2013年12月6日金曜日

◆団体の思想、個人の思想

 久しぶりに、最近考えていることをダーッと垂れ流してみませう。

インターネットがこれだけ普及して、個人の自由な意見を表明するのも楽になりました。でも意外と見かけないのが、「自分は●●団体に所属していて、その団体はこういう政治的主張を持っているけれど、自分の意見は実はそれとは正反対である」というもの。

みんな、どうなんでしょうね? いろんな人に手当たり次第に一度は聞いてみたいものです。「あなたの所属する団体の政治的主張と、あなた自身の主張に隔たりはありますか?あっても言えないことはありますか?」

これ、企業でも非営利団体でも政治団体でもなんでもいいのですが、ある特定の団体に所属したことがある方なら心当たりは結構あると思います。

だけどおそらく、自分自身のこととしては心当たりがあっても、他の団体についてはそういう心当たりは「薄い」のではないでしょうか。

つまり、マスコミが「団体の主張」を報道しているのを見聞きすると、それがそのまま団体の構成員全員の主張だと感じてしまう……ということです。

僕なんかはそうでした。テレビや新聞やラジオで報道されると、与党も野党も人権団体も、その構成員はみんな同じ意見なのだろうと漠然と感じていたのです。

もちろん、誰も彼もが同意見なんてあるわけないし、それはちょっと考えれば分かることなのですが、テレビ、新聞、ラジオにはその「ちょっと考える」を封じ込める魔力があると思うんですね。

今、その「ちょっと考える」をやってみているわけです。

「団体の主張」として報道されるものを見ていくと、その大半は報道するまでもないような内容です。そりゃ野党は与党に反対するでしょう。人権団体は「警鐘を鳴らす」でしょう(人権団体というのはそれが仕事です)。農協は反対するでしょう。医師団体も反対するでしょう。経済団体は賛成するでしょう。ほとんどは言うまでもありません。分かりきっている。今さら言われなくても予想がつきます。

でもそれが、ひとたび「報道」されてしまうと「実はこんなにある反対意見!」みたいになってしまう。

そうじゃないんです。団体の意見は、そのまま構成員の意見じゃない。団体は、もともとその団体の方針や立場に基づいて、言わなくちゃいけないことを言っているだけです。

極端な書き方をしますと、「団体に主張はない」のです。あるのは、ただもともとの「方針」「立場」「それに基づいた行動」だけです。ある方向性の問題に対しては、この団体はこういう言い方をせざるを得ない――という事実があるだけです。

団体に思想や主張はありません。

思想し主張するのは個人だけです。

しかし僕は「団体の主張」を否定するわけではありません。大雑把に言って、個人の意見がまとまる場所として、団体というものは必要です。いえ、必要とかいう以前に、それは自然に生まれるものだと思います。

そして、ある思想や主張の基に生じた団体が、それにまるきり反した発言をするのは、やっぱりおかしいことです。団体は、その方針に沿う発言・活動をしなければいけません。

ただ、団体の発言や活動の基本というのはそれだけです。その基本から少しでも浮き上がってしまうと、上滑りしてしまうことになります。

どういう意味か。個人単位ではキメ細やかな思想だとしても、それが集まって団体の思想としてひとくくりにされてしまうと、どうしても大まかな上っ面だけのものになってしまうのです。

例えば政党が分裂、なんてことがよくありますね。あれは、党員一人ひとりとしては切実かつ深刻な思想的葛藤があって離脱するのかも知れませんが、団体としてひとくくりで見てしまうと、なかなかそこまでは見えない。だからそれを見る側としては「政治ごっこ」にしか感じられない。

ただそれは、団体が団体である以上は、いくらかは仕方ないことです。思想や主張を同じうする人が一緒になって集まって、一致した意見をキメ細やかに発信して多くの人に理解してもらう。これは考えてみればとても難しいことで、それが叶うとすればほんの一瞬のことでしょう。

まずそもそも、思想や主張がまるきり同じ人が集まる、ということからしてほとんど不可能です。

同じ考え方をしているように見えても、一人ひとりは違うものですからね。思想の一致そのものが奇跡的です。

それに、人の考え方なんて、ころころ変わりますから。いえ、それ以前に時代が変わりますから。変わっていく時代の中で、個人の思想が全然変わらないとしたら、それ自体が間違っています。

だから思想の一致、意見の一致というのは、厳密には「一致したように見える」一瞬のことでしかありません。

その一瞬(もちろん一瞬というのは比喩で、何ヶ月も、あるいは何年も意見の一致のもとに団体の活動は続くかも知れない)を逃さずに、団体は主張し、活動します。そしてその一瞬が過ぎたならば、たちまちその団体は存在意義を失い、その活動は形骸化します。

団体の活動が本来的な意味を持つのは、その最初の一瞬だけなのです。団体が地に足のついた形で活動できるのは、その一瞬だけなのです。

とはいえ、それでも、これは団体である以上は仕方がありません。こんな風にくどくど述べなくとも、みんな漠然となんとなく分かっていることです。

むしろ、形骸化した団体が、思想の残像のようなものに引きずられて、内容のない主張や活動をしているぶんには構わないのです。多くの人はそれには耳を傾けません。本当に気骨のある思想は、無意識のうちに人を引きつけるものです。

本当に問題なのは、形骸化した思想にズルズルと引きずられている人ではありません。自分の思想に、そういう意味で諦念を抱いている人というのは、逆に問題がありません。思想的にはフラットで、個人の思想や主張を練り上げる余地はまだまだあるからです。

また、団体の思想に狂信的に従っている人というのも、実社会に危険をもたらさない限りは思想的には無問題だと僕は考えています。そういうのは淘汰されますから。

本当に問題なのは――そういう、思想の持つ本来的なキメの細やかさを十把ひとからげにして、それを利用して、偽善のために利用する人です。

今日はここまで。(2013/12/05)