2014年3月28日金曜日

◆袴田事件と日本人の「心証主義」

 うわあ……袴田さん、やっと出てこられたよ……。と、昨日のニュースでは感動しました。

 こういう、昔から「本当に有罪か極めて怪しいケース」についてはどんどんその不正が明るみに出されていますね。いいことです。

 でもまだ根は深い。あからさまな「冤罪」に対する日本人の感性は少しは研ぎ澄まされたのかな、と思いますが、「誤判」全般に対してはまだまだ鈍いところがあります。

 誤判とは、裁判で誤った判決が下されることです。

 布川や足利や袴田事件などもこれに含まれますが、誤判ということで言えば、他にもいろんなことが考えられます。例えば逆に、明らかな有罪の人に無罪を言い渡してしまう、とか。

 あとそれから、はっきりした証拠もないのに有罪と決め付けてしまう、とかね。いわゆる情況証拠とかで。

 それはよくないことだと思うでしょう?

 実際、原則的にはよくないことなんです。物的証拠がないのに有罪にするというのは、野蛮/近代、てな感じの二項対立の図式で考えれば明らかに野蛮人のやり方です。

 近代法治国家で、確たる証拠がなくても印象だけで有罪にしてもいいよ! なんて銘打っている国はたぶん、ありません。法学部でも、そんなふうに教える先生はいません。

 でも情況証拠で有罪にされてしまうケースは、僕らが想像するよりも意外なほどに多く存在します。ちょっと調べてみれば分かります。ゾッとするほどたくさんあります。

 はっきり言って、当局もマスコミも、そして僕ら大衆も、こうした犯罪や裁判については「心証主義」なんです。

 一度、イメージだけで「あ、こいつ犯人だな」と思ってしまうと、それだけでもう確定。経歴的にちょっと灰色っぽい部分があれば、警察はそれをつつく。マスコミはそれを誇張して書きたてる。そして僕らはそれを読んで納得して、ああこの事件はもう解決したんだなと安心する。その流れで、その人は有罪になってしまいます。

 でもDNA鑑定の活用でそういう傾向も少し解消されてきたではないか……とも思います。確かに思いますが、これは単に科学偏重主義の傾向がたまたま心証主義と一致しただけで、「科学という心証」を僕らが認知するようになったと、それだけに過ぎません。

 オウムの主犯格と言われているあの人とか、毒カレー事件のあの人とか、仙台の筋弛緩剤事件のあの人とか、結婚詐欺で男性を殺しまくったと言われているあの人たちとか、ロス疑惑のあの人とか、本当は彼らだって確固たる証拠はないようです。一部には、今になって明らかな冤罪だと言われているものもあります。

 冤罪に対する僕らの感性は研ぎ澄まされてきました。それはいいことです。では、今挙げた人たちも推定無罪の原則で釈放してもいいのではないか? と問われたら、僕らはウンと言えるでしょうか。原則的にはイエスだと言えても、誰もが一瞬だけ躊躇すると思います。

 でも、彼らは原則で言えば無罪なのです。

 まあ確かに、正直なところを言えば「明らかに怪しいだろ、コイツが犯人だろ」というケースもあると思います。ぶっちゃけた話、無罪判決は出ましたが、ロス疑惑などは非常に怪しいケースのように僕には見えます(これも心証)。

 でもそこのところが、はっきり線引きされていません。僕らは曖昧なケースでも、曖昧なまま、無実かも知れない人を今も平気で刑務所や死刑台に送り込んでいるのかも知れない。「怪しいけど証拠がないよね」と言われても、ウーンと曖昧な返事をして、でも心証としては明らかにクロだと思うから仕方ないんじゃない? と考えている。これが現実です。

 日本は今も、イメージだけで人を死刑台に送り出しかねない文化なのです。

 今回の袴田事件の再審決定までは、約50年かかりました。DNA鑑定という新技術が登場してそれが浸透したことで、日本人の意識はそれだけの年数をかけて確かに変わったかも知れません。だから、いい方向に進んではいるのかも知れません。

 でも予定調和が約束されているからと言って、上述した人たちをあと50年、塩漬けの状態にしておいていいのかという疑問は明確に残ります。

 別に、彼らを今すぐ釈放しろとここで訴えるわけじゃありません。原則に照らせば無罪とすべきだし、でも僕らの心証はそれを拒んでいるし、あまつさえそんな事件があったことも忘れているし、マスコミは偏重報道してあとは知らんふりだし、じゃあこういう状況と僕らはどう向き合うべきなのか、はっきり口に出して考えるべきなんじゃないかと思うのです。

 確かに言いにくいんですよ。「●●事件って証拠がないよね。でもあいつが間違いなく犯人だよね。だから死刑台送りでいいって僕らは考えているよね」とは、本当に言いにくい。

 でもあえて口にして考えなくちゃいけない段階に入っていると思います。まずはその「心証主義」の言いにくさを、無造作なほどに遠慮なく口にしてみること。それをスタートさせないことには、今回の袴田事件の問題は本当に根っこから解決したとは言えません。