「美とはなんだろうか」と考える機会が、最近ちょっと多いです。
こんな風に書くと大げさですが、なんてことはない、漫画とか絵とかを観ていてちょこっとでも感動したときに、この感動はどこから来るのかな、と思うだけです。
そういう疑問自体は前からあったのですが、それで美学とか芸術鑑賞の本などを読んでみても、いまいちピンときませんでした。
たぶん僕自身、「美とは何か」という問題全体がぼんやりしすぎていて、焦点が合っていなかったんでしょうね。
で、今、森村泰昌の『美しいってなんだろう?』という子供向けの本を読んでいますが、これがイイ感じです。
まだ読んでいる途中ですが、著者は「見る」「作る」「知る」という手段で美に接近してみたけどよく分からなかった、そこで自分自身が既存の芸術作品で描かれているキャラクターやモノに「なる」ことで初めて分かってきた、とのこと。
「なる」が、美への接近になるのって、なるほどなーと思うところがありました。
対象物と一体になるのだと考えれば、日本的かも知れません。
小林秀雄が『美を求める心』というエッセイとも論文ともつかない文章で、芸術作品はただ観たり聴いたりするだけではダメだと言っています。観たり聴いたりするのにも実はテクニックがいる。ピカソが分からないならとにかく観て、観て、観て、目を慣れさせろ。ということを書いていました。
これが僕にはピンときて、西田幾多郎の世界にも通じるなと思いました(西田の論文にも、芸術や美術に関する言葉が結構あります)。
美術作品や芸術作品の前に立ったとき、僕は何をするべきなのか。覚えておくべきなのか、記録するべきなのか、分析するべきなのか。ひとつの答えとして、まずは「観て愛する」ことが必要なのかなと思います。
観ることも立派な、人間の「行為」のひとつですね。でもそれは日常的に漠然と行なっていて、「行動する」のともちょっとニュアンスが違う。無意識に行なっている。でもそれだけに、観るという行為は、意図的に勉強したり知ろうとしたりするよりも以前の、対象と一体化した感覚が強いと思います。
とにかく観る、そして「なる」。道筋は違えど、美と一体になることが、理解を深める一番の方法だと言っている人がいる。この事実は僕にとってもっともピンときました。
思い起こしてみると、心当たりはあります。
まあ僕は美術品とか芸術品の世界には疎いし理解も浅いですが、それでもpixivあたりをだらだら眺めていると、いい作品を見つけて「おっ」と思うことがあります。
その時の感慨って、単純なようで、意外と言葉に表しにくいんです。言いようのないもどかしさなんですね。
かっこいいものには高揚します。可愛いものにはキュンときます。綺麗なものには憧れますし、えろいものには興奮する。そういう高ぶりがあったとき、僕はそれそのものに「触れたい」と感じます。
「触れたい」というのはたぶん、芸術作品を鑑賞する場合によく使われる言葉ですが、どうも上記のもどかしさを表現するには僕には「触れたい」という言葉は不十分な気がしてまして。
可愛い女の子が描かれている作品だったら「触れたい」と表現すれば分かりやすいです。でもかっこいい絵を観て高揚した場合など、一体なにに「触れたい」のか、いまいち表現し切れないですね。
というわけで僕はそういうとき、「美に参加したい」という言葉を脳内で使っています。
そこで描かれている空気や世界に参加したい。植物を微細に描いた作品であれば、その植物を隅から隅まで観察して、それを描いて「植物の美しさ」を表現した絵師の、その感性を理解し共感し、今まで僕よりも先にその理解と共感を得てきた人たちの世界に参加したい。そう感じるわけです。
それはただ分析して、そこに描かれている世界や理論を理解するのとは違います。初めに自分自身の感動があります。その感動はもうあるのですから、そこをスタートとして、よりまじまじと観て、ついでによく知れば、感動は補強されます。
こういうのを総じて「美に参加する」などと言ってみたいのです。