2014年11月11日火曜日

◆水と地上と空

 取り留めのないことを書きますが、僕は空も地上も海の中も「同じ」だと考えているところがあります。

 この「同じ」というのは、どういう意味で「同じ」なのか、うまく言い表すことができないのですが…。

 例えば、水族館で、我を忘れて水槽にずっと見入っていると、一瞬自分のいる空間と、水槽の中の水中の境目を忘れるような感覚に陥ります。

 飛行機の窓から見ると、鳥が空を飛んでいます。水槽を覗き込むと、魚が泳いでいます。我を忘れてこのふたつをじっと見ているとき、そこが空中か水中かという区別はもうありません。

 もちろん、モノには「境目」というものがあります。空中と水中は水槽によって隔てられています。空中でも、こちら側とあちら側は、飛行機の壁によって遮られています。

 でも、僕らがそうして「境目」だと思っているものも、空中や水中の中に存在しているモノに違いありません。それも見方によっては、水中にあるのか空中にあるのか分からなくなってしまうような代物なのです。

 だって、モノはすべからく原子の塊ですからね。空中も水中も、それを隔てるモノも、全ては原子の組み合わせの違いだと考えれば、境界線を引っぱって区別すること自体意味がないことになります。

 水族館の奥に展示されているような深海魚や、原始的な生物たちの姿は、神秘的です。彼らの体は、もちろんその体は水と隔てられていますが、ある意味で水と一体化しています。水中という環境で、その水圧で、そこにある食べ物を食べて、ある意味で周囲の水と溶け合っています。

 でもそれは人間も同じですね。人間は、そうした深海魚に比べればどこでも生きられる、しぶとい生命力を持っているような気がしますが、それでも生身で水の中では生きられません。空中でも場所によっては死にます。環境とバランスを保ちながら、ギリギリで生きているという意味では同じです。

 全てはそういうものです。我を忘れて見入れば、空中も水中も区別なく存在しています。境界もまやかしです。そしてそういう認識は、よりいっそう真理に近い。

 そういう観点に立つと、例えば水の中を泳ぐクラゲと地上にあるキノコは、形が同じであれば同じようなものなのではないか、と考えることができます。

 なぜって、形が似ているから。

 水中も地上も空中も、要は原子の組み合わせの違いだと思えば、組み合わせの形が似ているものこそが同じものだ、ということになります。

 見える「かたち」こそが全ての世界。この考え方は唯物論的なのでしょうか。いえ、そういうつもりはなくて、すべては意識現象だろうと僕は考えています。