2014年3月19日水曜日

◆文章と常識・非常識

 僕は常識知らずというか、ほとんど非常識と言っても差し支えないようなところがあります。

それはなんでかなと考えてみると、普段から当たり前のように「文章」を書いているからだと思います。原因と結果の関係じゃなくて、非常識だからこそ文章が書けるし、文章を頻繁に書くからこそ非常識にもなる。

どういうことか。

文章を書くというのは、現実の日常世界を一度バラバラに解きほぐして再構築する行為であります。

現実の日常世界というのは、まだ文章化されていません。今皆さんがそこでそうしている現実の世界、それはまだ文章化されていないのです。僕や皆さんが生きている世界は、常識の世界です。当たり前に成り立って、当たり前の習慣にのっとって成り立っている世界です。

それを文章化する、というのはどういうことか。まずは客観化することが必要です。自分が身を置く現実からいったん自分自身をもぎ離し、その現実の状況を見つめ直します。その状況の原因と結果はなんなのか。誰が何をどこでどうしているのか。現実を見つめ直すことで、まずそういった事柄を把握しなければなりません。

で、その客観化には必ず「動機」があります。驚きや、発見や、報告の義務など、いろんな動機から、人は現実を客観的に見て文章化しようとします。

そうして客観化した現実は、いったんバラバラの要素に解体されます。今日は何月何日、目の前で起きているイベント名、その主催者、目的、などなど。そしてそれをつなぎ合わせると、現実の世界を表現した文章ができあがります。

それは決して無味乾燥な単語の羅列にはなりません。単語の選び方、接続詞の使い方、言葉の並べ方ひとつで、文章というのは大きく変わります。無味乾燥な単語の羅列に見えても、それはそう見えるような言葉の配列になっているだけです。

こういった操作の中で、その文章の書き手は、完全に日常世界から一度抜け出しているのが分かるでしょう。

「驚き」「発見」「報告の義務」などなど、文章を書く動機はすでに非日常の世界です。日常の世界を客観化し、バラバラに解きほぐして、論理と感性を車輪の両輪にしながら表現していくのです。

この動機は、子供が新鮮な発見にびっくりした時のように、自然発生的に湧いてくることもあります。また、仕事上の義務などから文章を書く大人の物書きの場合は、観察力を駆使して、わざと自分を子供のような精神状態に持っていくこともあります。

この、後者の「子供のような精神状態に持っていく」ことに慣れてしまうと、たぶんその人は日常世界の人間ではいられなくなります。簡単に言えば、日常世界から抜け出して、非日常の次元から現実を見つめることが習慣というか癖になってしまうのです。

学者や研究者、作家、新聞記者などに非常識な人が多いイメージがあるのは、そういうことでしょう。

たぶん僕もそういうことなのかな、と。