2014年12月14日日曜日

◆「日常の幸せ」は認められるのに「日常の不幸」は認められにくい

 昨日、twitterで以下のような内容のつぶやきを見つけて、リツイートしました。

《「身の回りのちょっとした幸せが本当の幸せなんだよ」みたいな事が盛んに肯定されるのに「身の回りのちょっとした不幸が当人にとっては本当の不幸なのだ」という事はちっとも受け入れられない気がする。当然の事が思う様に出来ない、気軽に相談できる相手が居ない、休日も仕事から頭が離れない、とか》

 なかなか衝撃的な内容で、読んだその日は、一日中頭から離れませんでした。

 ただ「身の回りのちょっとした幸せが本当の幸せなんだよ」という、この言葉に対する違和感は、前々から抱いていました。ですから、それと繋がることで、なるほどそうだなと納得するところがあったのです。

 本当の幸せは、身の回りやささやかな日常の中にある――。これ自体を否定する気はありません。ただ、これがひとつのテーゼとして言葉で示されてしまうと、途端に押し付けがましく感じられ、うざったい道徳主義的な臭いがしてくるのも確かです。

 幸せの基準なんて、個人個人で違うんですから。

 その違いを無視して「本当の幸せとは」なんてひと括りに説かれても、いかにも言いくるめられようとしている感があります。

 おそらくこの言い草は、平均的な中流階級だけに許されたものでしょう。そこそこの経済的な豊かさを手に入れているものの、何か足りない気がする、もっと上がある気がする、という気持ちを日々抱いている人たちにこそ通用する言葉です。

 もっと強烈な不幸を味わっている人に、こんな形で「本当の幸せ」を説いても意味ないですからね。難民とか、冤罪で牢屋に入れられている人とか、いじめで悩んでいる人とか、そういう人には「身の回りのちょっとした幸せ」を感じるための精神的な土台がそもそもないでしょう。

 野放図な欲望をいましめて、今ある幸福をまず認めてみる――。それが「身の回りのちょっとした幸せ」を説くことの本当の意味で、それが有効なのはある程度の条件が揃った場合のみ、です。

 そういった条件を無視して、それをさも真理であるかのように語るのは、たとえ善意であっても意図的な押し付けと紙一重だということです。

 もちろん、日常の中でのささやかな幸せというのは存在します。実際、僕も感じることがたくさんあります。ただそれは個々人が感じたものを結果として語ればいいのであって、他人に「日常のささやかな幸せっていいよね!感じたことないの!?おかしいんじゃない!?」と言えるものではないのです。

 そう考えると、最初に書いたツイートの《「身の回りのちょっとした不幸が当人にとっては本当の不幸なのだ」という事はちっとも受け入れられない気がする》という現実の意味するところも、理解できるように思われます。

 要するに「疲れるような話はいやだ」ということなのでしょう。

「身の回りのちょっとした」ものであれ、もっと規模の大きなものであれ、不幸バナシというのは、聞いていて決して心豊かないい気持ちになれるものではありません。

 むしろ笑えない、洒落にならない、話だけ聞いていてもキリがない、ということも多いでしょう。

 それが、「身の回りのちょっとした幸せ」ほどに受け入れてもらえないのは、やっぱり話を聞く側の権力というか、不幸バナシのせいでいたたまれない雰囲気になっていくのを避ける空気というか、そういうものが働いているのだと思います。

 いやな話を聞いて疲れたくない、と。

 で、改めて考えてみると、「身の回りのちょっとした幸せ」を肯定する言い草というのも、この「疲れたくない」という人間の感情が根底にあると思うんですね。

 先に書きましたが、こういう類いの幸せを有効なものとするには、ある程度の物質的な豊かさが実現されていることが条件となります。

 そして、「まだ幸せが足りない気がする」という、際限のない欲望を戒める意味合いを込めて、ああいう風に言われるようになったのでしょう。

 ここでも、際限のない欲望に振り回されることに対して「疲れたくない」という感情が働いていると思います。

 他人の不幸バナシに付き合うのも、自分の再現のない欲望のままに突っ走るのも、心が疲弊するものですからね。

 別に、ちょっとしたささやかな幸せを肯定するのはいいんですよ。でもそれは、積極的な肯定のように見えて、実際には「疲れたくない」という消極的な意図に基づいているのかも知れません。

 そうした意図に基づいた肯定は、実際には、都合の悪いものを排除した上での肯定になっているかも知れない。

 堅苦しい書き方になっていますが、つまり、自分の身の回りのちょっとした幸せばかりを肯定して、他人の不幸バナシを聞いてあげないというのはまだまだ了見が狭いということです。

 なぜなら、その人にとっては、自分の不幸バナシを聞いてくれることそのものが「ちょっとした幸せ」なのかも知れないですから。

「身の回りのちょっとした幸せ」が大事だということを一般化できると思うなら、こうした他人の幸せも少しでも認めて肯定してあげないと、それは嘘になっちゃいますね。