2013年9月16日月曜日

◆オリンピック報道と犯罪報道について思うこと


 雨降る東沢公園。これは2~3ヶ月くらい前の写真ですが、今日も行ってきます。

 2020年の東京オリンピック開催決定、めでたいですね。

 正直なところ、スポーツ全般およびオリンピックの競技そのものにはあまり関心がありません(もちろん自国の選手が勝てばうれしい、そういう気持ちはありますよ)。だから、政治的に考えた場合にプラスになるからめでたいと思う、という感じです。

 例えば脱原発の動きについても、今すぐ早急に原発をやめてしまえば、それによって色々と不都合なことも起こるようです。リスクが高い。だから「仮に」僕が原発に対して忌避感情を抱いているとしても、現在原発が軒並みストップしていることを「めでたい」とは感じられないでしょう。

 でもオリンピックは、僕はスポーツには興味はないけど、それでも日本経済にとってプラスの効果があるらしい。だったらいいじゃないか、「めでたい」じゃないか。と思うわけです。

 あとですね、そういうめでたいニュースについてワーッと喜ぶことについて、どうも醒めた目で見てしまうところがありまして。

 僕のマスコミ嫌いはブログでもツイッターでも表明しているので、「またか」と思われるかも知れませんが、報道に関する話です。オリンピック開催のお知らせを僕らは「報道」という形でしか知ることはできません。それは当たり前です。別にそれを悪いとは思っていません。

 でもその「報道」は、ついさっきまで残酷な犯罪のことを僕らに知らせたりしていたわけです。昨日までテレビでそのニュースを見ながら、暗く深刻な気分になっていたのに、パッと話題が変わったらそれに乗せられてワーッとなる。

 犯罪のニュースは、進展がなければどんどんベルトコンベア式に奥へ追いやられてしまいます。つまりそれは、僕らの感情もベルトコンベア式に追いやられているということです。

 なんかね、機械が反応するみたいに、テレビの画面に映っている画像と音声次第でコロコロと気分を変えるのって、よく考えてみたらすごくヘンじゃないか。その瞬間、人間は何をどう考えているのだろうと、考えてしまうのです。

 で、それに伴って考えてしまうのです。たとえオリンピック開催のニュースが流れたとしても、気分を変えることができない人は必ずいます。僕が真っ先に思いつくのは、犯罪被害者の遺族です。そういう人たちは、どういう思いでいるのでしょう。彼らはテレビの前では「気分を変えられない視聴者」であると同時に、「さっきまで自分達のことを報道されていた当事者」でもあります。

 そういう人のことを考えると、どうもテレビやらニュースやらで報道されていることについて、手放しで喜ぶということができなくなるのです。別に綺麗事を書くつもりはなくて、その感覚を他人に押し付けるつもりはありません。ただ僕には、「報道」という観点から醒めた目で見てみると、そういう違和感がたまに訪れることがある、ということです。

 たぶん犯罪被害者や事故災害の被害者(加害者についても)について、考えたり想像を働かせてしまうと、それに取り付かれてしまう部分が僕にはあります。

 過去も現在も、そしてこれからも、僕が立っている大地と地続きで、また僕の頭の上にあるのと同じ空の下で、事故や犯罪の被害に遭って人生を狂わされて苦しんでいる人がいるのです。

 これは考えてみると実に不条理です。彼らは報道されるニュースの中だけに存在しているのではなく、本当に、僕のいる場所から地続きの次元で、ちょっと足を運べばすぐ行けるような場所に「いる」のです。

 最近そのことを強く感じさせたのは、例の尼崎事件です。何年にも及ぶ暴行と監禁と虐待。僕が学生生活を送っており、就職したり、悩んで転職したり、楽しかったり大変だったりしている時に、今言ったような地続きの場所でああいう目に遭っていた人がいた。なんかそのことに衝撃を受けてしまっています。

 もともとそういうところはあって、ニュースや新聞で「××さんが殺害されたのは●日の●時頃」などとあるのを見聞きすると、ああその時間帯は僕はご飯食べてたな、とか仕事してたな、と考えてしまいます。で、そうするとやけにその事件がリアルに感じられて気分が悪くなってしまう。

 見方を変えれば、わざわざそうやって想像力を働かせないと、報道されている事件事故のリアリティを本当に(?)感知することはできないということです。少なくとも僕にとっては。

 人間の苦しみというのは、共感ができないように十重二十重に仕組まれている感すらあります。同じ人間ではないのだから、共有することはできない。また物理的な距離があまりに隔たっていて、身近に感じられない。そして報道においても、次から次へと新しい話題が出てくるので記憶にとどめることができない。そういう構造になっています。

 挨拶代わりに天気の話題を出すことはあっても、事件事故を「お前あの時何してた?」と挨拶代わりの話題にすることなんて、そうそうないのです。

 アメリカでは、ケネディ大統領暗殺や同時多発テロは、そういう「挨拶代わり」の話題として使われていたそうですが。

 まあ日本でも、地震とか地下鉄サリンとか、それほどの規模になれば、ある程度の範囲の人たちにとっては「お前あの時何してた?」という話題にはなりうるでしょうけどね。

 東北人の僕としても、その意味で東日本大震災は例外的でした。「お前あの時何してた?」とまではいかなくとも、病気自慢みたいに「いや~あの時は大変だったよ」と各自勝手にしゃべってます(被災地とは言っても、まだ山形は気が楽でした)。

 繰り返しますが、綺麗事を書くつもりはありません。苦しんでいる人がいるから皆で助けてあげよう、なんてとても言えないです。

 僕だって、日々のニュース報道によってしか、現実に世の中で起きていることを知ることはできません。人助けできるほどの余裕もありません。

 じゃあ犯罪や事故災害の記憶の風化を防ぐために、文章で書き残しておくべきなのか。そう考えても難しいものがあります。そっとしておいてくれ、という人もいるでしょう。被害者加害者の気持ちも分からないくせに勝手なことを書くな、という意見もあるでしょう。部外者のやったことが全て正しいとか、完全に間違っているとか、なかなか線引きすることもできません。

 だから何もする必要がないとは言いませんが。僕が今後も『事故災害研究室』をきちんと書き続けていくとすれば、良いとも悪いとも言えないというその曖昧さこそが、かえって救いになることでしょう。

 ただこれは言えます。苦しんでいる人がいつもどこかにいる、と考えると、自分が苦しまずにいられるのは当たり前ではなく、幸運だからに過ぎません。幸と不幸は地続きでいつでもどこにでも転がっていて、それに対していつも実力で立ち向かっていけるわけなんてないのです。幸福には感謝しなければいけません。