2015年11月16日月曜日

◆美しさ2

 昨日の続きです。「人間はみんな美しいものが好き」というテーゼから出発します。

 それ自体は別に悪いことじゃないんですが、実は「美しいもの」は、イコール「正しいもの」「強いもの」でもあります。

 この場合、美しさとは、「カッコ良さ」などと言い換えても構いません。

 にわかにはピンと来ないかも知れませんが、エンタメ作品において「カッコ悪いヒーロー」というものは普通ありえません。

 あえてカッコ悪く描くという手法もありますけどね。それでも大抵は、カッコ悪さの裏に、誰も気付かないようなひそやかなカッコ良さを描くという形になっているはずです。

 余談ですが、グラップラー刃牙の本質も、格闘技の迫力とか暴力性とかいう以前に「美しさ」という点にあると思います。作者の刃牙以前の作品が、メーキャップがテーマになっていたのはその意味で暗示的です。

 厄介なのは、正しくて強いものが美しいというのなら兎も角、それが逆転して、「美しいから・あるいはカッコいいから」それが正しくて強い、と僕らは思いがちだということです。

 連帯とか主張とか抵抗とか、派手で美しくてカッコいいものは、なんかいかにも正しくて強く見えるものです。でも、それとこれとは話が別なんですね。正しくて強いものは、確かに美しい。だけど逆は必ずしもそうではないのです。

 なんか大上段に構えた言い方になっちゃいましたが、特に深いことを言いたいわけではありません。なんとなくの印象です。

 インターネット、そしてSNSが隆盛して、人間一人ひとりのあり方や考え方がよく見えるようになりました。

 だけどみんな、意外と迎合的だったり同調圧力に弱かったりして、声高で頭が良さそうでよく組み立てられた論理に弱いところがありますね。本当はそういうものに安易に吸収されないでいられる点に、SNSの「個」の強みというものがあるはずなのに。

 場の空気に対して「水を差す奴」というのは嫌われますし、確かにカッコ良くはないです。でも、それこそが正鵠を射ていることもあります。みんながみんな賛成しているから、それが理に適っているとは限らないわけで。

 インターネットの時代は啓蒙の時代の一種だったと思います。でもそれは、個々のそれぞれの考え方を必ずしも透明にしたわけじゃなくて、みんな結局大衆の一員に過ぎないという事実だけが示されたに過ぎないような。そんな気がすることもあるのです。

 何が正しいか分からなくなったとき、僕らが真っ先に飛びつくのはやっぱり「美しいもの」「カッコいいもの」なんですよね。頭が良さそうな言説や、精緻に組み立てられた理屈や、堂々として理路整然とした叫びの方だったりする。

 ふだん働いたり生活に追われていたりすると、つい物事を考えるのが面倒になります。考える指針を見つけることからして、すでに難しいし体力を必要とします。

 とりあえず消極的な指針として、美しいものにたぶらかされないようにする、というのは案外有効ではないかと思うのです。

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