2016年10月9日日曜日

◆死刑問題

 死刑の存廃について、日弁連が廃止を目指す宣言だかを採択。だけど意見が割れて場は紛糾、というニュースがありました。

 個人的には「意見が割れた」ということ自体、まともなことだと思っています。政治団体や利益団体が、団体の方針について「全会一致」を目指すならまだ分かります。もともとそのための団体であって、結論は最初から出ているだけですから。

 でも、死刑の是非や人権がテーマとなると、どうしても複数人の人権を天秤にかける倫理の問題に踏み込まざるをえません。当然そこに明確な答えはないので、そこで無理やり「全会一致」をはかるとどうしても無理が出てきます。ここで全会一致が実現するとしたら、最初からよっぽど強い合意が形成されているか、その団体の構成員はごく少数か、よっぽどの圧力が構成員に対してかけられているか、のいずれかでしょう。

 僕は死刑存置派です。

 ただ、死ぬまでずっと存置派なのかと言われたら、分からないとしか言えません。倫理問題ってそういうものです。死刑について言えば「国家が国民を殺していいとしたら、その根拠はどこにあるのか」ということになると思いますが、これには明確な答えはありません。ですから、今の日本は存置派の人が多いと聞きますが、それが何かのきっかけで反転してもおかしいとは思いません。

 つまり僕は、死刑存廃問題に「決着」をつけること自体、不可能だと思っています。できることは、その時、その場所で、国民のより多くが納得できる形に制度を整え続けていく。それだけだと考えます。

 この場合の「整える」というのは、死刑を存置することを決めたり廃止することを決めたり、というのも含みますが、例えば死刑廃止の主張の根拠としてよく挙げられる「死刑は残虐だから廃止すべき」という主張に折り合いをつけるために残虐でない方法を考えるとか、冤罪による死刑が起きないように訴訟法を工夫するとか、そういう整え方です。

 いわゆる先進国の多くでは、死刑がどんどん廃止されているそうです。その事実だけを聞くと、それが世界全般の趨勢で、ひとつの「結論」だと一瞬思ってしまいますね。でも僕は、それは考慮する必要はないと考えています。だって、それらの国で、今後も未来永劫死刑制度が絶対に復活しないとは限らないわけですから。

 死刑を廃止しないから常任理事国入りできないんだ……という意見もあるかも知れませんが、たぶん日本がそれを果たせないのは、別に死刑制度の有無のせいばかりではありませんしね。

 そもそも「他のみんな(外国)が死刑廃止してるし、僕たちもしようぜ」なんて、ただ流行に乗っているだけです。死刑を存置していいのか、廃止すべきかという倫理的な問いを、「みんな(外国)の真似をすればいい」という結論で片付けていいわけがありません。

(同じ理屈で、ただ「国民の大多数が存置に賛成だから存置が正しい」と結論づけるのも正しいとは思いません。いずれにせよ、本質論を避けるべきではない)

 というわけで死刑存廃問題は、どの時代、どんな国でも、未来永劫変える必要がないような結論なんて出るわけがないし、できることはその時その場所の国民が、できるだけ長い期間通用するような、より多くの人が納得できる死刑制度を作っていく(あるいは廃止し、もう作っていかない)ことだけです。

 では、死刑をめぐる、細かい問題の議論はどうなるのか。これについては、小浜逸郎が『なぜ人を殺してはいけないのか』の中でひとつひとつまとめているので、ものすごくかいつまんでご紹介します。

Q・死刑には犯罪抑止効果があるか?
A・分からない。実証不可能。

Q・死刑は残虐だから憲法違反で、廃止すべきではないか?
A・それなら残虐でない方法を考えればよい。人を殺すこと自体が残虐だとも言えるかも知れないが、それを言い出すと「被害者の受けた残虐な仕打ちはどうなるんだ」という水掛け論に必ずなる(きうり注・大抵まともな議論にならないということだと思う)。

Q・冤罪で死刑になったら取り返しがつかないではないか?
A・「死刑には冤罪死という弊害があるから廃止すべきだ」という主張は「火には火災という弊害があるから使うべきではない」という主張と同じで論理的におかしい。問題は手続きの方であり、死刑自体の問題ではない。

Q・素晴らしい芸術作品や思想を残す死刑囚もいるので、殺すべきではない。
A・関係ない。そうでない死刑囚もいくらでもいる。

Q・死刑は遺族の復讐感情を満足させるものだから残すべき。
A・刑罰は復讐の代行ではない。

 ――と、こんな感じです。僕もおおむね賛成です。

 ただ、これらの主張の中で、さすがに「冤罪死」だけは捨て置けない問題だと思うんですよね。それは刑事手続きの問題だと切り捨てられても、そっちの手続きの改革が遅々として進まないからとりあえず死刑を廃止しろと言ってるんだ、と言い返されればなるほどと思います。

 そこで、頭の中で天秤にかけたくなるのは、冤罪ではなく、百パーセント確実に有罪で、そして死刑判決を受けている凶悪犯のことです。一部の冤罪の可能性がある人たちのために、彼らを生かしておくことになっていいのか?無期懲役で出てきちゃうんじゃないのか?と。

 そうなると、廃止派の理屈としては2つ考えられます。ひとつは、「何がなんでも殺人はいけないんだから、彼らも死刑にしてはいけない」というもの。これはシンプルで分かりやすい本質論です。

(もっとも、それなら冤罪うんぬんよりも先にそれを言え、という感じですが。このことからも、冤罪死を防止するために死刑を廃止しようという主張は本質論からずれまくっていることが分かります)

 で、もうひとつの提案が「死刑の代わりに絶対終身刑を設置すればいい」というもの。無期懲役は出所する可能性もあります(実際にはかなり高いハードルなのですが)。その心配を打ち消すために、出所の可能性が全くない絶対終身刑でもって死刑の代わりにしよう、ということになります。これ、一見説得力があります。

 ただそういう筋道で考えると、終身刑は、冤罪被害者に対するセーフティネットということになります。そうなると「刑罰」としての意味合いが失われてしまいます。

 このように、冤罪防止の観点から死刑を廃止しようとすると、スタートラインが間違っているため、どういう結論に行きついてもおかしなことになるんですよね……。

 結局、廃止派は変な理屈を持ち出さずに、ごくシンプルな「たとえどんなことがあっても、人の命を故意に奪うことは許されない」という原則だけで死刑廃止を主張するのが一番理に叶っています。

 ここで余計な理屈を持ち込むと、存置論者もそれに対抗して真面目に反論するので、本質から外れたところでの議論になってしまいがちです。存置派も、上述の問いに対して「それでも、国家が人の命を奪うことが許されることもある」と本質論で反論するのが正しいのです。

 死刑問題の本質的な問題は「公権力が人の命を奪うのは許されるか。許されるとしたらその根拠は何か」ということに尽きるのであって、それ以外の問題は全く別の問題、あるいは補足程度のものでしかありません。そこに足を取られると、本質論を見失うことになります。

 ただ、本質論は哲学的で難しいし、簡単に答えが出るようなものでもありません。多くの人がそれをなんとなく分かっているので、より現場主義的な、本質に対する「周縁」でしかない問題の方に飛びつくことになるのでしょう。

■□■━━━━━━━━━━━━■□■
大人気!正史に隠れた驚愕の黒歴史…!!
きうり著・『事故災害研究室』
電子書籍サイト「パブー」で公開中。
完全無料です。気軽にご覧下さい。
【こちら】からどうぞ。
■□■━━━━━━━━━━━━■□■