2013年9月25日水曜日

◆デカルト『方法序説』を読んだよ


鐘突き堂をぐるりと囲む、人の名前。これはこのお堂を建立した時に寄付してくれた人の名前が、その金額と共に書いてあるのですが、実はこの中に僕のお●●●んの名前があります。それも、建立当時の経済情勢で言ったら、一体どんだけ金持ちだったんだよ…と言いたくなるほどの金額を寄付していたようです。

今は亡きそのお●●●んとは、子供の頃、散歩でよくここに来ました。なんでわざわざこんな所に散歩しに来るのか、今まで考えたこともありませんでしたが、そりゃ来ますよね。これだけ寄付していたんですもの。



ところで、デカルトの『方法序説』を読みました。

最初、本を手に取った段階では、正直「今さら」感がなくもなかったのですが、いざ読んでみると思いのほか面白く、引き込まれる内容でした。

例の「我思う、ゆえに我あり」ですよ。

まず、あの有名なテーゼに至るまでの自分の人生経験が語られます。それは単なる思い出話ではなく、そこに至るまでの思考と苦悩の道筋です。いわば思考における試行錯誤の歴史、とでも申しましょうか。

正直ここはちょっと退屈で、読んでいて息詰まる感覚でした。でもそれだけに、デカルトが例のテーゼに思い至ると、そこからパッと視界が開けたかのようになります。

そこからの文章は流麗です。少しは改行してくれよ(笑)と言いたくなるほどの勢いで、全ての真理があのテーゼから演繹されていきます。デカルトの、何もかもこのテーゼから演繹できるぞ! という、感動と驚きと自信が伝わってきます。

もちろん、この「我思う、ゆえに我あり」の真理としての妥当性は、後世にはいろいろ言われています。むしろ、今や批判のタネにしかならないと言ってもいいかも知れません。

だけどこの『方法序説』という本と、そしてその中核をなす「我思う、ゆえに我あり」の面白さは、そのシンプルさにあると思います。その内容が本当に真理を言い当てているかどうかは、そんなに問題にしなくても充分楽しめます。

デカルトが悩んで悩んで悩んだ末にやっと見つけた、たったひとつの手がかり。そしてそれを中心に据えていろいろ考えていくと、論理的にあれもこれもと面白いくらいに芋づる式に証明することができる。この証明は、文章で読むとちょっとくどいですが、軽やかで明るくて楽天的で、推理小説の解決編を読むような爽快さがあります。

もちろんシンプルで単純なだけに、突っ込みどころも満載なのでしょう。でもこの本には、確かに「考えることの楽しさ」が詰まっています。

教科書に載っている肖像画では、いかにも気難しそうなしかめっ面をしているデカルトです。そして『方法序説』はどちらかというと堅苦しい本ですしその文章も極めて慎重ですけれど、でも実際に読んでみると、真理を発見したデカルトが、小躍りしたくなるような気持ちを必死に抑えつつ文章をしたためていることが感じられます。

それに好感が持てるのは、デカルトはちゃんと最後に「みんなと議論する用意はちゃんと整ってるよ! よかったらお便りちょうだいね!」と言っている点です。いや本当に、手紙をくれれば出版社を通してちゃんと批判に答えるよ~、と書かれているんです。こんなに親切でサービス精神に溢れた哲学書って、あまりないんじゃないか。

思想書というのは、最後まで読んでいくと、なんとなく最後に「閉じてしまう」感覚があります。最後のページを閉じると、それでおしまい。そこで思想は丸くまとまってしまう。そういうイメージが湧くと、途端に「結局この本の内容も、著者の主観的思い込みに過ぎないのではないか?」という思いに囚われることが、少なくとも僕はたまにあります。

でも『方法序説』は、そういう意味ではオープンです。

デカルトは真理を発見していろいろと演繹してるけど、煩雑になるといけないし、他の学者をあからさまに批判したくもないから、と、全部書くことを控えています。おかげでこの本は、拍子抜けするほどとても薄いです。

でも、だからこそ批判と議論が必要だとデカルトは最後に言っているんですね。ここで自分がくどくど一方的に書くよりも、実りある対話の中で、みんなで一緒に真理に対する認識を磨き上げていこうではないか――と、ちゃんとそう宣言しています。

そこまで読んで、なるほど、だから「序説」なのかと僕は納得しました。この本は、これから議論が始まるぞ、という宣言の書でもあるのです。

最近は、難解な哲学書も、専門用語や堅苦しい文体の使用をやんわりと抑えた新訳で出版することがはやっていますね。この『方法序説』の新訳があるのかどうか僕は知りませんが、いっそタイトルも変えちゃって、もっと文章を柔らかくリズム感あるものにして、あと翻訳する側で思い切ってあちこちに改行をほどこしてやれば、中学生でも充分面白く読める本になると思うのですが、どうでしょうね。