2014年9月9日火曜日

◆吉野茉莉さん「藤元杏シリーズ」自己出版バージョンの感想(ネタバレ注意!!)

※ご注意下さい

この文章は、平成26年9月25日に一作目が発売される、MF文庫『藤元杏はご機嫌ななめ』シリーズの内容に触れています。
厳密には、同シリーズの原型である、電子書籍&自己出版バージョン(全四作)のネタバレです。
これから発売されるMF文庫版と、今も流通している自己出版バージョンともに、未読の方はくれぐれもご注意下さい。

☆ ★ ☆ ★

どうして僕らは、青春小説と呼ばれるあのジャンルを、これほどに愛するのでしょうか。

その疑問は、何年も前から抱いていました。僕自身、読み手としても書き手としても、そうしたジャンルには関心を持っていたからです。

まず、青春小説の一番の魅力として考えられるのは、書き手にとっては比較的書きやすく、読み手にとっても読みやすいという点でしょう。自分の経験に引き寄せて書き、あるいは読むことができるので、誰にとっても物語世界をイメージしやすく、そして感情移入もしやすいからです。

ただ、それだけではないようです。少なくとも僕は、吉野茉莉さんの『彼女のための幽霊』からなるあの一連のシリーズを読んで、別の答えもありうるなと思いました。



このシリーズは全四巻。もともとは自己出版という形で流通していた電子書籍です。それが今度『藤元杏はご機嫌ななめ』というシリーズ名で、大手ライトノベルレーベルから出版されることになりました。



シリーズ第一作目と二作目の感想は、前に一度書いたことがあります。

(一作目の感想はこちら)

(二作目のはこちら)

その後、全四作で完結すると聞いて、三作目以降の感想は完結後に書こうと決めていました。で、そうこうしているうちに商業出版という運びになったという報せをがあったので、書店に並ぶ前に書かなければと急いでいます。

なぜ急ぐかというと、自己出版形式で先に出ていたバージョンの方が、作者の世界観がナマに近い形で表に出ていると思うからです。ですから、それについて感想を書くことは、いわば作者と読者の「腹を割った」形での対話になるだろうと思うのです。

さて。このシリーズには、もともと独特の雰囲気が漂っています。

個性豊かなキャラクター(特に女性キャラ)に、ユニークかつユーモラスな人間模様。基本的に、登場人物たちは明るく楽しい学園生活を送っているように見えます。いろいろ事件はあっても、物語は基本的にはハッピーエンドですし。

しかしどこか暗い。

この暗さは、全編通して物語世界に陰を落としています。この暗さはどこから来ているのだろう、と僕は気になっていました。

原因はいくつか考えられました。過疎の一途を辿る田舎の中都市が舞台だからなのか。あるいは、主人公のもつ病気のためなのか。一部のキャラの強烈さと異様さのせいなのか。もしくは表紙や挿絵の淡い雰囲気のゆえなのか。または、僕は作者の他の作品も読んでいるので、そっちの雰囲気に引きずられているのか――。

でも僕にとって決定的に思われたのは、この小説ではキャラクターたちの「成長」がない(ように見える)という点でした。

一概には言えないでしょうが、十代の少年少女が主人公の青春小説といえば、大抵は登場人物がなんらかの形で「成長」します。大まかに言えば、多感な登場人物たちが、この世の中に対して精神的に折り合いをつけてハッピーエンド、というのが王道パターンでしょう。

あるいは反対に、何かを失う喪失感を描く青春小説もあり得ます。それもまたひとつの「成長」として描くことができます。

そういうのを王道として考えた場合、この自己出版版「無印」藤元杏シリーズにはそういう描写が見られない気がするんですね。全然ないとは言いませんが、はっきりと、登場人物の精神的な成長がひとつのカタルシスとして感じられるような、そういう場面がありません。

全編を通して見た場合、最後に精神的な変化を遂げるキャラクターならいます。でもそれも、さほど大きくは変わっていません。また終盤で、今まで見えなかった一面を示してくれて、印象がちょっと変わる程度のキャラクターもいます。でもそれも、もともとあった設定が顔を出しただけのように描かれていました。

主人公の杏は、「お兄ちゃん」への慕情に見切りをつけたことなどを考えると、成長を遂げたと言えるかも知れません。とはいえ、その描写も実に淡々としています。北条先生への思いや結婚式の回想もあっさりしており、予定調和的な雰囲気でした。

このシリーズには、そういうところが結構あります。もっと劇的に描写できそうな部分が、いつの間にかすっ飛ばされて既に解決してしまっている。例えば紫桐さんや柏木さんなどがそうで、彼女たちの中にあったはずの葛藤はほとんど描写されていません。ただ事後的に淡々と語られています。

作者の吉野さんは、意識的にか無意識的にかはともかく、キャラクターの「成長」の描写をあえて避けているように思われます。

このシリーズにおいて、キャラクターは劇的な形では「成長」していません。

キャラクターたちが成長しないということは、彼らの目の前には、自分の手で切り開けるような輝かしい未来は差し当たって見当たらないということです。そしてこのことは、物語世界の雰囲気にもぴったりと当てはまるように思えます。

例えば、舞台は過疎化が進む田舎町で、未来がない。また個々のキャラクターの行く末も、最後まで不安を感じさせる部分がなくもない。桂花は本当に大丈夫なのかしら。リンゴさんは家の呪縛からはもう逃れられないのか。一ノ瀬・絹木の両先輩は今後どうなるのだろう。遠距離恋愛は辛いぞ、本当にそれでいいのか、等々。

もちろん青春小説のキャラクターが最後に必ず「成長」しなければならないというルールがあるわけではありません。ただこのシリーズに特徴的な雰囲気として、「瑞々しいけれど奥底に暗く乾いたものがある」のを僕は感じるのです。その原因は、やはりこの「成長のなさ」にあるのではないか。

キャラクターたちには、心のよりどころがないように見えます。いや、全然ないわけではなくて、例えば杏にはシロがいます。女の子たちもいろいろと納得しているようです。絹木さんには恋人もいます。でも思い返してみると、そうしたよりどころも種はもともと彼らの心の中にあって、それがうまく開花しただけのような印象です。外部からの刺激を受けて劇的に訪れた変化ではありません。

杏が、お兄ちゃんとシロによって陰から「守られ」続けていたことを知らされた時も、さほど混乱はありませんでした。柏木さんや桂花なども、自身の抱える悩みや問題について新たなよりどころや信念によって乗り越えたというよりも、受け入れたことを事後的に淡々と表明していました。

あっさりしているんですね。心のよりどころになるポイントがあって、そこが支点になって問題が解決して成長する、という構図が薄い。淡々と、起こるべくして起きたことが起きて、世界がうまく閉じていく感じ。

今後、彼らの未来はどうなるのでしょう。もちろん学園という舞台から全員が巣立ち、それぞれの道を歩んでいくことでしょう。でもこの物語世界に劇的な成長という要素がない以上、彼らがそれぞれの道を進む、というのは、それは成長や卒業というよりも単なる「拡散」にしかなりません。卒業してバイバイ、そして県内(道内?)や県外(道外?)に散らばっていくわけです。

この、拡散という言葉は、シリーズ第一作目の『彼女のための幽霊』を読み終えた時も頭に浮かんだキーワードでした。『彼女のための幽霊』は、学園内の騒動の陰に黒幕がいるかのように見せかけて、実際にはそうではないというのが真相でした。騒動の要因ひとつひとつが、横のつながりのない個々のキャラクターによるものだったのです。真相は収束するのではなく、拡散する構図でした。

この構図は、シリーズ全体のそれと奇妙なくらい一致します。シリーズが完結する前に、「最終話は短編集になる」と作者がツイッターで宣言していたのを読んで、僕は大いに納得したものです。ああ、作者はキャラクターたちに明確な光り輝く未来を用意してはいないんだな…と。未来はあくまでも彼ら一人ひとりに委ねられており、作者は最後は「さあ行け」と背中を押すにとどめるのだな、と。

こうした印象も、『彼女のための幽霊』の初読後の印象と重なる部分がありました。成長物語という甘い幻想に落ち着かず、人生はただ淡々と過ぎ、人は拡散していくだけだという真理が、どちらでも示されています。

そう。実際そうなんですよね。劇的に人間が変わることは稀ですし、青春時代というのは人生の仇花のようなもの。人生は全体としてはただ淡々と過ぎていき、人はただ移動し、散らばって、そのつどの人間関係を生き、そのうち死にます。人生ってそういうものです。

ところで、青春小説の役割とは何でしょう。

半ば勝手な思い込みになるのですが、僕はそれを「来歴の創造」だと思っています。

青春時代は、大抵は誰にでもあります。そして、その時代の持つ独特の感慨や情緒を知っている人は、青春小説というジャンルをより深く理解できることでしょう。もちろん物語世界なのでその世界は非日常ですが、読者が自分の記憶や経験に引き寄せてイメージできる世界と考えれば、そこは日常と地続きです。

この時代の十代の少年少女というのはマージナルな存在で、「何者でもない、ゆえに何者でもありうる」存在だといいます。僕らが青春小説を通してイメージするのは、そんな時代に他なりません。かつて自分が何者でもなかった時代です。

でも、いくら「何者でもありうる」広大な可能性に開かれていると言っても、十代の少年少女もまた社会的存在です。親からの経済的な恩恵を受け、保護されながら学校へ通っているのです。無限の可能性を感じていたのは、実はそういう社会的な手の平の上でのことに過ぎません。

そのことをはっきり自覚した時、人はもう「何者でもありうる」存在ではありません。かつてのそんな時代を遠くから眺めている、「何者かになってしまった」存在です。先に「人生ってそういうもの」と書きましたが、この言い方は、まさに「何者かになってしまった」人の言い草です。

でも、そんな達観はつまらない。

だから、僕たちはついつい「来歴の創造」に走ってしまうのではないでしょうか。

青春小説の中で再現されている時代は、かつて自分が何者でもなかった時代です。それは見方を変えれば、何者でもなかったがゆえに「このような形でもありえた」と今の僕らに対して示してくれているということです。

青春小説の内部で発生する事件や出来事は、読者の青春時代の心情や情緒を呼び起こしてくれる、たとえ話です。青春小説は、読者にとっては、かつての時代の比喩表現です。

そうした比喩を通して、読者は青春時代を追体験し、その根本にあったはずの情緒に改めて気付きます。

正直な話、二十代三十代ともなると、十代の学園生活のことなんて、よほど印象に残る思い出でない限り大して覚えていないものです。だけどそういう時代を、青春小説は物語を通して新しく創造してくれます。それは自分自身の新しい歴史です。

そして歴史である以上は、今の自分ともつながっています。小説内で成長するキャラクターは、現在の自分に接続されます。青春小説のキャラクターの成長は、もはや青春時代からはじき出されてしまった読者に対し、キャラクターたちが手を伸ばしてくることなのです。

青春時代は、何者でもないがゆえに何者でもありうる時代だ――という、サルトルっぽいレトリックは多分嘘でしょう。

だけど、翻ってなぜそんなふうに語られるのかと言えば、青春時代というのは大人にとっては心のよりどころだからだと思います。僕はそういうのを、「心のふる里」なんて脳内で言ったりしています。

でもこの「心のふる里」は、もはやずいぶんと遠い時代です。十代の頃の記憶なんて、思い出補正がかかっていて当たり前です。それは作り直されたものであり、現実から遠く隔たったものであります。

でも見方を変えれば、遠く隔たっているからこそ、もう手の届かない自分の来歴として、現在の足場として、心のよりどころとして、求めずにはいられないものでもあるのです。

青春小説とは、そうやって作り直されていく「来歴」を、生産し消費し続けるための場なのでしょう。

もっとも、これを青春小説の定義とするつもりはありません。多分そんなことをしても定義に当てはまらないものがいくらでもあるでしょうし、これくらいのことは他の誰かが先に考えて、もっと深い定義づけをしているかも知れません。だから「これが定義だ」と大口を叩く気はないです。

ただ僕は、無印の藤元杏シリーズを読んで、消極的にそういうことを強く感じたのです。

同シリーズの感想に話を戻しますが、僕は先に、このシリーズはキャラクターの成長という要素が弱く感じられ、全体として予定調和的だと書きました。そして、最後は個々のキャラクターの物語に委ねられて、全ては拡散しているとも書きました。

こういうふうに捉えると、同シリーズは、僕が考えたような「来歴の創造」には使えない小説だと言えます。

キャラクターは、成長はしているのかも知れません。だけどその成長は、未来に向かって開かれるというよりも、キャラクターの内部で閉じています。現在の読者に対して、キャラクターが手を伸ばしてくることはありません。

このシリーズには、そういう意味での、いわば「素っ気なさ」があります。読了しても、青春時代の甘酸っぱさのようなものが残らず、さらりと過ぎ去っていくのです。チョコレートの味わいに例えれば、甘味はある、苦味もある、だけど雪のようにあっさりと溶けてしまう。チョコレートでなければ味のない炭酸水のようなもの。刺激はあるけど、嚥下してみれば何も残らない、そういう淡さが際立っているのです。

作品としては明るく楽しいライトノベルの衣を纏っている同シリーズ。実際、文庫本として発売される時には、そのような装いになっていることでしょう。

でも本当は、このお話はかなり大人向けなのではないでしょうか。青春時代なんて、本当はそんなものは無いんだよ――ということを示してくれる、いわばアンチ青春小説とも言えるのではないか、とすら思います。

淡く儚く溶けつつ、最後にはやっと分かるほどの深い苦味が残る味わい。僕にとって、無印の藤元杏シリーズとはそういうものでした。またその儚さや苦味の元はどこにあるのかと探ることで、青春小説というものについていろいろと気付かせてくれた、印象深い作品でもありました。

さてこれに、編集者の目線も加わって加筆修正がなされ、文庫本で出版される際にはどのような味わいが加わっているのか。その「成長」ぶりをこの目で確かめるのが、とても楽しみです。

この文章の公開を許可してくださった吉野さん、ありがとうございました。
(ご本人のブログはこちらです)