2014年6月14日土曜日

◆中島義道『純粋異性批判』

 研究者の立場から、男性と女性の違いについて考察した本です。

 もともと男と女は、根本的に考え方や感性が全然違うところがあります。それを表面的に並べ立てるだけの従来の「異性論」と違い、もっと哲学的に掘り下げながら、原理的な部分からその違いをはっきりと描き出そうという試みです。

 方法としては、まず男性のあり方というものを、カントが掲げたような思考上の原理原則に引き付けて描き出します。

 その原理原則は、ものを考える人間にとっては当たり前のもので、いわば論理というものを支える大原則なわけです。だけど、世の「女性」という生き物がそれを軽々と踏み越えてしまっている様を描き出すことで、男女の違いをもっと根本的・かつ明確に描き出しています。

 サラッと読むと、女性蔑視すれすれみたいな書き方をしている箇所もあります。たぶんそう解釈されても仕方ないような本ではあります。

 でもそれはおそらく、男性が男性原理以外のものを材料に思考して、男性ならざるものを語ることそのものの不可能性を実践しているとも言えましょう。「男にとっては、女という生き物の感性や考え方はこのように表現するしかない」という諦めというか開き直りのようなものを感じます。

 作者のそういうスタンスをある程度踏まえながら読めば、なるほどこれはよくできた「哲学的女性論」です。難解な部分はある程度飛ばし読みしても、男性性と女性性の違いが「原理」的な部分から(この原理とは男性原理でしかないわけですが)きちんと整理されていて、僕などはこれを読んで女性というものの理解が深まったかな、と思うところがあります。

 さてしかし、この本で少し不満に感じるのは、女性というものがいかに男性原理にそぐわないものか――ということを描き出すことだけに力が注がれており、ではそうした男性原理とは違う、女性原理というものがあるのかないのか、あるとすればどんなものなのか、についてほとんど明確な答えが示されていないことです。

 作者は、男性から見た場合の、女性の「理解しがたさ」を整理分類するのに一生懸命ではありますが、そこで終わっているんですね。ですから読み方によっては、女性はまったくどうしようもない生き物である、という蔑視的な結論にたどり着いているとも言えます。

 もちろん文章の中でも再三説明されていますが、理性的な思考、論理、言語などによって語られる世界というのは、歴史的にも「男性原理」によって支えられてきたものです。そのことが、哲学の世界ではすっかり暴かれています。男性は男性原理の中でしか物事を語ることができません。女性というのはいわば非理性、非論理、非言語なわけで、それを「語る」ということがあるとすればその行為自体が自己矛盾だということになります。

 だから著者は、あくまでも控え目に、分をわきまえて、男性原理の中に閉じこもって、男性原理のまなざしによってのみ、女性というものを描き出しているわけです。

 しかし僕などは、本当にそれでいいのかとも思うわけです。

 まあ哲学のプロがそう言っているのだから正しいのかも知れませんが、そもそも男性と女性が理性を全く共有していない、お互いに「語りえぬ」存在だとすれば、こういう書籍の形で異性を語る、ということがそもそも「できない」はずです。

 だけど現に、「できて」いる。となるとやっぱり、男性と女性で共有可能な、共通の理性の地盤というものは存在するのではないか。

 語りえぬものを語るのは自己矛盾かも知れませんが、語りえぬものは語りえないから語らないよ、というのも同じだと思うのです。「そうやって貴方は語っているではないか」と言えるわけですから。

 女性ならざるものとして控え目に、分をわきまえた立場から言挙げするのはいいのですが、哲学的に思考するということで言えば、この本はまだ不徹底です。やっと入口に立ったに過ぎない、という感があります。

 哲学という「ジャンル」自体は縮小あるいは滅んでいく傾向にあるのかも知れません。そしてそれは、これまで支配的だった男性原理がどんどん控え目になっていくということを意味していて、喜ばしいことなのかも知れません。

 でもそれとは別に、思考という人間の営みは絶対になくならないわけで。学問としての哲学が仮にどんどん隅に追いやられていったとしても、人間の思考自体は決してなくならないし、世界はそれによってしかいい方向に進んでいかないだろうと僕は信じているところがあるのです。