2016年5月10日火曜日

◆大地の年表

 さまざまなジャンルの年表を作って、並べてみると面白い。最近はそんな遊びにはまっています。

 年表を並べていて面白くなるのは、やはり「意外さ」を感じたときです。

 たとえば、全然関係ないジャンルの出来事が、同じ年に起きていたり。

 逆に、似たような出来事が、かなりの間を置いて起きていたり。

 この、「出来事」と「出来事」の間の年代的な距離感も、たぶん見る人の年齢によって変わります。

 僕は今35ですが、年表上のある出来事と出来事の間が30年くらい空いているのを見て、「意外と近いな!」と思うことがあります。

 でもたぶん、10代の頃にそれを見たら、「うわっ30年てめっちゃ長い!」と感じることでしょう。

 この感覚の違いはなんでしょう?

 たぶん、30年間の「経験」の違いなんでしょうね。

 記憶の中で、僕の人生は見たこと、聞いたこと、体験したことの連続で満たされています。それは全部つながっています。

 また僕の生きてきた時代は、例えば戦前・戦中・戦後ほどの大きな変化はないので、比較的単調で、土台がしっかりしています。

 だから20年以上前くらいの出来事でも、どことなく「身近」な感じがします。

 一方、10代の頃なんてのは、前述した「経験」の密度が薄い。

 しかもその何分の一かは、物心ついていない時代ですからね。ほとんど覚えていません。簡単に言えば、人生経験が足りない。

 そういう年代の人にとって、さらに10年、さらに20年、などというのは想像もつかないでしょう。自分の人生に、似たような長さ・密度の時間の経験がないので、比較できない。とにかく「想像がつかないくらいの長さ」ということになる。それは「身近」なものではありません。

 ですからそんな意味でも、年表を眺めてみることは、自分の人生に対する感覚を見つめなおすことにも通じます。さらに言えば、その年表はどこかで必ず自分の人生とも接続するわけですからね。

 ところでさっき僕は、体験したことの連続とか、時代背景が単調で土台がしっかりしている…という書き方をしました。

 これは時間の流れの中での経験の連続性とか、時代背景の連続性のことを言っているわけですが、年表における連続性というのを感じるのはこれだけではありません。

 ある種の文章表現で「同じ空の下」いう言い回しがありますが、年表を見ていると、ある出来事と出来事が、連続した「同じ空の下」で起きているということが、なんだかとても不思議に思われることがあります。

 例えば事故災害で言えば、鶴見事故と三井三池炭鉱の事故が同じ日に起きています。場所は離れていても、同日の「同じ空の下」で起きていたことは、驚きです。

 僕が年表の中に連続性を感じて驚く、というのはそこです。時間軸上の連続性が、仮に年表上の縦軸だとするなら、こちらは空間的な横軸です。そして僕は、「同じ空の下」というよりも、むしろまったく違う出来事が「地続きの大地」で起きていることに驚くのです。

 皆さんは体験したことがないでしょうか。ニュースで「今日●時●分に事件がありました」と聞いて、その時刻は自分は仕事をしていたな…それと同時刻にそんなことが起きていたなんて…と感じることが。

 だけどこれは、「地続き」の大地の上で確かに起きていることです。無関係だけど、同じ大地の上で同時的に発生した、そういう出来事なのですよね。

 このことを感じて驚いたこと、ありませんか?

 そうですか。

 とりあえず、思いつくままに書いていきます。

 最近思うのは、「人間にとって土地というのはなんだろう」ということです。

 土地、という言葉にはなんとなく誰かの所有物みたいなニュアンスがありますが、そうではなくて「大地」と同じ意味。自然物としての「土地」です。

 人間の歴史って、「土地の分割」の歴史でもあると思うのです。

 人間はどんな活動をしていても、必ずテリトリーの線引きをしています。食べ物を作るのも、生活するのも、ものを購入するのも、ぜんぶ土地ありき、住居スペースありき、店ありき、ものを収納するスペースありき。

 いやいや、高層ビルの最上階とか、飛行機での移動とか、宇宙空間への進出とかになると、もう台地とは関係ないじゃん…と言われるかも知れません。

 でもこれらも、大地から離陸するエネルギー先にありき、ですからね。我々が大地に足をつけている、という事実が前提です。

 我々のいる空間というのは、抽象的な空間ではなくて、具体的には「地に足をつけている」この大地のことです。

 まとめます。

 世代ごとの時間感覚を縦軸とする、歴史感覚。そして、それを表現するものとして、分割される大地。そこでいったん時間と空間が綜合されて、そこから人間の歴史というのが立ち上がってくるのだろうと僕はイメージしています。

 なんというか、それって、年表としては弾力を持って伸び縮みしていて、世代間の感覚の違いというものをバネにしながら、時代は変化していくのではないか。

 それは、人間が足をつけているものとしての「大地」の「変動」として表現することができるのではないか。

 地震によって起きる大地のうねりのように、大地に表現された時間の波という形で、歴史を描くことはできるんじゃないか…。

 最近すごくそんなことを思うのです。

 うまく表現できていなかったらすいません。今後、歴史書をいろいろ紐解く中で、僕のイメージに合うものがあったらここでお示しします。全然なければそのうち僕が書きましょう(言った!)。