2014年5月1日木曜日

展望

 文章が書けることにどのような意味があるのだろう。そう考えると、暗澹たるという程ではないけれど、途端に足元に陥穽が出現するような、そういう気分になりますね。

 僕はまあ、文章を書くのが好きで、趣味であり特技でもあるということになっています。

 でもそれは――あちこちで言っていますが――単に普通の人がドライブに行ったりテレビを見たり子育てをしたりしている時間に僕は文章を書いていた、というだけの話でもあります。ですから僕はそれ以外のことができない人間に仕上がっています。

 これは卑下とかではなく、まあ事実としてそうだよな、と自分で自分に対して納得しているのです。

 みんなすごいなーと思うんですよ。人と普通にしゃべれるし、冗談は普通に言えるし、計算はできるし、異性と話してるし、結婚生活もしてるし、図太いし、僕みたいに気弱でもないし、体力もあるし、お金もあるし、なんで普通の人はごく普通に日常を過ごしていられるのかと日々不思議で、羨ましく感じております。

 それは文章ばっかり書いていたせいではないのかも知れません。単に僕の根っこにある何かが、僕を「物書き」に仕上げつつ、なおかつそれ以外のことが何もできないダメ人間に仕上げてしまったのかも知れません。両者は原因と結果の関係じゃなくて、予定調和的に枝分かれした僕の性質なのかも知れません。

 とにかく結果として僕はこういう風になっているわけで、さて三十代半ばに差し掛かったあたりでそれを劇的に改善できるのかと考えるとどうなのかな、とも思います。不器用で要領が悪いのは僕の特質のひとつでもありますから。むしろ、自分の欠点を掘り下げているこういう視点が、そのまま物書きとしての自己表現のまなざしに入れ替わったりしていて、結局いつもの自分になってる。もうどうしようもない。

 自分の人生、振り返るとゾッとしますよ。生まれて初めて就職してからこっち、転落というほどじゃないけど、溺れながら漂流している気がしなくもない。一度就職したものの我慢の限界に達し、転職したらそっちでも挫折し、元の職場に戻って、結婚したら大失敗して離婚して、盛大に借金背負って、今は辛うじて比較的居心地のいいポジションにいるけれど、それでもちょっとした拍子で足元崩れそうですし。

 それでもまあ、文章を書くことで、何かに繋ぎ止められている気はします。いわば錨のようなもので、人生を漂流はしているけれど、錨のおかげである程度の範囲で留まっています。

 でも僕の文章というのも、なんだかなあと思うのです。敬語よく分かってないし、日本語の文法もろくに知らないし。電子書籍の自己出版とかやってる人の文章見てると、僕より上手で、量産していて、知識も技術も体力もあるから本がバンバン出せている人とか大勢いますもの。

 じゃあ「僕が」文章を書ける、ということの意味って何かあるのか。と、そんな言い方で考えること自体、何かの意味を欲しているということなのですが、それについてはまだ心当たりがなくて、ただとにかく僕ってなんなのと思っています。

 もちろん評価してくれる人は結構います。とか言いつつこんなひどい文章書いているので申し訳ない気もするのですが、とにかく評価してもらえるのは嬉しいことです。

 ただ、どこかで悪魔に魂を売ってしまっている気がしなくもない。さっきは原因と結果の関係ではないと書きましたが、もし原因と結果の関係だとしたら、あるいは枝分かれしたそれぞれの性質に何かの媒介があるとしたら、それはひょっとすると悪魔なのだろうかとも思う。何か大事なものを引き換えに文章書いてる気もする。

 現実世界でも一部の人は気が付いていると思いますが、僕はどうも、おかしいところがあるらしいのです。精神病でもないし、性格でもないし、気質というのでもないし、なんというかよく分からない。ただ、あるシチュエーションになるとおかしくなって、傍から見ると異常行動にしか見えないことを仕出かしてしまうのです。自分でも、やった後で「これが僕の狂気なのかしらん」と思うことがあります。

 アナーキーとかシニカルとかいうのともちょっと違うのですが、両親がどちらもいなくなって、本当に心配かけてはいけない人がこの世からいなくなったら、僕は自由になってしまうのかも知れないなあと考えているところがあります。そういうタガが外れたら僕はどうなるんでしょう。あんがい悪いこととか平気でしそうな気がします。

 そういう意味で自分が怖い。いつか何かに取り付かれて、何かを仕出かしそうな気がしなくもない。

 そんな僕が文章を書くのってどういうことなんでしょうね。身を助けるほどの芸になっているかどうかはよく分かりませんし、逆に悪魔に魂売って得た趣味でもあるように思われます。

 結論はなし。