◆大手町官庁街火災(1940年)

 平将門の怨霊によって引き起こされた火災――だそうだ。

 官庁街と言えば今では霞ヶ関だが、戦前は大手町に存在していた。
 
 そして、いわゆる将門の首塚は、現在も大手町に存在する。つまり昔は官庁街と首塚が同居していたのだ。

 そんなことを踏まえつつ、1940(昭和15)年6月20日のことである。

 もともと、この日は将門の没後千年目という曰くつきの日だった。当時の東京市内はとんでもない悪天候で、人災が多発していたという。

 まずは水不足である。この1940(昭和15)年というのは水道局始まって以来の渇水を記録した年でもある。大手町のみならず、市内では初めての時間給水が行われていたという。

 そうかと思えば、この6月20日という日の天候は豪雨で、夜間はもはや視界が利かないほどの降りっぷりだったという。雨は降るのに渇水とはこれ如何に。

 あげく、落雷も多発した。豪雨と足並みを揃えて関東地域にカミナリ様が来襲。市内でもほうぼうで火災が発生し、消防も大忙し。夜になっても約80台の消防車が出動していた。

 これが将門公の怨念の力なのか…。

 さて官庁街である。怨霊の猛威が荒れ狂っていた22時1分、大手町の逓信省航空局(※1)の煙突に雷が落っこちた。避雷針は壊れており、役に立たない状態だったという。

 この雷が水道管を伝わり、建物の羽目板に火をつけた。当時、この辺りにあった庁舎はどれも関東大震災直後に急ごしらえで造られたものばかりで、防火設備も何も整備されていなかった。さらに屋内にはガソリンや石炭などの燃料も貯蔵されており、なるほどこれでは燃える。たちまち炎に包まれた建物から宿直員は命からがら逃げ出した。

 避難するのに精一杯で、火災報知器は押されなかった。そして先述の豪雨で見通しが悪かったため、望楼勤務員(※2)による火災の発見も遅れた。こうして通報は遅れに遅れた。

 もっとも、仮に通報がすばやく行われたとしても、対応は難しかっただろう。当時、消防は相次ぐ落雷被害のためてんてこまい。猫の手も借りたい状況だった。

 官庁街が炎に包まれていく――。

 よりによってこの時の風速は7.3メートル。向かい風なら、人間は歩けなくなるほどの強さである。

 これを僅か3時間で鎮火させたというから、消防も大したものだ。出火場所が皇居に隣接していたというのもあり、消火活動は本気の本気で行われたに違いない。

 鎮火したのは、日付も変わった午前1時のことである。

 焼損面積は2万422坪(6万7,558平方メートル)。およそ3時間あまりで大蔵省、企画院、中央気象台、厚生省、東京営林局、神田橋税務署などの21棟が全焼した。

 犠牲者は2名。どちらも警防団員で、殉職だった。負傷者も107名に上った。

 復旧作業は迅速に進められた。日中戦争真っ只中、資材の不足も著しい時代である。それでも焼け落ちた官庁街の建物は、それぞれ鉄筋コンクリートかもしくは木造の準防火作りに生まれ変わっていった。

 また、建物と建物との間には大きく空間を作り、防火水槽、屋内消火栓、火災報知機、避難階段も設置された。現代の視点で見れば「えっ今までなかったの?」という気もするが、どうも官庁というのは特別で、建築物に関する法律がそのままでは適用されなかったらしい(今はどうだか分からない)。官庁向けの建築基準法にあたるものが示されたのも昭和26年のことで、「官公庁施設の建築等に関する法律」(官公庁営繕法)の公布によって、これらの建物はやっと「燃えなくなった」のである。

 当時の自然の猛威は、ひょっとすると本当に将門公の怨念のなせる業だったのかも知れない。だが被害がこれほどのものになったのは、純粋に防火設備の不備のせいだった。

 次に将門公の祟りが起きるのは、没後千年と百年目にあたる2040年あたりだろうか。今度は平穏無事に済んでほしいものである。

(※1)逓信省(ていしんしょう)……戦前の日本で、郵便や通信を管轄していた中央官庁。大まかに言えば、今の総務省、日本郵政(JP)、日本電信電話(NTT)の前身にあたる。
(※2)消防署の監視職員。

【参考資料】
消防防災博物館
◆ウィキペディア
◆国書刊行会『写真図説 日本消防史』

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◆ホテルニュージャパン火災(1982年)

 1982(昭和57)年2月8日、午前3時39分。その火災の第一報は、タクシー運転手からもたらされた。ホテルニュージャパンが燃えているというのだ。

 はいはい、それじゃ~出動しましょう。……などというお気楽なノリでは決してなかったと思うが、しかし、消防隊員の誰もが思いも寄らなかったに違いない。この火災が、まさか後世まで語り草になるほどの「伝説の火災」になろうとは――。

 1980年代。消防法も改正され、かつてろくでもない旅館火災やビル火災が相次いだ10年前から見れば、日本の建築物は遥かに安全になっていた。まして、ホテルニュージャパンは東京都の一等地・永田町に建つ超豪華ホテルである。一昔前のような大惨事など起こるはずもない。

 ところが、である。現場に接近するに従い、隊員たちの悪い予感は募った。国会議事堂の向こうの空が真っ赤に染まっている。

 おいおい、何年か消防やってるけどこんな光景見たことないぞ――。

 午前3時44分。現場の前に立った隊員たちはたちまち色を失った。

 大火事である。ホテルニュージャパンは10階建てで、1階から8階まではとりあえず無事だが、9階では客室の窓から火柱が立ち上っている。そのため10階も炎に炙られていた。

 このままでは下階に燃え広がるのも時間の問題だった。なにせ「火柱」が立ち上っているのだ。普通に燃えているのとはワケが違う。

 この火災は異常だった。

 普通、こういう建物は燃えない。内部で可燃物に火がつくことがあっても、木造のボロ屋でもない限り「建物そのもの」に火がつくはずがないのだ。それなのに目の前のホテルは、建物そのものが燃えているように見えた。

 また、法改正によってスプリンクラーの設置も義務付けられている。炎さえ消えれば煙も出ないわけで、だからこの時代の高層建築物は安全なはずだったのだ。それなのに、スプリンクラーなどまるで最初からなかったかのように火炎は燃え盛っている。

 一体どういうことだ。今この時代に、この規模の建物でこれ程の規模の火災が起きること自体があり得ない――。

 さらにショッキングなことが起きた。呆然としている消防隊の目の前で、9階の宿泊客が飛び降りて即死したのだ。それはほとんどの隊員にとって初めて目にする光景だったという。

 もう一刻の猶予もない。彼らは建物に飛び込んだ。

 ホテルの中には守衛がおり、なにやら電話をかけている。隊長はさっそく声をかけた。

 消防隊長「おい、すぐに9階に案内しろ!」

 守衛さん「待って下さい、いま社長と電話中でして。勝手なことをすると叱られちゃうんですよ」

 これで隊長はブチ切れた。思わず守衛の胸倉を掴み、「助けを求めてる人がいるんだ!」。

 こんな調子で時間を食いながらも、隊員たちは非常階段を上り始めた。目指すは9階である。

 だが、この非常階段にはとっくに煙が回っていた。しかも9階の廊下に通じる扉は熱で歪んで開かない。屋内での救助活動は無理だ。隊員たちは屋上への移動を余儀なくされた。

 火の回り方といい、さっきの守衛の対応といい、あり得ないことばかりだ。一体このホテルはどうなっているんだ? そう思った隊員も多かったのではないだろうか。

 結論を言えば、要するにこのホテルの防災設備ならびに防災体制は不備だらけだったのである。責任者には防災意識などかけらもなく、いったん火がつけば既に大惨事が予定されている。ホテルニュージャパンとはそういう建物だったのだ。

 東京の一等地のど真ん中に屹立する豪華ホテルが、どうしてそんなことになってしまったのか? その理由を知るには、歴史を振り返ってみる必要がある。

   ☆

 かつて、第一次ホテルブームというものがあった。

 東京オリンピック開催に伴う旅行者の増加を見越して、都内に高級ホテルが乱立したのである(ちなみに第二次ホテルブームは、後年の大阪万国博覧会の前後の時期)。好景気の波で、これらのホテルは「金のなる木」とまで呼ばれた程だった。

 いわゆる「ユニットバス方式」というものが生まれたのもこの頃だ。筆者も知らなかったのだが、あれは設備の組み立てを簡素化すべく日本人が考え出した方式らしい。

 そんな時代の空気の中、ホテルニュージャパンは開業した。1960年のことである。

 政治家の藤山愛一郎が率いる藤山コンツェルンが設立母体となり、建築や設計は一流の設計士やデザイナーが手がけたという。

 この辺の記録を読んでいると、ホテルニュージャパンはいわゆる「豪華ホテル」と呼ばれるものの先駆け的な存在だったらしいことが分かる。実際、ホテルオークラやニューオータニといった名のあるホテルが建てられたのもこの頃だ。

 しかしニュージャパンは、藤山コンツェルンの衰退や他の豪華ホテルとの競争が原因となって経営難に陥っていく。

 そこで横井秀樹の登場である。

 白木屋乗っ取り騒動でも名前が出てきた、あの「買収王」だ。

 横井はこの斜陽ホテルを買収し、自ら社長に就任。そして、徹底的に合理化を進めるという独自の経営路線を突き進んでいった。そして彼のやり方が功を奏し、ニュージャパンは一流ホテルとして息を吹き返した。

 彼の合理化戦略とは、具体的にどんなものだったのだろう? 以下でその一部をご紹介しよう。これが実に斬新なのだ。

1・スプリンクラーをつけない。
2・消防庁から警告を受けても絶対にスプリンクラーをつけない。
3・何度も警告を受けたら、スプリンクラーのニセモノを設置してごまかす。
4・建築資材は安いものを使う。
5・ブロックも空洞つきの安いものを使う。
6・火災時に空洞のせいで炎が伝播しやすくなるとしても、空洞つきの安いものを使う。
7・加湿器は設置しない。
8・空気が乾燥するけど、絶対に加湿器は設置しない。
9・宿直の従業員を減らす。
10・危機管理とかは気にしない。宿直を減らす。減らすったら減らす。

 もちろん皮肉である。

 個人的に思い出すのが、映画『バトル・ロワイアル』に出ていたビートたけしの台詞である。「はいダメ。ダメー。皆さん、このホテルはダメになってしまいました!」というわけだ。

 さらに構造について言えば、内装材に可燃物が用いられていたこと、防火区画の不完全さ、パイプシャフトやダクトの貫通部分も埋め戻しの不完全さ(これにより延焼と煙の伝播が早まった)なども、後々被害を大きくする要因になった。

 横井秀樹によって、表向きは一流ホテルとして再生したホテルニュージャパン。だがそれは、裏から見れば超一流の違法建造ホテルでもあったのだ。

 全く、とんだ疫病神がいたもんだ――と言いたくもなるが、しかし横井秀樹を疫病神呼ばわりできるのは、現代の我々がこのホテルの末路を知っているからである。火災さえなければ、案外普通に経営されていたかも知れない。そして彼が伝説的存在になることもなかったかも知れない。後述するが、横井秀樹という人は運も悪かったと筆者は思う。

 火災の話に戻ろう。

   ☆

 消防が到着するよりも早く、火災の発生はホテル内でも把握されていた。

 ただしその発覚はあくまでも偶然によるものだった。火元である9階の938号室の付近を、たまたまフロント係が通りかかったのだ。すると廊下に白煙が淀んでいたのである。

 やばい、これって火事じゃないのか。彼はフロントへ戻り同僚に言った。

「9階が火事みたいなんだよ。俺はあの部屋の客の名前を確認するから、お前は消火しといてくれ」

 やや理解に苦しむ行動である。彼は初期消火を人任せにして、まず宿泊者の氏名を調べた。VIP客でも宿泊していて何か間違いがあったら大変だとでも考えたのだろうか。

 当該客室の宿泊者は、飛び込みのイギリス人だった。

 フロント係は再び9階へ。そこで、先に来ていた同僚と一緒に消火を試みた。だが失敗。

 やばいぞやばい、消えないぞ。他の宿泊客にも知らせなくちゃ――。彼はまたフロントへ戻った。何回行き来すれば気が済むのやら。そして9階の客室のひとつひとつに電話をかけようとしたのだが、手が震えてダイヤルが回せなかった。

 そこで彼は最後の手段(!)として、防災放送盤で火災を知らせようとした。ところが放送盤の操作経験はない、説明書は見当たらない、やっと操作できたと思ったら配線が焼けていて既に使い物にならないと、大事故にありがちなないない尽くしだった。

 ちなみに火災報知器はというと、これはスイッチが最初から切られていた。

 資料によると、この報知器はホテル側が勝手に改造していたらしい。フロントで操作することで、各階にベルを鳴らす仕組みになっていたそうだ。結局使われなかったので、改造も無意味だったわけだが(※)。

 ごろうじろ、こうしてホテル・ハリボテ・ニュージャパンは焼け落ちた。東京都心の真っ只中の一等地で、超豪華(とされる)ホテルが9時間も燃えに燃えまくったあげく33名が死亡、34名が負傷したのである。

 炎は、最終的に7階から10階までの範囲を舐め尽くしたという。

 消火に際しては、東京消防庁も必死だった。火災の規模が想像以上だった上に、大勢の宿泊客が取り残されていたのだ。部隊はどんどん増強された。

 最終的には、23区全域の消防車128台を駆り出す「火災第4出場」、基本運用規程外の応援部隊を出場させる「増強特命出場」、多数の負傷者に対応するための「救急特別第2出場」という空前の組み合わせの指令が発動。さらに、なんと消防総監が直々に現場最高指揮を執っている。大火か、もしくは大地震でも起きた時のような物凄い態勢である。

 その甲斐あってか、この火災は、史上例を見ないほど救助率が高いという。

 さて鎮火した後は、もちろん「責任者呼んで来い!」である。

 だが呼ぶまでもなかった。横井秀樹社長は鎮火直後の現場にノコノコ顔を出した。そして拡声器で「本日は早朝よりお集まりいただき有難うございます」という伝説のご挨拶をぶちかました。

 空気を読まないにも程がある。この人の心臓はどんだけ毛深かったのだろう。

 この火災にまつわる「横井秀樹伝説」は、他にも色々ある。当時のことをテレビなどでリアルタイムで見聞きした人なら、思い出すことも多いのではないか。

 たとえば、火災の知らせを受けた時、真っ先に「ロビーの家具の運び出せ」と指示したことが後に発覚している。また記者会見では「悪いのは寝煙草をした客である」とか「賠償金は手形で支払う」とか、厚顔無恥を絵に描いたような発言を繰り返した。

 結局この横井社長は裁判にかけられ、高齢者であったにも関わらず禁固3年の実刑を科された。

 また防火管理者は禁固1年6ヶ月、執行猶予5年の判決を受けた。消防計画の作成を怠り、訓練を実施せず、防災設備を不備のままにしておいた責任は明らかだった。

(※ただ、この辺りの、火災発見から通報までの経緯は資料により食い違いがある。筆者は近代消防ブックレット『火災教訓が風化している!①』を参考にした)

   ☆

 さて、少し冷静に考えてみると、横井秀樹という人はこの火災については不運だったと思う。事故後30年以上が経過して今改めて見てみると、筆者の目にはそのように映る。

 横井は商売上手ではあった。だがその手腕は山師的で、決して空気を読むのが上手な営業マンタイプではなかったと思う。そして、空気が読めないという致命的な欠点は、テレビカメラの前で遺憾なく発揮されたのだ。

 だが言うまでもなく、空気が読める読めないは火災の責任とは関係ない。

 彼があそこまで叩かれたのは、要するにマスコミにとって「叩きやすい」相手だったからだろう。ちょっと面白い発言が餌になり、食いついたマスコミは法的責任と道義的責任をごっちゃにした形で責め立てたのだ(もちろん、視聴者もそれを求めていたわけだが)。

 確かに、「乗っ取り屋」としての横井には悪辣な面もあったのかも知れない。例えば、火災時に救助活動に当たった特別救助隊の隊長に「口止め料」として贈賄を送ろうとし、逆に追い返されたなどというエピソードもあるし、特に友達になりたいとは思えないタイプである。

 だが、それはそれ、これはこれである。悪い奴だから叩いてやれ、というのは責任の追及ではなくただのバッシングだ。責任者を過剰に責めるのも、またついでに言えば、その裏返しで被害者をやたらと美化したりするのも、決してまともなことではない。

 横井秀樹という人は、そういう意味ではスケープゴートにされてしまった部分があったと思う。悲惨な火災事故のやるせなさを中和するための生贄だったのだ。

 ホテルニュージャパンは焼け跡のままで長年放置されていたが、火災後14年経った1996年にようやく取り壊された。

 それと、これは全くの余談だが、かつてニュージャパンの地下に存在していたナイトクラブでは1963(昭和38)年、力道山の死亡の原因になった傷害事件も発生している。このクラブはホテルとは完全に別物で、1989(昭和64・平成元)年までは営業を続けていたそうだ。どうも縁起の良くない土地である。

 それからも紆余曲折を経て、この敷地には新しいビルが建てられた。外資系のプルデンシャル生命が所有するプルデンシャルタワーがそれである。

 筆者はこのプルデンシャルタワーの近くへ行ったことがある。その際、タクシーの運ちゃんに「プルデンシャルタワーへ」と言ってもさっぱり通じなかったのだが、「ホテルニュージャパンがあった場所です」と言ったら、ああはいはいと即座に理解してくれた。数十年経った今でも、あの火災は多くの人の記憶に残っているらしい。

 かつてのホテルニュージャパンの写真は、今でもネット上で見ることができる。しかしその面影は、現場にはもう残っていない。

 横井秀樹もと社長は、98年に死去した。

【参考資料】
◆ウィキペディア
消防防災博物館―特異火災事例
『火災と避難』
◆森本宏『火災教訓が風化している!①』近代消防ブックレット
◆広瀬 弘忠『なぜ人は逃げおくれるのか』光文社新書
◆DVD『プロジェクトX 挑戦者たち 炎上 男たちは飛び込んだ~ホテルニュージャパン・伝説の消防士たち~』NHKエンタープライズ2011年

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◆ビジネスホテル白馬火災(1978年)

 1978(昭和53)年6月15日、午前2時頃のことである。愛知県半田市住吉町で、ある民家の犬が急に吠え出した。

 なんだなんだ、うるさいぞ。住民は目を覚まし、外に出てみてびっくり仰天。なんと隣のビジネスホテルが炎上していた。しかも半端な燃え方ではない。大火事だ。

 このホテルが「ビジネスホテル白馬」である。住民はさっそく119番に電話し、これが第一報となった。もしかすると、犬が吠えなかったら通報はもっと遅れていたかも知れない。

 この時すでに、火災発覚から20分が経過していたという。このあたりの間の抜けた感じが、この火災事故の全てを図らずも示しているように見える。

   ☆

 少しだけ時間を巻き戻す。当時、このホテルには宿泊客33名と従業員3名がいた。

 従業員たちは、比較的早いうちに火災に気付いていた。火災報知器もちゃんと作動していたようだ。それに出火したのも1階の管理人室の前の廊下と、とても分かりやすい場所だったので消火活動もちゃんと行われたようだ(ただし資料を読んでも、それが「初期消火」と言えるものなのかどうかはよく分からなかった)。

 だが、宿泊客に対する避難誘導や、消防への通報を行う余裕はなかったようだ。彼らは命からがら逃げ出している。

 解せないのが、この脱出のさいに火災報知機のスイッチを切ったことである。資料にはそう書いてあったが、なぜ切ったのかは不明だ。深夜だから、鳴り続けたら近所迷惑だとでも考えたのだろうか。

 いつもならここで「火災報知機を切ったのは従業員の明らかな判断ミスである」とでも書くところだ。だがもしかすると、スイッチが切られなくても、ベルの音は宿泊客には聞こえていなかったのかも知れない。資料には「外に脱出した従業員が火事ぶれを行ったことで、宿泊客たちのほとんどが目を覚ました」と書かれている。ということは、報知器の鳴動は目覚ましにならなかったということだ。

 さて、宿泊客である。

 彼らは火事ぶれで起こされた。そして脱出を試みた。しかしビジネスホテル白馬は、繰り返された増改築のため迷路化しており、たったひとつしかない階段からもどんどん煙が上ってきていた。階下へ行くのはとても無理だ。おそらく2階3階の宿泊客で、廊下から脱出できた者はほとんどいなかっただろう。ある者は窓から飛び降り、ある者は隣家の屋根を伝って脱出したという。

 また、このホテルの火事で特徴的なのが「鉄格子」である。一部の客室の窓に鉄格子が嵌まっていたのだ。これが、20センチ幅という狭い間隔のものだったため脱出を困難にした(他の部屋では窓から脱出できた人もいるので、全室鉄格子ではなかったと思われる)。

 なんでビジネスホテルの部屋に鉄格子? と首をかしげたくなるところだが、この建物はかつてラブホテルで、その名残だったとか。筆者などはかえって、なんでラブホテルの部屋に鉄格子? と逆方向に首をかしげてしまうのだが、そういうものなのか。よく知らない。

 で、運悪くその部屋を宛がわれた5名の季節労働者の人たちのエピソードが、なかなか劇的である。彼らは窓から脱出できないため、救助が来るまで2階の部屋に閉じこもり続けた。うち1名は途中で廊下に飛び出して命を落としているが、リーダー格の人がドアを完全に閉めて他の3名を落ち着かせたことにより、残り4名は無事に生還したのだった。鉄格子の一本が消防によって切断され、彼らは救助された。

 防火シャッターも閉じなかったらしい。最終的に、ビジネスホテル白馬は、本館と別館を合わせて663平方メートルが全焼した。

 死者は7名。すべて宿泊客だった。おそらく煙を吸ったのだろう。こういうケースで、純粋に「焼け死ぬ」ということはほとんどない。大抵の死因は一酸化炭素や有毒ガスである。

 さて、この火災の原因は一体なんだったのだろう。記録には以下のように記されている。

 ●発火源……不明。
 ●火元………たぶん1階の調理場。
 ●延焼の経過……不明。
 ●着火物……不明。

 つまり何も分からなかったのだ。

 まあ当時の従業員たちの責任は火を見るよりも明らかなわけで――ことが火災なだけに、と、これは悪い冗談――だからこそ、原因調査もあまり熱心に行われなかったのかも知れない。これは単なる想像だが。

【参考資料】
サンコー防災株式会社ホームページ
消防防災博物館
『火災と避難』

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◆大阪造幣局「通り抜け」将棋倒し事故(1967年)

 大阪市北区天満にある大阪造幣局の「通り抜け」は、今も多くの人々に愛されているようだ。地元の人ばかりでなく、遠方から観光バスで訪れる人も大勢いるとか。

 局の敷地内には南北に貫通する通路があり、長さは568メートル。この両側には127種354本の牡丹桜が植えられており(平成22年時点)、花見のシーズンには一週間ほど無料開放され、訪れた人々の目を楽しませる。

 開門時間は、平日が午前10時から21時まで。土日は午前9時から21時までである。皆さんどうぞ桜のシーズンにはぜひお越し下さい。

 ……って、なに宣伝させてるんですか。閑話休題。1967年4月22日、ここで事故は起きた。

 この桜並木の通路は、狭いところでせいぜい5メートルと、もともとあまり幅広いものではない。

 そのため、人々は造幣局の南門(天満橋側)から北門(桜宮橋側)への一方通行(距離約560メートル)で進まなければならない。それで「通り抜け」と呼ばれているのだった。

 これくらいなら、まあ長閑な散歩道という感じがする。だが、管理する側は大変である。何せ、多い年は100万人以上もここを訪れるのだ。土日ならなおさらで、平日の2.5倍の人混みになるという。

 今も造幣局のホームページを覗いてみると、観光客による交通渋滞やゴミの散乱に頭を悩ませているらしいことが分かる。

 そして、このような悩ましい混雑ぶりは今に始まったことではなかった。1967年4月22日当日も土曜日で、家族連れや子供が多く訪れる中、警察は機動隊員約100名を含む200名を配備。入口である南門には詰所を設置し、混雑時の群集密度を一平方メートルあたり4人と厳密に設定し、入場者を規制した。

 めっちゃ、ものものしい。

 それでも、こうした体制が功を奏したか、閉門直前までは特段のトラブルもなかったようだ。暗雲垂れ込めてきたのは、閉門の21時が迫ってきたあたりである。

 閉門は21時とはなっているが、実際にはその時刻には構内を空っぽにする、というのが「閉門」の正確な意味だった。よって20時35分には門を閉じることになっていた。

 21時までは桜が見られる――そう信じて足を運んだ人々からすれば勝手な話ではある。そういう認識のズレも原因になったかどうかは分からないが、閉門が近くなる20時頃には、門周辺は5,000人以上の人が滞留していた。恐ろしいほどの人混みである。

 警備側は予定通りに35分に門を閉鎖した。しかし人々は帰らない。ますます群集密度は高くなる。これはいかん、危険だと判断した警備側は、仕方ないのでもう一度開門することにした。群集を小さなグループに分けて、寸断しながら少しずつ通過させよう。このままでは事故につながる――。

 時刻は20時50分頃。門の手前20メートル程にロープを張り、改めて開放した。

 ところがここで群集はご乱心。せっかく張ったロープを突破し殺到してきたからたまらない。約30名の機動隊員が、殿中でござるとばかりに押し戻そうとしたが失敗し、人々は「通り抜け」の中になだれ込んだ。

 この時である。門から約2メートルの地点で、最前列にいた女性が転倒。そこへ次々に人が折り重なった。

 機動隊員80名が急いで負傷者を救出にかかったが、1人が胸部圧迫による窒息で死亡。また男性7名、女性20名の計27名が重軽傷を負った。この27名には、幼児から60歳代の人までが含まれていたという。

 当時、現場には仕事を終えて一杯機嫌で花見に来た人も多く、事故が起きてからも面白半分に騒ぎをあおった酔っ払いがいたとか。

 結局、この日の総入場人員は20万人に及んだ。

 事故の翌日の日曜日には、大阪府警は506人を出動させて、10メートルごとに2~3人の割合で警官を配置するという措置をとった。これに加えてパトロールも行い、より一層厳重な警備体制で臨んだという。

 もはや花見の雰囲気ではない。こんなんだったら、行かない方がいいと思うのは筆者だけだろうか。きっと今はもっと穏やかだろうと思うのだが。

 ところで、群集事故を記録するにあたり大いに参考にしている、岡田光正の『群集安全工学』(2011年、鹿島出版会)という本がある。

 これによると、群集整理のさなかに、急に規制内容や整理の計画を変更するのは大変危険だとある。例えば入口を変更したり、入場の順序を変えたり、行列の位置を変えたりする、などである。

 これをやってしまうと、沸点が低くなっている群集は頭に血が上り興奮するらしい。主催者への信頼が失われ、敵視すらされてしまうのである。「なんだあいつら、ずっと並んでるこっちの気も知らないで!」という感じだろうか。

 その結果、ロープを張っても無視して殺到するという結果になるのだ。なにせ群集だから、怒りに任せてルールを破っても責任は問われにくい。だから平気になる。恐ろしいことである。

 言われてみればこの「通り抜け」の事故もそうだし、横浜の歌謡ショー事故や、豊橋市の体育館での事故もそうだ。人間というのは、かくも簡単に群集心理に取り付かれてしまうものなのか。

 おそらく、安全に日常を過ごしたいのならば、人混みにはできるだけ近付かない方がいいのである。それは単に群集事故に巻き込まれるから――ということではなく、我々自身がそういう群集心理に取り付かれないように気をつけなければならないから、でもあるのだ。

 人混みに行くな、行列に並ぶな、と言うわけじゃない。ただそういう群集の中に身を置くとき、自分自身も含めて、人間は簡単に悪魔に変貌するということは肝に銘じておくべきなのである。

◆岡田光正『群集安全工学』鹿島出版会、2011年
『第32回明石市民夏まつりにおける花火大会事故調査報告書』29章「国内で発生した主な群衆事故」
災害医学・抄読会 2003/12/12
独立行政法人造幣局ホームページ

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◆大阪市「ウインズ梅田」&北海道「ウインズ札幌」将棋倒し事故(1995年)

 年の瀬も迫るクリスマス・イブ、1995(平成7)年12月24日に起きた事故である。

 この日は「第40回有馬記念(中山競馬場)」のレースが行なわれていた。――と言っても筆者は競馬はサッパリなので、その意味するところは分からない。これって、大勢の人が集まるようなすごいレースだったのだろうか。

 たぶんそうなのだろう。大阪市北区・日本中央競馬会の場外馬券売場「ウインズ梅田」は大勢の人でごった返していた。

 この日は日曜日。だからもともと人が多く集まる日だったと思うのだが、この時はそれに輪をかけて多かった。なんといつもの日曜日の1.5倍、約5.600人の人が詰めかけたのだ。身動きもできない状態だったという。

 まさかこんなに人が来るとは、主催者側も考えていなかったのだろう。整理員は30人と、いつも通りの人数だったそうな。

 事故は午後3時半頃、エスカレーター(幅1.2メートル、長さ9.6メートル)で起きた。

 なにやら、この馬券売場にはA館というものが存在しているらしい。その3階から2階へ降りるエスカレーターに、ドッと人が押し寄せたのである。

 彼らは、レースが終了したので帰路についたところだった。資料を読んでいると、歌謡ショーのような暴力的な空気ではなかったようだが、おそらくエスカレーターという場所が良くなかったのだろう。一人が転倒したのを皮切りに、バタバタと将棋倒しが発生した。

 これに巻き込まれ、怪我をした男性の証言。
「エスカレーターの下で何人かが倒れているのを見て、慌てて逃げようとしたが、降りてくる人に押されて倒れた。生きた心地がしなかった」

 また、これは将棋倒しに巻き込まれた別の女性。
「人が下に溜まっており、危ないなぁと思っていた。途中で人に押され、何がなんだか分からないうちに下敷きになっていた」

 ギャー、バタバタバタ。場内に悲鳴が響き渡る。それでもエスカレーターはゆるゆると動き続けており、危険な状態だった。これを非常停止ボタンでストップさせたのは、悲鳴を聞いて駆けつけたアルバイトの整理員だったという。

 この事故により、下敷きになった人のうち男性5人、女性3人の計8人が負傷。額を切ったり、足首を捻挫するなどの怪我を負った。このうち3人が入院し、一人の男性は重傷だった。

 怖いな、エスカレーター。

 だが、人がたくさん来たら危ないのでそのときはエスカレーターは止めよう、という考えはあったらしい。

 もともと、建物の各階に監視用のモニターが設置されており、あまりに混雑した場合はストップさせる手はずになっていた。それがこのたびは何故か手が回らなかったのだった。

 大阪の事故については以上である。

 一応、あわせてご紹介しておこう。実はこの日は北海道でも親戚みたいな事故が起きていた。札幌市中央区の場外馬券売場「ウインズ札幌」でも、おんなじような将棋倒しが発生したのだ。

 時刻は午後4時10分頃である。B館の3階から2階に降りるエスカレーターで、客が次々に将棋倒しになった。

 これにより2人の女性客が、それぞれ左鎖骨を骨折したり足首を強打したりして入院。また4人が腕などに軽症を負ったそうな。

「ウインズ○○」にとっては、とんだ厄日だったようである。

【参考資料】
◆岡田光正『群集安全工学』鹿島出版会、2011年
『第32回明石市民夏まつりにおける花火大会事故調査報告書』29章「国内で発生した主な群衆事故」
災害医学・抄読会 2003/12/12

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◆豊橋市立体育館将棋倒し事故(1982年)

 1982(昭和57)年10月16日のことである。

 この日は愛知県豊橋市今橋町の豊橋市体育館で、中部日本放送による歌謡ショーが行なわれることになっていた。

 これは市が主催する「豊橋まつり」の中で、「28回豊橋まつり・青春歌謡スターパレード」と題して実施されたものだった。出演予定は小泉今日子、石川秀美、新井薫子、早見優、そして当時メンバーはまだ高校2年生だったシブがき隊など、まあ錚々たる顔ぶれだったと言っていい。

 これほどの顔ぶれによる公開録画である。人が来ない方がおかしい。しかも観客席はすべて先着順の自由席で、なおかつ入場無料ときている。なんと、体育館の前には開演3日前の13日夕方から人が並び始めた。

 3日前って……。

 この行列が、ショー当日の16日の朝には160名、正午には800名と次第に膨らみ始めた。

 体育館の定員は7,000人。そして入場は無料で、この日は5,500枚の入場券が配布されていた。開場時間までに集まった来場者数は約2,000人である(資料によっては1,000人とも)。ほとんどが10代の少年少女で、かなり遠方から来た者もいた。いわゆる追っかけだろうか。

 もちろん、主催者側も手をこまねいてはいない。警官22名、市職員40名、アルバイト学生50名、警備5名の総勢117名による群集整理が行なわれた。

 体育館の入口から約30メートルの位置に、観客は4列に並ばされた。さらにロープで30メートルの長さの通路を作って割り込みも防止する。そして予定では、先頭から10名ずつのグループに分けてロープで囲い、入口まで警官が誘導する。そういう手筈になっていた。

 群集も、最初はきちんと指示通りに並んでいたという。

 ところが、である。16時の開場をまたず、15時30分過ぎにいきなり行列が崩れて入口に向かってゾロゾロと動き始めた。

 こらこら、ちょっと待て。警備員がハンドマイクで警告、制止しようとするもどうにもならない。行列は乱れて団子のようにひと固まりになってしまった。

 どうも雲行きが怪しい。そうこうしている間に16時になってしまったから致し方ないと、主催者側は予定通りに入場を始めた。

 それでも、最初はきちんと10人ずつ入場させていたようだ。ところがここで、群集を興奮させるようなアクシデントが発生した。体育館の中から、リハーサルの音楽が聴こえてきたのだ。

(※実はこのリハーサルの音楽が聴こえてきたタイミングというのが、16時だったのか、それともその前に行列が乱れた15時30分のことだったのか、資料を読んでもいまいちはっきりしなかった。)

 これにより、待っていた群衆は総立ちに。入口の前は広場でロータリーになっていたのだが、そのあたりで待機していた500人くらいが、係員の制止を振り切って殺到した。

 いかん、これはいかん。たまりかねて、主催者側は入場のために開いていた東側の入口を閉鎖した。緊急の措置だったのだろうが、来場者を閉め出すのだからよく考えてみると結構すごい話だ。

 もちろんそのままにしておくわけにもいかない。5分後(15分後という資料もある)に西側の入口が開かれた。主催者側としては、そちらから入場させて仕切り直ししよう……というつもりだったのだろう。

 だが、逆にこれが事態をかき回す結果になった気もする。閉鎖された東側入口の前で押し合いながら待っていた群集は、「開いたぞ! あっちだ!」とばかりにワッとそちらに押し寄せた。

 事故はここで起きた。時刻は16時20~25分頃である。

 状況の説明が資料によって少し違うのだが、概況としては、段差で十数人がつまずいて転倒したということらしい。入口から手前6メートルの位置に、5センチほどの段差があったのだ。

 別の資料によると、「(群集の)中の一人が圧力に耐えられなくなって入口前の段差付近で失神して倒れ、それにつまずいて十数人が将棋倒しになった」ともある。

 つまりこういうことだろうか。東側入口で押し合いをしている間に、失神した人がいた。それが、西側への移動の際に人混みがほぐれて支えを失ったか、意識朦朧としていたために段差につまずいた。それがきっかけで将棋倒しになった、と。

 転倒した人数についても、十数人と書いてあるものもあれば、中高生300人と書かれているものもある。また負傷者も1名とか6人とか5人とか23人とか、まちまちだ。これはこれで、当時の混乱した状況を示しているようにも思われる。負傷したのは14~18歳代で、男女ほぼ同数だったそうな。

 この事故が発生してから5分後、開場の入口は全て開放された。これは群集の圧力を下げるためだったという。警官80人が応援に駆けつけ、群集を改めて整理した。また負傷者は救急車で運ばれた。

 死者は1人。豊橋市立中部中3年の15歳の女子生徒がショック死したという。また4人が怪我を負った。

 歌謡ショーは、中止することも検討されたようだ。だが今中止すれば混乱は大きくなり、ますます収拾がつかなくなるだろう――そんな判断が下され、結局予定通り開催された。

【参考資料】
◆岡田光正『群集安全工学』鹿島出版会、2011年
事件・事故紹介サイト
ウェブサイト「警備員の道」
『第32回明石市民夏まつりにおける花火大会事故調査報告書』29章「国内で発生した主な群衆事故」
災害医学・抄読会 2003/12/12

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◆秋田市川尻山王体育館将棋倒し事故(1957年)

 1957(昭和32)年5月18日のこと。

 秋田県秋田市川尻にある、市営の山王体育館で起きた事故である。

 その日は、この体育館で人気歌手のショーが開催されることになっていた(この歌手が誰なのかは不明)。

 てゆうか、事故が起きた午後の時刻には、もう1回目の公演が終わったところだったらしい。それが午後1時20分頃のこと。

 問題は第2回目の公演である。

 この日の人の入りについて、主催者と警察は前もって打ち合わせをしていた。おそらく2回目の公演には6,000人ほどの人が来るだろう。事故を起こしてはならぬ――。

 資料を読んでいると、主催者と警察は、群集事故の防止のためにできうる限りの手を打ったようだ。

 まず、会場の体育館の正面入口8箇所のうち、左側の4箇所を閉鎖。そして右側だけを開放し、それぞれの入口の前に入場者を並ばせた。

 そうして、入場の際には警察官が誘導し、4列を2列に変える。その時に割り込みする不届き者がいないようにと、入口の両脇には長机を置いてガードした。

 さらにその長机の傍らには係員を配置。この人が、入場者から半券を受け取るわけである。

 体制は万全。もう、正午頃にはさっそく人が集まってきていたようだ。打ち合わせに基づき、4箇所の入口の前で4列に並ばせる。さらに列の随所に、警察官と整備員を配備。

 第1回の公演が終わる30分も前から、係員たちは群集に拡声器でこう呼びかけた。

「いいですか皆さん、割り込みした人は入場を拒否します。また、切符は一人一枚、各人で持つようにしてください。出入り口には敷居があるので、足元にはくれぐれも気をつけて下さい」

 ここまでやれば大丈夫だろう、事故なんて起きないだろう、って普通思うよね。

 だがしかし、それでも事故は起きる。考えてみれば、起きるまいと思っていても起きるから事故なのだと言えばそれまでなのだが、その原因が群集心理に取り付かれた脳たりんのせいなのだから実にやり切れない。

 てなわけで、残念ながら事故は起きた。

 午後2時に入場が開始。最初、人々の流れは順調で、最も前部の20人くらいまでは問題なく入場できたようだ。

 午後2時20分。ここで、後ろに並んでいた一部の人間がご乱心あそばした。係員の制止を振り切り、列を乱して入口に殺到したのである。

 あーあ。6,000人のうち、たったの20人が入場したばっかりなのに早速これだよ。

 場は混乱に陥った。そしてそのさ中、入口を通ろうとしていた一部の人が、長机の足や敷居につまずいて転倒。そこへ人々が折り重なり、7~8人が肋骨亀裂等の負傷を負ったのだった。

【参考資料】
◆岡田光正『群集安全工学』鹿島出版会、2011年
『第32回明石市民夏まつりにおける花火大会事故調査報告書』29章「国内で発生した主な群衆事故」
災害医学・抄読会 2003/12/12
 

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◆和歌山市民会館将棋倒し事故(1957年)

 1957(昭和32)年2月6日のことである。

 時刻は午後6時。和歌山市民会館前の道路には、4列縦隊で500メートルにも及ぶ人の行列ができていた。街角を幾重にも折れ曲がる行列だったというから、ちょっと異様な光景である。

 理由は、会館でこの日開催されていた人気歌手の歌謡大会である(この人気歌手というのが誰なのかは不明)。

 資料によると、第3回公演の開場が午後6時からだったとあるから、この日はすでに2回の公演が終わっていたものと思われる。

 人々は午後1時頃からすでに集まってきていた。開場の頃にはその人数たるや6,000に達していたそうな。

 とはいえ、主催者側もそこは心得ていた。あるいは、前年の大阪劇場の事故の例に鑑みたのかも知れない。会館側・所轄警察署・興行者の3者は事前に相談しており、人々をきっちり並ばせた上で108人の警察官を配備する――などの措置を取っていた。

 ここまで読むと「たいへんよくできました」なのだが、それでもなぜか事故は起きた。

 開場し、隊列が進み始めて間もなくのことだ。行列の後ろの方にいた人たちが、「入場できないのではないか」と不安になったらしい。せっかくの整列を乱して、前へ前へと押し進み始めたのだった。

 これで2人の女の子が押され、胸部圧迫の負傷をした。

【参考資料】
◆岡田光正『群集安全工学』鹿島出版会、2011年
『第32回明石市民夏まつりにおける花火大会事故調査報告書』29章「国内で発生した主な群衆事故」
災害医学・抄読会 2003/12/12

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◆大阪劇場将棋倒し事故(1956年)

 かつて、大阪市南河原町には、大阪劇場――通称「大劇」なるものが存在していたらしい。

 らしい、というのは、現在この劇場は存在していないからである。なんでも、日本ドリーム観光という総合観光企業が運営というか管理というか、そんな感じでやっていたようだ。

 このドリーム観光、ウィキペディアでざっと見てみただけでも、相当イケイケな企業だったことが分かる。大阪劇場だけを見ても、少女歌劇団や人気歌手の歌謡ショー、映画俳優の演劇など、かなり面白いことをやっていたようだ。

 で、こういうショー全般を「実演興行」という独特の名前で呼んでいたそうな。今回ご紹介する事故は、この実演興行にからんで発生した。

 1956(昭和31)年1月15日のことである。くだんの大阪劇場では、早朝から人の列ができていた。

 なにせその日の実演興行では、美空ひばりがやってくるのである。大勢の人がやってくるのもむべなるかな。劇場側ももちろん心得ており、行列整理のために柵を設けてロープも張って、列なす人々を2列に分けて並ばせた。

 午前8時30分に、切符売り場では出札が開始。しかし窓口が2つしかないため、行列は遅々として進まない。15分ほどでやっと600人をさばいたものの、その間にも行列はどんどん伸びていく。この時、行列の長さは200メートルをゆうに越えるほどだったという。

 それでも、記録を読む限りでは、目だった混乱はなかったようである。ただ、みんな若干イライラしていたのではないかな、と想像できる程度だ。

 これが一転して大惨事になったのは、ひとえにたった一人の不届き者のせいである。時刻は午前8時45分。事もあろうに、この行列の中に蛇の死体を投げ込んだ者がいたのだ。

 ひゃあ蛇だ。そんなもの、誰もお近づきにはなりたくない。並んでいた人々はびっくりしてそれを避けた。主体が群集なだけに、きっとエーリッヒ・フロムならこう言うことだろう。「自由からの逃走ならぬ、蛇からの逃走だね!」

 失礼。だがつまんない冗談をほざいている場合ではない。人々が蛇を避けた結果、人混みの中に隙間ができたのだ。そしてできるだけ列を詰めようとする動きがあり、その隙間に対して急に人が流れ込む形になった。

 ここで将棋倒しである。思いがけない動きにバタバタバタッと転倒者が発生し、その結果1人が圧死。9人が重軽傷を負う惨事になってしまった。

 この事故については、ここまでである。

 この手の群集事故は、少なくともこの頃は、大きな刑事事件として扱われることは滅多になかったようだ。だから犠牲者の年齢性別は不明であるし、肝心の、人混みに蛇を投げ込んだ者は一体誰なのか、という点についても以下同文である。過去の群集事故には、こういう後味の悪さ、歯切れの悪さがある。

 それにしてもこの事故、「人混みの隙間をできるだけ詰めようとして」という、何気ない動きから大惨事になったのだから恐ろしい話た。こういう心理は日常生活の中でもままある。車の行列で並んでいるとき、前の車がちょっとでも動くと、つられるように前に出てしまったりするものだ。だがそういう場合も気をつけなければいけないのである。

 ちなみに余談だが、この大阪劇場の管理会社として名前を挙げた日本ドリーム観光は、かの千日デパートの管理運営も行なっていたらしい。なんだか事故に縁のある企業である。似たような企業に白木屋があって、こういう形で他の事故とのつながりを発見したりすると、思わず「おう奇遇だね」と、友人にばったり出会ったような気持ちになったりするのは筆者だけだろうか。たぶん筆者だけだろう。

【参考資料】
◆ウィキペディア
◆岡田光正『群集安全工学』鹿島出版会、2011年
『第32回明石市民夏まつりにおける花火大会事故調査報告書』29章「国内で発生した主な群衆事故」
災害医学・抄読会 2003/12/12
 
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◆函館大火(1934年)

 函館大火――。この巨大火災についてお話しするにあたっては、白木屋火災と同様に、まずは寺田寅彦先生にご登場頂くことにしよう。彼が『函館の大火について』という文章を書いているのだ。

「昭和九年三月二十一日の夕から朝にかけて函館市に大火があって二万数千個を焼き払い二千人に近い死者を生じた。実に珍しい大火である。」

 ここで思わず「は?」と聞き返したくなるのは筆者だけではあるまい。なんだその「二千人」って。二十の間違いじゃないの? あるいは、多くても二百とかじゃなくて――?

 ところが間違いではないのである。正式な死者数は2,166名で、いくら大火とはいえ目を疑うなという方が無理な話だ。

 どうしてこうなった。一体この日、函館で何が起きたのだろう?

   ☆

 改めてご説明しよう。時は1934(昭和9)年3月21日のことである。場所は言うまでもなく、北海道の函館市だ。

 当時は、日本列島付近で巨大な低気圧が渦巻いていた。午前6時の時点ではまだ日本海の中央に腰を据えており、大きな動きはなかったのだが、これが午後6時頃には東北地方から北海道南部までの範囲に接近。猛烈な風を吹き募らせ始めたのだ。北海道では、最大瞬間風速39メートルを記録したという(ちなみにこの風速は、「身体を45度に傾けないと立っていられず、小石も吹き飛ぶ程」のものである)。

 函館でも、火災が起きる前からこの強風による被害が相次いでいた。家屋は倒壊するわ屋根は飛散するわ、あげく電線まで切れる始末で、すでにして街は滅茶苦茶だったのである。

 火災が発生したのは午後6時35分。函館市の南端の地区で一軒の住宅が半壊し、屋内にあった囲炉裏の火が風で散った。これが、街中に火をばらまく結果になったのだ。

 この辺りの経緯を、寺田はこう書いている。

「この時に当たってである、実に函館全市を焼き払うためにおよそ考え得らるべき最適当の地点と思われる最風上の谷地頭町から最初の火の手が上がったのである。」

 一応ひとつ書き添えておくと、筆者の手元にある資料では、最初に火の手が上がったのが「住吉町」となっている。寺田が文章を書いた時点ではまだ火災の全貌が明瞭でなかったそうなので、情報も整理されていなかったのかも知れない。

 まあでも、この直後に街全体が焦土と化した事実に比べれば、些細な記述の違いなどちっぽけなものである。函館市内で発生した炎は猛烈なつむじ風に乗って次から次へと燃え移り、街はたちまち火の海となった。

 しかしなんでまた、そんなに簡単に街が焼けてしまったのだろう?

 ここでまた寺田による説明なのだが、まず風の強さの問題があったという。火災の場合、風は強ければ強いほどいい。なぜならそれで吹き消されるからだ。だがこの時に函館で吹いていた風の勢いは、炎を消すほどでもない微妙なラインのものだったのだそうだ(筆者としてはどうも腑に落ちない説明なのだが、本当なのだろうか?)。

 それから第二の問題として、「延焼の法則」とでも呼ぶべきものがあった。

 大火の場合、発火地点からどのような形で延焼するかは、これはもうある程度は自然法則的に確定するものなのだそうだ。例えば江戸時代に発生した複数の大火の焼失地域を調べると、ほとんど決まって火元から「半開きの扇形」に延焼しているという。

 ではこれらの法則に照らし合わせてみた場合、当時の函館というのはどうだったのか。これについては寺田曰く、

「これはなんという不幸な運命の悪戯であろう。詳しく言えば、この日この火元から発した火によって必然焼かれうべき扇形の上にあたかも切ってはめたかのように函館全市が横たわっていたのである。……(中略)……要するに当時の気象状態と火元の位置とのコンビネーションは、考え得らるべき最悪のものであった」。

 とのことである。それにしても寺田先生、文章がノリノリだなあ。

 とにかくこんな理由もあって、火焔はみるみる拡大していった。先述したように烈風のため電線も切れており、街全体が停電している中での火災である。これもまた寺田の言う「最悪のコンビネーション」であろう。

 さらに、街全体に吹き付けていた風が時計回りにころころと進路を変えやがったせいで、延焼範囲はそっちこっちに及んだ。消防はこの火炎の流れに翻弄されながら、ほぞをかむ思いだったことだろう。

 函館市は、もともと風が強い港町である。よって昔から大火は頻発しており、変な言い方だがそれで「大火慣れ」していた部分もあったらしい。100や200の家が焼けた程度では大火とは呼ばない……という言い方はさすがに大げさかも知れないが、とにかくそういう感覚に加えて、消防施設や街並みが近代的になっていたがゆえの油断、というものもあったようだ。

 翌朝、ようやく鎮火した時には、街はまるで空襲の後のような有様だった。当時の写真がネット上でも結構見られるのだが、本当に爽快なくらいに何も残っていない。文字通りの焼け野原である。

 人的被害については、最初に述べた通り犠牲者が二千人にも及んだわけだが、これは火災のせいばかりでもなかった。避難した先の海岸で波浪に襲われて大勢が溺死したとか、避難先で百人近くが凍死したとか、気象による被害も大きかったのだ。

 ここまで来ると、ほとんど天変地異である。この日函館を襲ったのは大火というよりも、純然たる「自然の猛威」だったのだ。

 負傷者は9,485名、焼失家屋は11,105戸に上った。

   ☆

 これが世に言う「函館大火」である。

 先述した通り、函館で火災が発生すること自体は珍しいことではなかった。現に寺田も「この原稿を書いている時にまた函館で火災が起こった」という趣旨の文章を書いている。しかしそれら数ある火災の中でも大火中の大火、まさに「ザ・函館大火」と呼ぶにふさわしいものは、この1934(昭和9)年3月21日に発生したものなのだ。

 いくら忘れっぽい日本人でも、さすがにこの大火を忘れてしまえという方が無理な話だろう。函館では、今でも火災が発生した日には慰霊祭が執り行われているという。

 また、比較的最近のニュースでも話題にされていたことがあった。例の東日本大震災の後、函館の市民有志が被災地の子供たちへ児童書を寄付したのだ。

 実はこれは「恩返し」でもあるのだった。函館大火の直後、当時の函館図書館の館長が、被害に遭った子供の心を癒すためにということで、全国からの児童書の寄贈を募っていたのである。その結果、図書館・出版社・学校などから12万冊が寄せられたのだ。

 東日本大震災における函館市の支援は、これにとどまらない。例えば岩手の沿岸地域には舟を寄贈するなどしている。

 おそらく本州の人間にとって、函館大火は「忘れられた災害」でしかないことだろう。だが地元の人々にとってこの災害は、今でも生きた記憶として残っているのである。

 実は、筆者が本稿を最初にものしたのは、東日本大震災が発生するよりも前のことだった。その後、ニュースでこの函館市の支援活動を見た時には思わず目頭が熱くなったものだ。よってこうした記録も書き添えておく次第である。

【参考資料】
◆『寺田寅彦全集』岩波書店(1976年)
◆函館市消防本部ホームページ
◆ウィキペディア他

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◆大日本セルロイド工場火災(1939年)

 先に、白木屋火災の項目で「燃えやすいセルロイド」と書いた。

 で、セルロイドとは一体何なのかというと、これは合成樹脂の一種である。プラスチックの親戚というかご先祖様にあたる代物で、過去にはアニメーション作成でも使用されていた。「セル画」というのがそれだ。

 このセルロイドが、実はとても燃えやすいのである。現在では消防法上の危険物の一種と見なされており、その扱いには相当の注意を要するという。

 今回ご紹介する事例は、そのセルロイドのせいで発生した火災である。しかもその規模は、はっきり言って白木屋の比ではない。セルロイドの危険性ここに極まれり、開いた口も塞がらない大惨事をご覧あれ。

   

 1939(昭和14)年59日、午前923分頃のことである。

 場所は東京都板橋区、志村小豆沢(しむらあずさわ)。大小様々の工場が立ち並ぶ工業地域である。

 もともと、板橋区周辺というのは火薬にまつわる施設が多かった。例えば江戸時代には和光市の花火屋があり、江戸末期には高島平の大砲試射場があり、そして明治には下板橋の火薬工場があり……といった塩梅である。これがこの地域の伝統産業だったらしい。

 そして1939年といえば、二年前に日中戦争が勃発したばかり。小豆沢には、軍需生産にひと役買っていた工場も複数存在しており、大日本セルロイド工場㈱東京工場もそのひとつだった。

 火災のきっかけになったのは、この日工場に入ってきた一台の貨物自動車だった。

「まいどーっ! セルロイドの屑を持ってきました~」

 この時持ち込まれたセルロイドの屑が何に使われる予定だったのか、それは定かでない。とにかくここで、運転手がなんの気なしに煙草をポイ捨てしたからさあ大変。気が付くと、荷台の麻袋が火を噴いていた。中にはセルロイドが詰まっている。

「わあ大変だ、消せ消せ!」

 ところがこの日の風速は9メートル。しかも工場内の防火設備はお粗末そのものだった。一応、防火水槽も設置してあったが、あっという間に構内が火に包まれたので利用する暇もない。また悪いことに、当時の工場の多くは木造建築で、ほとんど為す術もなく火焔は飛び火した。

 その飛び火した先もまずかった。お隣の日本火工㈱は火薬や照明弾を製造しており、なんとこの日は火薬の加工品を露天で乾燥させていたのだ。当時は強風とはいえ天気は快晴で、天日干しにはちょうどいい環境だったのだろう。

 ポン、ポポン。最初は小爆発で済み、工員たちが消火活動を行なう余裕もあったようだ。

 だが、この直後に大量の火薬に引火したことで、この火災は最終的に「戦前四大火災」の一つに数えられる程の大惨事となったのである。

 大爆発を繰り返すこと三回。この時の爆発音は東京市内全域に響き渡り、爆発と共に照明弾があちこちに飛散するお祭り騒ぎになったという。

 消防隊が駆けつける。しかし、水利もとんでもなく悪かった。消火栓は近くの中山道に点在していたのだが、これは火災現場からはあまりにも遠すぎた。付近には河川もなく、少し離れたところに自然水利を求めるべく、ホースを63本も延長した消防隊もあったという。

 想像するだにやるせない話だ。モタモタと63本ものホースを接続している間にも火災は拡がる。当時の消防隊員の気持ちや如何に。

 火災現場では、飛び火が留まるところを知らなかった。周囲の複数の工場からも続々と火の手が上がる。

 特にひどいのが大日本軽合金㈱への延焼で、ここには大量のマグネシウムがあった。マグネシウムは燃えやすい上に、水をかけても消えない。むしろ水によって激しく燃焼するため、火災においては化学消防の技術を要するのである。

 ようやく鎮火したのは午後五時のことだった。

 爆発の範囲は半径500メートルの範囲にまで達し、うち150メートル以内は、なんかもう、空襲が一足先にやってきたような状態だったという。死者は32名、負傷者245名、全焼88戸、半焼6戸、焼失面積は10,890平方メートルに及んだ。

 この火災への対応で出動したのは、板橋警察署と隣接警察署、警視庁特別警備隊それに「赤羽工兵大隊」「近衛一連隊」そして各憲兵隊などだった。また事後処理においても東京市の「社会局」と「市民動員部」なる組織だか部署だかが、被害者に対して弔慰金や見舞金を出したそうだ(時代が時代なので、見たことも聞いたこともない組織名ばかりである)。

   

 セルロイドは当時から危険物と見なされていた。1938(昭和13)年9月には「セルロイド工場取締規則」が定められるなど、現場での厳重な管理が求められていたのである。

 だが、それでもセルロイドによる火災は頻発していた。現場ではルールが必ずしも遵守されていなかったか、あるいはルールが現実に合っていなかったのだろう。

 またこの頃は、重工業を中心とした軍需産業が大盛況を迎えていた。時代の要請に追われて急ピッチで生産作業が進められていた現場では、色々と無理もあったのではないか。

 例えば、この年の31日には大阪の枚方(ひらかた)陸軍倉庫でも火薬庫が大爆発し、800家屋が全焼、死者10名・行方不明者38名という事故が発生している。また翌年には西成線(今のJR桜島線)で、工業地域への出勤者を乗せた列車が脱線転覆するという惨事が起きており、これは国内の鉄道事故史上ではトップクラスの死者数である。

 事故災害のことばかり調べていて気付いたことがある。この、昭和10年代から東京オリンピックまでの数十年間というのは、驚くほど多くの日本人が人災で命を落とした時代だったのだ。

 考えてみれば、例の戦争だって敗戦した以上は国家レベルでの過失・人災、つまり事故災害だったと言えなくもないわけで、なるほど大量死の時代だったのだなと思うのである。

【参考資料】
ウェブサイト「消防防災博物館」
『東京の消防百年の歩み』東京消防庁(1980年)


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◆白木屋火災(1932年)

 記念すべき――なんて枕詞は不謹慎に違いない。だが事実として、日本で最初の高層建築物火災である。この白木屋火災について、寺田寅彦は「火事教育」という文章の中でこう記している。

「旧臘(きゅうろう)押し詰まっての白木屋の火事は日本の火災史にちょっと類例のない新記録を残した。犠牲は大きかったがこの災厄が東京市民に与えた教訓もまたはなはだ貴重なものである。」

 時は1932(昭和7)年12月16日、午前9時15分頃のこと。当時の東京市日本橋(現東京都千代田区)にあった「白木屋百貨店」で火災が発生した。

 この白木屋百貨店は、地上8階地下2階という高層ビルである。火の手が上がったのは、4階の玩具売場からだった。

 原因は電球のスパーク。男性社員がクリスマスツリーを修理していたところ、飛び散った火花が大量の玩具に燃え移ったのだ。この頃の玩具には燃えやすいセルロイドが使われていたせいもあり、火はあっという間に燃え広がった。

 時代が時代なので、防火扉やスプリンクラーなどという気の利いたものも存在しない。火炎も煙もたちまち建物を舐め、白木屋の上階は程なく猛煙と熱気に包まれた。

 この時の状況について、寺田はさらにこう書いている。

「実に幸いなことには事件の発生時刻が朝の開場間ぎわであったために、入場顧客が少なかったからこそ、まだあれだけの被害ですんだのであるが、あれがもしや昼食時前後の混雑の場合でもあったとしたら、おそらく死傷の数は十数倍では足りず、事によると数千の犠牲者を出したであろうと考えるだけの根拠はある。」

 ちなみにこの「予言」が見事に的中した事例が、白木屋火災の約40年後に発生した太洋デパート火災である。さすがに数千の犠牲者とまではいかなかったが、死傷者は確かに白木屋の数十倍に及んだ。

 さて、白木屋火災における最終的な死者数は14名に上った。この中には、火災を発生させた男性社員も含まれていた。

 さらに細かく死者の内訳を見ると、8人が女性である。彼女たちは6~7階の高層階から落下して死亡しており、その際の状況についても記録が残っている。少し詳しく見てみよう。

 まず、8名中3人は投身によって死亡した。うち2人は大の仲良しだったそうで、煙に追い詰められたところで名を呼び合って投身したという。ちょっと百合の世界めいたお話だ。

 また、どうも真偽のほどは定かでないのだが、当時の野次馬の中には「激励」して投身を促したアホがいたらしい。寺田はこれを「白昼帝都のまん中で衆人環視の中に行われた殺人事件」と憤りを込めて呼んでいるが、もしこれが本当なら、飛び降りで死亡したもう1人の女性というのはこれだったのかも知れない。

 また死亡者のうちさらに3人は、帯などを結びつけて命綱を作り、それで脱出しようとしていたという。だが煙にまかれるうちに手を離してしまい、結局転落した。

 さらに2人は、ロープを使って避難を試みた。だが1人は途中で建物のブリキにひっかかって落下。もう1人は不運にも火災の熱でロープが焼き切れたという。

 そして最後の1名は、雨樋を伝って脱出したが途中で力尽きたのだった。悲惨な話だ。

 最終的に、白木屋百貨店は4階から8階までが焼けた。大火事である。ポンプ車は29台、梯子車も3台出動したというから、改めて火災の規模の大きさが分かる。

 おそらく、当時の消防はこれほどの高層建造物での火災は想定していなかったに違いない。防災システムが時代に追いついていなかったのだ。無事に救出された人々も、多くは自力で脱出したか、あるいは消防隊員の軽業で辛うじて助け出されたという。

   ☆

 さて。

 ちょっと話は変わるが、白木屋百貨店の火災と言えばすぐに「女性の下着」を連想される方も多かろう。「近代以降の日本で、女性が下着をつけるようになったのはこの火災がきっかけだった」という都市伝説があるのだ。

 いわく、当時の女性たちは和装が主であった。よって腰巻を着用することはあっても、今のパンツにあたるような下着をつける習慣はなかった。死亡した女性従業員たちは、地上にいる野次馬から自分の陰部を見られるのを恥ずかしがったためロープから手を離し、それで転落死した……と。

 これがきっかけとなり、女性がズロースもしくはパンツを着用する習慣が始まったというのである。

 だが実際のところは先に書いた通りである。「野次馬から覗かれるのを気にして転落し死亡した」という女性は一人もいなかったのだ。

 これはどうしたことだろう。一体、この都市伝説はどこから生まれたのだろうか?

 この謎については、井上章一が『パンツが見える。羞恥心の現代史』の中で解明を試みている。井上の検証はかなり緻密で徹底したものだが、あえてかいつまんでまとめると以下のようになる。

① 高層階の女性たちは命からがら脱出したはずで、覗かれることを気にする余裕はなかったと思われる。だが比較的低い階の女性たちは、迅速に避難することよりも、覗かれることを気にするだけの精神的な余裕があったかもしれない。それがごっちゃになったのではないか。

② 当時の白木屋責任者が、事件後に「死者が出たのは下着をつけていなかったせいだ」とコメントすることで、さり気なく責任逃れを図っている。これが誇張されて後世に伝わったのではないか。

③ 白木屋火災に関係なく、当時は女性の服装が和服から洋服へと移行し始めた時期だった。それは単なる流行だったのだが、たまたま白木屋火災があったので話が結びつけられたのではないか。

④ 「ノーパンの女性が恥じらいのあまり転落死した」というエピソードは印象に残りやすい。なまじ性にまつわる事柄なだけに、尚更である。

 ――とまあ、こんな具合である。

 筆者も、この「白木屋ズロース伝説」の真相はこんなもんだろうと思う。女性たちが恥じらいのあまり悲劇の墜死を遂げたなどというのはあまりにドラマティックで、かえって現実味が感じられない。作り話であろう。

   ☆

 ところで白木屋だが、これはもともとは江戸時代から続く呉服屋の老舗で、大名や奥方なども利用する由緒正しい大企業だった。

 しかし昭和に入ってからはこのように火災が起きたり、一部の強欲な実業家から株を買い占められて乗っ取られそうになるなど、その後はけっこう苦労している。

 そんな経過があり、最終的には東急グループに吸収され「東急百貨店日本橋店」としてしばらく営業していたが、1999(平成11)年にはこれも閉店し、ついに創業以来350年の歴史に幕を閉じている。

 ちなみに少し補足すると、白木屋を乗っ取ろうとした強欲な実業家というのは横井秀樹のことである。後年に大火災を引き起こしたホテルニュージャパンのオーナーだった人物だ。この人も、なんだかやけに火災に縁のある人生である。

 火災、都市伝説、いわくつきの実業家との関係……。どうも白木屋というと、こういう奇妙なエピソード満載のヘンなお店、というイメージが真っ先に湧いてしまう。

 完全に余談だが、これも付け加えておくと、1926(大正15)年9月23日に脱線転覆事故を起こした「特急列車一・二列車」が

【参考資料】
◆井上章一『パンツが見える。――羞恥心の現代史』朝日選書(2002年)
◆『寺田寅彦全集』岩波書店(1976年)
◆ウィキペディア他

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◆日本カーリット工場爆発事故その3(2010年)

 どぼずばああああああん。

 2010(平成22)年1月7日のことである。横浜市金沢区福浦にある日本カーリット株式会社の工場で爆発が……

 え、それはもう聞いたって?

 いやいや。よく見て下さい。日付と時刻が違うでしょう。2年前と同じ場所で起きちゃったんです、またしても爆発が――。

 時刻は、資料によってまちまちだが、大体17時45分~48分頃で間違いないようだ。場所は、横浜新都市交通金沢シーサイドライン・産業振興センター駅からおよそ600メートル東の工業団地の一角である。

 一大事である。消防車40台が出動して、20時15分頃には鎮火した。

 幸いなことに死者はいなかったが、従業員8人と、通りすがりの車に乗っていた男性2人、そして付近の工場の従業員1人が怪我を負っている。資料によっては合計12人となっているのもあるが、ここではとりあえず合計11人ということにしておく。

 このように、近くの乗用車や他の工場にまで被害が及んだほどである。爆発した建物もただでは済まなかった。工場敷地内の3棟が全焼、1棟が半焼。さらに全壊が4棟、半壊が3棟、部分壊は6棟に及んだ。

 また周辺では、他の企業のものだろうか、61の事業所のうち82棟、車両69台、動産及び工作物10件が損壊している。全体の損害額は約5億に上った。

 さっそく日本カーリットでは、社長がその日の22時から記者会見。謝罪し、原因追究をしっかりやることを宣言した。

 翌日には神奈川県警が実況見分を始めて、有機製造室棟にあった高圧釜が敷地外の道路まで吹き飛んでいることを確認。またこの棟の焼損と、周囲の損壊が最も激しいことから、この付近で爆発が起きたと睨んだ。さらに業務上過失致傷の容疑で事情聴取も行っている。

 爆発の原因は、オートクレーブという装置が暴走したためと推測された。オートクレーブとは圧力鍋みたいなもので、中を高圧にして作業を行なう耐圧式の装置である。この中で圧力が急激に高まったため、ドカーンといってしまったらしい。

 では、なんでそのオートクレープの圧力が高まったのか……、その理由は、資料を読んでも筆者にはよく分からなかった。

 だがとりあえず、ほぼ一年後の12月20日には、会社と従業員3人が注意義務を怠って爆発を起こしたとして書類送検された。容疑は業務上過失傷害や業務上過失爆発物破裂罪、そして労働安全衛生法違反である。

 そして横浜簡裁は1月4日までに、この3人に罰金計200万円の略式命令を出した。決定はいずれも昨年12月27日付けである。

 この日付を見て、「あれ?」と思ったのは筆者だけだろうか。そういえば前回の2008年の事故でも、年末ギリギリに起訴されて、年明け早々にどさくさ紛れという感じで一瞬で処理されていた。今回と全く同じである。

 多分これは――半ば「邪推」と考えてもらって結構だが――国の側の配慮だろう。

 戦前からの大規模火薬産業で、3回も爆発事故を起こしているのに(うち2回は死亡者あり)まだきちんと存続しており、そのわりにあまり名前の知られていない一流企業で、しかも2008年と2010年いずれの事故もあまり大きく報道されていない……ということで、なんとなくそういうバックがついていそうだなーとは思っていた。

 チッソなんかと同じだね。もし株を買う機会があったら、ぜひ日本カーリットにしよう。そうしよう。

 事故があった工場の跡地は、その後更地になって売却の話が進められたりしたようだ。ネット上ではそこまで確認できたが、今どうなっているかは不明である。

【参考資料】
◆ウィキペディア
はまれぽ
日本カーリット㈱横浜工場における爆発火災の火災原因調査結果について
takumi296's diary
ウィキニュース『横浜の化学工場で爆発事故 従業員ら11人けが』
カナロコ
日本カーリット:横浜市の工場で爆発、4人が負傷し炎上中-地元署
化学業界の話題
コトバンク

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◆日本カーリット工場爆発事故その2(2008年)

 どぼずばああああああん。

 2008(平成20)年4月7日のことである。横浜市金沢区福浦にある日本カーリット株式会社の工場で爆発が起きた。

 え、また?

 そう、またなのである。――と言っても前回の事故からは50年も経っているのだが。

 ネット上の情報をざっと眺めてみたが、この2008年の爆発の時刻は定かではない。当時の新聞もチェックしてみたのだが、事故のニュース自体が全然載っていなかった。

 現場は敷地内の実験棟で、従業員2人が病院送りとなった。うち1人は死亡している。なんだか死傷者数までもが、50年前の同社の爆発事故と似通っていて不気味だ。

 爆発の原因だが、「化学物質トリクロロシランなどの液体をオートクレーブで混ぜる際、加湿装置から蒸気が漏れ、薬品と混ざって化学反応を起こして圧力が異常に上がり、釜が爆発した」らしい。素人としては、ハァそうですかとしか言いようがない。

 まあ、それは物理現象としての原因である。人的ミスがあったのではないか、という観点で調べたところ、加湿装置とやらの自主検査を10年以上もサボッていたことが判明。これにより装置の劣化に気付かなかったのではないかと考えられた。

 この加湿装置の自主検査について、当時の工場長はしなくてもいいと勘違いしていたらしい。ただ、死亡した従業員からは装置の老朽化を訴えられていたというから、これでは工場長、言い逃れもしにくかったことだろう。2009年12月16日、当時の工場長と副工場長は横浜地裁へ書類送検された。容疑は業務上過失致死傷である。

 だがこれについては不起訴となった。仮に自主検査を行なっていたとしても、爆発の原因となった装置の亀裂を見つけるのは難しかっただろう――と横浜地検は判断したのだ。

 この不起訴の方針が確定したのは、2009年12月28日のことである。資料によると、年明けには不起訴にすることが決まった――とあるが、実を言えばその後本当に不起訴になったのかは不明だ。これも新聞には載っていなかった。

 さらに言えば、不起訴になったのは「3人」らしい。工場と副工場長、あと死亡した人の3人である。しかし死亡した人が副工場長だったのか、副工場長は2人いたのか、助かった人は副工場長だったのか、などの詳細は不明である。

 ついでに、県警は消防法違反で日本カーリットとその営業課長も書類送検した。こちらは、トリクロロシランなる化学物質を、市の許可を得ずに法定貯蔵量を超えて貯蔵したのが引っかかってしまったらしい。これについては、不起訴になったという記述は見つかっていない。

【参考資料】
「化学業界の話題」

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◆日本カーリット工場爆発事故その1(1955年)

 日本カーリット株式会社という組織を、筆者は今日の今日まで知らなかった。

 それが、たまたまウィキペディアの爆発事故の項目に名前が出ていたのでチェックしてみたら、なんとまあ、れっきとした一流企業である。電気系化学品や電子材料などの製造販売を行なっており、持株会社のカーリットホールディングス株式会社は第1部にも上場しているそうな。

 ただその製造品目のラインナップを眺めてみると、自動車に搭載される発炎筒や産業用の爆破材料などといったものもある。なるほど。ここらへんに、爆発事故が起こりうる要素があるわけだ。

 そもそもカーリットとはある種の爆薬の総称のことらしい。1916(大正5)年の創業から、この会社はそれを中心的な品目として作り続けてきたのだ。

 さてそれで以上を踏まえて、1955(昭和30)年8月2日のことである。

 時刻は午前10時45分。横浜市保土ケ谷区仏向町1625にあった日本カーリット工場の第6填薬室で、火薬の充填作業が行なわれていた時だった。火薬に異物が混入し、それとの摩擦が原因で火がついたのである。

 どぼずばああああああん。

 爆発は一度だけでは済まなかった。同じ場所にあった600キロの火薬にも引火。もひとつおまけに、手押し車で搬送されていた400キロの火薬にも引火した。

 もっとも、何もかもが木っ端微塵になってしまったため誘爆の経緯は全く不明である。であるからして、先に書いた「どぼずばああああああん」がどの時点で発生したと言えるのかは定かでない。とにかく、遠くから見ていた目撃者によると爆発は複数回あったというし、工場内には百キロ単位であちこちに火薬があったという。だから全部連鎖して爆発したのだろうと推測されるだけだ。

 この工場は山間の土手に囲まれた場所にあったのだが、爆発によって土手はほぼ半分が吹き飛んだという。また100メートル離れたところにあった事務所は窓ガラスが粉砕、土砂が屋根に5センチ近くも積もった。

 そして爆発に巻き込まれた3名が死亡。負傷者は19名に及んだ。

 大惨事である。だが合計1トンもの火薬の爆発にしては、被害は比較的小さいほうと言えるだろう。それもそのはずで、現場の工場はこういった場合を見越してひと気のない山間部に作られていたのだ。

 この日は、ちょうど前日に、東京都墨田区の花火問屋爆発事故があったばかり。この日本カーリット工場の事故が、世間の注目を集めたであろうことは想像に難くない。

【参考資料】
◆ウィキペディア

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◆箒川鉄橋列車転落事故(1899年)

 箒川(ほうきがわ)は那珂川水系に属する第一級河川である。栃木県の矢板市と大田原市の境界を流れており、延長は47.6キロメートル。大佐飛山地南西部の白倉山付近を源流とし、那須野が原扇状地を東南に流れている。最後は那珂川に合流し、水戸の北部を通って那珂湊で太平洋に注ぐ。

 筆者は純粋な鉄道ファンではないのでよく分からないのだが、東北本線を走ってこの箒川にさしかかる辺りというのは、絶好の撮影ポイントらしい。景色がいいのだろう。

 この箒川にかかる鉄橋がある。1886(明治19)年に完成したもので、架橋当時は全長約319メートル(現在は全長322メートル。なんで長さが変わったのかはよく分からないが)。川床からの高さは約6メートルあり、橋桁(プレート・ガーダー)14連で結ばれていた。

 1899(明治32)年10月7日、当時の鉄道史上最大の事故はここで発生した。

 この頃の東北本線はまだ国有化されておらず、日本鉄道株式会社(以下日鉄)の私鉄路線に過ぎなかった。しかし時代の要請を受けて線路はどんどん切り拓かれ、1883(明治16)年7月28日に上野~大宮間の路線が開通したのを皮切りに、路線を北へ北へと延伸。明治19年には宇都宮~西那須野間が、24年には青森までの全線が、さらに31年には田端~岩沼間が開通していた。

 箒川の事故が起きたのが、このほぼ1年後である。日鉄は線路の敷設も一段落し、今まさに運輸営業に力を入れようとしていた矢先のことだった。

 10月7日当日は、南方洋上で台風が発生しており、本州に接近していた。

 そんな悪天候の中、福島行きの第375列車(機関車2両+貨車11両+客車7両)は11時に上野駅を発車。対向列車との行き違いの関係から約50分程の遅れが出ており、矢板駅を出発したのは16時40分頃だった。

 結果だけを見ると「そんな天候で出発しちゃったんかい」という感じもする。だが、途中で通過した宇都宮駅で観測された風速は9メートル。まあ徒歩の人が歩きにくくなる程度のものである。これなら大丈夫だろうと判断されたのだった。

 列車は矢板駅を出発すると、まっすぐに箒川へと突き進む。この先の針生トンネルをくぐり、橋を渡れば次は野崎駅だ――。

 と、ここで矢板駅と野崎駅の間の地形について少し解説しておきたい。両駅周辺の地形は、南に松原山丘陵があり、北には那須野が原扇状地がある。箒川はこの境目を流れており、全体の中ではここでかなりの急流となる。

 鉄道敷設に際しては、松原山丘陵にトンネル上の切通しが掘られた。これが針生トンネルで、これを抜けると線路はすぐに箒川と交差する形になる。そこに箒川鉄橋も架かっているわけだが、地形条件のため、ここは風の通り道でもあった。テレビの専門家インタビュー風に言えば「あの場所はもともと強風に遭いやすく、とりわけ冬の時期は北西からの季節風を強く受けることで知られていたんです」といったところだ。まあ後からならいくらでも言えるのだが、とにかくそういうことだった。

 第375列車は針生トンネルを抜け、箒川に差しかかる。そして列車が鉄橋の真ん中あたりに来たところで(渡り始めたタイミングだったとも言われているようだ)惨劇は起きた。強烈な北西からの突風が、列車の左側に吹きつけたのだ。

 機関士は後方を見た。8両目に連結していた無蓋貨車のシートが風であおられ、吹き飛ばされそうになっている。異常事態だが気付いたときにはもう遅い。次の瞬間には、1等客車の車体が急激に右方向に張り出した。

「こりゃイカン!」機関士は警笛を鳴らしてブレーキをかけた。後に機関士は、この時に強い衝撃を感じたと証言している。おそらくそこで貨物緩急車の連結器が外れたのだろう――とも。

 第375列車が混合列車であることは、先にチラッと書いた。その内訳はここではあまり細かく書かない。とにかく連結器が外れてしまったことで、後方の貨車1両と、7両あった客車の全部が転覆し、そのまま橋から落下したのである。

転落の状況

 この時の風は、瞬間最大風速27~28m/secと推定されている。天気予報の用語では「非常に強い風」と呼ばれるレベルで、人も車も外にはいられず樹木も倒れるほどの強さだ。宇都宮で観測した時とはえらい違いだった。

 落下したそれぞれの車両がどうなったのか、詳細がウィキペディアに載っていたので、せっかくだから書いておこう。上から順に、前部車両→後部車両となる。

・貨物緩急車(亥120)……橋脚のそばに転落、横転して大破。
・3等緩急車(ハ28)……亥120とほぼ同じ状態でその横に横転し、大破。
・3等客車(ハ179)……屋根が吹っ飛び、車体下部構造は河底に埋没。
・3等客車(ハ249)……橋脚の約27メートル下流に流される。屋根だけを残してその他は粉砕。
・1等客車(イ3)……最初に転落。25メートル下流に車体下部構造を、また18メートル先に屋根を残し、その他は粉砕。
・2等客車(ロ17)……中州の上で圧壊。
・3等客車(ハ275)……転落、3ブロックに大破。
・3等緩急車(ハニ107)……前車(ハ275)の上に転落し、大破。


こんな感じだったらしい

 ひどすぎる。

 車両がこんななので、乗客たちがどうなったかは推して知るべし、であろう。

 もっとも現代に生きる我々も、車両が脱線転覆し粉砕しぺちゃんこになるような鉄道事故を全く知らないわけではない。そうした事故では数十人から百人単位で人が亡くなることもある。そうした事例に比べればこの死者数は少なめで、そこは不幸中の幸いかも知れない。だが箒川の事故の場合、乗っている人が少なかったから簡単に風で飛ばされてしまったのではないか、という気もする。当時の『國民新聞』では、「前方貨車は肥料雑貨を積み居て、其重量にて危難を免れたるなりと。」とあった。

 これが17時頃のこと。転落を免れた機関車2両と貨車10両は、そのまま140メートルほど進んでようやく停車した。機関車1両だけのブレーキでは、即座に停止することはできなかったのだ。

 大惨事である。まず機関手が、次の停車駅だったはずの野崎駅に駆けつけて急報。それを受けて駅長は電報を打ったが、またしても暴風雨に邪魔されて混線。矢板駅につながったのは17時20分頃のことだった。

 また後部車掌は、自分自身も負傷しながらも――と資料には書いてあるが、まさかこの人、川に落ちて助かったのだろうか?――現場から3.5キロを駆けて矢板駅に現場の状況を報告している。そして矢板駅→宇都宮駅→日鉄、の順で通報がなされた。

 時代が時代だから仕方ないのだが、20分とか3.5キロとか、哀しくなるほどの通信状況である。

 ともかく急報を受けた宇都宮駅長は、鉄道嘱託医、赤十字社栃木本部、県立宇都宮病院に応援を要請。さらに日鉄本社では、社員十数名と作業員70名を派遣している。また順天堂病院にも要請し、院長、医師、看護婦を派遣させた。

 ただしこれらは全て矢板側からの派遣だった。現場に着いても暴風雨のため橋を渡ることはできない。そのため彼らは到着した側の岸で救護活動を行なうしかなかった。

 では反対の岸ではどうしていたかというと、こちらには地元の開業医が駆けつけていたという。彼は関係機関からの派遣をまたずに現場に駆けつけて、負傷者の治療を行なったのだった。

 また地域の消防組も集まってきた。出動したのは矢板、三島、蓮葉、石上、針生、土屋、山田の人々である。当時は町村単位での自治消防は行なわれておらず、村や大字単位でこうしたグループを結成していた。

 しかし暴風のさ中である。救助は簡単なことではなかった。強風のため橋の上は渡れず、命からがら中州へとたどり着いた人々のところへも行けない。しかも箒川は平時に比べて1メートルは増水していた。

 当時の救助設備も、縄と梯子、それにトビ口くらいなものだった。川の両岸にかがり火が焚かれ、泳ぎの達人が鉄橋に大縄を結び付けてから負傷者のもとへ行き、背中におんぶして、縄をたぐって元の場所へ行き梯子で上る……。こうした気の遠くなるようなやり方で救助活動は行なわれたのだった。

 ちなみに、この時偶然に、事故った車両には埼玉県の加藤政之巡査も乗り合わせていた。彼は職業的使命感から、自分の怪我も省みず溺死寸前の遭難者を救出している(後に見舞金や書状をもらい、昇給もした)。

 こうして多くの乗客が救助されたが、救助されるのと前後して亡くなった人や、激流に流されて後日あちこちで発見された遺体もあった。

 10日には、栃木県警察部保安課長の指揮で、箒川や那珂川の周辺が徹底的に捜索された。だが遺留品は多く見つかったものの遺体はなく、大体このへんで死者数は確定したようである。

 最終的な死傷者数は、『日本鉄道株式会社沿革史』によれば死者20名、負傷者45名とされている。公的には、これが正式な数字である。

 だが混乱もあるようだ。昭和6年10月の33回忌に建立された石塔婆には19名の故人の名が刻まれているというし、また事故直後の11月に発行された『風俗画報』増刊「各地災害図会」(明治32年10月)によると死者19名、負傷者合計36名とあるらしい。

 ちなみに事故った列車の乗客総数は、各駅の切符発売状況を調査した結果、62名とされているという。

 最初にも書いたが、これは当時、鉄道事故としては最悪の大惨事であった。だが復旧は意外に早かった。消防組なども参加して転落車両などが撤去され、線路の復旧はせいぜい枕木交換程度。翌日にはもう試運転が行なわれたというから、なんだか拍子抜けだ。

 とはいえこの事故、裁判ではけっこう尾を引いた。同年11月20日、第14回帝国議会の衆議院本会議で、福島県選出の代議士・菅野善右衛門がこういう趣旨の質問をしている。

「この事故では、暴風雨にも関わらず汽車を走らせている。さらに鉄橋の構造には転落防止についても不備があったのではないか」

 実はこの菅野氏、肉親を事故で失っていた。

 この時の答弁に菅野氏は納得しなかった。翌年2月20日には東京地方裁判所に対して訴訟を起こし、日鉄に3万円の慰謝料を請求している。

 日鉄の言い分はこうである。「確かに気象状況は不安定だった。だが、客車が転落するほどの強風は予想できなかった」

 いわゆる「想定外」である。まあ、争うつもりならそう言うわな。

 この訴訟、7月7日に一度は菅野が勝訴している。だが9月14日には日鉄が東京控訴院に控訴した。

 それから判決が出るまでには4年間かかっている。その間にも日鉄に対しては慰謝料の請求が多く出されたという。

 ところがである、明治37年12月10日には、日鉄の勝訴として判決が下された。

 そこで菅野氏は大審院に上告したものの、翌年38年5月8日には「原判決を破棄、本件を宮城控訴院に移す」と結論が下された。

 その宮城控訴院でようやく決着がついたのが、さらにほぼ一年経った2月28日である。ここでも菅野氏は敗訴した。おそらくこの敗訴は、他の遺族(あるいは直接の被害者)たちの慰謝料請求にも影響したに違いない。

 とはいえ、日鉄も支払いを頑として撥ね付けたわけではない。被害者に対する補償はちゃんと行なわれている。その内訳は遺族へ500円、負傷者は1人300円以下の支払いというものだった。これには従業員からも相応の挙金があったという。

 また、上記の宮城控訴院での判決の詳細は不明だが、ともあれこの判決の結果を踏まえた示談が行なわれ、成立している。事故発生から実に7年の年月が経過しており、この間には日露戦争もあった。

 さらに言えば明治39年3月31日には「鉄道国有法」が公布され、日鉄は11月1日に国に買収されている。

 なんだか、こうやって見てみると、この事故の歴史は同時に日鉄という組織の歴史そのもののように思えなくもない。主要な線路の敷設が終わり、ようやく運輸に力を入れるぞ~と思った矢先に事故が起きた。そして最終的な判決が下ったのとほぼ同時に、国によって買い上げられたのである。奇妙な因縁だ。

 大雨・強風時の運転抑制については、この事故を踏まえた検討もなされたようだ。だが悪天候の中、運転を続けるかどうかという判定は難しいところがあり、こうしたルールの具体化までにはまだまだ長い時間を要した。

 この「悪天候時の運転抑制」の基準の難しさについては、言うまでもない話かも知れない。鉄道事故の歴史を紐解けば、瀬田川列車転覆事故、餘部鉄橋転覆事故、羽越線脱線事故など、悪天候による大事故の例には枚挙に暇がない。天候は、交通機関にとってはある意味最大の強敵である。

 現在、この事故の供養碑はふたつ存在する。

 ひとつは事故から間もなく作られたものである。事故発生直後から、現場付近では何度か村民による供養が行なわれているが、一周忌にあわせて石塔婆が建立されたのだ。この碑は現在、下り電車に乗って箒川橋梁を渡り切ると、ちょうど左側に見ることができるという。高さ3メートルの大きなもので、欠落箇所があるものの100年前のものにしては立派だという。

 もうひとつの慰霊碑は、田代善吉という人によって建立された。この人は事故の直接の被害者だったのだが、その後は教育者かつ郷土史家として地元に貢献した人らしい。箒川の転落事故については、生き残りとして死者の冥福を祈る思いも強かったのだろう。33回忌にあたる昭和6年10月4日、現地での法要に際し卒塔婆を建立した。

 この卒塔婆の場所は、箒川の左岸、国道四号線の跨線橋北側である。そこは昭和6年当時は踏み切り道だったようで、道の横に建てたものらしい。

 なお、この卒塔婆の建設費は、多くが国鉄職員の浄財によるという。

 慰霊の法要については、参考資料を見る限りでは、少なくとも90回忌までは行なわれたのは間違いないようだ。

   ☆

 最後に、この事故については2つほど付録を添えておこうと思う。

 まずひとつは、前掲の田代善吉氏による証言である。『続・事故の鉄道史』からの孫引きであるが、もともとは昭和6年10月発行の『下野史談』号外「等川鉄橋汽車顛覆始末」に掲載された「私の遭難体験記」という文章からの一部抜粋らしい。もともとが長文で改行がないため、ここではブログ向けに改行の処置だけさせて頂いた。ぜひ一度目を通して頂きたい。その臨場感から、目線を離せなくなること請け合いである。

「私は小学校教員受験の為に宇都官に参りました。試験も終って帰ろうとした日は朝から大雨であった。三時頃の汽車で帰る積りであったが、汽車が遅れて四時頃になった。

「雨は増々激しく降って来る。その上風も出た様であった。汽車が進行すると共に風も強くなった。矢板駅に着いたのは恰度午後五時頃であったが強風強雨で気味が悪い様であるから、矢板へ下車しようかとも思った。

「箒川の鉄橋に差しかかると、ガタッという音のみであとは気絶して仕舞ったから、何が何やら判らない。ホッと気が付いて見ると自分は濁流に押し流されつつある。

「幸いにも汽車両は微塵に砕かれたので汽車の扉が一枚流れて来たのにつかまった。此扉こそ自分の生命の綱である。物体は必ず川岸によるものであるからこれをば放すまいと、其一扉に乗って激流の中を潜んで行った。自分は流れながらも今溺死する此身を両親や兄弟は知らないだろうと胸に涙を浮かべつつ那須野山の方向を眺めた。

「六百メートル程も流されて行くと乗っていた扉は河岸に近かづいて来た。川柳のあるのを幸に飛びついたが背は立たない。足の方は流されているが此柳が命の親と思って、つかまってはなさない。やっと砂州に這い上がることが出来た。若しや此の柳が根から切れたら自分も此世から縁が切れて今は斯うして居られないのであった。

「其時顔面からは鮮血流れ股や膝のあたりは硝子の破片が澤山這入ってゐました。

「川の中州に匐へあがっても風雨はやまない。今後洪水で増水すれば仕方がない合掌して流されて仕舞ふ覚悟をして居った。

時に五時半頃と思った。夕方になって風雨が静まると、半鐘の音がする。村人が河岸に集まって来て呉れた。其時の嬉しさは譬へ様がなかった。川の両岸には篝火が焚かれた。助けて呉れと力あらん限の声をあげると、今助けに行くからと応答があった時、初めて蘇生の思ひがした。

「泳ぎの達人が、鉄橋に大縄を結びつけ、其縄に組って助けに来て呉れた。其方の氏名は忘れたが背におぶさつて又其縄を頼りに鉄橋の下まで越えて梯子で上がり、鉄橋を匐ふて川向に行った。

「時に大田原町より急派した救護医の手によって応急手当を加へられ直に西那須野駅前川島屋に宿をとった。翌日西那須野の高瀬医に罹って頭や顔に這入ってあった小石を取って貫って宇都宮に来た。

「恰度宇都宮停車場に着くと、東京から佐藤博士が来られたので診察を受けた処が軽傷と云う事であった。神野病院は満員なので、県立宇都宮病院に入院した。入院治療中病勢が日増しに重くなって来た。体温が四十度、四十二度と云う状態であるから脳膜炎の罹れがあり、其死線を越えて四十日目で退院した。負傷者中第二番目の重患であって入院期も長かった(以下略)」。

 もうひとつの付録は、なんと「遭難数え歌」である。これも『続・事故の鉄道史』からの引用なのだが、こちらの出典は不明だ。地元の子供たちの間でこういう歌が歌われていたのだろうか。

『遭難数え歌』

一つとせ 一つ新版このたびの
 汽車の転覆大事件 ところは下野箒川

二つとせ 不意に雨風つのりしが
 箒川へとかかる頃 俄かに吹きまく大つむじ

三つとせ 宮の発車は午後の四時
 雨風激しきその中を 矢板の町までつつがなく

四つとせ よもや夢にも誰知らう
 橋にかかれる災難を 汽車も暴風雨ついていく

五つとせ 今は鎖をねじ切りて
 濁流の中へとさかさまに 落ちるや箱は粉微塵

六つとせ 夢中で一時は途方にくれ
 一度は大ぜい声をあげ 助けておくれよ助けてと

七つとせ 嘆く其声天地にひびき
 山も崩れん有様は 此の世からなる地獄なり

八つとせ やっとおよいで陸に出て
 見れば手足のない人や 頭に大傷うけし人

九つとせ これを見るより埼玉の
 職務は巡査で正之氏 川の中へ飛びこんで

十とせ 飛ぶが如くに洪水の
 中をいとわず流れ行く 七、八人を救いける

 ――いかがであろうか。なんという不謹慎な歌だろう!(←お前が言うな)

 それにしても凄い歌である。事故の状況を過不足なく簡潔に伝えている。前掲書がこの事故のルポの冒頭にこの歌を持ってきたのももっともで、とりあえず事故の概要はこの歌を読めば分かるようになっている。

 もっとも、九つとせと十とせの部分が、先に挙げた加藤巡査だけの武勇伝になってしまっているのが気になるところだが……。

【参考資料】
◆『続・事故の鉄道史』佐々木 冨泰・網谷 りょういち
◆ウィキペディア
◆明治32年10月10日付国民新聞『新聞集成明治編年史』第十巻(国立国会図書館近代デジタルライブラリー)「暴風汽車を宙に釣り上ぐ」

◆墨田区花火工場爆発事故(1955年)

 1955(昭和30)年8月1日、午後1時頃のことである。東京都墨田区で大爆発が起きた。

 どぼずばああああああん。

 なんかウィキを見ると番地まで書かれていた。現場は厩橋1-26である。

 爆発したのは、おもちゃ花火の卸問屋「井上花火店」が経営する花火工場の倉庫。おもちゃとはいえ甘く見てはいけない。周辺の建物は全半壊し、火災も発生して民家、商店、工場など合計13棟、385坪が焼き尽くされた。工場周辺は廃墟同然だったそうな。

 消火と救護活動はすぐに行われたが、死者は18名(うち16名は即死)、重軽傷者は80名以上に及んだ。

 特に、即死した16名のうち4名は遺体の状態もひどかったようだ。ウィキにはバラバラだの肉片だの死臭だのと縁起でもないことが書いてある。興味のある方はそちらをあたっていただければと思う。

 と、ここまではウィキペディアの丸写しである。他に資料がないのでつまらないことこの上もないのだが、さすがにこれで終わりでは芸がない。こんな資料も挙げておこう。1955(昭和30)年~1960(昭和35)年の、煙火工場での製造作業中に発生した事故の件数、年間死者数、負傷者数である。

  1955(昭和30)年……13件、25人、22人
  1956(昭和31)年……14件、23人、9人
  1957(昭和32)年……13件、19人、12人
  1958(昭和33)年……8件、21人、20人
  1959(昭和34)年……11件、25人、278人
  1960(昭和35)年……7件、12人、22人

 一年で平均21人は亡くなっている計算だ。

 だが、これが昭和の末期になるとだいぶ落ち着いてくる。無事故の年もあるほどだ。このことからも、花火や火薬の扱いも格段に進歩していったことが分かる。

 ちなみにこの墨田区の爆発事故の半年前には秋葉ダム爆発事故が起きている。また翌日には、今度は神奈川県で日本カーリット工場爆発事故が発生している。前に第二京浜トラック爆発事故の項目でもチラッと書いたけど、この頃は本当に爆発事故の当たり年だったんだなあ。

【参考資料】
◆ウィキペディア
◆武藤輝彦『日本の花火のあゆみ』あずさ書店・2000年

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◆秋葉ダム爆発事故(1955年)

 秋葉ダムは、静岡県浜松市天竜区に存在する巨大ダムである。高さは89メートル。天竜川の中流部にあり、浜松市を始めとする周辺地域に水を供給している。

 歴史も古い。もともとこの地域は、明治時代から発電の適地として注目されていた。それで大正から昭和初期にかけて、天竜川を利用した発電所が作られたりしている。そうした開発の動きも戦争で一度は中断したものの、戦後には1954年(昭和29年)に「特定地域総合開発計画」が策定されて、また再開している。

 こうした流れで、天竜川の中部ではまず佐久間ダムが建設された。これは当時のダムとしては日本一の規模を誇った。

 秋葉ダムが作られたのは、その佐久間ダムからの放水量を調整するためだった。

 現在、天竜川の本流には数多くのダムが建設されている。それらの中でも、秋葉山の麓に建設されたこの秋葉ダムは特に有名らしい。秋葉湖と呼ばれる人造湖は、国定公園にも指定されているとか。

 そんな秋葉ダムで、凄惨な爆発事故が発生した。1955(昭和30)年2月4日のことである。

 ただ厳密に言えば、この時点で秋葉ダムはまだ完成していない。事故は建設工事中に起きた。

 場所は、秋葉ダム第一発電所用地の工事現場。磐田郡竜川村横山地内(後に天竜区に編入)、横山橋から500メートル下流の天竜川の右岸である。

 その日は、ダイナマイトを使った小規模な発破作業が行なわれることになっていた。こうした爆破作業は1月15日に始まっており、今日で4回目。それで現場には1.2キロのダイナマイト2本が仕掛けられた。

 この程度の量のダイナマイトなら、遠くへ避難する必要もない。というわけで午後1時40分、作業員が見守るなかエイヤッと爆破。

 ……。

 実はこの時、現場の坑道34メートル奥には1.9トン(推定量)のダイナマイトが残されていた。これは去る1月20日、2回目の発破作業の時に埋設されたものだった。

 単位をよく見て頂きたい。1.2キロと1.9トンである。まるきりケタ違いだ。たちまち誘爆が引き起こされ、発破は想像を絶する大爆発となってしまった。

 どぼずばああああああん。

 ある作業員は、一緒に吹き飛ばされて地面に叩きつけられ、上から降ってくる岩のかけらを浴びたという。また別の作業員は、1トン半もの重さの鉄杭が50個も次々に将棋倒しになるのを見たという。

 結果、現場では約3,000立方メートルにわたり土砂が崩落。ダイナマイト技術者も、一般作業員も、たちまち生き埋めになった。

 救助活動はすぐに始まった。電源開発会社と建設会社の作業員たちが、生き埋めになった人々を助け出す。だが3名は救助後に死亡、16名も遺体で発見された。

 なんで1.9トンものダイナマイトが放置プレイされていたのか、その理由はググっても出てこないから知りようがないのだが、そもそも陣頭指揮を採っていた日本油脂の社員も2月4日の事故で死亡したため、真相は藪の中となってしまったようだ。(※)

(※資料によっては、日本化薬の社員が発破の責任者だったが彼も爆発の犠牲になった、という記述もある)

 ただこうした「ダイナマイト置き忘れ事故」は、もしかすると当時結構あったのかも知れない。

 実は、この現場から500メートルの上流で、5月13日にも全く同じような事故が起きたのだ。

 これについては項を改めずに、ここでまとめて書いておくことにしよう。その現場では、ダムと発電所を結ぶ水路を掘るために横抗が掘られていた。そこに13時、50本のダイナマイトを仕掛けて爆発させたのはいいが不発の分があり、回収漏れがあったのである。これは18時半の爆発でまたしても誘爆を引き起こし、2人が即死した。

【参考資料】
◆ウィキペディア
何かのサイト
 
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◆大牟田市天領町バス衝突事故(1965年)

 1965(昭和40)年12月21日のことである。

 福岡県大牟田市天領町の、鹿児島本線・大牟田~荒尾間の踏切で惨劇は起きた。

 時刻は午後3時45分。門司港発、人吉行きの下り準急<くまがわ>が、踏切を通過しようとした時のことだ。なんと、前方で一台のバスが横切ろうとしていたのである。

 危ない、ぶつかる! ――間に合わなかった。電車はバスの後部に激突し、吹っ飛ばされたバスは一回転。2メートル下にあった田んぼへ落下してしまった。

 このバスは、荒尾市四ツ山発・三池中町行きの西鉄バスだった。

 現場は道幅9.1メートルで、周囲は田んぼだったという。いかにも長閑そうだが、5人も死亡したのでほっこりしているわけにもいかない。一体全体、どうしてこんなことになったのか? バスの運転手はこう証言した。

「警報機が鳴ったので、バスは一度停止した。そして上り列車が通過したので、もう大丈夫だろうと思った」。

 他に資料がないので想像するしかないが、下り列車がまだ未通過だった以上、警報機はまだ鳴っていたのではないだろうか。だとすればこの運転手、その後どのような処分を受けたかは不明だが、責任は免れなかったことだろう。

 あるいはひょっとすると、遮断機なしの田舎らしい踏切だったのだろうか。いやしかし遮断機なしで警報機だけが鳴るような踏切があるのだろうか? そのあたりは想像を搔き立てられる。

 余談だがつい先日(本稿を書いている時点で2014年1月1日)、山形県内でも似たような事故があった。山形新幹線つばさと、女性の運転する乗用車が踏切で衝突し、女性が死亡したのである。

 大雪・猛吹雪の中の事故で、なぜ女性が踏切を渡ろうとしたのかはまだよく分かっていない。「つばさ」にとって初めてとなるこの事故、あまりにも似ていたので少し驚いた。

【参考資料】
◆ウェブサイト『誰か昭和を想わざる』

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