2013年2月26日火曜日

◆信仰心と倫理

 宗教的なしきたりや、まして信仰心ということになると、僕はほとんど関係ありません。そういう意味では無宗教です。

 でも宗教的な感覚がまったくないかというと、そうでもありません。

 虚心坦懐に自分の胸のうちを観察してみると、たとえば僕は、「生まれ変わり」について妙に納得している部分があります。また、ずっと前に亡くなった祖母が、今もどこからか見ていると普通に考えています(あまり見られたくもない祖母なのですが)。さらに言えば、占いもけっこう気にします。

 でもそれは、心から「信じている」というのとはちょっと違います。逆説的ですが、信じるというのは信じられないものを信じようとすることですからね。

 先に書いた事柄について言えば、僕は信じるとか信じないとかいう以前に、ごく普通に納得しているだけです。違和感なく受け入れているだけなので、特に強く信じているというわけでもありません。いい加減といえばいい加減です。

 でも根本的な宗教心って、本来そういうものではないかと思うんです。

 深く考えるまでもなく、わざわざ信じるまでもなく、自分のいる世界について理解し、納得し、分かっている。ですから普段は違和感など全然ない。でも少し振り返ってみると、占いを気にしていたり、お稲荷さんを怖いと思っていたり、お守りの霊力を信じていたり、お寺で真面目に線香の煙を浴びたり、ご先祖様を大事にしていたりと、けっこういろんなことを思いこんでいる。そういう思い込みのうち、あるカテゴリのものを、信仰とか宗教心とか呼ぶのではないでしょうか。

 そう考えると、霊も神様も、別に「あっちの世界」のものとして考える必要もありません。それらは、実は僕らにとっては現実世界の構成要素の一部です。

「それじゃ結局、霊も神様も否定することになるんじゃないか」と言われるかも知れません。お前の考え方は主観主義的だ、と思われても仕方ないですね。本当はそうじゃないんですが。

 でももしそう言われたら、僕はこう答えるでしょう。

「霊や神様が、僕らのいるこの現実の世界から切り離された場所で無関係に存在しているというのなら、確かにそういう考えに対しては否定的です。証拠もないし証明もできませんから。ただ全面的に否定するわけではなく、それは分からない、としか言えないのではないでしょうか」。

 そう、問題は霊や神様を肯定するか否定するか、信じるか信じないかという問題ではないのです。霊や神様を信じるということすらも、実は無意識のうちに日常の中に組み込まれており、普段の行動や、発言を通して成り立っているのです。

 そこで、人間関係が問題になってきます。

 なぜなら行動や発言はすべて、人間関係の中でなされるものだからです。他人の存在を前提しない言動というものはありえません。

 ですから、霊も神様も信仰心も、他人との人間関係の中で作られていくものだといえます。

 こう書くとやっぱり「それは霊や神様を否定しているということだ」と思われそうですが、そうではなく、単に現実はそういうふうにできているでしょう? ということです。霊や神様が本当にいるのかは「分からない」。でも僕らは日常的にそういうものを信じて生きていたりします。そこで、そういう現実を無視して、いや霊や神様は絶対確実に存在するのだ! と言われても、半分くらいしか説得力を持たないと思うんですね。

 考えてみれば、本当にあるかないか分からないからこそ、信じるとか肯定するとかいうことも成立するのです。その存在が分かり切っているのであれば、信仰する必要もないんですよね。

 例えばこの文章は多くの人がパソコンで読んでいると思いますが、目の前にあるそのパソコンの存在について、わざわざ「信じている」人は誰ひとりいないでしょう。

 さてこのように、霊も神様も信仰心も他人との人間関係の中で作られていくものだと考えると、宗教と倫理が問題になってきます。宗教は、倫理においてどうあるべきでしょうか?

 実はこれは、そう難しい問題ではないと思うのですがどうでしょう。楽天的すぎるでしょうか。

 ここまで書いたことから明らかなように、信仰心は日常の中で培われるものです。日常生活に組み込まれていない宗教的なしきたりなどは、理解も納得もできず受け付けられません。でも同時に、日常の中に、無意識にやっている宗教的な言動というのはたくさんあると思います。

 さらに、それは固定化されたものではありません。全部人間関係の中で作られていくものなのですから、影響を受けて気持ちが変わるということもあるかも知れません。

 つまり大事なのは、宗教心にも選択の余地があるということです。

 まあこれも、言うまでもないんですけどね。不作法な宗教の勧誘が奇妙なものに見えるのは、自分の選択の余地が脅かされているような気分になるからです。

 ですから、そういう選択の余地をそのまま尊重しつつ、なおかつ人間関係をスムーズなものにするのが何より大事です。

 そこで必要になってくるのは、お互いの信仰しているものを肯定するか否定するかではなく、ごく単純に「理解し合うこと」「分かりあうこと」でしょうね。

 想像してほしいのですが、外国の方が日本に観光に来たとします。そしてその人が日本の宗教のことをよく知りたいと言ってきたとします。そこで僕らは、一足飛びに「勧誘」はしないことでしょう。「仏教のことを知りたいなら、まず仏教の信者になりなさい」とは言いません。まずは、その考え方やしきたりを知ってもらうことから始めるはずです。

 いきなり信じる必要はないというか、いきなり信じるということはできません。何度も書くように、日常生活の言動の積み重ねの中で、無意識のうちに宗教心は作られていくものですから。まずは、知って理解することです。

 ですから僕らも、他宗派の人に対して「私はたとえ勧誘されても、いきなりあなたと同じ信仰心を持つことはできません。将来的に持つことができるようになるかどうかも分かりません。だけどあなたの考えや感じ方を理解するために話を聞き、しきたりも尊重します」と表明するのは誠実なことだと思います。