2013年10月30日水曜日

◆DQNネーム、キラキラネームについて


 東京駅前。丸の内側です。

 いわゆるDQNネームとかキラキラネームというのがありますね。若干、社会現象というよりも社会問題すれすれの位置づけになっていると思います。

 僕も少し前まではああいう名前の付け方に否定的だったのですが、今はそうでもありません。客観的に見て手放しで賛美するのか、と言われれば幾ばくかの躊躇はありますが、全否定する感じでもないです。

 どうしてかというと、理由は簡単で、そういう名前を与えられた子供たちの、その親と話をする機会が結構増えたからです。

 親から話を聞くと、たとえ傍から見るとイロモノっぽい名前でも、ちゃんと理由があるんですよね。

 親の理想とか、遊び心とか、愛情が、暗号のようにきちんと織り込んであるのです。

 そういう由来をしっかり聞き込むと、感動すらしてしまいます。親ってのは子供のことをこれほど愛するものなんだなあ、と。

 まあ名前の読み方について、子供はちょっと苦労することもあるかも知れません。でもその名前に込められた親の気持ちまで否定することはないかな、と。

 もともと、すべての日本人の名前が、すんなり読めるものばっかりとは限らないですしね(ちなみに僕自身、子供の頃から幾度となく名前を読み間違えられてきました)。

 これは想像ですが、今は子供にDQNネームやキラキラネームをつけた親も、昔はそういう名前に否定的だった人も多いんじゃないかな。「悪魔くん事件」とか昔ありましたけど、たぶん当時はトンでもねえ名前をつける親がいるなあ、と思いつつ、いざ自分が親になってみると、子供には思いを込めた個性的な名前をつけてしまう。そういうのはあると思います。

 なんで、そういう「名付け」に過度な思いを込めずにおれないのかというと、他人を愛することというのが人間にとって最初から最後まで存在する、唯一普遍的な「娯楽」だからでしょう。

 結婚したり家庭を持ったりすると、しぜん人間は守りに入らざるを得なくなります。独身時代ほど遊べなくなります。お金もなく時間もなく、人間関係は制限され、身動きが取れなくなっちゃうんですね。

 しかも、結婚生活がいつまでも新鮮とは限りません。だから、と言っていいのかどうかは分かりませんが、ある程度の結婚生活が続くと子供が欲しくなる大人は多いと思います。子供、という新しい他人が家族にひとり増えて、それを共同で育てて愛していくというのは、閉塞して停滞した人間関係の唯一の突破口になりうるんですね。サルトルを裏返して、天国とは他人のことである、と言ってやってもいいかも知れません。

 人間いつかは死にます。そう考えると、娯楽なんてものは死ぬまでの暇つぶしみたいなものです。でもいざ死ぬ段になって、趣味としてのゲームやテレビやスポーツは自分を「看取って」はくれません。最期の最期の瞬間まで自分を看取ってくれるものがあるとすれば、それは人間しかありえないでしょうし、赤の他人よりは家族である可能性は高いでしょう。

 他人を愛することというのは、最後の最後まで身を委ねられる娯楽であります。

 だったら、親はその娯楽にどんどん労力と愛を注ぎ込んでいけばいい。もちろんそれはうまくいくとは限りません。紆余曲折があるでしょうし、挫折することも失敗することもあるかも知れません。でもまずは労力と愛を注ぎ込む、さしあたりそれ以外に何かすべきことがあるとも思えません。

 だから親は、自由に愛を込めた名前をつけていいと思います。いろいろ考えているのでしょうから、そこに込めた愛情自体を他人に否定される謂れはありません。

 正直なところ、昔ながらの村落あたりですと、反対にみんな同じ名前だったりして可哀想に思えてしまうこともあります。村落全体で苗字がおんなじだったり、しかも近所同士でさほど代わり映えのない名前だったりして、マジで同姓同名が近所に何人もいる、なんてことがあったりしますからね。

 それもどうかな、と思いますし。まあバランス感覚も大事ですけど、ちょっとの個性は欲しいですよね。

 そういう狭い共同体ですと人間関係は密接なので、娯楽としての愛情というものをわざわざ作り出す必要はなかったことでしょう。だから名前もそんなに趣向を凝らす必要はなかったんじゃないかな。名前の個性よりも、毎日のように顔を合わせる隣人たちの顔そのものが個性であろう、と。

 でも現代社会は人間関係が希薄になりがちなので、人との関わりは自分から見つけて、積み上げて、作っていかなくちゃいけない部分もあります。そうした関わり方のひとつが、「名付け」という行為なのです。