2015年8月25日火曜日

◆編集賛歌

 前から気になっていた、松岡正剛という人の著作を読み続けています。その広汎な知識と見識の深さには驚かされるばかりです。

 特に千夜千冊。書評というのは、評されている当の本を読んだことがない人にとっては苦痛になることも多いですが、この人のはそんなことがありません。一冊の書籍を通して、頭の中にある他の書籍の情報がずるずると芋づる式に引き出されて、数珠繋ぎになったそれらの知識がひとつの見識として披露されています。

 ですから、書評でありつつも、その本を媒体にして僕らは実際には松岡の知見を読んでいるわけです。だから、当の本を読んだことがなくても面白い。

 では本人は何を考えて読んだり書いたりしているのかというと、知識人とか批評家という立場ではなく、あくまでも「一編集者」であるらしい。

 このスタンス、僕などはすごく理解というか共感できるところがありまして。

 アマチュアなりに文章を書いていると、その行為自体についていろいろ思うところがあります。同じ立場の人が皆が皆同じように思っているかは分かりませんが、多少なりとも意味のある文章を書く場合、結局のところ一番大事なのは「情報の配置」なのではないか、というのが僕の印象なのです。

 こうやって何気なく使っている「言葉」からしてそうです。別に僕は一から言葉を作り出しているわけではなく、遠いご先祖様が作った日本語というものを適当に配置し、並べ、つなげて文章を書いています。

 小説や批評を書く場合も僕らは情報を配置し、並べ、つなげていく作業を行います。

 これらは全部相似形だと感じるのです。言葉や情報を使って新しいものを作り出す行為は、詰まるところこうした記号やら情報やらの「並べ方」に尽きるのではないか、と。

 何か斬新なアイデアや鋭い意見などが閃いたように感じても、意外とみんな同じようなことを考えていたり、とっくに昔の人が考えたことだったり…ということは誰でも経験があると思いますが、そういうことなんだと思います。ゼロから新しいものが生まれているのではなく、そこで起きているのはあくまでも新しい「情報の組み立て」であると。

 そう考えると、ものを考えたり書いたり作ったりするというのは、「創造」というよりも、ある種の「編集」なのだとも言えます。

 こういう、編集という行為は、ちょっとばかり控えめです。自分の考え先にありきではなく、与えられた情報先にありきで、自分はそれを並べ替えるだけ…というスタンスですから。

 僕が控えめであるか、また平素文章を書く際にちゃんと上手に情報を「編集」できているかはまた別の話ですが、一応創作する上でも、わりと僕は無意識のうちにそういうスタンスでずっとやってきました。だから共感できるというわけです。

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