町、若浜町、緑町方面へと飛散し始めていた。川に程近い一番町と新井田町に火がついたのだ。

まったく、止まるところを知らない、とはこの火災のことである。

一番町と新井田町は、たちまち火の海になった。大火が海なら、新井田川に迫り来る火炎は、言うなれば高潮か津波のようなものである。

くだんの高潮か津波(右下の水面が新井田川)

火の手が目前に迫る新井田川南岸。そこに40台の消防車が配置され、火の粉封じの一斉放水が行われた。

さらに折からの激しい雨も手伝って、さしもの火災もようやくその勢力を弱めていく。やい消えろ、いい加減に消えやがれ――!

こうして酒田大火は、遂に新井田川を越えることはなかった。時刻は午前4時。対岸への延焼の危険は、完全になくなったように思われた。

そしてさらに、午前5時にはやっとのことで鎮火。

およそ10時間に渡って家々を焼き尽くした怪物は、夜明けを待たずに消えたのだった。

焼失面積は22万5千平方メートル。焼けた建物は1767棟、被災者は約3,300名。被害総額は405億円と、気の遠くなるような被害状況である。

焼け跡はまるで空襲のような有様だった。焦土と化した街に、信号機やアーケードの骨組みだけがぽつんと立っているのである。翌朝、焼け出された人々は、雨の中で傘を差しながら、変わり果てた街を見て回った。

ずっと先に大沼デパートが見える

「やあ、やっと消えた。さて、これからどうしよう?」
「馬鹿お前、これからが大変なんだよ」

そう。そうなのである。街がまるまる一個、しかも市一番の繁華街が焦土と化したのだ。ここから酒田市が人々の生活の場として復興を遂げるまでは、およそ3年の月日を俟たなければならない。

☆   ☆   ☆

「やけあと」二年 とよだ たけはる(新井田町)

やけあとにいきたいなあ。
どんなふうになっているか、いきたいなあ。
ぼくは、やけあとをいちども見ていない。
僕は、心で思った。
僕の家はどうなっているかな、
あとかたなく、せいりされているかな。
やけあとは、せいりしてあって、
一けんか、二けん、おみせがたっただろうな。
やけあとを通りたいなあ。
でも、おかあさんはいそがしくて、
つれていってくれない。
だか、ぼくは、いつも、心で思う。
心で思えばそこへ行かなくてもいいんだ。

※   ※

さて。この火災のその後について、2、3書き記しておこう。まずは負傷者と死者についてである。先に筆者は「この火災で一般市民の死者はいない」と書いたが、実は一般市民ではない、消防関係者で1人だけ死者が出ている。いわゆる「殉職」だ。

名前を挙げておこう。当時の酒田地区消防組合消防長・上林銀一郎氏である。享年57歳。

上林氏

筆者は消防の組織についてはさほど明るくないが、消防組合の消防長と言えば重要ポストである。この上林氏、出火直後からその所在が不明になっており、現場では若干の混乱があったのだ。

氏が発見されたのは火災から2日後のことで、場所は火元のグリーンハウスだった。遺体は完全に炭化していたが、所持していた腕時計や家の鍵などから、本人と確認されたという。

そう、氏はかなり早い段階から火元へ駆け付けていたのだ。

火災の知らせを受けてヒッチハイクで現場に到着していたことも、後になって判明している。

そしてどうやら、取り残されている人がいないか確認すべくグリーンハウスに入り、倒れて来た機材の下敷きになったらしい。あるいは、先に煙を吸って倒れた可能性もありそうだ。

余談だが、以前酒田市に住んでいた時、「あの消防長は責任感の強い人だったから、大火災になった責任を感じての自決だったのではないかと言われている」という説を聞いたことがある。

それを聞いた筆者の感想は「そんな馬鹿な」だった。町全体が焼けるのはこれからだという段階で、責任感から自殺する奴がおるかい。本当に責任感があるなら、消防長なんだからそのまま消火活動の陣頭指揮を取るだろう。

あえて言うが、この上林氏の死は紛れもない不慮の事故であり、あってはならない事故死だった。殉職という言葉の響きに騙されてはいけない。

負傷者は100名以上に上ったが、入院を余儀なくされたのはその内の29人である。さらにその内20名は、火災に巻き込まれた医院から移送されてきた患者達で、今回の火災が原因で入院したのは僅か9名に過ぎなかった。

なんか、被害全体に対する負傷者数の規模の小ささを見ると、先述の殉職した上林氏だけが貧乏籤を引いたような感がある。やっぱりこの人、責任感はあったんだろうけど、燃え盛る火災現場に一人で進入するのは良くないよ。そこは教訓だろう。

ところで、酒田大火は否応なく世間の注目を集めた。山形県の田舎町とはいえ、とにかく近代都市の繁華街がまるまる一個焼けてしまったのだから当然だろう。

だが一方で、「焼けなかった」建物にも注目が集まった。

酒田大火では、デパートなど耐火構造の建物も焼けている。外壁は無事でも中身が焼き尽くされるという、「それって耐火でも意味無くない?」みたいな状況があったのだ。ところが完全に火の手を逃れ、外壁はやられても中のものは完全に無事という建築物があったのである。

ひとつは「土蔵」だった。

酒造所や、茶・漬物の販売店では、商品を土蔵に入れて保管していた。そして火の手が回ってきた時に、保管物を守るために、ある対策が取られた。

それは、水の入った容器(バケツやコップ)を土蔵の中に置いておいて、後は完全に閉め切ってしまうというものだった。

なるほど。これで、土蔵が火炎に包まれても、中が乾燥することはまずない。よって熱による着火もしにくくなる。そして土蔵はもともと昔ながらの耐火作りなので、外壁も安泰である。

鎮火の後、外壁の焦げた土蔵を開けてみたところ、中は蒸気がこもっていたが商品は無事だったという。

もうひとつ、この大火を無傷で凌いだのが、酒田市一の豪商・本間一族がかつて住んでいた「本間家旧本邸」と呼ばれる建物である。

この家は、東西南北を塀や土蔵や樹木、神社の敷地、駐車場、お堀、大通りに囲まれていた。まず、このように建物が密接していない上に、風上に対しては二重三重のガードをかけていたのが、延焼を免れた第一の理由だった。

面白いのが「樹木」である。樹木なんてすぐに焼けそうで、かえって延焼しそうで危ない気もするが、ところがそうでもないのだ。枝や葉が生い茂っていると、たった一本の樹木でも全体の表面積はかなり大きくなる。よって少々の火の粉では簡単に燃え広がらないのだという。

また第二の理由として、火炎がうまくこの本間家を避けてくれたということも挙げられる。延焼するぎりぎりの位置にあったにも関わらず、火炎が流れてきて枝分かれを起こした箇所のちょうど分岐点にあったのが幸運だった。

本間家では風上に対して塀・樹木・土蔵を備えていたので、風に乗って流れてきた火炎も、そこで分岐せざるを得ない形になったとも言えるかも知れない。雪崩防止の
分流堤のような形になったということだ。

面白いというか皮肉というか。近代都市を焼き尽くした古式ゆかしい「大火」に対して勝利を収めたのは、近代消防設備ではなく、昔ながらの火災防止の知恵だったのである(本間家が建てられたのは江戸時代)。

この本間家旧本邸は、今では酒田市屈指の観光名所になっている。

さあ、長かった酒田大火の概要も、ようやくこの辺りでひと段落である。

この火災は個人的に思い入れがあるので、短くまとめることは出来なかった。小学校の時、社会科のテキストにまで写真と記録が載っていた「酒田大火」。まさかそれから20年余りも後になって、自分がこんな文章を書くことになるとは思わなんだ。

酒田市はいっとき住んでいたことがある。

延焼を食い止めた新井田川の川沿いの道路も、かつて火炎が通り抜けて消防隊を翻弄した繁華街も、何度も車で通った。

ただ、あの頃はここまで事故災害への感心は高くなかった。だから、火災の記録と重ね合わせながら街の様子を記録するようなことはしなかった。これは今にして思えば勿体無かったと思う。

よって見に行くこともなかったのだが、繁華街には火災にちなんだモニュメントもあるし、大火関係の記録物を集めた資料館もあるのだそうだ(詳細は参考資料のリンク先を参照のこと)。次に機会があれば、どちらも是非この目で確かめてみたい。

ちなみに、かつて大火によって消し炭と化したこの繁華街は、やはり区画整理と復興工事によって実にハイカラに生まれ変わった。今見てもなかなか味わいのある街並みである。

だが田舎の中都市の悲しさで人通りはあまり多くなく、閑散としていることが多い。例によってシャッターの閉まっている店も多かったと記憶している。

もともと酒田という都市は、オリジナリティ溢れる独自の文化を築き、外に向かって発信することを得意とする伝統があった。先述した、大火の火元である「グリーンハウス」などはその一例である。また地元発のアイドルユニット「SHIP」とか、普通の田舎町ではなかなか出来ないことをやってのけた歴史もある。

それは、町そのものが海に向かって開かれているお陰もあっただろう。新しい文化を抵抗なく受け入れ、自家薬籠中のものとする文化的土壌があるのだと思う。

だが現在の酒田の繁華街は、国道7号線沿いなどのかつての郊外地に分散してしまった。その辺りの事情は日本全国の田舎の中都市と変わりない。その原因の全てが、酒田大火そのものや、その後の都市復興計画の失敗にあったかどうかは分からない。だがとにかく、この火災は、酒田市という町の歴史にとってはひとつの節目になっている気がするのである。

ちなみに最後の蛇足になるが、文集を読んだことは先述した。罹災した家の小学生達の作文を集めたものである。

子供が素直な感性で書いているからか、グッときて泣けるものも多い。下手なルポよりも臨場感があるので、今回のルポでも演出のために既に何作か引用させて頂いたが、最後もこの文集からひとつ、引用させて頂こうと思う。

「ひっこし」二年 伊藤あき(二番町)

きょう、ひっこしをした。
家をかりたのだ。
とても いい家だった。
おとなの人は、あせびっしょりになって
「よいっしょ。」
「よいっしょ。」
いろいろなものを はこぶ。
わたしは、
「やったあ。
家だ、家だ。」
と いった。
その日、一日おもしろかった。
あたらしいお友だちも
たくさん
できると いいな。

【参考資料】
書籍
◆『酒田大火の記録と復興への道』
◆『酒田大火復興建設のあゆみ』
◆『酒田大火 学校文集「海なり」別冊特集号』
◆『昭和51年10月29日酒田大火の概要』
◆『もう一つの地域社会論 酒田大火30年、「メディア文化の街」ふたたび』
Webサイト
ウィキペディア
酒田市「酒田大火について」
酒田河川国道事務所HP

※その他、本稿のリンク先のサイトなども参照させて頂きました。

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◆大洋デパート火災(1973年)

   1

 昭和48年11月29日のことである。晩秋の午後、テレビを観ていた人々は、たちまちそのニュースに釘付けになった。熊本の大洋デパートで火災、今なお炎上中。死者20数名――。

 多くの人は「またか」と思ったに違いない。この前年には大阪ミナミでいわゆる千日デパート火災が起きており、さらに済生会病院火災、高槻のスーパー火災、旅館やホテルの火災など、日本各地で建造物火災が相次いでいたのだ。

 間もなく映し出された、炎上する大洋デパートの様子は凄まじいものだった。この当時の画像は、今でも様々なインターネットサイトの動画や写真でも観ることが出来るが、窓という窓からもくもくと噴き出してくる濃厚な煙はまるで何かの怪物のようだ。スティーヴン・キングの短編に『灰色のかたまり』というのがあるが、大洋デパートの煙を見るたびに筆者はそれを思い出す。

 地元熊本地方の住人達も、このニュースには驚かされた。なにせ大洋デパートといえば当事の熊本では知らない者のない有名デパートだったのだ。当事、熊本市民は市街地へ出かけることを「大洋へ行く」という程だったという。

 ある者は、上空を飛んでいたヘリコプターを目で追って火災を知った。またある者は外出先から帰ってきてテレビを付けて初めて知った。テレビを観ながらおやつを食べていた娘が突然泣き出し、様子を見に来た親も驚いて、テレビの前で抱き合って震えていたというエピソードもある。慣れ親しんだ有名デパートでの惨事に、熊本の人々は慄然とした。

 だがそれでも、ほとんどの人は想像だにしなかったに違いない。よもや、これが戦後最悪クラスの火災事故として歴史に名を残すことになろうとは――。

 中継ニュースにより報道される犠牲者数は、40名、60名、90名と時を追うごとに着実に増えていった。デパートの常務はこの間、建物の裏口から続々と搬出される遺体を出迎えていたが、やがて「もう堪忍して」と言い失神したという。

 皮肉にも、当事の大洋デパートには「秋の火災予防運動週間」と書かれたアドバルーンが浮かんでいた。そんな中で、最終的な死者数は103名にまで及んだこの火災。一体この大洋デパートという場所で何が起きたのだろう。

   2

 大洋デパートが、当事の熊本では知らない者のない超有名デパートだったのは先述の通りである。

 設立されたのは昭和27年10月。場所は熊本市の中心部の繁華街で、当事の一等地である。ほぼ20年間の営業を通して、熊本県内第二位の規模にまで上り詰めた。

 しかし火災が起きた昭和48年頃ともなると、中央のデパートやスーパーがどんどん地方へ勢力を広げるようになってきた。順調な景気に支えられての進出である。熊本もまた、その例外ではなかった。

 この年には、大洋のライバル店である鶴屋百貨店は増床中だったし、さらに翌年には売り場面積33000平方メートルの新しいデパートが市内で開店する予定だったのだ。こちらは伊勢丹と福岡の岩田屋という店が連合して進出してきたもので(因みに鶴屋百貨店も伊勢丹だったという)、いかな大洋でもこれはうかうかしていられない。経営陣は焦っていた。

 そのような次第で、大洋は三越と提携することに決めた。

 このように中央大手の系列化に置かれた百貨店は、大手同士の競争をそのまま地方で再現する「代理戦争」の形に突入することになる。

 この「戦争」を生き残るために、まず最初に大洋が手を付け始めたのが、店舗の増築と改装である。

 もともと大洋は、売り場面積だけを見ても県内では二番目の規模だった。そこへ、さらに隣接地のビルを借りて別館として増設することにしたのだ。この工事が完了すれば、本館の売り場面積14300平方メートルに加えて、プラス9000平方メートルの別館を持つ大百貨店が完成するはずだった。

 ところが、ここで問題が発生する。消防法や建築基準法との絡みだ。

 大洋デパートが設立されたのはもう20年以上も前のことだった。当事に比べると法制も大分強化され、今になって増改築を行うとなるとそちらの基準に合わせなければいけなくなる。するとスプリンクラーや排煙装置の設置の必要が生じ、費用がかさむのである。

 実は、大洋デパートはこうした設備が存在していなかった。地元の消防局からも「極めて危険な建物」と見なされていたのである。

 少し、当事の社会背景を振り返ってみよう。

 先述したが、この時期は高層ビル火災が社会問題化していた。まず韓国で1971年12月24日、ソウルの大然閣ホテルで火災が発生し163名の犠牲者が出た。これはまだ対岸の――文字通り――火事だったのだが、それに呼応するように日本でも千日デパート火災が発生。これは日本火災史上最大の死者数を出すに至った。

 それで消防庁も事態を重く見て、スプリンクラーの設置、火災報知機の設置強化、避難誘導計画の徹底などを各デパートへ向けて指導。さらに、自治省消防局は消防法を一部改正までしている。改正内容は以下の二点だ。

「増改築や新設のビルの場合、スプリンクラーの設置基準を、従来の総延べ面積9000平方メートル以上から六千平方メートル以上にする」。
「収容人員30人以上のビルは、自主防火体制として各自消防計画を立て各消防署の指導のもとに避難訓練を行う(これまでは50人以上)」。

 これらが全ての高層ビルで実現すれば、大洋デパート火災は発生しなかったかも知れない。だが困ったことに、法律の世界には遡及適用の禁止と言う原則があるのだ。その法律が作られるよりも以前のケースにまで遡って、法律を適用させることはいけないのである。

 つまりこういうことだ。例えば「飲酒運転をした者は死刑」という法律が出来たとしても、その法律が出来るよりもずっと前に飲酒運転で摘発された人には、それは適用させられないのである。法律とは、あくまでもその法律が存在していた時の事態にのみ適用される。これが「遡及適用の禁止」ということである。

 するとどうなるか。消防法をいくら改正しても、改正前に建てられた建造物には適用出来ないのである。適用可能になるのは、その建造物を新たに増改築する時だけだ。

 このような形で法律の適用をすり抜けたものを、今はあまり使わない言葉で「既存不適格」と呼ぶ。

 さらに消防法の改正には猛反発が起こった。設置しなければならない防災設備が多く、あまりに費用がかかり過ぎるというのだ。結局個別の現場では、法令で定められた基準の内いくつかをクリアすれば良いという妥協があったり、査察に来た消防署員に「おみやげ」を渡して見逃してもらうといったこともあったようである。

   3

 さて、大洋デパートである。

 もう言うまでもないが、昭和27年に建てられたこのデパートは既存不適格もいいとこで、スプリンクラーもない、排煙装置もない、非常用電源もない、非常口の電光サインも点いてない、と最早「俺ら東京さ行ぐだ」状態だった。

 よって今から増改築を行うと、防災設備の分だけコストがかかる。

 デパートの経営陣は恐らく、「ああいよいよこの時が来たか」という気持ちだったことだろう。それまでの大洋デパートは、消防局から防災設備の不備を指摘されても完全に黙殺してきた。どんなに警告と指導を受けても平気の平左で、消火訓練への参加を打診されても無視していたという。

 しかし背に腹は変えられない。増改築を行う以上、今度こそ法令の遵守は必須である。かくして、防災設備の整備を視野に入れながら、大洋デパートの拡張工事は開始された。

 と、ここまでは良かった。

 だが大洋の経営陣は、防災設備があろうとなかろうと、実質的にはデパートの営業とは関係のない話だと考えていたのだろう。それからも、大洋デパートはごく普通に営業を続けた。清水建設が入って増改築工事を始めてからも、当たり前のように買い物客を受け入れ続けたのである。

 これが仇となった。工事中のため、スプリンクラーや排煙装置はまだ機能しておらず、さらに工事のために建物の外の非常階段も使えない状態だったのだ。

 こうした経緯を経て、運命の昭和48年11月29日は訪れたのだ。

   4

 大洋デパート。

 鉄筋コンクリート造り、基本的に地下1階から地上7階までの階層からなり、一部は九階建て。床面積の合計は10907平方メートルである。

 地階が食品売り場。
 1階が靴、化粧品、装身具、肌着等の売り場。
 2階が紳士服等の売り場。
 3階が寝具、呉服など。
 4階が婦人衣料品など。
 5階が書籍、文具、スポーツ用品。
 6階が家具、家庭用品、金物など。
 7階が食堂および結婚式場、催物会場である。火災当時は北海道物産展が行われていた。

 増築工事については、7階床面までのコンクリート打ちが終了した段階だったという。

 さて火災当日だが、この日の客の入りは、平素に比べれば実に冴えないものだったという。

 その日は木曜で、本来ならば大洋デパートの定休日だった。だが歳末大売出しということで急遽、臨時営業と相成ったのである。常連客でもそのことを知っている者は少なく、普段ならば1000人単位での客の出入りがあるというのに、この日の来店客は昼過ぎまでに500人程度でしかなかった。

 またお客だけではなく、工事関係者も140人弱がいた。さらに600人以上のデパート従業員の数を合わせると、当時デパート内には1200人程の人がいた計算になる。

 最初に異常を感知したのは、3階呉服売場に勤務する23歳の女性従業員だった。彼女は13時を数分過ぎた頃、階段から薄く煙が上ってくるのを見たのだ。

「あら、煙だわ。火事かしらん?」

 彼女は驚いて交換台に電話をし、それから大声で火事ぶれを行っている。

 知らせを聞きつけた売場主任(61歳)はすっとんで行った。なんだと火事だと、そりゃいかん。しかし彼が階段を覗き込むと、既に踊り場にあった段ボール箱が激しく燃えているところだった。

「バケツ! バケツだ!」

 主任の叫びに、数人の従業員達がさっそくバケツを持ってきた。近くのトイレから、バケツリレーで水を運ぶのだ。

 火勢は著しかった。踊り場の段ボール箱は、主任がちらっと見ただけでは分からないほど激しく燃え盛っていたのである。どこかのタイミングで、火炎は階段のガラス窓を破ってしまったのだ。

 ここから風が吹き込んできたから、さあ大変。踊り場から巻き上げられた燃え屑が、煙が、どんどん3階へ流れ込んできた。

 それにしても、なんで階段の踊り場なんぞに段ボールが積んであったのだろう?

 これは増築工事の影響だった。

 それまで、大洋デパートでは八階を商品倉庫代わりにしていた。そこには文化ホールというスペースがあったのだが、それが工事のため使用出来なくなったのだ。

 歳末商戦の時期である。通常の二倍の量である山のような商品在庫を一体どこに保管しておけばいいか、先にちょっと登場した主任が頭を悩ませた結果が「階段にとりあえず置いておく」という結論だったのだ。

 かくして段ボールは、二段三段に渡って積み上げられたのだった。中には寝具などが入っていたという。言うまでもなく可燃性のもので、これが燃える燃える。窓から風は吹き込んでくるし、しかもこの日は異常乾燥注意報が出ていたのである。これで燃え広がるなという方が無理な話で、最早バケツリレーでの消火など夢のまた夢という状況であった。

 ではここから、火災発生直後の各階の様子を見ていくことにしよう。まずは地階、1階、2階である。

 当時、1階には137名がいたと言われている。まだ地階では169名である。彼らは全員、例外なく店員の呼びかけによって避難することが出来た。煙や炎が押し寄せてくることもなく、せいぜい従業員が慌てふためいていた程度で済んだようである。

 また2階も、特に大きな延焼もなく済んだ。ここからも百名以上が階段やエスカレーターを使って問題なく避難している。

 特に2階は、大洋デパートにおける理想的な避難のひとつのモデルだと言えるだろう。ここでは、火元の階段と、フロアとの境目にある防火シャッターが最初から閉鎖されていた。

 恐らく工事関係の都合か、倉庫代わりの階段への一般客の進入を防ぐためだったのだろう。これによりフロアへ煙や炎が直接進入することはなく、従業員の呼びかけによって速やかに避難した。

 ちなみに火災発生時、社長はどうしていたのだろう? その時の状況について、当時の社長だった山口鶴亀氏はこう述べている。

「私は出火当時、10階(塔屋部分)の応接間にいて横になっていた。火事だといって迎えが来たので一番あとから荷物用エレベーターで外に出た。普段から火事には注意していたのだが、今は申し訳ないとしか言いようもない」。

 つまり、買い物客を見殺しにして自分だけ逃げた形になってしまったのだ。これについては、言うまでも無く轟々たる世間の非難を浴びることになった。

 さて、死者や負傷者が発生するのは3階からである。

   5

 高層ビル火災は、とにかく上の階へ行けば行く程、危険の度合いは増す。理由は簡単で、煙も炎も上に昇っていくものだからだ。

 よって地階、1階、2階で被害がなかったのも当然と言えば当然である。特にこれらの階で消火活動や避難誘導が上手く出来たわけではない。ただ、構造上の幸運によって偶々スムーズに脱出出来たに過ぎない(比較的死者の少なかった5階についても同様のことが言えるが、これについては後述)。

 大洋デパートの場合、問題は3階から上なのだ。

 ここで、場面を3階の寝具売場へ戻すことにしよう。

 出火した階段へは、従業員たちが続々と駆けつけてきた。

 中には、延焼するのを防ぐために、階段の段ボール箱を取り除いたり、売場の寝具類を移動させたりする者もいたという。だがそのうち、階段からは風に煽られた火炎がバーナーのように吹き込んで来て、手の付けようがなくなっていった。

 消火器を持ってきた者もいた。だが使用者が使い方を誤ったのか、消火器自体がいかれていたのか、なにやら5、6回叩いても動かなかったという。叩いて使う消火器なんて聞いたことないが……。

「もう駄目だ、シャッターを下ろせ! 急げ!」

 遂に火炎が3階のフロアへ進出してきたのだ。従業員達は、階段とフロアを仕切る防火シャッターのスイッチを押した。

 しかしこの防火シャッター、火災によってモーターが馬鹿になってしまい、途中で止まってしまう。

 そんなにやわじゃ防火シャッターの意味ないじゃん! と思うのだが、実はこれは、火災の熱で温度がある程度にまで達すると自動的に閉まる仕組みでもあったらしい。なんかワケ分からん。

 結局シャッターは閉まったのだが、その間に火炎がフロアに侵入していたであろうことは想像に難くない。

 さらに、シャッターはエスカレーター周辺にも存在した。だがこれについては、真下にあった陳列棚がつっかい棒の役割を果たす結果になってしまい役に立たなかった。

 それでもこの階からは、何とか103名が避難している。下の2階はほとんど被害はがなかったし、エスカレーターが焼けるまで時間があったため比較的避難は容易だったのだろう(ただし最終的には一名が遺体で発見されている)。

 また大洋デパート火災は、着物を着たまま焼け爛れたマネキン人形の写真が有名だが、恐らくあれはこの階の呉服売場のものなのだろう。

 3階の様子については、もう少し書いておこう。実はこの階には電話交換室があり、非常放送を流す設備も整っていた。それが当時は全く機能していなかったのである。

 この交換室にはちゃんと従業員がいたのに、なぜ避難誘導に欠かせない非常放送は流されなかったのだろう?

 答えは簡単で、交換手がもたもたしている内に、たちまち煙が襲ってきたのである。電話交換室にいた3人の女性は、非常放送を流す間もなく避難を余儀なくされたのだ。

 ただ、そうなってしまったのにも理由があった。交換手の女性は以前、店内で事故があり救急車などを呼ぶ時は「よく事情を判断してからするように」と上司から注意を受けていたのである。

 だが事情を確認も何も、火元は交換室の正反対の場所だった。しかも社内規定により、非常放送を流すには上司の許可が必要だったというからお話にならない。こうして交換手は、人事部や社長に連絡することに気を取られているうちに、館内放送を行うチャンスを失ってしまったのだ。

 さらに言えばこの交換室は出来たばかりで、交換手は機械の扱いにも慣れていなかったという。

 こうしていくつもの適切な処置がなされないまま、煙と炎は南階段を伝いながら4階へと上っていった。

 3階の場合は階下が無事だったから良かったが、4階からは状況が大きく変わる。なにせ3階は煙と炎で埋め尽くされており、上へ逃げるしかないのである。

 結果、人々は煙に追い立てられるように上階へと雪崩れ込んでいくことになる。

   6

 119番通報がなされたのは、13時23分のことである。

 きっかけは、デパートで工事をしていた作業員の悲鳴だった。外壁塗装をしていたこの作業員は、3階付近のガラス窓が破れ、煙と火炎が噴き出してくるのを見つけたのである。

「火事だ!」

 彼は叫んだ。それを受けて通報したのが、デパートの筋向いにあった理髪店の店主だった。

 結局、デパートの従業員から通報がなされることはなかった。初期消火の手こずり、延焼阻止の失敗、忘れられた通報――。こうして大惨事のお膳立ては揃ったのである。

 13時25分には消防が現場に到着し、消火活動と救助活動が始まった。

 しかし「これでもう大丈夫」とはとても言えない状況だった。何せ大洋デパートは改装工事のためビルの壁面にシートが被せてあるし、窓という窓が内側からベニヤ板で塞がれているのだ。中の様子がさっぱり分からない。

 ついでに言えば、当時の熊本市には梯子車とシュノーケル車がそれぞれ一台しかなかった。おいおい、どうすんの? と言いたくなってくる。

「こりゃいかん、突入だ突入!」

 とりあえず消防隊は建物の中へ飛び込んでいった。しかし防火シャッターがきちんと下ろされていたのが災いして、肝心の3階から先へ進めないだから話にならない。何とかエンジンカッターで切断するも、その先で待っていたのは1メートル先も見えない猛煙と凄まじい火勢だった――。

   ※

 さて4階である。当時、この階では婦人服やアクセサリー等が売られていた。

 この階にいた人々が火災に気付いたのは、裁判では13時22分過ぎと見られている。煙がフロアに侵入してきたのだ。

 ここでようやく人々は火災に気付いた。火災報知のベルも鳴らず、非常放送もない中で、ただ静かにもくもくと煙が押し寄せてきたのである。

 煙の主な侵入口となったのは、南階段とエスカレーター口である。南階段というのがつまり火元になった階段で、この後もこの階段は煙突代わりになって煙を上階へ上階へと昇らせることになる。

 4階の人々は、何がなんだか分からないままに逃げ道を探し惑ったことだろう。とにかく煙は下階から昇ってくるのだから、下へ逃げることは出来ない。上だ。煙や炎よりも先に上階へ逃げなければ――。

 この階からの脱出は、主に3箇所からなされた。ひとつは従業員用の階段である。それに増改築工事の作業員達が窓や扉を2箇所ほど破ったことで、一部の人々はそこから新鮮な空気を吸うことが出来、最終的にロープなどで救出されている。

 ただし救出された人々も全て無傷で済んだ訳ではない。窓からアーケードに飛び降りて、足が粉々になってしまった男性もいた。

 問題だったのは、最初に述べた「従業員用の階段」である。この階段に通じるドアの前で、多くの人が命を落としている。

 恐らく、煙に追い詰められた従業員達は、そちらに自分達専用の階段があるのに気付き急いで向かったのだろう。それで逃げ遅れた他の人々も、一縷の望みを賭けて後ろから着いて行ったのではないだろうか。

 実際その階段から脱出できた従業員も多くいた。しかし階段周辺が煙に包まれるまでの時間は余りに短かったのである。実に40名もの人々が、脱出することは叶わず、階段あるいは階段に通じるドアの前で力尽きている。死因は全てCO中毒だった。

 筆者達が想像するよりも遥かに速いスピードで、大洋デパート内部には煙が充満していったのである。建物が完全に停電するまでは少し時間があったが、猛煙の立ち込める中ではもうそんなことは問題ではなかった。煙が、明かりという明かりを覆い尽くし、あっという間に建物の中を暗闇にしてしまったのだ。

   7

 次は5階である。この階で火災が覚知されたのは、13時21分とされている。

 販売されていたのは、主にスポーツ用品、文具、玩具などだった。

 この階からは多くの人が脱出に成功しており、死者はほとんど出ていない。黒煙、有毒ガス、火炎、熱気流が押し寄せてくるという恐るべき状況下で、これはこれは実に幸運なことだった。

 まずなんと言っても、5階は防火シャッターが功を奏した。この階ではほとんどのシャッターが熱感知機能によりきちんと閉鎖したのである。また改装工事のために常時閉鎖していたものもあり、それによって下階からの延焼に時間がかかったのだ。

 またこの階には、脱出可能な経路が複数あった。

 まず、隣のビルへの渡り廊下である。このビルとは、別館として工事が進められていたものだ。

 それから本館の増築部分に通じる非常ドアもあり、これは従業員が機転を利かせて開けている。この階では従業員による避難誘導がきちんと行われたのだ。

 それに誘導が間に合わなかったと思われる人々も、最終的にはほとんど窓から救出されている。どうも窓の下に上手い具合にアーケードがあったらしい。資料によって記述が錯綜しているのではっきりしないが、当時ビル内にいた工事関係者が即席の足場を作って買い物客らを避難させた――という話もあり、もしかするとそれはこの階での出来事だったのかも知れない。

 とはいえ死者が皆無だった訳ではない。3階からの逃げ遅れと思われる1名が、後に遺体で発見されている。

 またこの階でお粗末の誹りを免れないのは、従業員達が消火器による「消火活動」を始めたことである。言うまでもなく、ただの煙に消化液を吹き付けても何の意味もない。もしもこの階の脱出経路がもっと少なければ、ここでの時間のロスは大量の逃げ遅れを発生させていたに違いない。

 このように、いくら5階が避難に適した状況だったと言ってもそれはあくまで偶然で、やはり大洋デパートの防災状況は極めて劣悪だったのである。筆者が先に5階のことを「幸運」だったと書いた所以である。

 それに、ここでは水平方向の避難者のことしか書かなかったが、もしかすると5階から6階へと垂直方向に避難した者もいたのではないだろうか。6階と7階でも大量の死者が出たことを思うと、やはり5階の幸運を手放しで喜ぶ気にはなれない。

 ビル火災が、上の階に行けば行く程危険であることも先に書いた。それを裏付けるように、6階と7階は阿鼻叫喚の惨劇の場と化したのだった。

   8

 6階での火災覚知は、13時21分以降とされている。

 このフロアでは家具、家庭用品、金物などが売られていた。

 その時の状況については、筆者がくどくど説明するよりも参考資料から引用した方が早い。以下、阿部北夫の『パニックの心理』より、当時の従業員の証言である。

「はじめは階段部分からの、そうです、自分の階の火事だと思ったのです。それでみんなを動員して、消火器をもち出して、一生懸命消火しようとしました。けれども全然効果がありませんし、煙がますますひどくなり、ついに噴出するようになり、黒煙にかわりました。これはダメだ、逃げようというので、エレベーターの方をふり返りましたら、おどろきました。中央階段の方から煙が、それこそ海の大波のようにドッと押し寄せ、もう店の真中、エスカレーターのまわりのところまで来ているのです。いわば両方向から煙にハサミうちになったようなもので、とっさに反対側の、そこだけ窓が外部に開くようになっているアーケード側に逃げようと思いました。煙に追われて、非常口はどこだと叫んでいるお客さんを誘導して、そのアーケードロまで行ったのです。そのころは電灯が消えていました。窓から入ってくる光で、自分が数えた限りでは、十二、三名の人がいましたが、気配でそのまわりにさらに何人かがいたのがわかりました。……窓をいくつか破って外気を導入し、助けを求めましたが、6階ではどうにもなりません。何人かがとび降りましたが、アーケードを破り、血が飛び散るのが見えて、これはダメだと思いました。小さいお子さんがいるとみえて、泣き声や、婦人たちの悲鳴絶叫が聞こえ、それこそほんとに阿鼻叫喚というのか、地獄というのか、悲惨きわまるものでした。そのうち煙がだんだんひどくなり、息をしていられなくなり、のどがハリつきふさがってくるのです。そのうちに、子どもの悲鳴や婦人たちの絶叫がだんだん聞こえなくなってきました。おそらくあのとき、その人たちは亡くなっていったのでしょう。」

 凄惨この上ない話である。

 このフロアでの死者数は31名に及んだ。元々は69名ほどの人がいたと言われているので、ほぼ半数が亡くなったことになる。何故ここではこれほどの事態になったのだろう?

 理由は幾つかある。まず他の階と同様に防火シャッターが下りなかったことが第一。しかもこの階については木製の支柱で意図的にシャッターが下りないようにされていたという。

 また煙の流入経路は、階段やエスカレーターなどの全ての逃げ道を一気に断ってしまった。4階や5階では多くの人が「逃げ遅れ」により死亡したが、6階では「追い詰められ」がその原因だったと言えそうである。

 また、各階の窓にベニヤ板が張られていたことも大きい。消防の到着直後の状況を書いた時にちらりと述べたが、大洋デパートの窓はほとんどがベニヤ板で内側から塞がれていた。

 どうもデパートというのは外光が入ることを嫌うらしい。そういえば最近のデパートやスーパーでも、窓がついている建物はあまりない気がする。

 さらに大洋の場合は、改装工事の痕跡を隠すためか、窓以外にも天井にまでベニヤ板と紙が貼られていた。つまり大洋デパートのフロアは見事に密閉されていたのである。

 もちろん、それでも非常用照明設備や排煙設備、誘導灯などが完備されていれば、いい。しかし当時は工事中でそうした設備は一切作動していなかった。

 6階で被災した人々は、フロアの南東部分で死亡している。

 そこには従業員用の休憩スペースがあったのだが、位置的にその場所が最も煙の進行が遅かったらしい。先に証言を引用した従業員が逃げ込んだ場所というのも恐らくここだったのだろう。

 この従業員がどのような形で救出されたのかは不明である。だがこの窓からはロープで救助された人が多くいたそうなので、多分それなのだろう。

 この階でも、5階と同様に、従業員達は意味のない消火活動を行っている。避難誘導を行うべき彼らがその体たらくだったのだから、一般の買い物客がパニックを起こしながら煙にまかれていったのは当然の成り行きだったことだろう。

 人々のこうしたパニックの様子は、一体どんなものだったのだろうか。それをはっきりさせるには、7階フロアから屋上へ避難し無事に生還した人々の証言を俟たねばならない。

   9

 7階での火災覚知時刻は、13時25分頃とされている。

 ここでは北海道物産展という催し物が開催されていた。また食堂も多く、昼頃の時間帯ということで食事客も大勢いたのだろう、他の階に比べると257名と人の数も多かった。

 煙が最も早く進入してきたのはエスカレーター周りである。工事のため開口部が大きくなっていたらしい。そして例によって防火シャッターは動かず(工事途中で未完成だった)、フロアにはたちまち濃煙が立ち込めた。

 この時の状況について、物産展に出ていたアルバイト店員の学生はこう証言している。

「煙が立ち上ってくるなんてものじゃありません。シューシューいって耳をならしながら突きのぽり吹きあげるのです」

 エレベーター周りだけでなく、この階では階段からも煙と炎が激しく流入している。たちまちフロアはパニック状態になった。ここからは、当時食堂でレジ係をしてた女性の証言を引用していこう(証言の引用は全て『パニックの心理』より)。

「ちょうどお客さんのこない時間でしたので、自分はチケットを整理していました。すると、何人かのお客さんやウェイトレスがバタパタと入口の方にかけてくるのです。はじめ、きょうが最終日だから、だれか偉い人でも物産展を見にきたのかと思ったのです。どうしたの、ときいたら、火事よ、というのです。後を振り返ってみたら、白い煙が波の押し寄せるように客席の半ばまで迫ってきていました。それでとっさにお金の袋をとり出して、エレベーターの方に逃げ出しました。エレベーターは入口のすぐ前のところですが、すでに三〇人くらいの人が集まってエレベーターをまっていました。みるとエレベーターのサインが、2階のところをさしたまま動きません。このころはまだ電気がついていたのですが、だれか男の人が屋上に逃げろといいましたので、みんながいっせいに階段にかけより、かけ上がりました」

 この時点で、7階で使用可能な階段はひとつだけだった。フロアの東にあった、屋上直通の階段である。

 階段そのものは他にもあった。だが火元から直通しているため煙が充満していたり、途中で途切れていたり、遠い場所にあるため辿り着くのが容易でなかったりと、その他の全ての階段は実質的に使い物にならない状況だった。

 結果、人々はたった一本の階段を押し合いへし合い駆け上った。

 幅はたったの1メートル半である。そこに数十名の人々が押し寄せたのだからたまらない、ある人は避難者達の圧力によって身体が宙に浮かび上がり、足が階段についていない状態でもがきながら屋上へ運ばれたという。またある年配の婦人は、着物の裾を踏まれて倒れそうになったが、やはり人混みの圧力で押し上げられたお陰で踏み殺されずに済んだという。

 だがこの階段も、脱出口としての用を成したのはせいぜい2、3分程度だったと思われる。間もなくここも熱気流と黒煙の立ち上る煙突と化した。再び生存者の証言を引用しよう。

「途中で煙があがってきて煙を吸いましたし、屋上にあがったら、自分の上ってきた階段ロからもう黒煙がドス黒くふき出し、自分の後からくる人は、涙やハナを出し。すすで顔がくちゃくちゃに汚れていました」

 消防隊が7階へ到達した時、階段やエレベーター周辺からは、逃げ遅れたらしい者の遺体が見つかっている。フロア全体の最終的な死亡者数は29名に上った。また階段で死亡していた従業員は、残留者がいないかどうかを見届けたことで逃げ遅れたのではないかと言われている。

   10

 8階の屋上へ逃げた人々は、全員が救出された。

 ここには遊園地や、工事中の施設があったため、一般の客と工事関係者等を合わせて元々50名ほどの人がいたという。そこに7階からの避難者も加わり、最終的な人数は100名以上に達した。梯子車やロープのによる手助けももちろんあったが、それに清水建設の作業員が増設部分の足場へ誘導したりすることで、彼らは全て生還したのだった。

 また9階と10階からは犠牲者は出ていない。この2フロアは屋上からニョッキリ突き出た塔屋部分であり、どの資料を読んでも詳細はほとんど不明である。まあ先述の山口社長が出火当時10階にいたというから、役員室でもあったのだろうと想像できる程度だ。

 消防による救出活動は、彼らが現場に到着してからほぼ10分後に開始された。

 まず13時35分に男女2名が病院へ搬送されたのを皮切りに、15時55分までの間に27名が続々と搬送。そして梯子車、ロープ、スノーケル車を利用しての救出劇だったという。

 そういえば大洋デパートの救出活動と言えば思い出すのが、一人の女性従業員が下着を丸出しにした姿で救出されているシーンである。この映像は恐らく、大洋デパート火災にまつわるものとしては、あの焼け爛れたマネキン人形に次ぐ有名度なのではないだろうか。

 あの映像は、NHKをはじめとしてどのテレビ局もこぞって撮影しており、今だったら損害賠償を請求されてもおかしくないような激写ぶりである。今から考えると、非常時にテレビは一体何を映しとるんだと突っ込みを入れたくなる所だ。

 遺体の搬出が行われたのは16時20分からのことである。

 この時もまだ炎は燃え続けており、火災そのものが鎮火したのは21時19分。それから23時までに28の遺体が搬出されて、付近の寺や日赤病院へ運び込まれた。焼け焦げたものも多くあり、その後も行方不明者の捜索のために網で骨を篩い分けたとか、複数の遺体の部位が集まったものが一人分の遺体と勘違いされたという話まである。

 デパート側の対応はまるきり後手後手に回った。遺体は棺にも入れられないまま、毛布をかけられただけの状態で安置されていた。

 当時の写真週刊誌を参考にすれば、犠牲者に関する悲劇的な話をここでご紹介するのは簡単である。一家全滅、婚約直後の若い女性の死亡、消火活動に来ていた消防士の妻子がデパート内にいた……等々、耳を塞ぎたくなるような話ばかりだ。だが筆者はそういう話は正直好みではないので、ここはひとつ、生存者にまつわる話だけをご紹介しておこうと思う。

 大洋デパート火災では、煙から逃れるために高層階から飛び降りた者が複数人いた。ただ前年の千日デパート火災とは違い、それによる直接の死者はなかったようだ。その点は奇跡的である。だがその中でもひときわ目立って奇跡的なのは、6階の従業員Tさん(当時21歳)の飛び降りである。

 Tさんは当時、家具や家電の売場にいた。そこで煙に巻き込まれたという。

「それより少し前に『火事だッ』と誰かが叫んだような気がするの。どぎゃんしたらよかろうかと考えるひまもなかったんです」

「でもですね、消火器は全然役に立たなかったんですね。煙が強かですたい」

 煙にまかれながら考えたのは、「このままでは死んでしまう」ということばかりだったという。彼女は煙を避けて逃げた。

「あ、あそこは明るい。見える」

 そうして辿り着いたのが、例の6階フロアの隅にあった従業員用のスペースだった。

「事務所につくと、誰かが窓を割りよったのを覚えています。そしたら、ノドがすうっとして、明るくなった気がしましたですね。夢中で割られたガラス窓から顔を外へ突き出したとですたい」

 しかしそれだけではとても生きた心地はせず、遂に彼女は宙へ身を躍らせたのである。

「もう、息苦しさから逃げたいと思っただけですね。『お母さんッ』と呼ぶ気もしなかった。ただ、死ぬんだ、死ぬんだ、もう最期だ、と思ったのを覚えていますね。飛び降りる意識なんてなかったとですたい。ただただ、息を吸いたかった」

 実に地上10メートル、6階からの飛び降りだった。

「シタにアーケードがあるなんて思ってもみなかったとですね。落ちた瞬間ですか? 意識はありましたですね。足がグニャッとなって、痛くて痛くて仕方が無かったですね。意識の中では、落ちるまで2回転はしたと思います。無意識のうちに足から落ちたとですね」

 彼女が収容された病院の医師の話では、こういう飛び降りの場合は足首と踵の粉砕、骨盤骨折、背骨骨折などの怪我を負うのが普通だという。だがTさんは右大腿部の骨折と、その他擦り傷程度で済んだ。頭もやられなかった。

 他にも少なくとも2人、アーケード上に飛び降りた者がいた。だが4階から飛び降りた男性従業員は足の骨が粉々になり、Tさんと同じ6階から飛び降りた売場主任は頭から突っ込んで重態になり、その時は血まみれで倒れていた。

 同じ状況ならまた飛び降りるか、という週刊誌の記者の阿呆な質問に、Tさんは「今? できませんですたい」と答えたという。

 大洋デパート火災では、このように飛び降りによる怪我を負った人もいたし、またCO中毒で意識不明の状態で救出された人もいたという。よって後遺症を負った人も相当いただろうと筆者は想像している。

 こうして火災そのものは終わった。次は責任の問題である。

   11

 火災があったその翌日、即ち30日の時点で、死者は既に100人に及んでいた。内訳は男29人、女71人である。

 他にも、避難の途中に階段で転ぶなどして怪我をした者が11名。煙による気管支炎、CO中毒、ガス中毒などの憂き目に遭った者が22名。怪我と中毒のダブルパンチを食らった者が10名。アーケードへの転落やロープによる避難によって怪我を負った者が9名。そして増築部分からの避難中に怪我を負った者が7名。……これでは警察も黙っているはずがない。

 熊本県警は、さっそく大洋デパート火災捜査本部を設置し現場検証を始めた。

 捜査本部には、最初からひとつの仮説があった。

 まず失火者を特定しないといけないのは勿論だが、それとは別に、デパートの防火態勢の問題を指摘することも可能なのではないかという見込みがあったのだ。つまりデパート側を業務上過失致死で起訴できないか、ということである。

 意地の悪い見方をすれば、これは見込み捜査である。だが現場検証を行い、従業人たちから事情を聞いていけば行く程、この仮説は俄然妥当性を帯びてくるのだった。

 とにかく避難訓練はしたことがない、消火器の使い方は知らない、防災設備は使い物にならないと、なんだここはデパートはデパートでも欠陥防災設備の見本市じゃないか! と言いたくなるような状況である。熊本県警は、いよいよ12月7日には強制捜査に踏み切った。

 そしてさらに、熊本労働基準局も18日には、安全管理を怠ったとして3人の責任者を書類送検することに決めた。

 最終的に県警によって起訴されたのは5人である。事件からほぼ1年が経過した1974年の11月のことだ。まず当時の社長山口亀鶴氏。それから常務の山内氏。そして取締役人事部長Y、売場課長兼営業部第三課長M、営業部営業課員Sである。

 そして裁判が始まったわけだが、起訴された5人のうち、社長の山口氏と、それに常務の山内氏は共に一審の公判中に死亡した。恐らく、文字通り死ぬほどストレスが溜まっていたのだろう。常務の方については結局死因は分からずじまいだったが、火災当時買い物客を見殺しにして避難する形になってしまった社長の山口氏は、高血圧症で病院に入院している間に急性肺炎を引き起こして死亡したのだった。この2人は兄弟だった。

 死んでしまっては責任追及も出来ない。よって、裁判では残る3人が被告人席に立つことになった。

 この裁判の経緯については、簡潔に記しておこう。とにかく83年には一審で無罪判決、88年には二審で有罪判決、91年には最高裁で無罪判決と、長ったらしい上に結論が二転三転しているのである。

 最終的な結論を手短に言えば、「死んだワンマン社長がぜんぶ悪い」ということである。少し商法上の法解釈も入ってくるのだが、法的にも防火・防災の管理者は代表取締役一人であるし、実質的にも、被告の3名は大洋デパートの防火防災について何か助言をしたり方策を考えたりする権限は与えられていなかった、ゆえに責任を問うことは出来ない、という結論が下されたのだ。

 少し付け加えると、起訴された売場課長兼営業部第三課長のM氏というのは、デパートの3階で火災が発覚した当時、必死に消火活動と延焼防止の手立てを講じたあの人である(資料によっては主任と書かれているのだが、この辺りの矛盾の理由はよく分からない)。彼もまた、火災発生時には最低限出来る限りの消火活動を行ったとして、細かな判断のミスは不問に付された。

 ちなみに、火災の原因は分からなかった。確かに火元の場所は間違いないし、そこが普段から従業員の喫煙所と化していたことも事実だし、その焼け跡からは吸殻も見つかっているという。……だがその煙草を吸っていたのは誰なのか? それは本当に出火原因なのか? 山と積まれた段ボール箱がその程度で燃え広がるものなのか? 等々の疑問が実験に実験を重ねて検証されたというが、この失火の原因は今に至るまで不明のままである。

 さて刑事裁判についてはこの調子で、誰にも責任を負わせられないまま終了した。関係者にとっては後味の悪い判決であったことだろう。

 だが、民事に関してはきちんと事が進んだ。

 そもそもデパート側は火災によって商品だけでも20億以上の損失を蒙ったのだが、被害者への補償や見舞金等々も当然払うことになった。

 で、その損害賠償請求額だが、これが総額30億にまで上ったという。これは最早公害補償並みで、内訳は死者1人につき3,300万円、その配偶者に600万円、その父母には300万円というものだった。 

 さすがに熊本有数のデパートとはいえ、これは全額耳を揃えて払えという方が無理だ。デパート側は遺族や負傷者との間で示談や和解を成立させ、何とか一部を支払い、さらに負傷者の治療費負担の軽減に尽力。また死亡した山口社長の遺族も、22億円あまりの私財を会社に提供し被害弁済に協力し、昭和56年、1981年3月31日までには総額12億5687万円の弁済を行ったと裁判の記録には記されている。

 大洋デパートは、正式には「株式会社太洋」の本店という位置付けの建造物である。上述の被害弁済は、株式会社太洋による会社更生手続きの一環として進められたものと思われる。この時既に、この企業は倒産していた。

   12

 ここからは、「大洋デパートその後」の話である。

 以下に記述するのは、公的な資料に基づいたレポートばかりではなく、ネット上の噂話めいたものを集めた部分があることも、あらかじめお断りしておく。

(ネット上の記述と、書籍として出ている記録の、どこまでが公的でどこまでがそうでないのか、曖昧に感じる所もあるが)

 実は、大洋デパートは、火災当時の社長達が起訴されてからほぼ1年後の1975年11月16日には再オープンしている。いやはや、あれだけの火災を起こしながらよくもぬけぬけと、などと言ったら言い過ぎかも知れないが、とにかく凄まじい生命力ではある。

 もちろん、今度は防災設備は完備されていた。ただ、防災を最優先させるあまり売り場面積の縮小を迫られたり、柱が補強のため馬鹿でかくなってしまったりと、やはり影響は引き摺っていたようである。再生大洋デパートは、結局この翌年に倒産してしまった。

 こうして株式会社太洋は被害債務を弁済するためだけの企業と化してしまった訳だが、ネット上で調べていた時に、株式会社太洋という法人そのものは今でも残っている、という記述を見た記憶がなくもない。申し訳ないことにどこで見たのかという記憶も定かでないのだが、もし本当ならばつくづく物凄い生命力である。

 大洋デパートの話はもう少し続く。1979年の10月には、デパート跡地に「熊本城屋」というデパートがオープンした。これはユニードというスーパーマーケット企業が出資した店らしいのだが、この5年後の84年にとんでもないことが起きた。この熊本城屋の1階で火災が発生したのだ。

 おいおい、またかよ!

 その時はボヤで済んだらしい。だが歴史とは奇妙な繰り返し方をするもので、これが大洋デパートの同じように改装工事中の火災で、しかも火災報知機が鳴っているにも関わらず、店は「これは火災ではない」と主張したとか。言うまでもなく熊本城屋はマスコミから叩かれ、店員達は地域の家々に詫びて回ったという。

 実に大洋デパート火災からおよそ10年後の出来事である。地元の人々は何を思っただろう。あの日、建物の隙間という隙間からもくもくと噴き出し、日差しすらも遮ったという怪物のような煙を思い出した者も多かったのではないだろうか。 

 そしてさらにその後の経緯だが、これは正直、情報がごちゃごちゃしていて何がなんだかよく分からない、というのが本音である。

 熊本城屋に出資してたユニードがダイエーと合併したとかしないとか、それに伴って熊本城屋の店舗名が城屋ダイエーとかダイエー城屋に代わったとか、最終的には単なるダイエーになったとか、なんか色々と紆余曲折があったようだ。少なくともその後、火災は起きていないようである。

 こうして現在、大洋デパート跡地には「ダイエー熊本下通店」がある。

 かつてこの建物の横には巨大な慰霊碑があったが、現在はそこから程近い白川という川の河川敷に移されており、今でも遺族が慰霊に訪れるらしい。

 そういえば慰霊碑と言えば、筆者にとってこの火災の最大の謎は「デパートの正式名称」である。公の記録などを読むと、火災を起こしたあのデパートは大抵は「大洋デパート」と書かれている。だが慰霊碑に刻まれた文字や、火災当時の建物の写真を見ると、そこにははっきり「太洋」と書かれているのである。点がついているのだ。

 不思議なことにこの矛盾を正そうとする文章は一度も見たことがない。こんな事柄からも、今やこのデパート火災がいかに「忘れられた災害」であるかが思われるのである。

 この火災の翌年には消防法も改正された。

 法律の原則に「遡及適用の禁止」というものがあることは一番最初に述べたが、1974年の消防法の改正で最も画期的だったのは、この法律の大原則に例外を定めた点であろう。公共的要素の高い旅館やホテル、デパート、病院、地下街などについては、過去に建造したものであっても現在の基準に適合させるよう義務付けたのである。

 筆者が思うに、戦後の建造物火災の頻発と、それに伴う法令強化のイタチごっこはここに至ってようやく決着をみたのだ。消防法は、近代法の大原則を踏み越えるという掟破りをあえて行うことで、戦後日本の建造物火災という黒歴史にピリオドを打った。その最後の決定打になったのが大洋デパート火災だったのである。

 消防関係の法令や条例の厳格さについては、今でも熊本市は全国一であるという。

【参考資料】
◆『建設庁大洋デパート火災事故調査委員会調査報告書』昭和49年3月
◆阿倍北夫『パニックの心理』講談社現代新書
◆杉山孝治『災害・事故を読む』文芸舎
◆朝日新聞・昭和48年(1973年)11月30日~平成3年(1991年)11月15日
◆第一法規『判例体系』
◆ウィキペディア他
◆消防防災博物館-特異火災事例
◆アサヒ芸能「人ごとではない大洋デパート大惨事」1973.12.13
◆週刊新潮「グラビア 死の商戦 熊本・大洋デパートの恐怖」1973.12.13
◆週刊新潮「今だからいわれる「熊本・大洋デパート山口亀鶴社長は葬儀屋から出世した男」1973.12.13
◆週刊平凡「熊本・大洋デパート 史上最大のデパート惨事!いま涙をさそう2つの悲話」1973.12.13
◆週刊朝日「グラビア 100余人の命を奪った巨大な火葬場 熊本・大洋デパートの火事」1973.12.14
◆週刊朝日「大洋デパート惨事の教訓 生死を分けたこの人間ドラマ」1973.12.14
◆週刊ポスト「大洋デパート惨事の危険はこんなに転がっている 歳末商戦たけなわ!考えてもゾーッとする」1973.12.14
◆週刊読売「6階からとびおりて助かった女性「奇跡」の内容 大洋デパート火事」1973.12.15
◆女性自身「熊本現地取材・大洋デパート大惨事 黒コゲの新妻にすがりつく若き夫」1973.12.15
◆サンデー毎日「熊本・大洋デパート炎上 歳末商魂の中に消えた101人」1973.12.16
◆週刊文春「デパート惨事の火元は「代理戦争」?大洋デパート惨事」1973.12.17
◆平凡パンチ「歳末のデパートは恐怖の焼場だ!!熊本の惨事が教える百貨店の致命的な欠陥」1973.12.17
◆ヤングレディ「緊急解く方 悲惨!熊本デパート火災!猛火に出会った100人 地獄に誘いこまれた運命」1973.12.17
◆女性セブン「大惨事のかげの悲しみのドラマ 熊本・大洋デパート」1973.12.19
◆週刊女性「これを読んでからデパートで買い物を!緊急提案 大洋デパート惨事に学ぶ」1973.12.22
◆週刊新潮「ワンマン社長亡きあとの大洋デパート経営陣 欠陥デパートの山口亀鶴社長が病死した」1974.12.19
 ※当時の写真週刊誌の記事の収集については、leprechaun氏よりご協力を頂きました。

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◆西武高槻ショッピングセンター火災(1973年)

 1973(昭和48)年9月25日のこと。

 大阪府高槻市の駅前では、「西武高槻ショッピングセンター」の建築が進められていた。

 開店予定日は4日後に迫っている。建物の外側はほぼ完成しており、市民はその日を心待ちにしていた。

 しかし、工事は予定よりも少しばかり遅れていた。急げや急げ。建物の中では、作業員や店の関係者、ガードマンなどが連日建物の中で寝泊りしていたという。

 そんな状況の中で出火した。朝の6時頃のことだった。

 火元は地下1階である。

 最初に気付いたのは宿直室の男性だった。6時27分、彼は警報装置が鳴っているのに気づいた。

「なんだ故障か? まさか火事じゃあるまいな」

 しかし様子を見に行ってびっくり仰天、廊下には煙が充満していた。彼は慌てて宿直室の他のメンバーを叩き起こした。

「おい火事だ起きろ! 逃げるんだ!」

 煙の勢いはすさまじく、消火や通報を行っている余裕はなかった。

 当時は、分かっているだけでも宿直室で8名、発電機室で2名、店舗の中央で2名が仮眠中だった。その他の人を合わせると、全部で40名ほどが建物の中にいたという(70名という資料もある)。

 実は、これに先立つ6時17分には、4階にいた作業員の1人が一度火災に気付いていた。「フロアに薄い煙が漂っている」と、1階の警備員室に連絡があったのだ。しかしこれは黙殺されたようである。

 造りかけの西武高槻ショッピングセンターは、たちまち上階まで煙が充満して煙突のような状態になった。火炎も立ち上っていく――。

 建物内にいた人々は、三々五々、避難を試みた。

 だが、この避難も統率の取れたものではなく、一瞬の判断がそれぞれの明暗を分けた。例えば、最初に火災に気付いた宿直の男性は、途中で煙のため道に迷い、かろうじて仲間に助けられている。

 消防への通報は、通行人の女性によって行われたという。

 しかし建物の燃え方は凄まじく、とても消防隊が突入できる状態ではなかった。また、西武高槻ショッピングセンターは工事中だったため、これまで防災関係の検査や調査は全く行われていなかったのだ。建物の内部構造もはっきりしていないのでは、迂闊に中にも入れない。消防泣かせの火災だった。

 建物の中からは、続々と避難者が飛び出してきた。その人数を以下に記そう。

 まず、1階の出入口からは11名。地下からは33名。さらに工事用の足場を使って6名が脱出している。ロープを用いて脱出したつわものもいたらしい。また、梯子車によって、4階と5階にいた逃げ遅れの人も救助された(やっぱり建物の中には70名くらいいたのだろうか?)。

 こうして、西武高槻ショッピングセンターは焼け落ちた。完全に鎮火するまでには、なんと20時間もの時間を要したという。建物も、開店の計画も全てがおじゃんである。

 この建物は鉄骨耐火造りの頑丈なものだった。だが、長時間高温にさらされたため、梁は曲がるわコンクリート床は崩壊するわで、鎮火する頃にはまるで爆弾でも落とされたような有様だったという。

 火災当時、建物内には段ボールが山と積まれていた。開店の際に陳列されるはずだった商品で、多くが可燃物だった。これが被害の拡大を招いたのだろう。

 死者は6名。多くは、煙と暗闇のために逃げ道を見失ったとみられ、その内訳は作業員が2名、ガードマンが2名、電気工事関係者が1名、西武百貨店の関係者が1名だった。負傷者は13名に及び、損害金額も55億円に上った。

 火災後、防火管理上の不備も次々に暴かれた。防火計画が消防に提出されていなかったとか、防災訓練が行われていなかったとか、例によってそんな内容だった。

 被害が大きくなったのは、先述の山積ダンボールのほか、防火シャッターが作動しなかったのもその一因だった。工事中のホコリによる誤作動を防ぐため、最初からスイッチが切られていたのだ。

 さらに言えば、火災報知機と放送設備もまだ「仮設置」の状態で、普通には使用できなかったという。スプリンクラーも屋内消火栓も火災報知設備も似たり寄ったりで、避難器具もなし。連結送水管は使えたそうだが、気づいた時にはフロアが煙で一杯だったため、結局使われることはなかった。防災設備は、ないも同然だったのだ。

 素人の目線では「工事中なんだしそのへんの不備は仕方ないんじゃないか」…という気もするのだが、しかしこの火災の直後には、あの太洋デパート火災も起きている。安易に「仕方ない」で片付けられる話ではない。

 工事中の高層建築物は、極めて危険なのである。できれば近づかない方がいいのだ。

 ちなみに気になる火災の原因だが、これは放火だった。11月5日に、綜合警備保障のガードマンの男性が逮捕されたのだ。

 彼は火災当時、建物内で勤務していた。だが体が弱く頭痛持ちで、長時間勤務が嫌で火をつけたのだという。開いた口がふさがらないとはこのことである。

【参考資料】
ウェブサイト『消防防災博物館』
ウェブサイト『誰か昭和を想わざる』
ウェブサイト『高槻のええとこブログ』

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◆済生会八幡病院火災(1973年)

 1972(昭和47)~73(昭和48)年というのは火災の当たり年だったらしい。とにかく当研究室でご紹介したものだけでも千日、大洋、北陸トンネル、高槻ショッピングセンターと、戦後の火災史の中でも有名なものがこの時期に集中している。この八幡病院火災もそのひとつだ。

 1973(昭和48)年3月8日のことである。現場は福岡県北九州市、八幡区春の町。日付が8日に変わって間もない深夜、済生会八幡病院も夜の静けさの中にあった。

 同病院は地下1階から最上階5階まである大規模施設で、当時も入院患者235名を抱えていた。さらに3階には屋上庭園もあり、当時は増築工事もしていたというから人気があったのだろう。

 しかしそんな大病院で火災が起きる。原因は、一人の人物の「お酒によるやらかし」だった。

 その人物というのは、産婦人科の39歳の医長である。彼は、当番医というのか宿直というのかよく分からないが、とにかくそういう夜勤の当番みたいな役目で詰めていたらしい。で、彼は、午前3時を回る頃まで同僚と飲酒していたのだった。

「ウイーヒック飲みすぎちまった。さて寝るか!」

 おそらくそういう感じのノリで、彼は外来用のベッドに倒れこんだ。そこは自分の縄張り、産婦人科の外来診察室だった。

 少し経って再び目を覚ましたのが午前3時21分。彼は、足元がやけに熱いのに気付いた。なんだ? せっかくいい気持ちで寝てたのに……。しかし目の前の光景は驚くべきものだった。なんと診察室のカーテンが燃えていたのだ。

 原因は、寝る直前に彼が仕掛けた、季節外れの蚊取り線香だった。

 彼はまず上着で叩いて火を消そうとした。だが、かえって煽られる形になり火勢は拡大。さらに洗面器に水を汲んで消火を試みたがこれも失敗し、ここでようやく助けを呼ぶ。

「火事だ、消すのを手伝ってくれ!」

 当直の医師や看護婦や婦長、さらに事務員や守衛などが集まって、皆で消火にかかったが駄目だった。すでに状況は「初期」消火と呼べるようなものではなく消火器も消火栓も役に立たなかった。

 午前3時51分、ついに婦長によって消防へ最初の通報がなされた。時刻を見れば分かる通り、すでにカーテンへの着火が確認されてから30分も経過していた。

 実はこの直前、近所の住人も「病院の4階から煙が出ている」と通報している。火元の診察室は壁から天井に至るまで合板が張り巡らされており、炎はそれを伝って既に天井裏から伝播していたのだ。関係者が初期消火のつもりで奮闘している間にも、煙は少なくとも4階まで上っていたのである。

 消防が到着した時は、守衛が階段の下で放水していたという。おそらくこの時点で、もう現場の診察室には入れない状態だったのだろう。

 現場は混乱した。どうも病院側からの情報提供が適切でなかったらしく、一時、一か所に救助隊が無駄に集中したこともあったようだ。

 救助活動も難航した。梯子車やスノーケル車も駆けつけたのだが、増築工事が行われていたこともあってそれらの緊急車両は半分くらいしか使えなかったという。

 各階の、入院患者の救助の内訳は以下の通りである。

・2階……51名中、31名を看護婦が救出。残りは消防隊が救出。
・3階……患者たちは屋上庭園に避難し(誘導があったかは不明)、そのうち64名が屋外階段で脱出、残り27名がスノーケル車で救助。
・4階……24名が自主避難(うち9名は雨樋を伝って脱出)。58名を消防隊が救出。

 こうして見るとかなりの人数が助かっている。しかし4階の333・335・338号室では避難も救助も間に合わなかったらしく13名が亡くなっている。内訳は1名が飛び降り、1名は救出されたものの病院搬送後に死亡、残りは逃げ遅れだった。亡くなったのは、自力での避難が難しい老人や子供だった。

 二桁の犠牲者を出してしまった八幡病院だが、実は防火体制については「優等生」と言っても差し支えないほど整備されていた。防火対策委員会と自衛消防隊が組織されており、どちらも医長がトップとなって指揮系統が確立されていた。

 さらに、このうち自衛消防隊は250名の隊員で編成されており、昼夜の交代態勢で時間ごとの人員配置まで決められていたという。また避難訓練も行われていたし防火扉だってあった。割合として、助かった人が多いのはこうした体制のおかげもあったのかも知れない。

 もっとも、増築工事をすることになった際、消防からいろいろと指摘されていたようだ。5階には避難器具がないとか(ただし5階は研究室で患者はいなかった)、防火区画と耐火区画の区割りに不備があるとか、煙探知機と放送設備が基準に適合していない等々……。それらの不備が、被害が拡大する要因になったのかどうかは分からない。

 それにしても、千日デパート・高槻ショッピングセンター・大洋デパートなど、1972(昭和47)年~1973(昭和48)年に起きた大規模な高層建築物火災は、なぜかどれも工事中に発生しているのが興味深い。

 工事中の建造物は、平常の状態とは異なっている。よって普段は閉め切られている場所が開け放たれていて煙が伝播したり、普通なら通れるはずの通路が通れなくなっていて避難が遅れたり、設備によっては一時的に電気が通らなくなっていたり――ということもあるかも知れない。そこで火災が起きれば、なるほど大変なことになるだろう。


【参考資料】
消防防災博物館 特異火災事例
災害記録
国立情報学研究所論文ナビゲータ「済生会八幡病院火災時における 患者を中心とした避難行動 : 病院建築の防火・安全計画に関する研究 その2 : 建築計画」

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◆千日デパート火災(1972年)

 その日の夜、ホステスのA子はボックス席につき、お客の中年男性と一緒に盛り上がっていた。

 その客は今までにも2、3回この店に来たことがあった。今では立派な御馴染みさんである。

 地上7階にあるアルバイトサロン「プレイタウン」でのことである。

 プレイタウンの週末の夜は盛り上がる。週休二日制など夢のまた夢という時代、土曜の夜は仕事帰りのサラリーマンたちで賑わうのだった。

 ステージ上では、この日最後のショウが終わったところだった。バンドマンと踊り子が、拍手を受けながらいったん舞台の奥へと引っ込んでいく――。

 だがプレイタウンの人々にとってはまだまだ宵の口である。この後にもバンドの演奏は続き、プレイタウンの夜は更に盛り上がる、はずだった。

 時刻は22時40分のことである。ふと、バンドマンの演奏が止まった。

 それと併せて、店内もどことなく奇妙な雰囲気に包まれる。ステージの近くのキッチンあたりで、数名の人間がうろうろしているのだ。

「なんや?」

 プレイタウンの人々は、そちらに目を向ける。

 よく見れば、男性従業員たちは消火器を持ってきたり、バケツで水をかけているようだった。

 さらに、異変はそれだけではなかった。

「焦げ臭くないか」
「なんか匂うぞ」

 煙の匂いが、店内に漂い始めたのである。

「火事やないかしらん」

 まだ客とボックス席にいたA子は、思わずそう口にした。

「えっ火事、そらあかん。わても帰ろか」

 お客は慌てて立ち上がろうとする。一応A子はそれを引き止めた。

「わて見て来ますねん……」

 そして席を立ったが、やはりよく分からない。男性従業員達は消火活動をしているように見えるが、なぜ消火器やバケツの水で消えないのだろう?

 火のないところに煙は立たぬ。何かが燃えて煙が上がっているのは確からしいが、そもそも何が燃えているのか? 火事の現場はどこなのか? しかしA子はその答えを得ることはできなかった。炎などどこにも見えない。

 彼女はもとのボックス席に戻った。

「やっぱり、帰ったほうが無事やわ」
「ほなそうするか。おあいそしまひょ」

 中年のお客は、そう言うと改めて席を立った。

 A子に付き添われながら、お客はレジへ向かう。だがそこは既に人でいっぱいで、お勘定は簡単に済みそうになかった。

 ざわざわ。ざわざわ。

(様子が変や)

 誰もがそう思ったに違いない。この時、多くの人が異変を感じており、プレイタウンからの「脱出」を考えていたのである。

 だがこの時までは、少なくともパニックはなかった。事態が急展開し始めたのはこの直後からである。店の出口から、突如として黒煙が進入してきたのだ――。

 それは、さっき白煙が漂ってきていたキッチンとは正反対の方向だった。プレイタウン内部はあっちからも煙、こっちからも煙という状況に陥ったのだ。

「火事や!」
「助けて!」

 黒煙に追われるようにしてプレイタウン内に戻ってきたのは、さっき店から出たばかりの一群だった。どうやら黒煙はエレベーターの竪穴を伝って上ってきたらしく、もはやエレベーターからの脱出が不可能なのは明らかだった。

 非常階段もあるにはあるが、煙で充満しているエレベーターホールの奥にある。そこに辿り着くのは到底無理だ。

 そうこうしている間に、キッチン方向からの白煙も、いよいよ本格的な黒煙に変わっていた。プレイタウンの温度も高くなってきている。

 依然として炎はどこにも見えない。しかしとにかく、この建物のどこかが燃えているのは明らかだ。

「こっちや、こっちにベニヤの仕切りがある。それを破れば逃げられるはずや!」

 その時そう叫んだのは、古参のボーイだった。彼はたった今、お客たちをエレベーター方向へ誘導したはいいものの、けっきょく黒煙に追われプレイタウン内に戻ってきたのだった。

 ベニヤ板を破るというのは、この場合苦肉の策だった。当時プレイタウンの隣では、千日激情という施設の改装工事が行われていたのだ。両者の間はベニヤ板一枚で区切られているはずだったので、それを破れば逃げられると考えたのである。

 ところが、壁を覆っていたカーテンを開けたボーイは驚愕した。ベニヤ板だったはずの仕切りが、いつの間にかブロックに変わっていたのだ。

「なんやこれ、これじゃ逃げれへん!」

 しかし彼の後ろに続いていた人々は、すでに冷静な判断力を失っていた。

「こっちから逃げられる言うたやないか!」

 げに恐ろしきはパニックの心理である。多くの者が、そのブロック積みの壁を壊しにかかったのだ。しかも素手で。

 なんや何やっとるんや、そないなことでブロックの壁が壊せるかい! ボーイは突っ込みを入れようとするが、もはや煙のせいで声も出ない。たまらず、他の数人と一緒に群集の中から脱出した。

 こうしてプレイタウンは恐慌と混乱に陥った。どこかに突破口はないかと、人々はすがるものを探して右往左往し始める。その顔には一様に恐怖が貼り付いていた。

 そこで、中央階段に通じるシャッターを開けようとしている者がいた。プレイタウンのマネージャーである。

 なるほど、中央階段は屋上へ通じている。そのシャッターが開けば首尾よく脱出できるはずだ。

 よっしゃ協力したろ。パニック集団から脱出したばかりのボーイは手を貸してやった。シャッターは電動式で、開閉ボタンを押してやるとすぐに開いた。

 そしてゆっくりとシャッターが開いた……のだが、その向こうから現れたものを見て人々は悲鳴を上げていた。黒煙である。さらに大量の黒煙が、中央階段から流れ込んできたのだ。

 出入口という出入口から流入してくる煙、煙、煙。もう逃げ場はない。

 時刻は22時49分。ここで停電が起き、プレイタウンは暗闇になった。

 ある者は怒号を上げ、またある者は何事かを叫んだ。しかしその誰もが、次の瞬間には呼吸とともに一酸化炭素中毒の餌食になっていった。煙の中、人々は倒れ、室内はたちまち静かになっていく。

 さてA子である。彼女はこの猛煙の地獄の中で、窓へ向かっていった。

 あの馴染みの中年客も一緒である。

 人々がパニックに陥っている中を、二人は必死にくぐり抜けた。とにかく外気を吸わなければいけない、でなければ死んでしまう――。

 何枚かの窓は、すでに破られていた。幾人かが外に顔を出して助けを求めている。

 先述した通り、プレイタウンは7階にある。窓があるからと言って簡単に飛び出せるはずもない。人々は上半身を外へ突き出し、外気を吸おうとするので精一杯だった。

 A子も、馴染み客も、もちろんそうした。

 しかし煙はとてつもなかった。身を乗り出して外気を吸った途端、そうはさせまいと、背後から煙が覆いかぶさってくるのだ。目が痛い。喉も痛い。意識は朦朧とし、それでもなんとか空気を吸い、それで覚醒したかと思えばまた猛煙で失神しそうになる。この繰り返しだった。

 もうアカン、と言わんばかりに窓枠を乗り越えたのは、A子と一緒にいた馴染みの客だった。

 飛び降りる気か!?

 ところがそうではない。なんと彼は、煙を避けるために建物の外の壁に張り付いたのだった。

 A子にはそんな芸当はとても無理だ。窓から身を乗り出して失神寸前で助けを求め続けるしかない。

 この時には、眼下の道路には消防車と野次馬が集まっていた。救助に来てくれている――! プレイタウンの人々は手やハンカチを振る。

「これや、これを使うといいはず」

 一人の従業員が、思い出したように「救助袋」に取り付く。窓際に据え付けられたそれを外すと、地上へ投げ下ろした。

 「救助袋」とは、長い袋状になった救出器具である。袋にもぐり込むと、そのままトンネルの滑り台のように地上に到達するという仕組みだ。

 ところがこの火災では、この救助袋がかえって仇となった。従業員がこの袋の正しい使用法を知らなかったのか、人がもぐり込むための穴が開かれなかったのだ。せっかくの救助袋も、これではただの布の紐である。

 それでも煙にまかれている人々にとっては、これが唯一の命綱だ。多くの者がこれにしがみつき、ぶら下がって、脱出を試みる。しかし使用法が正しくないのだからまともに脱出できるわけもなく、ほとんどが途中で墜落した。

「あかん、あれはダメや。あれやったら死んでしまうだけや」

 A子のこの判断は適切だった。

 この時、地上からは、野次馬たちが救助袋の下の部分を支えて必死に叫んでいたという。「袋にぶら下がるな! 中にもぐり込め!」と。

 だが地上7階で意識朦朧となっている人々には、彼らが何を言っているのかは全く分からなかった。中には、野次馬から笑われているように聞こえて腹が立ったという者もいたほどだ。

 救助袋による落下が引き金になったのか、この辺りから、煙に耐えかねて墜死する者も大勢出てきた。

 ものの本によると、人はこういう時には高さの感覚が分からなくなるという。眼下に見える町の明かりがやけに近くに見えて、今この地獄にいるよりは……、と身を躍らせてしまうのだとか。

 また地上7階からは、飛び降りた者がどうなったのかははっきりと分からない。あるいはそれで助かるのかも知れない、という一抹の期待が窓枠を乗り越えさせてしまうのだ。

 こんな状況の中で、A子はとにかく耐えた。

 彼女の足元では、煙によって昏倒した人々が何十人も横たわっている。ついさっきまで酒宴で盛り上がっていたはずの同僚のホステスやお客たちだ。また意識のある者も、次々に地上へ向けて飛び降りていくのである。まったく、悪夢以外の何物でもない状況だった。

 やがて、待望の梯子車が、彼女のそばへ梯子を伸ばしてきた。

 このルポで先に登場したボーイやマネージャーは、この梯子によって助け出されている。

 しかし困ったことにこの梯子、なぜかA子のいる窓にはなかなか来てくれなかった。隣の窓で止まったままだったのだ。

 ここで彼女は最後の試練を与えられたのだった。あの窓へ移動すれば助かる――。

 しかし、たかが隣の窓への距離と言っても、室内は煙と熱気に満ちた地獄である。彼女にはこれは何よりも長い距離のように思われたに違いない。床の上を転がり、あがいて、もがきながら、彼女はようやくそこへ辿り着いた。

 そしてようやく助け出されて梯子を降りようとする時、彼女はあることに気付いた。

 あの馴染みの中年男性客が、まだ窓のところにしがみ付いていたのだ。

 この男性客の体力も大したものだが、A子の気丈さにも舌を巻く。彼女は、煙を吸ったためほとんど声が出ないというのに、しわがれた声でこう叫んだのである。

「あんさんも来なはれ。このままでは死んでしまう」

 2人は無事に生還した。

   ☆

 これは1972年(昭和47年)5月13日の出来事である。

 この日の夜、大阪・ミナミで発生したこの火災は、その煙の恐るべき威力によって118名もの人々を死に至らしめた。

 さらにこの翌年には大洋デパートで103名が死亡する大火災が発生し、ついに消防法は大きく改正されることになるのである。

 こうしてこの建物は、日本の火災史を語る上で欠くことのできない悪名を歴史に刻み込むことになったのだ。

 その名は千日デパート。

 ここでの死者数は、日本の高層建築物の火災としては、今でも右に出るもののない数字である。

【参考資料】
◆安倍北夫『パニックの心理』講談社現代新書
◆岸本洋平『煙に斃れた118人』近代消防ブックレットNo.7
◆ウィキペディア
◆失敗知識データベース

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◆呉市山林火災(1971年)

 山林火災――いわゆる「山火事」の中でも、戦後最悪とされる事例である。死亡者は全て消防隊員という、かなりショッキングな内容だ。

   ☆

 1971(昭和46)年4月27日、午前11時10分頃のことである。広島県呉市野呂山の一部である大張矢山(おおばりやさん)の民有林から火の手が上がった。

 もっと具体的に言うと、そこは「門の口用水地」という場所の付近だったそうな。当時、そこでは災害復旧工事が行われていた。作業員が火を焚いて湯を沸かしていたところ、近くの枯れ草に燃え移ったのだ。

 悪いことに、この日は乾燥注意報が出ていた。2日前から火災警報も発令されている。風も非常に強く、最大瞬間風速14メートル。炎は休耕中の農地に飛び火し、みるみる火勢を増した。木の枝などの燃えカスが舞い上がり、麓の町に降り注ぐ――。

 午前11時18分、消防に通報が入った。

 駆け付けたのは、呉市消防局東消防署の第一小隊16人。さっそく消火にあたったが、火勢が強すぎてどうしようもなかった。また当時の消防は、現代に生きる我々から見ると信じられないくらいに装備が不足していた。自治体でも重要視されておらず、予算を回してもらえなかったらしい。延焼を防ごうにも、使えるものは草刈鎌とナタとスコップくらいという有様だった。

 また、少々特殊な事情もあった。この市は昔から温暖で雨も少なく、山火事も多い。「山火事銀座」などというひどい呼び名もあったとかなかったとか。よって頻発する山火事への対応でてんてこまいで、人手も足りなかったのだ。

 人がいないんだから仕方がない。先述の16人の他にも、勤務明けで休んでいた職員や、非番だった者も特別召集された。その数18名。彼らは午前11時35分に第二小隊として編成され、現場に向かった。

 この18名が「全滅」することになる。

 現場に第一・第二小隊が集合すると、署長は第二小隊に指示。消火作業に向かわせた。

 この時、火災は掲山(あげやま)という山へ延焼しつつあった。このままでは、市街地に影響が及ぶ恐れもある。消防としては何としても防止線を作る必要があり、署長も第二小隊も急いでいたようだ。

 命令を受けた第二小隊。彼らは稜線を下り、谷の入り口へと入っていった。

 だが、そこで悲劇が起きる。突如として火炎が勢いを増し、予想だにしないスピードで第二小隊に押し寄せたのだ。

 それは「急炎上(flare up)」と呼ばれる現象だった。斜面の角度が40度を越える急斜面では、下っていく火炎のスピードが、その数倍に跳ね上がることがあるのだ。

 また、参考資料『なぜ、人のために命を賭けるのか』によると、この時に風向きが急激に変わり、ちょっとした竜巻のようになったらしい。

 第一小隊がいる位置からは、火炎が押し寄せるさまが俯瞰できた。彼らは色をなくし、第二小隊に向かって叫ぶ。

「第二小隊、戻れ、戻るんだ!」

 彼らが駆け下りていった方面には、伐採後の枝木や枯れ草、廃材、薪などが積み上げられていた。そこに火がついたらもう逃げられない――。

 レシーバーに向かって必死に呼びかける第一小隊。しかし応答がない。もうなすすべはなかった。彼らの見ている目の前で、谷の一帯が猛火と猛煙に呑み込まれていった。

 なぜレシーバーは応答がなかったのだろうか。これは、何かにぶつかってスイッチがオフになっていたのではないか、と考えられている。おそらく当時はそういうことが結構あったのだろう。今はネジ式だというレシーバーのスイッチ、当時は簡素なレバー式だった。

 谷が炎に包まれていく間、上空を飛んでいたヘリはその一部始終を見ていた。記録によると、飛び火によって林が一瞬にして焼き尽くされたのが14時45分のこと。そして15時49分には、現場に遺体が散在しているのが確認できたという。

 第一小隊が救助にあたったものの、16時2分には13名が遺体で発見。さらに19分には1名が重傷を負った状態で発見(後に死亡)、続けて、残る4名も遺体で見つかった。

 18名もの将来有望な消防士たちの命を奪っておいて、なお火災は鎮まらない。

 最終的に駆け付けた消防局職員は84名、派遣された消防車は109台、消防団員は400名に及んだ。さらにそこへ陸自隊員、海自隊員、営林署職員なども加わって、総勢1,900名がこの火災の消火活動にあたった。

 幸い、人家に延焼することはなかった。だが鎮火までには丸一日かかったという。雨のおかげもあってようやく落ち着いた頃には、すでに国有林115ヘクタール、市有林85ヘクタール、民有林140ヘクタール、合わせて340ヘクタールが焼き尽くされていた。

 死亡者総数18名。戦後の山林火災では最悪の数字である。しかも犠牲者は皆ベテランの消防士であった。

 実は、呉市消防局は、2年前の1969(昭和44)年にも山火事で消防士2人を失っていた。立て続けに仲間を失った消防隊員たちの悔しさたるや、想像するに余りある。

 この呉市山火事は大きな教訓を残した。まず、消火活動においては、局地的な気象条件も考慮に入れなければならないということ。そして地上からの消火は危険すぎるため、上空からの消火活動を可能にしなければいけない、ということである。

 こうして、全国の山間には風力計や湿度計が設置された。さらにまた、大規模な山火事においてはヘリの出動が常識となったのである。

 当時、こうした上空からの消火活動は一般的なものではなかった。呉市山火事においても、消火のために出動したのは民間機が一機だけであったという。

 現在この火災は、消防庁では「呉市林野火災」、また呉市消防局では「大張矢山林火災」などとも呼ばれている。

【参考資料】
◆ウィキペディア
◆中澤昭『なぜ、人のために命を賭けるのか』近代消防社・2004年

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◆磐光ホテル火災(1969年)

 かつて、福島県郡山市熱海町には、磐光ホテルという宿泊施設が存在した。

 住所も、福島県郡山市熱海町熱海3丁目とはっきりしている。資料によると、どうやらこれは、後年のバブル期に乱立したリゾート施設の先駆みたいなものだったらしい。

 それが完成するまでの経過を簡単に書くと、まず1965(昭和40)年に鉄筋コンクリート4階建ての本館が建てられた。そしてそれを皮切りに、今度は10億円規模の資本が注ぎ込まれた「新館」と「別館」が次々に建設された。


 さらに1968(昭和43)年5月にはレジャー施設「磐光パラダイス」という娯楽施設が建設され、同年9月にはホテルニュー磐光が隣接地に落成。ちなみに磐光パラダイスの内訳はキャバレー、温泉プール、映画館、外人ホステスクラブ、それにゲームコーナーと、なんでもありだ。

 これらを総称した磐光ホテルのキャッチフレーズは、「来て見てびっくり」。こっちは調べてびっくり、である。

 最終的には全体の客室が220室、収納可能人数は1,300人(220の客室に1,300人をどう詰め込むのか、少し不思議ではあるが)という巨大娯楽施設の出来上がりである。イイ感じにひなびた磐梯熱海温泉街に、突如として出現した不夜城だった。

 だが、こんな天国のような娯楽施設も、ひとたび火がつけば灰燼に帰すのだから儚い。運命の女神は変なところで公平で、磐光ホテルの最期を彩ったこの火災は、今では数あるホテル火災の典型的な一事例として記録されているに過ぎない。

   ☆

 1969(昭和44)年2月5日、午後9時過ぎの出来事である。

 その日、磐光ホテルの外は猛吹雪だった。この悪天候のせいでホテルでは停電も相次いでいたという。

 後述するが、この時福島県は豆台風とでも呼ぶべき強風に見舞われていた。昔ながらの温泉街のほうはこの嵐が立ち去るのを静かにじっと待っていたのだが、磐光ホテルは宴もたけなわ、停電なんてなんのその。1階の大広間では、当ホテルの目玉イベントである「金粉ショウ」が行われるところだった。

 筆者は金粉ショウなるものを実際に見たことはないが、なんか体中に金粉を塗った踊り子が、火のついた松明を使って踊ったりするものらしい。

 それでこの時、ダンサーたちは舞台裏の控室で準備を整えていた。

 ところが、そのショウで使う予定だった松明が、石油ストーヴから引火したからさあ大変。松明にはベンジンが染み込ませてあったのだが、それを火気のそばに置いておいたのが運の尽きだった。

「まずいぞこれ、早く消せ!」

 てなわけでダンサーたちは消火を試みた。そうそう、火災は初期消火が大事なのである。

 ところがここからが問題だった。ステージの向こうには大勢のお客が詰めかけている。騒ぎにしてはまずい、ここは自分たちだけで手早く消火してしまおう――彼らはそう判断したのである。それで急いで中幕を下ろすと、その裏でこっそり消火を始めた。

 まあそれで本当に火が消えれば良かったのだが、なんとここで採られた方法が「口で吹き消す」という、ショウの時とまったく同じやり方だったから「あ~あ」である。火勢はさらに拡大。そのうち、舞台の緞帳にも燃え移った。

 それまでにも、煙がステージの方に流れ出したりしていたらしい。だがそれは金粉ショウの演出と勘違いされており、当初は誰も騒がなかった。それでもさすがに緞帳が燃え出したところで、舞台に立っていた歌手が異変に気付き、マイクで一声。

「火事だ~!」

 これが最初の火災覚知となった。

 資料によると、これによって大広間は大混乱になったという。人々は一気に出口へ殺到した。まあ当然そうなるわな。

 だがまあ、ここでホテルの従業員たちはわりと的確に動いていたようだ。大部分のお客は、避難誘導によって脱出に成功した。この点は、他のホテル火災やデパート火災に比べれば遥かに感心する。

 だが100点満点をあげるわけにはいかない。この火災の死者30名のうち、少なくとも25名はこの大広間からの逃げ遅れだったとされている。

 もともと、火事のきっかけになった金粉ショウは3階のホールで行われる予定だった。だがこの日は強風で屋根が壊れたとかいう理由で、開場が急遽1階の宴会場に変更されていたのである。炎を扱う催し物があったことを考えると、これは消防法上も問題のある措置だった。

「3階よりも1階のほうが、外に逃げやすいんじゃないの?」

 という声も聞こえてきそうだ。しかし1階には土産物の売店やゲームコーナーがあり、これが避難の邪魔になったのである。煙によって視界も利かなくなっていた。

 さらには、火災報知機のスイッチも切られていたのだ。停電のたびに鳴るのでうるさい、というのがその理由である。よって2階以上の階のお客らは避難が遅れ、多くはなんとか救助されたものの、最終的に3階の2名が死亡している。

 当時、このホテルは全館で暖房が利いており、それで乾燥し切っていた。そのため、火炎が上階や他の施設にまで簡単に延焼したのだった。

 この他にも、ホテル火災にありがちな防災面での欠陥が多くあったようだ。非常口の扉が針金で固定されていたというし、また防火扉はないわ防火シャッターも動かないわでもはや防火区画もへったくれもなく、延焼し放題だった。

 もちろん、それらは見過ごせない過失である。だがこの磐光ホテル火災について言えば、これほどの悪条件にも見舞われた火災もちょっと珍しい気がする。

 その悪条件とは、天候である。

 いやもう本当に、これについては運が悪かったとしか言いようがないのだ。まず当時、外が猛吹雪だったことは先述した。5日と6日は中部・関東地方以北で強風が吹き荒れていたのである。この少し前に、台湾沖と日本海の西部で発生した2つの低気圧のためだった。

 暦で言えば立春の時期である。だが5日の朝には福島県下には大雪・強風注意報も出ており、参考文献によると、現場の付近では大型バスが転倒する事故も起きていたらしい。

 もともとこの地域では、強風が風物詩みたいなところがあった。猪苗代湖と磐梯山の方向から吹いてくる風がぶつかり合い、風速計が使い物にならなくなることすらあるという。それが冬場なら、吹雪でなおさらひどいことになるわけだ。で、火災時の風速は平均20メートル。人間の手で延焼を防ぐすべなどなかった。

 そこでようやく、消防の登場である。

 しかし、消火活動も救助活動も難航した。いや、もはや難航とかいうレベルではなく、混乱の上乗せみたいな結果になってしまったのだった。

 まずは風である。消火しようにも、とてつもない強風のため放水した端から飛び散ってしまう。しかもマイナス7度という気温のため、建物にかかった水も片端から凍った。これでは、屋根に上って消火活動をしている隊員もいつ転倒するか気が気でない。あげくその屋根が熱で膨らんで破裂したり火を噴いたりするのである。もう悪条件の揃い踏みである。

 もちろん、ホテルの従業員たちも手をこまねいていたわけではない。以前から自衛消防隊とやらを組織しており、この時も自主的に消火活動を行っていた。しかしやっぱり強風と凍結のため、せっかく伸ばした屋外消火栓も全然使い物にならなかったという。戦力外である。

 またさらに、この頃の消防の設備はお粗末もいいところだった。ポンプ車はおんぼろのポンコツ、防毒マスクは濡れタオルと大差ないおもちゃ同然の代物。梯子車だって高層階には届かない。おまけに水利も悪いと来ては消火も救助もまともにできるわけがなく、なんと消防自らが、やむを得ず被災者に屋上からの飛び降りを促す場面もあったという。

 こんな調子なので、ほどなく消防隊員の中にも疲労と低体温症でぶっ倒れるものが出た。暖を取るために、火災現場の一部の炎を消さないでおく必要すらあったというから、これはなんとも笑えない喜劇である。

 そんなこんなで、ようやく鎮火したのが翌朝の午前6時30分。消防が到着してから9時間後のことだった。

 磐光ホテルの当時の宿泊人数は295名。死亡者数は、先にもちょっと書いた通り30名(31名という資料もある)で、負傷者も41名に上った。

 ホテルは完全に焼き尽くされ、焼損面積は15,511平方メートル。そして損害金額は10億9,826万円。面積も金額も数字が大きすぎ、筆者などにはどうもピンと来ないのだが読者の皆さんはいかがであろうか。しかもこれは1969年当時の金額である。

 資料によると、火災の翌日には、出火の原因となった粗忽者のダンサーが、重失火と重過失致死容疑で逮捕されたという。

 だがさらに資料を辿っていくと、実際に起訴され有罪とされらのはホテルの総務課長の方だったらしく、こちらは禁固2年、執行猶予2年の判決となっている。ダンサーの逮捕からこの判決に至るまで、一体どんな経緯があったのだろう? また遺族への補償はどうなったのだろう? 気になるところである。

 これについては「調べて書けよ」という声が聞こえてきそうだが、資料が見つからないので仕方がない。だって山形県立図書館に、この火災の判決文が載ってる判例時報、置いてないんだもん。

 現場となったホテルは解体され、その後、名古屋鉄道に買収されて「磐梯グランドホテル」として再建している。あわせて「磐光パラダイス」も復活して平成になるまで営業を続けていた。

 だが、2000(平成12)年には全施設が閉鎖となり、現在は更地である。

   ☆

 最後にこれは余談だが、参考資料『なぜ、人のために命を賭けるのか』によると、当時現場に駆け付けた消防士の一人が「この火災では30人が死ぬ」という不吉な予言をしていたという。

 それで本当に30名が亡くなっているので、ちょっと読んだ限りだとこれは神秘的な予言という感じがする。

 んで、この消防士だが、引退後に回顧録として「磐光ホテル火災」という文章を書き、2002(平成14)年に脱稿しているという。

 もしこんな予言があったのが事実ならば、この回顧録は是非読んでみたいところだ。しかし2011(平成23)年10月22日現在、この文章がどこで読めるのかは不明である。

 ネットで公開されているのだろうか。あるいは、どこからか出版されているのだろうか。副題がまたケッサクで、「私は火災発生と死者数を予言し、的中してしまった」というふざけたものらしいが、もしこの文書をどこかで見かけた方がおられたら、是非教えて頂きたい。

 まあ実を言えば、筆者はこの予言うんぬんのエピソードは全部デタラメだと考えているのだが。

 『なぜ、人のために命を賭けるのか』は極端に消防の活躍を美化して描いた書物である。よってこのエピソードは、消防側の不手際をごまかすために著者が捏造したものだろう。「この火災では消防が火災に完全敗北した。しかしそれは予定調和の出来事であったのだ」――というわけだ。

 捏造というほど強烈な意図はなかったとしても、消防側の不手際を、文学的表現で薄めようとしたところはあると思う。

 だからおそらく、先に述べた「磐光ホテル火災 ~私は火災発生と死者数を予言し、的中してしまった~」というタイトルだけで爆笑ものの回顧録はどこにも存在していないと思う。

 この火災は、消防の完全なる敗北譚である。だがこれを端緒とするいくつかの敗北があったからこそ、現在の消防設備はあれほどまで整備されたのだ。こうした歴史の経緯をごまかしてはいかんよ。必死の思いで消火作業にあたった消防士たちはもちろん、亡くなった人に対しても失礼だ。

【参考資料】
◆ウィキペディア他
◆消防防災博物館-特異火災事例
◆中澤昭『なぜ、人のために命を賭けるのか』近代消防社2004年

◆池之坊満月城火災(1968年)

 伝統ある有馬温泉に1968(昭和43)年当時存在していた池之坊満月城は、古くから経営されていた「池之坊」に由来する由緒正しい旅館であった(※資料によっては「池の坊」の表記のものもある)。

 しかしこの池之坊満月城、正しいのが「由緒」だけだったからかなわない。その実態は法令違反しまくりの恐るべき建物で、ツギハギだらけの増築と度重なる消防署からの指導の無視を繰り返していたとんでもない代物だった。これが火事になったのだからさあ大変、というお話である。

 時は1968(昭和43)年11月2日、午前2時40分。

 居室で休んでいた従業員の一人が、異様な煙たさで目を覚ました。

「むにゃむにゃ。まさか火事じゃあるまいな」

 この従業員は、妻と共に様子を見に行った。どうもサービスルーム付近がおかしい。それで覗いてみると、なんとサービスルーム周辺が燃え、煙が出ているではないか。火事だ!

「大変だ。火事だ火事だ避難して下さい!」

 この従業員夫婦は、館内を駆け回りそう連呼した。

 それで、館内に分散して休んでいた従業員もびっくり仰天。試しにバケツで水を2、3杯かけてみたが効果はなかった。

 ちなみにサービスルームとは、宴会などの際に料理や飲み物を準備するための部屋であるという。出火原因は最後まで不明のままだったが、この部屋、出火後ほとんど間をおかず、フラッシュオーバーのため爆発的に火炎が拡大していたことが判明している。

「火事だ火事だ避難して下さ~い!」

 その間にも火事ぶれを行っていたこの従業員、玄関ロビーに出たところで夜間警備員と出くわした。

従業員「消防はそろそろ来るのかな?」
警備員「間もなく来るでしょう。すぐに通報したんですよね?」
従業員「いや誰かしてくれたんじゃないの?」
警備員「してないと思いますよ」

 従業員は真っ青になり、慌てて電話機に取り付く。この時、既に最初の火災発見から25分以上が経過していた。

「なんということだ、私がすぐ通報していれば良かった! お客さんの身に何かあったらどうすればいいんだ……」

 口惜しがりながらダイヤルを回す従業員。その目の前に一人の男が現れた。宿泊客の一人である。

宿泊客「大丈夫です。あなたに責任はありませんよ」
従業員「いえそんな、気を使って頂かなくても」
宿泊客「だって私はもっと先に火災を発見していたんです」
従業員「だったら通報しろよ!」

 言うまでもないと思うが、以上の会話部分は全てフィクションである。だが発見者の宿泊客も従業員も当初まったく通報を行わなかったことや、屋内消火栓も使わず初期消火に失敗してしまったのは本当のことだ。

 さてサービスルームから発した火炎は、廊下を伝って上方へと燃え広がっていった。そのため、上階にいた宿泊客たちは、かなり早い段階で火炎と煙に逃げ道を塞がれる形になった。

 しかも従業員が火事だ火事だと知らせて回ったのと相前後して、館内は完全に停電。さらに煙と、建材の材質の問題で有毒ガスまで立ち込めて、これでなんとか脱出しろという方が無理な話である。

 最初に述べた通り、この旅館は増築に増築を重ねて無駄に膨れ上がったマンモス旅館だった。アミダくじのような廊下はあるわ、隙間はあるわ段差はあるわで気分は風雲たけし城。そのうえ異常なまでに延焼のスピードも速く、逃げ惑っている内に、あるいはなす術もなく死亡した者が大勢いた。

 燃えるのもそりゃ当たり前で、この建物、棟同士の接合部はガラス戸一枚で区画されており、防火扉は木製(!)だった。しかも延焼しそうな部分には普通のガラス窓が嵌め込まれているという有様だったのだ。まったくイイ時代があったものである。

 辛うじて脱出できた宿泊客達も、避難すべき方向の判断さえまともに出来ない状況の中、必死に火の粉をかいくぐったという。雨樋を利用したり、投げ下ろした布団に飛び降りるという方策で一命を取り止めた者もいた。

 こんな旅館で防災設備の充実を期待できるわけもない。防火扉は火災当時どれもこれも開けっぱなしで、火災報知機や屋内消火栓も結局全然利用されずに終わった(もっとも報知器も消火栓も充分な数がなかったという)。

 こうして、由緒正しき池之坊満月城は燃えるに任せて焼け落ちた。焼失面積6,630平方メートル。246名の宿泊客のうち30名が死亡、44名が負傷する大惨事である。

 犠牲者の多くは、富山から来ていた会社従業員達だったという。また、他にも新婚旅行でここを訪れていた2組の夫婦も命を落としたというから悲惨にも程がある。もう40年以上も前の火災ではあるが、今からでも冥福を祈りたくなる。

 さて、こんな調子の満月城なので、経営者は責任問題を免れない。消防署の指導を受けていたにも関わらず形だけ誓約書を提出してその場逃れを行っていたことなども暴露され、結局有罪判決が下されている。ただし消防でも指導が甘かった部分があり、執行猶予がついた。

 残った池之坊満月城は、無事だった建物でしばらく営業を続けていたようだ。

 だがそれも間もなく取り止め、跡地は駐車場になった。当時を偲ぶ唯一の手掛かりは、有馬温泉に残る慰霊碑のみであるという。

 ところで、あからさまな法令違反によって大火災が起き、管理者が裁かれたといえばホテルニュージャパン火災であろう。満月城火災から12年後の事故である。

 筆者は長らく、ホテルニュージャパン火災というのは余りに特異で例外的な事例だと思っていた。しかしこうして火災の歴史に目を向けてみると、今回ご紹介した満月城火災とニュージャパン火災は実によく似ていることに気付く。

 ニュージャパン火災は、あのオーナーの特異なキャラクターばかりに焦点が合わせられがちだった。だがあの火災の特殊性はもっと別の部分にあったのである。80年代になって建造物の防災レベルが向上したにも関わらず、12年前と同じような火災がまた繰り返されてしまった。本来ならばこれが一番の問題だったのだ。その問題に気付くには、こうした歴史的背景をまず把握しておくことが必要だったわけである。

【参考資料】
◆第一法規『判例体系』
◆ウィキペディア他
◆消防防災博物館-特異火災事例

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◆金井ビル火災(1966年)

 実は、戦後二十年ほどの間は、消防士の社会的地位はあまり高くなかった。むしろ低く見られていたと言ってもいい。

 高度経済成長期に突入しつつあった頃である。災害対応のために存在している消防士たちは、それ自体ではゼニを生まない。むしろ維持費がかかる。これは防災に関する設備や体制全般に言えることで、しかも災害はいつ起きるか分からず、そんなものに投資していても得にはならない。こういう考え方が、当時は確かにあったようだ。

 平成の、災害が頻発した時代を通過してきた我々にとっては、隔世の感がある。

 だが、消防士たちのそんな不遇な状況が転換するきっかけになった(とされる)火災があった。それが金井ビル火災である。この火災での救出活動は、その後の防災行政に大きな影響を与えた。

   ☆

 火災が起きたのは1966(昭和41)年1月9日、日付が変わったばかりの0時58分のこと。

 現場の金井ビルは、神奈川県川崎市川崎区の駅前にあった。

 今も、そこには同名のビルがあるらしいが、現在の様子は分からない。とりあえず当時の金井ビルは、きらびやかな雑居ビルだったという。ガラス張りの壁面が周囲のネオンを反射して、高度成長期の景気の良さを象徴するような建物だったとか。形態としては、全国のどこにでもある、いわゆるペンシルビルだった。

 だがこのビルは、後年の千日デパートや大洋デパートのケースと同様に、火災時に大惨事になるタイプの典型でもあった。そういう意味でも時代の象徴だったと言える。どういう意味で典型だったのかは後述するが、このビルはデパートや旅館などの大規模施設に比べれば小ぶりで、発生した火災も比較的小規模だった。それでも多数の死傷者が出たということで、当時としてはけっこう注目されたようである。つまり大惨事の典型であり、大規模施設火災の相似形でもあったわけだ。

 建物の構造をざっと述べよう。中は地下1階~地上6階建ての7フロア。地下は喫茶店と倉庫、1階がパチンコ店、2階が遊技場、3・4階はキャバレー。5階と6階は事務所や住居が入っており、屋上には機械室のほかプレハブの住居が設置されていた。

 火災発生時は、ビルの全店舗が営業を終えていた。建物内にいるのはビルの関係者だけで、4階のキャバレーでは店員14名(資料により17名とも)が新年会を終えて雑談をしているところだった。また、6階にも11名がおり、5階にはビル所有者の家族が5名、さらにその親戚の4名が屋上のプレハブにいた。

 そこで火災が起きた。原因ははっきりしないが、火元となった3階キャバレーの更衣室の木製ロッカーの中で、煙草の不始末があったのではないかと言われている。ホステスの着衣に煙草の火がくっついたまま収納してしまったか、あるいはくわえ煙草の置き忘れがあったのではないかと推測されている。

 最初に火災に気付いたのは、4階キャバレーの新年会メンバーである。22歳のチーフボーイが、3階の吹き抜けから煙が出ているのを見つけたのだ。そこで仲間と一緒に行ってみて、煙が出ている女子更衣室を開けたところ、火炎が天井に至っていた。

 彼らは、急いで初期消火を試みた。消火器を使ったり、ビール瓶を投げつけたり、屋内消火栓からホースを持ってきたりしている。しかし既に手遅れだった上に、非常時の訓練も行っていないから手間取った。そうして右往左往しているうちに火炎はキャバレーの客席の天井吹き抜け部分から4階へ。彼らは逃げるしかなかった。この時、火事ぶれや通報は行われなかった。

 火炎はみるみるうちに拡大した。この金井ビル、建物としては耐火造だったのだが、出火した部屋の区画が木造だった上にその隣が吹き抜けになっており、内装には防火性もなかった。また階段は全て直通階段で、区画はなし。扉も自閉しないものがほとんどだったので、炎と煙の進行を阻むものは何もなかった。

 金井ビルは灼熱地獄と化した。破れたガラス窓からは炎と煙が吹き出し、建物内は濃煙と熱気で満たされた。

 当時5階にいた、ビルのオーナーの長男は、物音に気付いてすぐ4階へ下りている。そこで新年会メンバーが逃げ惑っているのを目にし、急いで家族へ避難を呼びかけた。それを受け、彼の母親(つまりオーナーの妻)が119番通報を行った。この時の時刻は午前1時3分だった。

 しかし、5・6階にいた人々は、おそらく煙と炎に阻まれたのだろう、階下へ避難することはできなかった。

 具体的な避難の経緯は不明だが、まず、このオーナーの長男と逃げ遅れの親戚たちが屋上に追い詰められた。合計7名、うち4名が女性だった。

 その他、6階の従業員11名と、119通報を行ったオーナーの妻、さらにその7歳になる息子は建物内に取り残された。結論を先に言うと、取り残されたこの13名のうち従業員1名は自力で脱出したものの、それ以外の12名は全員が一酸化炭素中毒で死亡している。ビルのオーナー本人は、当夜は不在だった。

 程なく川崎消防署の所員たちが到着したが、ここで致命的な混乱が発生した。「建物の中に、誰か残っているか?」という問いに、先に避難したキャバレーの従業員がこう答えたのだ。

「大丈夫です、みんな逃げました!」

 言葉というのは恐ろしい。従業員は、一緒に新年会をしていた自分の仲間のことを指して「みんな」と言ったのだ。消防士は、これを「ビル内にいた全員」と勘違いし、救助よりも消火を優先することにしたのだった。

 だが間もなく、7人が屋上に取り残されているのを野次馬が発見した。おいおい話が違うぞ――。現場は騒然とした。

 梯子車から急いで梯子を伸ばすも、17メートルしかなく、4階屋根の庇程度までしか届かない。では突入か? しかし建物内には炎と煙が充満しており、梯子が届かないので注水もままならない。突入はとても無理だ。

 ではどうするか。出た結論はこうだった。

「よし、確かナイロンロープがあったはず。それを使って救出しよう」

 えっナイロンロープ?

 そう。聞いて驚け、ナイロンロープである。

 ナイロンではいかにも熱に弱そうだ。現代の目線で見れば、もっとまもとな救助道具はなかったのか? と言いたくなるところである。だが、当時は本当に何もなかったのだ。

 ここで、最初に述べた「消防士の地位の低さ」が関係してくる。この時代、消防防災は今ほどは重要視されておらず、現場での装備も驚くほどちゃちだった。梯子は届かない、ガスマスクもおもちゃ同然、呼吸保護器の数も申し訳程度。消火や救助の器具としては鳶口とノコギリが使われているという有様だった。

 くだんのナイロンロープにしても、この火災が起きるわずか三カ月前に消防署へ支給されたばかり。しかもそれは、もともとは火災用ではなく水難事故の救助用だった。

 こうして、逃げ遅れの人々はナイロンロープを使って決死の空中滑降をするハメになった。命綱もない深夜の暗闇で、隣のビルへ飛び移らなければならない。しかも場所は地上23メートルもの高さだった。

 それでも、救助はなんとかうまくいった。逃げ遅れの中には幼い子供もいたが、奇跡的に屋上の全員が助かった。

 とはいえ、犠牲者が皆無ではなかったのは先述の通りである。亡くなった人々たちはすべて6階で倒れており、遺体も部屋もほとんど焼けてはいなかったという。多くの者が身支度を整えており、中にはハンドバックやブラシを握って倒れている人もいた。避難しようとした矢先に、一酸化炭素中毒にやられたのだった。

 鎮火したのは午前4時38分のことだった。

 一体どうして、こんな小さなビルで、こんなに多くの死者が出てしまったのか。

 少なくとも、金井ビルの消防設備や防火体制については、法的には不備はなかった。 

 ただ、ハード面では法的基準を満たしていたものの、火災報知器は切られていたし、複数人いた防火管理者も横の連絡がないなど、運用面での落ち度がいくつか認められた。またこのビルの場合、耐火・不燃化建築ということで、中にいた人は避難するに際して油断していたふしがある。また先にもちらっと書いたが、防災教育・訓練は行われていなかった。

 こうして多数の犠牲が出たわけだが、これは、金井ビル火災からほぼ二カ月後に発生する菊富士ホテルと全く同じパターンである。法的には基準は満たしているが、いざという時には何もかもが足りないのだ。

 こうした状況に対して、国も手をこまねいていたわけではない。1960年代に頻発していた旅館火災を受けて、この年代の後半には建築基準法や消防法がガンガン改正されている。また1970年代に入ってからも、市町村に対して消防関係の補助が出されている。

 金井ビル火災に対応した川崎市について言えば、この惨劇後、同市の消防局には31メートル級の梯子車が配備された。また全国の消防に先立ち、専任の「消防特別救助隊」が編成された。

 しかしその後の火災の歴史を見ると、激増する高層ビル火災と死者数の増大という事態に対して効果的にストップをかけるには、千日デパート火災や大洋デパート火災という最大級の大惨事とその反省とをまたなければならなかったことが分かる。

 もちろん、法整備や体制整備が全部ただの付け焼刃だったとは思わない。しかしそれでも、金井ビル火災の時点ではまだ「ナイロンロープ」だったことを考えると、やっぱり不十分なところがたくさんあったんだな……と切なさを感じずにはおれない。

【参考資料】
◆ウィキペディア
特異火災事例
◆中澤昭『なぜ、人のために命を賭けるのか』近代消防社・2004年
国土技術政策総合研究所 研究資料

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◆日暮里大火(1963年)

 戦後の「大火」は数あれど、この日暮里大火はその中でも妙に知名度が高い。

 新潟、函館、山形などでも、火災史に名を残すような規模の大火は発生している。それらと並べると日暮里大火は比較的被害規模も小さいのだが、とにかく有名なのである。何故か?

 思うに、それが発生した時代が独特だからなのだろう。高度成長期真っ只中、即ち「三丁目の夕日」の時代である。幸いにして死者が出なかったこともあり、この火災は悲惨な災害としてよりも、安心して語れるひとつの時代のワンシーンとして記録に残されることになったのだ。

 1938(昭和38)年4月2日、午後3時頃のことである。日暮里町(現在の荒川区東日暮里)のさる工場にて、一人の従業員が喫煙していたのだが、彼がマッチの燃えさしを何気なく捨てたのだった。

 彼が捨てた先は、水がなみなみと張られたバケツである。……と、てっきりそう思っていたのだが、そこに満たされていたのは水どころかシンナーだったからさあ大変。爆発するように火炎が上がった。

 ああ、やっちまったよ。そりゃ火事にもなるわ。

 文字通りマッチ一本大火の元、である。

 しかも運の悪いことに、この粗忽者の従業員がシンナーにマッチを投げ込んだこの日は火災警報が発令されていた。北の風10から15メートル、湿度もたったの17パーセントである。乾き切った春風に煽られて飛び火を繰り返し、30棟以上の建物と5000平方メートルを越える面積が7時間で消し炭と化した。

 かくして、日暮里大火は、戦後に東京で起きた火災としては最大規模のものとして語り継がれることになったのである。――ということはこの災害は、東京ではかの東京大空襲に次ぐ火災だということでもある。そう考えるとなんか凄い。

 もともと日暮里という地域は閑散とした場所だったのだが、昭和になってから繊維業者達の移住によって工業地域として発展したという。

 移住者の流入によって発展する町というのは、どうしても「たまり場」のようになる部分が出て来て都市化には至りにくい。そう考えると日暮里という地域は、どちらかと言えば周縁に属する地域と言えそうである。この辺りの事情は、近隣の三河島地区も似通っている部分がある。

 関東大震災や日暮里大火は、そんな日暮里地区の区画整理や道路整備を推し進めるひとつのきっかけとなったのだった。

 ところで、日暮里大火が発生した昭和38年といえば吉展ちゃん誘拐事件が発生している。有名な逸話だが、この誘拐事件で犯人と目された男が「俺は山手から日暮里大火を見た」と取調室で口を滑らせてしまい、その日東京にいなかったというアリバイが一気に瓦解してしまうという出来事があった。

 また筆者の父親も、当時荒川区に住んでいた。

 火災現場から15分程の場所から火事の様子を見ていたそうで、凄まじい黒煙だったという。記録を調べてみると、日暮里大火ではラバー工場のゴムタイヤ500トンが焼けたらしく、それで遠くからも見えたのかも知れない。吉展ちゃん事件の犯人と自分の父が、同日に同じものを見ていたと思うとなかなか感慨深い。

 さらに、である。昭和38年という年号で見れば、この年は鶴見事故や三井三池炭鉱の事故も起きているのである。その上前年にはかの伝説の三河島事故も発生しており、空間的にも時間的にも、戦後を代表する大事故がここに集中していることになる。

 確かにこれは独特の時代だったのだなと思う。大体、吉展ちゃん事件の先述の逸話にしても「出来すぎ」である。釈放寸前の容疑者が日暮里大火のことを口にしてしまったせいでアリバイが崩れるなんて、余りにドラマチックな昭和の香りに満ち満ちた演出ではないか。何か人智を超えた大いなる演出者の見えざる手を感じる……のは筆者だけだろうか。

【参考資料】
◆ウィキペディア

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◆白木屋火災(1932年)

 白木屋百貨店で起きた火災は、日本で最初の高層建築物火災である。

 寺田寅彦は「火事教育」という文章の中でこう書いている。

「旧臘(きゅうろう)押し詰まっての白木屋の火事は日本の火災史にちょっと類例のない新記録を残した。犠牲は大きかったがこの災厄が東京市民に与えた教訓もまたはなはだ貴重なものである。」

  時は1932(昭和7)年1216日、午前915分~18 分頃のこととされている(もう少し早かった、という説もある)。現在の東京都千代田区にあたる、東京都日本橋区銀座本通りにあった白木屋百貨店で火災が発生した。

 火元は、4階の玩具売場である。

 この日は午前9時に開店し、店内では歳末大売り出しに加えてクリスマスセールが行われていた。その中で、一人の男性従業員が、踏み台に上って飾りの豆電球をいじっていた。そこは開店前の点検で調子が悪かったのだ。ところがここでソケットと電線が接触してスパークを起こし、火花が近くのクリスマスツリーに飛び散った。

 さらに、クリスマスツリーのそばにはキューピー人形が、また少し離れたところには200メートルに渡っておもちゃが並んでいた。悪いことにこれらは全てセルロイド製だった。戦後にかけて幾度となく火災を引き起こし、ついには規制対象となったあの恐るべきセルロイドである。

 炎はこれらに燃え移りあっという間に拡大。この階には当時、従業員と客あわせて55名がおり彼らは急いで避難した。

 時代が時代なので、防火扉やスプリンクラーなどという気の利いたものは存在しない。エレベーターや階段を伝わって、程なく火元の4階から最上階の8階までが猛煙と熱気に包まれた。

 店員による消火活動も行われた。各階で、合計19カ所の屋内消火栓が使われたが、とにかくセルロイドの燃え方が激しかったのと、うまく使いこなせなかったなどの理由から初期消火は失敗した。

 寺田寅彦は、さらにこう書いている。

「実に幸いなことには事件の発生時刻が朝の開場間ぎわであったために、入場顧客が少なかったからこそ、まだあれだけの被害ですんだのであるが、あれがもしや昼食時前後の混雑の場合でもあったとしたら、おそらく死傷の数は十数倍では足りず、事によると数千の犠牲者を出したであろうと考えるだけの根拠はある。」

  寺田の言う通りである。出火したのが開店直後だったので、店全体で見てもお客が100名前後しかいなかったのは不幸中の幸いだった。だが火元の4階よりも上には呉服売り場があったことから多少はにぎわっていたというし、従業員は全館で千六百名いたという。なんにしてもかなり危険な状況だったのだ。

 ちなみに、寺田の「予言」が的中した事例が、白木屋火災の約40年後に発生した太洋デパート火災である。さすがに数千とまではいかなかったが、死傷者は確かに白木屋の数十倍に及んだ。

 さて、消防への通報は出火から7分後のことで、資料によると925分だったという。同時に、日本橋消防署の望楼勤務員もこの火災を発見している。

 署はただちにポンプ車など5台を出動させた。途中、千代田橋を渡る頃には4階以上の各階から黒煙が吹き出し、現場に着くと窓から炎が出ていたという。

 この後もポンプ車20台以上とハシゴ車3台、消防官約600名が出動した。さらに近衛連隊から35名の軍隊と軍用機7機も現場に駆け付けた。

 だがしかし、白木屋百貨店は地上8階地下2階、延床面積34,300平方メートルという当時としては最大規模の高層建築である。そんな場所での消火・救助活動は誰にとっても初めてのケースだった。先発隊が進入するも階段は4階止まり。上階へホースを伸ばしていく作業は手間取り、頼りのハシゴ車による救助やポンプ車による放水も45階までが限界。手に負えない。にもかかわらず、各階のバルコニーでは大勢の人が助けを求めている――

 消防隊は人命救助に注力することにして、ハシゴ車、救助袋、救助幕、ロープを活用し最終的に395名を助け出した。また、これ以外にも階段を使って自力で脱出した人は1171名。さらに雨どいや旗竿、反物、帯、ロープ、避雷針のワイヤー、煙突などを伝って脱出を試みた者は43名いたが、このうち8名が失敗して墜死した。窓から飛び降りた者も5名おり全て死亡している。

 出火後の店内はどんな様子だったのだろうか。まず、防火区画などが存在しない開放的な造りだったことから、炎と黒煙と有毒ガスが一気に上階~屋上へ及んだのは上述の通りである。当時の建築雑誌はこの状況について「建物全体が一つのカマドであった、山積みした無数の商品は極めて高価な燃料であった」と表現したという。

 もう少し詳しく書くと、各フロアは平均1015分ほどで火の海になり、46階はトイレを除いてほとんど全焼。7階は食堂が全焼したものの、それ以外は消火活動が奏功し内装と商品が焼けるにとどまった。

 避難者の行動についてはかなり詳しく調査が行われている。火元が4階だったことから3階以下の従業員は余裕があったらしく、消火や救護を手伝ったり商品や書類を整理したりしてから避難している。

 火元の4階では、火災発生現場に居合わせたあの男性従業員が初期消火中に死亡した。それ以外で4階以上にいた人々の多くは、階段でただちに地上へ避難するか、いったん屋上へ逃げてから地上へ降りるというルートで脱出したようだ。

 最終的な死者数は14名、負傷者数は130名に上った。

 もう少し詳しく死者の内訳を見てみよう。まず、このうち8名は女性で、これは先述した「脱出中の墜死や飛び降り」と重なる。中でも大の仲良しだったという2名は、煙に追い詰められたところで名前を呼び合って投身したという。

 この他、3名は帯などを結び付けた命綱でもって脱出を試みたが、煙に巻かれて落下。2名はロープを使ったものの、途中で建物のブリキに引っかかったり火災の熱で焼き切れるなどして落下した。1名は雨樋を伝っていったが途中で力尽きている。

 真偽のほどは定かでないが、当時の野次馬の中には「激励」して投身を促した者もいたらしい。寺田はこれを「白昼帝都のまん中で衆人環視の中に行われた殺人事件」と憤りを込めて非難している。

 火災がほぼ制圧されたのは午前11 40 分頃で、12 30 分には鎮火した。出火後、23時間半で鎮火したわけだが、当時は「遅い」と批判もあったとか。戦後の高層建築物火災の例と比べれば異例の速さのような気がするのだが。

 この火災によって、いくつかの問題点が浮き彫りになった。参考資料『火災安全工学』で挙げられている内容は以下の通り(少し省略して手を加えている)。

 

耐火構造といっても必ずしも耐火的ではなく、全面火災になりうる。

当時は防火区画の概念も法的規制もなく、建物の間仕切の多くは木造だった。一部に設けられていた防火扉やシャッターも白木屋では閉鎖されなかった。階段室の多くも煙道となって避難の役には立たなかった。

白木屋は火災の2週間前に防火避難の訓練を行なっているが、実際には初期消火に失敗している。訓練の内容か消火栓の設置規定のどちらかに問題があったのではないか。

警報設備や避難器具がなかったのも、多くの死亡者を出す要因となった。

消防はハシゴ車、放水銃など消防機材の用意が不十分。

 

 以上の点を踏まえて、建築学会は機関誌『建築雑誌』に詳細な記事を特集し、火と煙から防護された避難階段やスプリンクラーの必要性を強調した、という。

(実を言えば、『火災安全工学』の記述だけだと、上述の問題点が指摘された時期や『建築雑誌』で特集記事が書かれたのが当時のことなのか戦後のことなのかよく分からないのだが)

 

   

 

 さてここで話は変わるが、白木屋百貨店の火災と言えばすぐに「女性の下着」に関するエピソードを思い出す方も多いと思う。曰く、

「明治以降の日本で、女性が下着を履くようになったのはこの火災がきっかけだった」

 というやつである。

 どういうことかというと、当時の女性たちは和装が主だった。よって腰巻を使うことはあっても現代の「パンツ」にあたる下着をつける習慣はなかった。白木屋火災で亡くなった女性従業員たちは、地上の野次馬から陰部を見られるのを恥ずかしがってロープから手を離したのだ。で、この火災がきっかけで、世の女性たちはパンツを履くようになったのである――。という話である。

 まあ都市伝説のたぐいである。先に書いたのを読んで頂ければ分かる通り、亡くなった女性たちの中に「野次馬から覗かれるのを気にして転落した」という者は一人もいない。少なくとも伝説を裏付ける証拠はない。

 とはいえ、火のないところに煙は立たぬ。この都市伝説はどうして生まれたのだろうか。

 この謎については、井上章一が『パンツが見える。羞恥心の現代史』で解明を試みている。そこでの検証内容をかいつまんでまとめると以下のようになる。


命からがら脱出した女性たちに、覗かれることを気にする余裕はあっただろうか? 比較的低い階にいた女性たちならば避難中にも気持ちの余裕があったかも知れず、両者がごっちゃになったのではないか。

当時の白木屋の責任者が、後に「死者が出たのは下着をつけていなかったせいだ」とコメントしてさり気なく責任逃れを図っている。これが誇張されて後世に伝わったのではないか。

もともと、当時は女性の服装が和服から洋服へと移行し始めた時期だった。その時代状況と、たまたま発生した白木屋火災の噂がうまく結びついたのかも知れない。

「ノーパンの女性が恥じらいのあまり転落死した」というエピソードは印象に残りやすい。


 ――とまあ、こんな具合である。ちなみに、別の資料によるとパリにも全く同じ都市伝説が存在するそうだ。

 筆者としての考えを思いつくままに書くが、実際のところ、事故や災害によって人々の意識が変わることは多い。だから火災時に起きたことの真偽はともかくとしても、この火災事故から生まれた都市伝説が無意識のうちに女性たちにインプットされて、それに洋装の流行が重なったことで、後になって「女性の下着文化」が生まれた……ということはあり得ない話ではないと思う。

 また、事故災害史をだらだら調べていると「どういう失敗によって事故が起きたか」はよく記録されているが、「この事故によってどういう設備が設置されたか」とか、「どういう法律が制定されたか」「どういう良い習慣が広まっていったか」ということは、意外と記録されていないことが多い。記録はあっても、片隅に記載されているだけとか、一部の専門家が覚えているだけというケースがよくある。

 井沢元彦の『逆説の日本史』には「過去の時代に当たり前だったことはわざわざ記録には書かれない」という考え方が出てくる。確かにそうだ。すると、事故災害によって世の中に生じた「良い変化」も、時代を経て「当たり前」となって、ついには起源が忘れられて記録にもほとんど書かれなくなってしまうものなのかも知れない。

 だから筆者は、白木屋火災にまつわる都市伝説が本当なのかどうか――よりも、仮に本当だとしてもそれがもはや都市伝説化しており確認のしようもない、という構造の方に興味が湧く。これは事故災害による「教訓」やそれに基づく「改善」が歴史的にあったとしても、その事実はいずれは忘れられる運命にあるということを示しているのではないか。

 もっとも、「教訓」「改善」だけが忘れられるわけではない。過去の事故災害事例じたいが、基本的にはどんどん歴史の流れの中で埋もれて忘れられていくものだ。で、たまたま思い出した人や興味関心を持っている一部の方は、ときどき当研究室を覗きに来てくれるということなのだろう。

 白木屋火災とパンツの都市伝説のつながりはまあどうでもいいのだが、単なる「事故災害史」だけではなく「事故災害による世の中の改善史」というのがあったら面白いと個人的には思う(もうあるかも知れない)。

 

   

 

 最後に、白木屋百貨店にまつわる話をいくつか。

 もともと白木屋は江戸時代から続く呉服屋の老舗で、大名や奥方なども利用する由緒正しい大企業だった。

 しかし昭和に入ってからはこのように火災が起きたり、一部の強欲な実業家から株を買い占められて乗っ取られそうになるなど、その後はけっこう苦労している。

 そんな経過があり、最終的には東急グループに吸収され「東急百貨店日本橋店」としてしばらく営業していたが、1999(平成11)年にはこれも閉店し、ついに創業以来350年の歴史に幕を閉じた。

 で、今ちょっと書いた、白木屋を乗っ取ろうとした「一部の強欲な実業家」というのが誰なのかというと、これが横井秀樹氏なのである。後年に大火災を引き起こしたホテルニュージャパンのオーナーだった人物だ。この人も、なんだかやけに火災に縁のある人生である。

 あと、これは火災とは無関係だが付け加えておこう。

 白木屋火災からさかのぼること約6年、1926(大正15)年923日に、山陽本線で特急列車が脱線転覆するという事故が起きた。

 この事故を起こした「特急列車一・二列車」の車両が、4年後の1930(昭和5)年に木造車両から鋼製車両へと造り替えられたのだが、この時に一等展望車の内装デザインのひとつとして採用されたのが「白木屋式」と呼ばれるものだったらしい。白木屋百貨店が建てられたのがちょうどこの頃で、建物の中で似たデザインを使っていたのだとか。

 火災に都市伝説、いわくつきの実業家との関係、ホテルニュージャパン火災、大正時代の鉄道事故……。白木屋は、さまざまな案件とゆるいつながりがある奇妙な企業である。見方を変えればそれは、この企業がかつて誇っていた知名度の高さや影響力の大きさを示しているのだろう。

 日本で最初の高層建築物火災を引き起こし、後世まで教訓と都市伝説を残したのも、そんんな白木屋なればこそ、なのかも知れない。

【参考資料】
岡田光正『火災安全学入門ビル・ホテル・デパートの事例から学ぶ』学芸出版社、1985
井上章一『パンツが見える。――羞恥心の現代史』朝日選書、2002
『寺田寅彦全集』岩波書店、1976
ブログ『真があって運の尽き「白木屋火災で逃げられなかったのはノーパンだったから……ではない!」』
ウィキペディア

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