2014年2月28日金曜日

◆体は「資本」ではなくて

 よく「体は資本」という言い方がなされますが、いつ頃から使われるようになったんでしょうね、この言葉。

 体が「資本」だというのは一理あるけれど、それだけじゃありません。

 体は資本、と言われるとき、そこで言われている資本とは「活用するもの」です。手元に資本がある、さてこれをどう使うか。どう増やすか。そういう意味合いですよね。

 それは使えば減るし、減ったら増やすものです。

 でも人間の身体はそれだけでは汲み切れません。基本的には減ったり増やしたりするものではないし、活用することだけが身体の役割ではありません。

 身体は、資本というよりも、実りを与えてくれる「大地」でしょう。それは人間にとっては道具であると同時に、あらゆる可能性とか、行動とか、結果が生じてくる源泉です。

 同時に身体は、他の身体と交換ができないし、私の意識がいつでも返っていく場所でもあります。取替えがきかないたったひとつのものなのです。

 労働や活動の種類によっては耐用年数が切れることもあるけれど、それでもポンコツになったからといって廃棄することもできない。メンテナンスにメンテナンスを重ねて、ひたすらだましだまし使い続けるしかない。

 そしてこれも「他にないから仕方なく利用する」のではありません。人間は、自分の身体から離れた世界なんてものは知らないわけで、こうしたメンテナンスは幸せになるために必要不可欠なものとしてごく当たり前に行なわれます。

 かように、身体というのはいろんな側面があります。資本、道具、大地、いろんな言い方ができる。時には言うことを聞かない厄介なものであると同時に、全てを生み出す魔法の源泉でもあります。

 意識は、身体を道具として感知しがちですが、意識もまた身体を離れることはできません。自由が利く余地があるとすれば、そうした意識を意識する意識、くらいなもんでしょう。

 メンテナンスという言葉を使ってはおりますが、身体に対する人間の意識の向き合い方としては、メンテナンスよりもやっぱり「育てる」「慈しむ」という言い方の方が正しいと思います。なかなか言うことをきかない自分の子供のようなつもりで、できるだけいたわってやりながら生きていきましょう。