2013年7月17日水曜日

◆「ふうき豆蒸しどらやき」と霊魂の話


十一屋の名物和菓子(らしい)、「ふうき豆蒸しどらやき」。パッケージの白と緑の色彩が食欲をそそります。

もともと、山形県には青大豆関連の名物料理や名物豆品種がたくさんあります。料理として代表的なのは「ずんだ」「ふうき豆」でしょうし、品種として有名なのは「だだちゃ豆」「秘伝豆」あたりでしょうか。

ですからこの、緑の色合いが視界に入ると反射的に「うまそう!」と感じるのは僕だけではないはず。


で、割ってみるとこんな感じ。

そして食べた感想は、「微妙」でした。

豆の餡が、豆らしくありません。

皮も、単独ではおいしいけど、中身と合っていません。

改良の余地あり、というのが僕の結論でした。



ところで関係ない話ですが、霊とか魂というものが本当にあるのかどうか、ということについては、僕は「そんなもん分かるか」というスタンスです。存在することも存在しないことも証明はできません。

そうすると次の方向性として、ありきたりですが、霊や魂の存在について考えざるをえない人間の認識の性質そのものの分析へと目が向きます。

霊とか魂というのは、要するに、肉体が滅んでも残る何か、だと思うんですよね。

つまりそれは、生きているうちから、人間は自分の肉体を自分自身とは関係ないものとして認識することが可能だということです。

まあそれはごく普通のことです。自分の肉体は、なくてはならない意識の器であると同時に、何事かをなすために必要不可欠な「道具」と見なすこともできます。

もともとこういう認識が人間にはあるから、そういう認識が単独で存在する、肉体から切り離された形で独自に成り立っている、とつい思ってしまうんでしょうね。

こういう考え方は、科学的な方面に展開されれば「客観的な視点」ということになります。だけどオカルトめいた方面に展開されると、霊や魂という話になります。

科学とオカルトは、こんなところで根っこがつながっているんですね。