2013年4月29日月曜日

◆「呑み込む」ということ


 しつこく、秋田駅前の写真。

 お分かりと思いますが、前に撮った写真を片っ端から消化しているだけで、別にこのブログを「秋田ブログ」にしようという意図はありません。

 ここはあくまでも「いち文弱の徒による情報発信の場」です。

 言うほど情報発信してないけど……

 それはさておき。

 食べることや食べ物の歴史について、思いを馳せることが最近は多いです。

 その流れで、「呑み込む」ことは人間にとってどんな意味があるのか、についてもよく考えます。

 現代の「呑み込む」行為は、まあものを食べて栄養分を摂取するための単なる過程のひとつですよね。

 あと、呑み込んで(食べて)いいものと、悪いものの区別もきっちりしています。

 こういうのは、科学的な目線からわかってきたことです。

 でもむかしむかしの人間には、栄養の摂取という観念はなかったことでしょう。

 もちろん食べ物を通してエネルギーを受け取れるということ、つまり食べ物の種類によっては噛み、呑み込むことで体になんらかの影響が与えられるということは、経験としては分かっていたと思います。

 現代はその「呑み込む」ことと「体に影響が与えられる」ことの間を、栄養の摂取という観念が媒介しているわけです。

 でも昔は、そうではなかったはず。

 両者の間を媒介していたのは、もっと神秘的なイメージだったのではないでしょうか。

 その頃は、呑み込んでもいい食べ物と、そうでない食べ物の区別も曖昧だったはずです。「呑み込む」ことは、食べ物の聖なる力、あるいは邪悪な力を取り込むことにつながる、二度と後戻りできない道だったことでしょう。

 ですから料理人も食べる人間も、等しく食べ物の神秘の一端に触れていると思うんですよね。