2013年9月17日火曜日

◆ハウツー本と宮本武蔵


村山市の東沢公園に、この上り口があります。いざ出発。

読書術、勉強術、整理術、仕事術などのハウツーに関心があり、それ系のハウツー本もよく読みます。

でもまあ正直、この手の本は星の数ほどあるので、本当に心に響くものを見つけるのは難しいものです。

ただ直感的に、いいハウツー本と、そうでないハウツー本を見分けることはできます。

良くないハウツー本というのは、えてして書かれていることが独断的なものです。作者の個人的な経験か、あるいは一般人には理解不能な概念を持ち出して、それで「術」を読者に押し付けようとします。

もちろんそれがあからさまでは、誰もその「術」の有効性を信じてはくれません。ですから、書き方は巧妙になされていることが多いですね。

そこを見分けることが大事で、そうやって見分けながら何冊も読んでいくと、まともな「術」というのは意外に限られてくることが分かります。

と、これは、いうなれば「普遍的な術」の見つけ方です。より多くの人にとって有効であるような、そういうハウツー術の見つけ方ですね。

一方で僕は、「個人的な術」も重視しています。

多くの人にとって有効な、普遍的な術があるとしても、それが個別の一人ひとりにとって完全に有効であるとは限りません。その術の用い方が、個人個人で微妙に違ったりもするものです。

で、それはそれで大事にした方がいいんですよね。傍から見ると「ヘンな癖」「不合理なやり方」「回りくどい方法」のように思われても、本人にとってはしっくり来る、そういうものは誰しもあると思います。それは本人の体質とか性格によるので、実害がなければ無理に矯正する必要はない。

こういうのを、僕は「個人的な術」に分類します。

この「個人的な術」は、先の「普遍的な術」に比べると、実にスケールのちっちゃい話に見えるかも知れません。でもそうではありません。僕はこの、与えられた環境の中で、人が自然のうちに・無意識のうちに、しっくりくるやり方を見つけ出す意識のプロセスは神秘的だとすら思っています。

そのことを説明するときに、僕が必ず引き合いに出すのが吉川英治の『宮本武蔵』。武蔵が吉岡一門の数十人と決闘し、その中で二刀流の端緒を掴むシーンがあります。

引用しましょう。吉川英治『宮本武蔵』の「風の巻」のうちの「霧風」の章からです。



――といっても武蔵の行動には、いつでも一定の原則があった。それは、敵の隊伍の横へ当たらないことだった。努めて敵の展開してくる横隊の正面を避け、その群れの角へ角へと廻って、電瞬に薙ぎつける――末端の角を斬る――
しかし、いかに飛鳥の敏速があっても、彼にもたまたま破綻が生じるし、敵も彼のためにそう乗ぜられてばかりはいない。どっと、無数が無数の働きをして、同時に前後から喚きかかる秒間も起る。
その時が、武蔵の危機だった。
また、武蔵の全能が、無我夢想のうちに、高度な熱と力を発する時だった。
彼の手にはいつか、二つの剣が持たれていた。右手の大刀は血ぬられて柄糸も拳も血漿で鮮紅に染まり、左手の小剣はまだ切ッ先がすこし脂に曇っているだけで、まだ幾人かの人間の骨に耐え得る光をしていた。
だが武蔵は、二刀を持って敵と闘いながらも、まだ二刀を使っているという意識などは全然ないのである。



これです。このシーンが、高校生の時分に初めて読んで以来忘れられず、事あるごとに思い出すのです。

まあこれは作り話ですし、描かれているのは特殊な極限状況です。だからハウツー本の読み方を考えるにあたって引き合いに出すには適切ではないかも知れません。でも、与えられた状況の中で無意識のうちに活路を見出すという人間の心の構造と、その凄さを、見事に表現していると思うんですよね。

『バガボンド』にはこのシーンはなかったと思います。個人的にはそれがちょっと残念だったな。これをこそ描いて欲しかった。