◆ルクソール熱気球墜落事故(2013年)

 エジプトのルクソールで、現地時間の2013(平成25)年2月26日に発生した事故である。観光用の熱気球が、爆発と火災で墜落したのだ。

 ルクソールは、エジプトの超有名観光地である。首都カイロからナイル川沿いに南東へ約650キロ、王家の谷やカルナック神殿、ハトシェプスト神殿などの名所がずらりと揃っている。

 事故を起こした熱気球は、こうした観光名所を上空から一望するためのもので、運営していたのはスカイ・クルーズ社という地元企業。後からは何とでも言えるが、もともと現地では「危ない会社」と言われていたとか。

 当日、熱気球に乗り込んだのは、アジア・ヨーロッパの各国から訪れた観光客19名と、地元エジプト人の乗員2名。時刻は午前6時頃だったようだ。筆者は、こういう観光の一般的なスケジュールをよく知らないのだが、ずいぶん早朝から人が動くらしい。

 少し細かい話をすると、事故が起きたのは、ほとんどの参考資料の中で午前6時半と書かれている。だが日本経済新聞の記事にだけは、午前7時と推測できる形で書いてあった。ただこの記事は、情報が曖昧なままの状況で書かれたっぽいので、午前6時半説の方が正しい気がする。

 というわけで午前6時半のこと。遊覧飛行を終えた熱気球が、着陸のために高度3~7メートルまで降下したところで、ゴンドラの中で火災が発生した。

 火災の原因はガス爆発だった。着陸直前にゴンドラから投げ下ろされたロープが、ガス用のホースに引っかかるか何かしたのだ。ロープは、本来ならば、地上にいる者が熱気球を引き下ろすために使われるはずだった。

 もともとこの熱気球は、ボンベから供給されるガスを4つのバーナーで燃やし、熱したその空気で浮き上がる構造だった。だがホースが外れたことでガスが漏れて引火、爆発したのだ。

 この、最初の爆発だけで一気に燃え広がったようだ。奇跡的に助かった操縦士の男性は、ホースが切れた次の瞬間には火炎に襲われ、最終的には全身の7割に及ぶ大火傷を負っている。彼はその時、乗客たちに「ジャンプ!ジャンプ!」と飛び降りるよう促したという。

 気球は急上昇した。火災のため、気球内の空気が一気に温められたのだ。この時点で、既に気球本体にも炎が及んでいた。

 高度10メートルまで上昇したところで、乗員乗客のうち3名がゴンドラから飛び降りている。先述した操縦士の男性と、観光客のイギリス人男性2名だ。後者のうち1名は怪我を負い、もう1名は死亡した。

 黒煙を上げながら、気球はさらに上空200メートルまで上昇。コントロールは完全に失われており漂流状態だったという。この間にも8名の乗客が次々に飛び降りた。
 
 ゴンドラが軽くなったことで、気球はさらに300メートルまで上昇した。当時撮影された動画がネット上に残っているが、それを見ると、この上空300メートルに到達した時点でゴンドラは完全に炎に包まれていたようだ。程なく、全焼した気球は一気にしぼんで墜落した。

 墜落したのは麦畑である。途中で飛び降りた8名も、ゴンドラに取り残された10名も助からなかった。先述したイギリス人男性を含め、最終的な死者は19名。中には日本人4名も含まれていた。

 一命をとりとめた操縦士の男性は、乗客を救助することなく、いち早く逃げた形である。よって事故直後の報道では、彼を非難する声もあったようだ。その後、彼は過失致死容疑で逮捕された。

 とはいえ、最初のガス爆発が起きた直後、現実的に彼が人命救助を行い、なおかつ乗客たちが脱出をはかるような余裕があったかどうか、ちょっと微妙な気もする。気球は急上昇しながら小爆発を繰り返していたというし、これは筆者の推測だが、上空200メートルから8名が飛び降りたのも、炎から逃れようとするための行動だったのだろう。気球の墜落というショッキングさが際立つ事故だが、爆発と火災の威力も相当なものだったと思われる。被害者たちの死因は何だったのだろう?

 この事故を受け、エジプト政府は調査委員会を設置して原因を調査。当時の民間航空相は「再発防止策が取られなければ、気球の運航は再開しない」と述べたそうだ。それから4年経った現在はどうなっているのだろう。

 ちなみに、熱気球による死亡事故は、このルクソールのものが史上最悪である(2017年10月現在)。その前は、1989(平成元)年にオーストラリアで熱気球同士が衝突し13名が死亡したのが最悪だったが、ルクソールのはこれを超えた。

 ところでエジプトでは、2011(平成23)年のエジプト革命でムバラク大統領が退任し、モルシ大統領に替わったという経緯があった。観光産業の安全管理が甘くなったのはそのせいではないか、という説もある。いわく、各分野での管理者が軍人から文民に替わったため、安全の監査が緩くなったのではないか…ということだ。

 しかし、この説がどの程度まで妥当なものかは分からない。モルシ大統領側も、安全体制の緩みは前政権の負の遺産だと反論しているし、そもそもルクソールでの熱気球ツアーでは、2009年と2008年にも、それぞれ16人と9人が負傷する事故が起きている。もともと熱気球というものは事故る確率が高いのかも知れないし、あるいはそういう土地柄なのかも知れない。

 土地柄ということで言えば、革命で統治者が軍人から文民に替わるという状況自体が、我々日本人から見れば剣呑である。やや余談じみるが、ルクソールでは1997(平成9)年11月17日に、テロで外国人旅行者など63名が殺害される事件も起きている(被害者のうち10名は日本人)。これは当時のテロリストが、地域の観光業にダメージを与えて政府転覆に繋げようとしたものらしい。

 別に、エジプトの観光関係者の安全管理がみんないい加減だとか、人命を軽視する風土だとか、そこまで言うつもりはない。ただ、海外にツアー客として出かけた場合、多人数で行動する場所では、事故れば大惨事になるし、テロリストによる派手な大量殺人の標的になることもある。そういう可能性を踏まえた慎重さは必要だ…ということくらいは言えると思う。そうした危険を可能な限り回避するには、やっぱり勉強が必要なのだ。

 このあたり、ツアー客が事故に遭遇することの現状と展望については、吉田春生『ツアー事故はなぜ起こるのか』(平凡社新書2014年)が興味深い。この本の中でも、熱気球の事故の危険性の高さについては、もともとツアー関係者の間でも共通の認識だったということが書かれている(ちなみにルクソールで事故った熱気球ツアーは、ツアーの本来のスケジュールとは無関係の、現地で申し込みをするオプショナルツアーだった)。

 余談ついでだが、この事故の遺族は、スカイ・クルーズが契約していた保険会社から、補償として一応お金を支払われている。だがその額は被害者一人につき7万円程度だったそうな。もともと、人間ではなくゴンドラの方に掛けていた保険から下りたお金だったので、それくらいになったらしい。やり切れない話だ。

 海外に行くときは、気を付けよう。

 ましてや熱気球に乗るならなおさらだ。

【参考資料】
◆吉田春生『ツアー事故はなぜ起こるのか』平凡社新書、2014年
CNN.co.jp「エジプトで熱気球墜落、日本人含む外国人観光客ら死亡」(2013年2月26日付)
日本経済新聞「気球から次々飛び降り エジプト墜落、出火後に急上昇」(2013/2/28付)
AERAdot「気球事故、遺族へはわずか7万円 海外ツアーのリスク」(2013.3.4付)
NEVERまとめ
NewSphere
J-CASTテレビウォッチ
◆ウィキペディア

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◆小勝多摩火工爆発事故(1953年)

 1953(昭和28)年2月14日のことである。東京都北多摩郡府中町貫井(現在の府中市晴見)の「小勝多摩火工府中工場」で、その事故は発生した。午前10時30分、火薬配合室といういかにも物騒な名前の部屋が、作業中に吹っ飛んだのだ。

 どぼずばああああああん。

 ちなみにこの工場の名前に含まれている「火工」というのは、弾丸に火薬を詰める作業や、その作業員のことを差す言葉である。そんな工場で爆発が起きたのだから、ちょっとやそっとの被害で済むわけがない。3000坪の敷地内にあった他の火薬倉庫にも次々に引火し、大爆発と相成った。

 これにより、工場の事務所、薬品倉庫、炊事場など、敷地内の合計14棟の建物全てが巻き込まれ、火災も発生。周辺の建物もとばっちりを受け、半径一キロ以内にあった都営稔ヶ丘住宅の民家や関東医療少年院などが、窓ガラス・屋根・壁・雨戸などを破壊される憂き目に遭った。

 爆発当時は24名が工場にいた。しかし生存者はたったの4名しかおらず、さらに一般市民1名も巻き込まれて死亡した。

 大事故だが、事故の直接の原因は不明である。何せ、現場の火薬配合室にいた全員が爆死してしまったのだから致し方ない。

 とはいえ、原因を想像するのはさほど難しくなかった。当時の作業員の中には素人が混じっていたのだ。この工場では、保安隊(現在の自衛隊の前身)からの依頼で、大砲の射撃訓練に使う「擬砲弾」なるものを作っていたのだが、近所の主婦などがその作業にあたっていたのである。

 恐ろしい話だが、朝鮮戦争が休戦協定に至るのは、この事故から数か月後のことだ。この頃は特需も下火になっていたものの、それでも軍事関係の工場は人手が足りなかったのかも知れない。

   ☆

 ちなみに、この事故をウィキペディアで調べてみると不思議なことに気付く。当時の府中町で発生した、他の2つの爆発事故の事例と一括りにして「小勝多摩火工爆発事故」と名付けられているのだ。

 なんでそんな括り方なのか、理由は不明である。正直、腑に落ちない。記事の中で紹介されている他の2つのケースは、花火工場の爆発事故であって「火工爆発事故」に該当するものではない。

 編集者がテキトーにやったのか、あるいは素人には分からない理由があるのか。

 というわけで、他の2つの花火工場の爆発事故については、当研究室では別稿でご紹介したいと思う。一応、ここで名前を挙げておくと「丸玉屋小勝煙火製造工場爆発事故」である。1956(昭和31)年と1958(昭和33)年に、同じ工場で爆発が起きている。

【参考資料】
◆ウィキペディア

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◆イノバシオン百貨店火災(1967年・ベルギー)

 イノバシオン百貨店火災は、岡田正光氏による『群集安全工学』『火災安全学入門』2冊の本で紹介されている。このことからも分かる通り、火災+群集事故のコラボで大惨事に至った事例である。しかもデパート火災としては世界一の死者数だ。

   ☆

 1967(昭和42)年5月22日。ベルギーの首都・ブリュッセルにあるイノバシオン百貨店は、大勢の人でにぎわっていた。

 この百貨店は1919(大正8)年に創立。当時のベルギーの大手百貨店のひとつで、RC造6階建て、延床面積は9,500平方メートル。従業員は1,200人おり、パリにも店舗があったというから、かなりイケイケである。 

 時刻は13時半頃。店内には約2,500名のお客がいたと考えられている。特に、4階の食堂は350席あるテーブルがほぼ満席だった。

 日本人の感覚だと、「えっ、なんで昼休みの時間を過ぎてるのに食堂にそんなに人がいるの?」と思うところだ。どうも、ベルギーの生活時間というのはラテン系だそうで、それで13~15時が昼休みになっているのだとか。

 ここで火災が起きる。火元は2階だった。婦人服売り場の、天井近くにぶら下がっていた少女服のあたりが燻っていたのだ。発見したのは女性店員だった。

 いけない、火事だわ――! この店員は30メートル離れた消防センターという場所に行き、粉末消火器を持ってきた。周囲には紙製の吊り天井もあり、燃えやすいことこの上もない状況である。早く消火しなければ――。

 だが、時すでに遅し。この時点で、もはや消火器程度では手に負えないほどに燃え広がっていた。

 そこで彼女は消防センターに戻り、火災報知器と非常ボタンで火災の発生を知らせた。時刻は13時34分。初期消火も火災の報知も全部ひとりでやったのだから、大変お疲れ様である。

 この後、非常ベルで事態に気付いた2人の自衛消防隊員が、消火栓からホースを伸ばして消火にあたったりもした。しかし彼らの奮闘もむなしく、炎も煙もひどくなる一方。従業員たちは退却せざるを得なかった。

   ☆

 さて、2階で発生した炎は見る間に延焼した。火元のすぐ近くには吹き抜けと階段とエレベーターがあり、火炎も煙も伝播しやすい状況だったのだ。また、当時は「アメリカ週間」としてバーゲンセール中で、ポスターや旗などの燃えやすい飾りがたくさんあった。

 煙は、5~6分で全館に拡がった。信じられないほどの速度である。

 ところでこの建物、消防設備はしっかり整備されていた。消火栓96箇所、消火器450個、煙感知器144個、押しボタン式警報装置60個が設置されており、また消防専従の職員も16名いたという。頼もしい限りだ。しかし資料によると、火災発生直後に、従業員の多くがどのような行動を取ったかは「よくわからない」らしい。ただ、後述するが避難誘導については、店員たちは相当がんばっている。

 明らかな不手際もあった。ベルが鳴動する直前の13時半には、従業員の交代を知らせるベルが鳴っていた。よって、34分の非常ベルもそれと同じものと錯覚した従業員が、騒ぎ始めたお客を「なんでもない」となだめる場面もあったという。

 13時40分に消防の先発隊が到着。この時、既に2階以上は煙に包まれており、おそらく最上階にあったのであろう「吹き抜けのドーム」なるものからも煙が出ていたという。つまり天井に穴が開いたのだ。いわゆる煙突作用で、ますます火勢は強くなっていった。

 1階にいた人たちは全員無事で済んだ。中にはマネキン人形で窓を破った人もいたというから、それなりに難儀もしたのだろう。だがとにかく死者は出なかった。

 問題は火元の2階より上である。中でも、特に大量の死者が発生したのが、先述した4階の食堂だった。結論を先に言うと、この火災全体の死者数は325名に及んだのだが、そのうち8割は、この食堂で「群集事故的逃げ遅れ」により生じたものだった。

 出火当時、この食堂が満席だったことは先に記した。もう少し詳しく書くと、ここはセルフサービス式で、お客は入口から一列で中に入り、カウンターで好きな料理の皿を取って代金を払うというシステムだった。食後は食器をコンベアに置いて、出口から退室する。

 この入口と出口は、部屋に一つずつしかなかった。しかも狭かった。それで濃煙が室内に侵入してきたものだから、お客たちは一気にこの狭い出入口に殺到したのだ。結果、多くの人が人混みに遮られ、出入口に到達する前に煙あるいは有毒ガスを吸ってしまった。死因は、大部分が窒息死だった。

 この階での死者数は260名。参考資料によると、「客は袋のねずみ」状態だったという。

 当時、4階にいて助かった人もいた。部屋の隅に避難用のハシゴがひとつだけ取り付けられており、そこから25名が難を逃れている。また、事務室の方を通って脱出できた者や、飛び降りて外に出た者もいたようだ(もっとも、4階から飛び降りた全員が無事だったとはちょっと考えにくいが)。

 そう、一応避難ルートはあったのである。だが助かった人によると、当時は猛煙で1メートル先も見えない状態だったという。よっぽど最初から避難ルートについて心得があるか、あるいは幸運に恵まれなければ、当時はおいそれと脱出できるような状況ではなかったのだろう。

 その他、参考資料には当時の悲惨な状況もいろいろ書いてある。パニックに陥った人々が、避難通路に殺到して折り重なって死亡したとか、バルコニーから12名が次々に飛び降りたとか、衣服に火がついて逃げ惑う人々がいたとか……。ただ、どれが何階での出来事だったのかはよく分からない。

 気が滅入るような大惨事だが、救助された人も大勢いた。2階のバルコニーに避難した約200名は、ハシゴ車で無事に助けられている。また、店員や消防隊員の中には、窓ガラスを破って突入したり、火傷も厭わずに熱く焼けた階段を通り、店内の人々を救出した者もいたという。

 さらに、隣接するビルのオーナーは、ロープを投げて約20名を救助。消防隊が建物の下で救助幕を広げた時は、多くの市民が協力した。

 そして、この百貨店の店長は殉職している。お客を非常階段へ誘導して25名を助けた彼だが、この誘導のために何度も往復しているうちに店内で死亡したのだ。従業員たちも、上役の指示で避難誘導につとめたというから、こういう場合のための社員教育はずいぶんきちんとしていたようだ。

 そうこうしているうちに、先述した吹き抜けドームが大音響と共に崩壊した。時刻は15時15分。さらに16時頃には、食堂のあるブロックも崩壊。延床面積9,500平方メートルのイノバシオン百貨店は、こうして完全に焼け落ちたのだった。現場は、夜になっても残骸から火炎が上がっていたという。

 ちなみに事故から遡ること31年前には、国立火災予防協会のブルーウェル氏(誰?)なる人は、当時既にこの建物の危険性を指摘していたらしい。参考資料にも、竪穴としての階段とエレベーターが区画されていれば、これほどの大惨事にはならなかっただろうとのことである。やり切れない。

 ただ、建物が造られたのは創立よりも20年ほど前の1901(明治34)年だった。さらに1904(明治37)年以降は5回にわたって改築され、ツギハギに増築。このため、全体の構造も統一性に欠けるところがあったようだ。

 その構造を、簡単に記しておこう。

 まず、本館は6階建てでRC造とSRC造が混在。中央部は最上階まで吹き抜けになっており、てっぺんはガラスの屋根がスライドして開くようになっていた。1~5階が売り場で、地下1階は倉庫と従業員用の控室。そして6階は管理部門である。

 この本館に、さらに4つの建物がくっついている。こちらはRC、鉄骨、レンガ作りが混在していた。

 筆者は建築物そのものの専門家ではない。よって、こうした構造が、火炎の拡大や避難行動においてどう影響したのかはよく分からない。ともあれ、こんな大百貨店も、ひとたび火災が起きればあっという間に消滅するのである。諸行無常。

【参考資料】
◆岡田光正『群集安全工学』鹿島出版会、2011年
◆岡田光正『火災安全学入門―ビル・ホテル・デパートの事例から学ぶ』学芸出版社、1985年
◆ウィキペディア

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