2014年6月20日金曜日

◆現在と過去について

 以前、所有していて今は手放してしまった音楽CD。

 今になってどうしても手元に置いておきたい、もう一度聴きたい、と思うものがいくつかあって、再度購入しました。

 僕が十代の頃に聴いていたCDなんてのは、今では「古い」部類に入るため、ブックオフオンラインで格安で買えました。

 届いたその日に聴いてみて、蘇る懐かしさ。

 だけど不思議なことに、昔のように何度も何度も聞き返しても全然飽きない……というわけではありません。

 数回聴いたら、今はもう十分かな、と思います。

 こういうのは誰でもあることでしょうけど、ある種の娯楽とか嗜好品の魅力は、まさにそれに触れているときの状況や環境に大きく影響されるわけですね。

 僕は今、音楽CDの話をしていますが、ゲームなんて最たるものでしょう。

 子供の頃にワクワクしてやったファミコン等のゲームを、今やってみると5分で飽きる、なんてのはこれもよくある話。

 そういう場合、そのゲームの面白さというのは、その時ならではのものです。全体的に見れば、そのゲームが存在している状況そのものの面白さでもあります。

 そのことの自覚なしに、もう一度そのゲームをやってみると、実際にはそのゲームが面白かったという記憶には、いわゆる思い出補正がかかっていることに気付くというわけです。

 思い出補正と言っても、実際には「補正」されているわけではなく、もともとそれを面白いと思う自分自身の感性が、当時の状況と共にあったというだけです。

 CDにしろ、ゲームにしろ、また読書にしてもそうですが、それを面白いと感じる感性は、唯一一回的なものだということです。人間の感性はうつろいゆきます。

 性格とか好みとか行動パターンとか、そういうものはずっと変わらず継続しているように見えますが、実際には全体で渦を巻きながら変貌し続けています。

 先に「そのことの自覚なしに」ということを書きましたが、実際には誰もが無意識に自覚しているものです。

 なぜなら、過去というのは、変貌し続ける全体に楔が打ち込まれた、その向こう側ということですから。

 人生が、走り続ける列車だとします。それには性格、好み、行動パターン、環境、嗜好などいろんなものが乗っています。それがひとまとまりになって継続しているように見える間は、それが「現在」です。

 過去とは、運転手が気付かないうちに連結器が外れて、置き去りにされてしまった貨物車両みたいなものです。振り返ってみたとき、走り続けている現在の自分とは違うものとして感じられるもの。

 じゃあ未来はなんなんだ、ということになりますが、それはまた後日。

 あと、読書とかの批評とはなんぞや、という話もグダグダ書くかも知れません。無関係ではないと思うので。