◆大阪造幣局「通り抜け」将棋倒し事故(1967年)

 大阪市北区天満にある大阪造幣局の「通り抜け」は、今も多くの人々に愛されているようだ。地元の人ばかりでなく、遠方から観光バスで訪れる人も大勢いるとか。

 局の敷地内には南北に貫通する通路があり、長さは568メートル。この両側には127種354本の牡丹桜が植えられており(平成22年時点)、花見のシーズンには一週間ほど無料開放され、訪れた人々の目を楽しませる。

 開門時間は、平日が午前10時から21時まで。土日は午前9時から21時までである。皆さんどうぞ桜のシーズンにはぜひお越し下さい。

 ……って、なに宣伝させてるんですか。閑話休題。1967年4月22日、ここで事故は起きた。

 この桜並木の通路は、狭いところでせいぜい5メートルと、もともとあまり幅広いものではない。

 そのため、人々は造幣局の南門(天満橋側)から北門(桜宮橋側)への一方通行(距離約560メートル)で進まなければならない。それで「通り抜け」と呼ばれているのだった。

 これくらいなら、まあ長閑な散歩道という感じがする。だが、管理する側は大変である。何せ、多い年は100万人以上もここを訪れるのだ。土日ならなおさらで、平日の2.5倍の人混みになるという。

 今も造幣局のホームページを覗いてみると、観光客による交通渋滞やゴミの散乱に頭を悩ませているらしいことが分かる。

 そして、このような悩ましい混雑ぶりは今に始まったことではなかった。1967年4月22日当日も土曜日で、家族連れや子供が多く訪れる中、警察は機動隊員約100名を含む200名を配備。入口である南門には詰所を設置し、混雑時の群集密度を一平方メートルあたり4人と厳密に設定し、入場者を規制した。

 めっちゃ、ものものしい。

 それでも、こうした体制が功を奏したか、閉門直前までは特段のトラブルもなかったようだ。暗雲垂れ込めてきたのは、閉門の21時が迫ってきたあたりである。

 閉門は21時とはなっているが、実際にはその時刻には構内を空っぽにする、というのが「閉門」の正確な意味だった。よって20時35分には門を閉じることになっていた。

 21時までは桜が見られる――そう信じて足を運んだ人々からすれば勝手な話ではある。そういう認識のズレも原因になったかどうかは分からないが、閉門が近くなる20時頃には、門周辺は5,000人以上の人が滞留していた。恐ろしいほどの人混みである。

 警備側は予定通りに35分に門を閉鎖した。しかし人々は帰らない。ますます群集密度は高くなる。これはいかん、危険だと判断した警備側は、仕方ないのでもう一度開門することにした。群集を小さなグループに分けて、寸断しながら少しずつ通過させよう。このままでは事故につながる――。

 時刻は20時50分頃。門の手前20メートル程にロープを張り、改めて開放した。

 ところがここで群集はご乱心。せっかく張ったロープを突破し殺到してきたからたまらない。約30名の機動隊員が、殿中でござるとばかりに押し戻そうとしたが失敗し、人々は「通り抜け」の中になだれ込んだ。

 この時である。門から約2メートルの地点で、最前列にいた女性が転倒。そこへ次々に人が折り重なった。

 機動隊員80名が急いで負傷者を救出にかかったが、1人が胸部圧迫による窒息で死亡。また男性7名、女性20名の計27名が重軽傷を負った。この27名には、幼児から60歳代の人までが含まれていたという。

 当時、現場には仕事を終えて一杯機嫌で花見に来た人も多く、事故が起きてからも面白半分に騒ぎをあおった酔っ払いがいたとか。

 結局、この日の総入場人員は20万人に及んだ。

 事故の翌日の日曜日には、大阪府警は506人を出動させて、10メートルごとに2~3人の割合で警官を配置するという措置をとった。これに加えてパトロールも行い、より一層厳重な警備体制で臨んだという。

 もはや花見の雰囲気ではない。こんなんだったら、行かない方がいいと思うのは筆者だけだろうか。きっと今はもっと穏やかだろうと思うのだが。

 ところで、群集事故を記録するにあたり大いに参考にしている、岡田光正の『群集安全工学』(2011年、鹿島出版会)という本がある。

 これによると、群集整理のさなかに、急に規制内容や整理の計画を変更するのは大変危険だとある。例えば入口を変更したり、入場の順序を変えたり、行列の位置を変えたりする、などである。

 これをやってしまうと、沸点が低くなっている群集は頭に血が上り興奮するらしい。主催者への信頼が失われ、敵視すらされてしまうのである。「なんだあいつら、ずっと並んでるこっちの気も知らないで!」という感じだろうか。

 その結果、ロープを張っても無視して殺到するという結果になるのだ。なにせ群集だから、怒りに任せてルールを破っても責任は問われにくい。だから平気になる。恐ろしいことである。

 言われてみればこの「通り抜け」の事故もそうだし、横浜の歌謡ショー事故や、豊橋市の体育館での事故もそうだ。人間というのは、かくも簡単に群集心理に取り付かれてしまうものなのか。

 おそらく、安全に日常を過ごしたいのならば、人混みにはできるだけ近付かない方がいいのである。それは単に群集事故に巻き込まれるから――ということではなく、我々自身がそういう群集心理に取り付かれないように気をつけなければならないから、でもあるのだ。

 人混みに行くな、行列に並ぶな、と言うわけじゃない。ただそういう群集の中に身を置くとき、自分自身も含めて、人間は簡単に悪魔に変貌するということは肝に銘じておくべきなのである。

◆岡田光正『群集安全工学』鹿島出版会、2011年
『第32回明石市民夏まつりにおける花火大会事故調査報告書』29章「国内で発生した主な群衆事故」
災害医学・抄読会 2003/12/12
独立行政法人造幣局ホームページ

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◆大阪市「ウインズ梅田」&北海道「ウインズ札幌」将棋倒し事故(1995年)

 年の瀬も迫るクリスマス・イブ、1995(平成7)年12月24日に起きた事故である。

 この日は「第40回有馬記念(中山競馬場)」のレースが行なわれていた。――と言っても筆者は競馬はサッパリなので、その意味するところは分からない。これって、大勢の人が集まるようなすごいレースだったのだろうか。

 たぶんそうなのだろう。大阪市北区・日本中央競馬会の場外馬券売場「ウインズ梅田」は大勢の人でごった返していた。

 この日は日曜日。だからもともと人が多く集まる日だったと思うのだが、この時はそれに輪をかけて多かった。なんといつもの日曜日の1.5倍、約5.600人の人が詰めかけたのだ。身動きもできない状態だったという。

 まさかこんなに人が来るとは、主催者側も考えていなかったのだろう。整理員は30人と、いつも通りの人数だったそうな。

 事故は午後3時半頃、エスカレーター(幅1.2メートル、長さ9.6メートル)で起きた。

 なにやら、この馬券売場にはA館というものが存在しているらしい。その3階から2階へ降りるエスカレーターに、ドッと人が押し寄せたのである。

 彼らは、レースが終了したので帰路についたところだった。資料を読んでいると、歌謡ショーのような暴力的な空気ではなかったようだが、おそらくエスカレーターという場所が良くなかったのだろう。一人が転倒したのを皮切りに、バタバタと将棋倒しが発生した。

 これに巻き込まれ、怪我をした男性の証言。
「エスカレーターの下で何人かが倒れているのを見て、慌てて逃げようとしたが、降りてくる人に押されて倒れた。生きた心地がしなかった」

 また、これは将棋倒しに巻き込まれた別の女性。
「人が下に溜まっており、危ないなぁと思っていた。途中で人に押され、何がなんだか分からないうちに下敷きになっていた」

 ギャー、バタバタバタ。場内に悲鳴が響き渡る。それでもエスカレーターはゆるゆると動き続けており、危険な状態だった。これを非常停止ボタンでストップさせたのは、悲鳴を聞いて駆けつけたアルバイトの整理員だったという。

 この事故により、下敷きになった人のうち男性5人、女性3人の計8人が負傷。額を切ったり、足首を捻挫するなどの怪我を負った。このうち3人が入院し、一人の男性は重傷だった。

 怖いな、エスカレーター。

 だが、人がたくさん来たら危ないのでそのときはエスカレーターは止めよう、という考えはあったらしい。

 もともと、建物の各階に監視用のモニターが設置されており、あまりに混雑した場合はストップさせる手はずになっていた。それがこのたびは何故か手が回らなかったのだった。

 大阪の事故については以上である。

 一応、あわせてご紹介しておこう。実はこの日は北海道でも親戚みたいな事故が起きていた。札幌市中央区の場外馬券売場「ウインズ札幌」でも、おんなじような将棋倒しが発生したのだ。

 時刻は午後4時10分頃である。B館の3階から2階に降りるエスカレーターで、客が次々に将棋倒しになった。

 これにより2人の女性客が、それぞれ左鎖骨を骨折したり足首を強打したりして入院。また4人が腕などに軽症を負ったそうな。

「ウインズ○○」にとっては、とんだ厄日だったようである。

【参考資料】
◆岡田光正『群集安全工学』鹿島出版会、2011年
『第32回明石市民夏まつりにおける花火大会事故調査報告書』29章「国内で発生した主な群衆事故」
災害医学・抄読会 2003/12/12

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◆豊橋市立体育館将棋倒し事故(1982年)

 1982(昭和57)年10月16日のことである。

 この日は愛知県豊橋市今橋町の豊橋市体育館で、中部日本放送による歌謡ショーが行なわれることになっていた。

 これは市が主催する「豊橋まつり」の中で、「28回豊橋まつり・青春歌謡スターパレード」と題して実施されたものだった。出演予定は小泉今日子、石川秀美、新井薫子、早見優、そして当時メンバーはまだ高校2年生だったシブがき隊など、まあ錚々たる顔ぶれだったと言っていい。

 これほどの顔ぶれによる公開録画である。人が来ない方がおかしい。しかも観客席はすべて先着順の自由席で、なおかつ入場無料ときている。なんと、体育館の前には開演3日前の13日夕方から人が並び始めた。

 3日前って……。

 この行列が、ショー当日の16日の朝には160名、正午には800名と次第に膨らみ始めた。

 体育館の定員は7,000人。そして入場は無料で、この日は5,500枚の入場券が配布されていた。開場時間までに集まった来場者数は約2,000人である(資料によっては1,000人とも)。ほとんどが10代の少年少女で、かなり遠方から来た者もいた。いわゆる追っかけだろうか。

 もちろん、主催者側も手をこまねいてはいない。警官22名、市職員40名、アルバイト学生50名、警備5名の総勢117名による群集整理が行なわれた。

 体育館の入口から約30メートルの位置に、観客は4列に並ばされた。さらにロープで30メートルの長さの通路を作って割り込みも防止する。そして予定では、先頭から10名ずつのグループに分けてロープで囲い、入口まで警官が誘導する。そういう手筈になっていた。

 群集も、最初はきちんと指示通りに並んでいたという。

 ところが、である。16時の開場をまたず、15時30分過ぎにいきなり行列が崩れて入口に向かってゾロゾロと動き始めた。

 こらこら、ちょっと待て。警備員がハンドマイクで警告、制止しようとするもどうにもならない。行列は乱れて団子のようにひと固まりになってしまった。

 どうも雲行きが怪しい。そうこうしている間に16時になってしまったから致し方ないと、主催者側は予定通りに入場を始めた。

 それでも、最初はきちんと10人ずつ入場させていたようだ。ところがここで、群集を興奮させるようなアクシデントが発生した。体育館の中から、リハーサルの音楽が聴こえてきたのだ。

(※実はこのリハーサルの音楽が聴こえてきたタイミングというのが、16時だったのか、それともその前に行列が乱れた15時30分のことだったのか、資料を読んでもいまいちはっきりしなかった。)

 これにより、待っていた群衆は総立ちに。入口の前は広場でロータリーになっていたのだが、そのあたりで待機していた500人くらいが、係員の制止を振り切って殺到した。

 いかん、これはいかん。たまりかねて、主催者側は入場のために開いていた東側の入口を閉鎖した。緊急の措置だったのだろうが、来場者を閉め出すのだからよく考えてみると結構すごい話だ。

 もちろんそのままにしておくわけにもいかない。5分後(15分後という資料もある)に西側の入口が開かれた。主催者側としては、そちらから入場させて仕切り直ししよう……というつもりだったのだろう。

 だが、逆にこれが事態をかき回す結果になった気もする。閉鎖された東側入口の前で押し合いながら待っていた群集は、「開いたぞ! あっちだ!」とばかりにワッとそちらに押し寄せた。

 事故はここで起きた。時刻は16時20~25分頃である。

 状況の説明が資料によって少し違うのだが、概況としては、段差で十数人がつまずいて転倒したということらしい。入口から手前6メートルの位置に、5センチほどの段差があったのだ。

 別の資料によると、「(群集の)中の一人が圧力に耐えられなくなって入口前の段差付近で失神して倒れ、それにつまずいて十数人が将棋倒しになった」ともある。

 つまりこういうことだろうか。東側入口で押し合いをしている間に、失神した人がいた。それが、西側への移動の際に人混みがほぐれて支えを失ったか、意識朦朧としていたために段差につまずいた。それがきっかけで将棋倒しになった、と。

 転倒した人数についても、十数人と書いてあるものもあれば、中高生300人と書かれているものもある。また負傷者も1名とか6人とか5人とか23人とか、まちまちだ。これはこれで、当時の混乱した状況を示しているようにも思われる。負傷したのは14~18歳代で、男女ほぼ同数だったそうな。

 この事故が発生してから5分後、開場の入口は全て開放された。これは群集の圧力を下げるためだったという。警官80人が応援に駆けつけ、群集を改めて整理した。また負傷者は救急車で運ばれた。

 死者は1人。豊橋市立中部中3年の15歳の女子生徒がショック死したという。また4人が怪我を負った。

 歌謡ショーは、中止することも検討されたようだ。だが今中止すれば混乱は大きくなり、ますます収拾がつかなくなるだろう――そんな判断が下され、結局予定通り開催された。

【参考資料】
◆岡田光正『群集安全工学』鹿島出版会、2011年
事件・事故紹介サイト
ウェブサイト「警備員の道」
『第32回明石市民夏まつりにおける花火大会事故調査報告書』29章「国内で発生した主な群衆事故」
災害医学・抄読会 2003/12/12

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