2015年6月29日月曜日

◆『絶歌』について

 元少年Aが書いた(とされる)『絶歌』がいろんな意味で話題になっていました。

 この本については、いくつか思うことがあります。

 まず、不思議なくらいに誰もが「読まずに評価している」ということ。

 もちろん本当は不思議でもなんでもなくて、みんなが頭に来ているという理由は大体こんな感じですね。

1・遺族に許可を取らずに自分の犯罪をネタにしているのがけしからん。
2・自分の犯罪をネタに金儲けしようとしているのがけしからん。

 でも、僕は1・2どちらもそんなに頭に来ていません。

 まず1については、じゃあ遺族の許可を得られれば、どんな形であれ、自分の犯罪をネタにしていいのかということになります。もしくは、被害者に当たる人が全滅していて、「許可」をもらう相手がいない場合など。

 たぶん、多くの人がイエスとは言わないでしょう。

 つまり、遺族が~というのは、実際には元少年Aのやった行為そのものの犯罪性を端的に象徴するのがたまたま「遺族」という存在だというだけで、実際にはほとんどの人にとって、元少年Aの行為に対する嫌悪感が主なのだと思います。

 遺族と元少年Aの関係は、あくまでも個別の人間関係であって、そこで第三者が「遺族に断っていないからけしからん」と言うのはおかしいと思います。なんか、「遺族だから」という理由だけで群がるマスコミと同じような気がして。遺族としては「そっとしておいて下さい」とよく言うじゃありませんか。

 僕らはもっと根本的に、元少年A本人に対する嫌悪感から「けしからん」と言っているのでしょう。

 じゃあ2なのかというと、別にこれも、それ自体で責められるものではないと思うんですよね…。

 いや責めてもいいけど、それを禁止する明確なルールがない以上、感覚的に「けしからん!」と言う他はないわけで。

 それを、個人の感情を越えて普遍的なところから「けしからん!」と言うには、「自分の犯罪をネタにしての金儲けはいかん、なぜなら」…と続けなければなりませんが、そうなるとやっぱり「遺族の気持ちを考えろ」みたいな言い方くらいしか考えられないわけで。

 でも先述の通り、僕はとりあえずこの問題については、第三者が遺族感情を勝手に持ち出すのはいかがなものかと考えています。

 だからどうも「金儲けは」いかん、という言い方にも違和感があります。

 じゃあ『絶歌』に対する嫌悪感は不当なものなのかというと、決してそうではありません。

 僕らが気持ち悪く思うのは、ああいう猟奇犯罪をやらかした人間が、①空気を読まずに、②「活字」で、③商品として、自分の行為をネタにしたものを世間に提出したことそのものに対してでしょう。

 まず①から。

 本で大事なのはその内容であって、作者のことは切り離して読むべきだ…という考え方もあるものの、『絶歌』はそうはいきません。酒鬼薔薇事件と切り離してこの本を読め、という方が不可能です。

 そういうことを踏まえてこの本のことを考えると、作者である元少年Aは、「読者の反応」をある程度は想定していて当然だ、と言えます。

 つまりあの事件はもう歴史的事実としてあるわけで、その歴史の中に『絶歌』という1ページが加えられる。では歴史の中でその本をどう位置づけるか。そういうセンスが元少年Aには期待されるわけです。

 なんか訳の分からないことを言っているようですが、要するに『絶歌』の出版にあたっては「あの事件のことを元少年Aは今どう思っているのか?」という、読者の問いが必ずくっついてくるということです。それは真摯な反省(この言葉も僕は嫌いだけど)か、同じような事件が起きないようにするための冷静な自己分析か、謝罪か…。いずれにせよ過去に対する清算という側面が、この本の出版についてはあるに違いない。僕らは当然そう思います。

 で、話をよく聞いてみると、どうやら遺族から許可をもらっていないらしい。となると、元少年Aは関係者の感情を無視して自分勝手に話を進めたのだろう。それじゃ、まともな反省も自己分析も謝罪もないに違いない――と、こういう推測が成り立ちます。それが、「実際に本そのものを読まずに批判する人」が発生する原因になったわけです。

 さらにここで、②と③が絡んできます。

 僕らは通常、「活字」になったものは「マトモな文章」だという感覚を持っています。また同時に、そうやって活字になったものが、一定の経済価値を持つものとして期待されて出版され、流通するということは、「マトモな書籍が消費者に対して推薦されている」ということも意味します。

 ここで、僕らの嫌悪感は最高潮に達するわけです。空気を読まない、過去を顧みない猟奇殺人犯が書いた告白本が、あろうことか「マトモで価値ある書籍」として我々に提出された。これでは、多くの人が頭に来るでしょう。

 例えるなら、多くの人にとっては生ゴミにしか思えないようなゲテモノ料理が「ほら、みんなこういうの興味あるでしょ?」と提供されたようなものです。これでは、味見をしなくても嫌悪感が先に立つのは当然です。

 ですから、『絶歌』を批判するなら、「そんな意味のないもん誰が読むか」で十分だと思います。

 さらに付け加えれば、これが子供が被害者の猟奇殺人が元ネタであるというのも致命的です。

 人は、猟奇的な事柄でも、歴史の中で一定の「清算」が行われればいくらかでも安心できるものです。その清算は、やっぱり告白本ともなると、犯人の反省、自己分析、謝罪などでなされる部分が大きい。それなのに今回はそれがないらしい。すると、『絶歌』はひたすら猟奇が猟奇なままでとどまる無意味な告白本ということになります。これでは、多くの人にとって嫌悪感を持つなという方が無理でしょう。

   ☆

 僕としては『絶歌』そのものの正当不当よりも、それに対する嫌悪感の正当不当の方が興味がありました。それで、以上のようなことを描いてみた次第です。

 ここからは個人的な感想も少し書き加えます。

 最近『絶歌』そのものも読んでみたのですが(立ち読み)、全体的に下手でナルシシズムに溢れているなあ、と思いました。絶歌というタイトルはなんか迫力があるし、部分部分の描写で引き込まれる部分もありましたけどね。

 ただ、これは僕個人の感情ですが、元少年Aの心境も全く想像できないわけではない……と書いたら、誤解されるでしょうか。

 彼はこう思ったのかも知れません。

「俺は悪いことをしたけど、どうせこれからもまともな人生なんて送れないんだ。露悪的になったって構うもんか。元少年Aとしての今の感情を吐露してやろう。言葉で飾り立てて表現してしまおう」……。

 自己顕示欲というか、表現への欲求というか。それ自体は誰にでもあるでしょう。

 普通の人たちが、SNSで自分のことを表現するのと、どれくらい違いがあるんだろうとも思います。

 もちろん、あんな犯罪をやらかした人間なんですから、「普通の人」とは言えません。彼には、自らを倫理的に戒める義務があるのかも知れない。

 でも正直、彼はもうあんまりマトモな人生は送れないでしょうからね。倫理的に自分を戒めたって、これから何かいいことがあるんだろうか。たぶんあんまり、ないでしょう。

 だったら「書く」しかないじゃないか。「表現」するしかないじゃないか。「俺は生きている」ということを、せめて世間に表明しておきたいじゃないか――。そう考えること自体は、全然不思議じゃないと思いますよ。

 案外、SNSで自分の投稿に対する反応がないかどうか、気になって更新ボタンを押し続けるような人と心情は似てるかも知れません。

 あるいは、文章を書いて自己表現することでしか、自己実現の自信がない人もいることでしょう。それとも似てるかも知れません。

 別に元少年Aをかばっているわけではありません。たぶん彼は地獄に落ちるし、それでいいと思います。

 ただ、もし万が一何かの間違いで彼と同じ状況になったら、僕だって「文章を書いて生存報告をする」くらいはするかも知れません。

 僕にとって『絶歌』は、そういうことを考えさせる不気味さも含んでいるのです。

 なんか、こんな風に書いてしまったら、『絶歌』ならぬ「舌禍」になるかなあ、なんてこともちょっと思ってしまうのですが。

(笑)