2014年10月13日月曜日

◆押切蓮介『椿鬼』『ツバキ』感想




 押切蓮介『ツバキ』。

 山に生まれ、山を放浪するマタギの少女・ツバキ(椿鬼)。山を穢す人間たちの前に彼女は現れて、武器であるシロビレ(村田銃)でもってその穢れを祓っていきます。

 一番最初の原型である、ぶんか社版の『椿鬼』(全1巻)と、その続編というか再生バージョンとしての講談社版『ツバキ』(全3巻)があります。以下で書くのは、特に断りがない限り、講談社版に関する感想です(むしろぶんか社版と、講談社版1巻でワンセットと僕は考えていますが)。

 この作品を最初に読んで連想したのは『ブラック・エンジェルズ』でした。悪行を重ねる人間に「仕置き」を加えるという物語。この『ツバキ』もそういう話なのかな、と。

 でも違うんですね。主人公のツバキは、人間そのものに仕置きを加えることはしません。悪戯に他人を傷つけることはしないのです。

 むしろ人間を罰するのは「山」です。この漫画における主人公は、端的に「山」に他なりません。ツバキは狂言回しに過ぎず、彼女が現れる時は、山が人間に対して仕置きを加える兆候であるということです。ですから、この作品の少なくとも前半においては、「山」から目をつけられた人間は大抵、助かりません。

 人間が人外の力に翻弄される姿を描いているということで言えば、『鬼切丸』に近いかなと今では思います(別に意味があっていちいち比較しているわけではないけど)。

 同じ作者による『でろでろ』はコメディタッチでしたが、それとは一線を画す雰囲気です。この物語世界の背景に描かれているのは、いつも暗闇か山林ばかり。舞台は常にそういうものに囲まれており、この暗さと閉塞感は実に圧倒的です。

 これは推測ですが、作者の押切は、もともとホラー(ギャグ)漫画家として身を立てていくにあたり、文献的な資料をかなり読み込んだのではないか、と思います。作中に登場する民俗学の用語や津山事件の描写などは、その傍証です。

 なぜ民俗学なのか。その理由は想像がつきます。日本の妖怪のルーツを辿れば、必ず民俗学から柳田國男の線に行き着きます。妖怪や怪奇現象を描くことを基本的な作風とする押切にとって、それは避けて通れない道だったことでしょう。

 それにおそらく、山奥の山村という場所は、押切にとって打ってつけの舞台だったはずです。そこは物理的な意味でも、また(現代に住む僕らにとっては)観念的な意味でも、あらゆる外界から隔絶している場所です。彼はもともと、そういう世界を描くことを得意としています。

 押切の作風は、現代社会の様々な要素を現在進行形で取り込んでいくようなものとは正反対だと言えます。『でろでろ』は、中学生が町内~学校の範囲で怪奇現象と戦う話ですし、『ミスミソウ』は、ほとんど身動きが取れない雪深い土地で、過疎化の進む町を舞台に子供たちが殺し合う数日間を描くものでした。またエッセイ漫画や『ハイスコアガール』は自分自身の歴史を描いているようなもので、ほとんど自分の身体の切り売りです。

 それらの作品で描かれている世界はひたすら狭い。その狭さのため、登場人物たちは身動きが取れない。読んでいる方も息苦しい。でもその分、物語は深く掘り下げられています。

 そうした掘り下げの結果として、押切は民俗学という岩盤にぶち当たったのでしょう。その結果『ツバキ』が生まれたのだと思います。

 ですから、最初に描かれたぶんか社版『椿鬼』も、また『ツバキ』の前半部も、その世界はまるで昔話です。時代設定や場所を飛び越えた、「むかしむかし、あるところに」という出だしでのみ語られる物語。いつ、どこであったのか分からないにも関わらず、そういう物語はいかにもありそうだと僕らに感じさせてくれる、そういうお話です。

 もちろん村田銃が登場するなど、時代考証がまるきり無視されているわけでもありません。しかしそれが明瞭になるのは、2巻の津山事件をモデルにした「朧月夜」からです。このエピソードから、それまで現実の歴史とは無関係だった『ツバキ』という物語は、その方向性を変えました。

 なぜ押切が津山事件を選んだのか、その理由は不明です。ただ「朧月夜」は実際の事件とそこに至るまでの経緯をかなり忠実に再現しているところがあり(マニアとしては再現度的に不満なところもありますが)、犯行シーンの描写はほとんどノンフィクション漫画のようです。

 ここで大きく方向性が変わったというのは、何より、作中に登場する人間たち関係性が大きくシフトしたということです。

 1巻までの『ツバキ』は、山と人間の関わりを描いていました。人間の悪行といっても、それはあくまでも「山」との関係における悪行でした。しかし津山事件は犯罪です。それは山と人間ではなく、人間と人間の関係における悪行です。

 山と人間の関係から、人間と人間の関係へ――。この変化に伴い、物語は途端に歴史性を帯びてきました。それは主人公ツバキの内面や過去など、生い立ちという形での歴史でもあり、鉱山や映画などが登場する近代日本の歴史でもあります。最初は「むかしむかし、あるところに」としてしか語りえなかった『ツバキ』が、最終巻あたりには昭和の何年頃かもかなり限定できるようになっているのです。

 こうなってくると、いくぶん味気ない。

 僕にとり、『ツバキ』の3巻はどことなく精彩を欠くように見えます。ぶんか社版『椿鬼』や、『ツバキ』1巻にあったような、いつどこで起きた物語なのか分からないがゆえに、いつでもどこでもありうるような物語でもある、僕らの胸の奥に直接響いてくるような音響が、3巻にはありません。人間の歴史性が暗黙のうちに中心に据えられてしまったせいか、鉱山の話も雪男の話も、どことなく技巧的です。

 3巻あたりになってくると、閉鎖空間での人間の営みをその内部から描いているのではなく、そうした営みも歴史の流れのひとコマとして捉えるような、外部からの観察者の視点で描いているように僕には見えます。

 もちろん、最初からその萌芽はありました。物語の前半が山と人間の関係を描いたものだと言っても、俯瞰してみれば、小さな村落共同体が勝手に自己崩壊を起こしているに過ぎない、とも言えます。考えてみれば、民俗学自体が偽史創作の学問であるという見方もあるわけで、全ては人間の人間による人間のための物語なのだと言ってしまえばそれまででしょう。

 そのへんは作者の押切も漠然と気付いていたのではないでしょうか。だから主人公の椿鬼は、最終話でいったんは近代化の進む人間社会に呑まれそうになりますが、そのラストでは山へと「逃走」しました。

 この逃走の理由は、つまり彼女は原点に還っていった、ということなのでしょう。

 1巻までは、歴史なき閉鎖空間の内側で狂言回しとして存在していた彼女。しかし2~3巻に至ると、だんだんその内側から這い出してきて、狂言回しとしてではなく、それまでの主役だった「山」に取って代わるようになりました。しかしそれは、作者にとっても『ツバキ』の本来のあり方ではなかったのだと思います。だから彼女は山から下りていくことをやめて、再び山へと還っていったのでしょう。

 最終巻の最終ページで作者は、いずれまたこの物語を復活させるだ、と宣言はしています。しかしこれはどうなるかな、と僕は思っています。一度山から下りてきてしまった椿鬼を、再び元の姿で描くことはできるのか。歴史のない閉鎖社会で、「山」を主役とした物語を再び描くことはできるのか。それともそこへ回帰する必要はなくて、次の『ツバキ』は全く新しい形で作られることになるのか――。

 正直なところ、前者はもうないかなという気がします。あの1巻までの閉鎖社会ホラーは、本気で描き続けたら作者の頭がおかしくなってしまうんじゃないか。僕はそんなことを、少し真面目に危惧しています。

 作者の押切が、怪異や妖怪変化の原型を求めて「山」の民俗学に行き着いたのだとすれば、それはまるで『遠野物語』で描かれていたような、狂気に取り付かれて山へ入っていき失踪した女たちのようです。押切は、また違う意味で山に取り付かれてしまったのではないか。ですから、最初の頃の『ツバキ』は狂気すれすれみたいな印象があって、あれはあれでもう十分だと思います。

 今、もしも僕らが最終巻で山へ還っていった椿鬼を探し求めるとしたら、『遠野物語』や『山の人生』あたりになることでしょう。たぶんそこに、椿鬼は今も存在しています。

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