2013年1月9日水曜日

◆ミニ小説『つくえふきクロニクル』

 僕はみんなの机を拭く。

 別に拭き掃除が好きなわけじゃない。ただ、僕の家は会社から遠い。だから早めに家を出て早めに到着する習慣になっており、朝はすることがないから机を拭く。ただそれだけのことだ。入社したばかりの頃からそれをずっと続けてきた。

 だからこれはただの習慣であり、消極的な理由から続けているだけなのだが、それでも楽しみがないわけではない。それは出勤してきたK子さんと挨拶を交わせるということだ。

「あ、K子さん。おはようございます」
「おはよー」

 部署は同じでも、シマが違うため会話の機会もそう多くない彼女。だが僕の出勤が朝一番ならば、彼女はいつも「朝二番」で、だから毎朝この瞬間だけは二人きりで挨拶を交わすことができる。

 K子さんは、ひとことで言えば才媛である。またもし四字で言い表すとなれば、もはやひとことでは済むまい。頭脳明晰、眉目秀麗、才色兼備、明朗快活、元気溌剌。これは僕がひいきで言っているのではなく、社内の多くの人が認めるところだ。

 K子さんは僕よりふたつ上。お姉さんである。いくつもの資格を持っている彼女は、その知識を普段から仕事で活用し、誰からも一目置かれている。その上性格もいい。物怖じせずはきはきしているが、意地悪なところはまったくない。誰とでも公平に話すし、頭の良さを鼻にかけることもない。

 これで好きになるなというのが無理な話だ。彼女は僕のようなボンクラの文弱青年にも話を合わせてくれて、その聡明さと気立ての良さはまったく眩しいほどだ。こういう人もいるのかと僕は目の覚める思いだった。この部署に配属されて以来、席は離れていても、彼女のそばで働けることは純粋に幸せだと思っていた。

「K子さん、今朝は眠そうですね」
「ん……そだねー」

 ここまで褒めておいて欠点の話をするのもなんだが、彼女にはひとつだけ弱点がある。それは朝に弱いということだ。だがそれを知っているのも、朝一番に出勤する僕ならではである。普段は明朗快活を絵に描いたようなK子さんが、低血圧で瞳をくもらせている表情を見たことがある人は、社内でもそう多くはあるまい。

「どしたの、じっと見て。もしかして寝ぐせひどい?」

 まだ瞳はどろんとしながらも、K子さんは僕の目線に気付いて、かるく笑いながら髪を触っていた。表情に生気が宿りつつある。あと数分で彼女はいつもの「才媛」モードへと切り替わるだろう。こうして僕の一日は始まる。

 そんな日々がしばらく続いた――。

 K子さんが会社を辞めたのは、僕の早朝の机拭きが2年目を迎えた頃だった。

 朝の社内では、僕の机拭きの習慣だけが残った。彼女のいないその席はぽっかり空いた穴のようで、会社は退屈なだけのただの建物だった。仕事が嫌なわけじゃない。ただ、出勤した途端に即座に「ああ今日はもう帰りたい」と考えてしまう、そんな場所になってしまったのだ。

 そんな状況に少し変化があったのは、さらに2年ほど後のことだ。もともとK子さんがいた席は1年ごとに人が変わり、そしてその年にはまた別の女の子が配属されてきた。

 彼女の名前はS美さん。僕より4つ年下で、前年に入社したばかりだ。ムードメーカーという言葉がぴったりのキャラクターで、いつ見ても初々しさと元気の良さが微笑ましい、小動物のような女の子である。

 また頭もいい。かつてのK子さんほどではないものの、その思考の回転の速さは実に頼もしく、その席の仕事をきっちりこなすには充分なほどだった。

 ただそのS美さんには、ひとつだけ不安要素があった。「男好き」らしいのだ。

 どうやら本人は、恋愛についてはいたって真面目らしい。ただ、いささか積極的に過ぎる彼氏探しは失敗も多く、それが結果的に「遊んでる」と陰で言われるような結果になっている。本人も少しは自覚があるようだが、それでも自分の情熱を抑えられないのはやはり若さのゆえなのか。そこは大変そうだなと僕は思っていた。

 で、なんでそれが僕にとって不安要素なのかというと、このS美さんの出勤は毎朝僕よりも早い上に、僕よりも先に机を拭くのである。しかも何よりも先に僕のを拭いてくれるばかりか、僕が「朝二番」で出勤するといつもいの一番で挨拶をしてくるのだった。

「あ、D助さん。おはようございます!!!」
「……おはよー」
「大丈夫ですか? 今朝は眠そうですね」
「うん、まあね」

 こんな言葉を交わしながら、この会話どっかで聞いたことあるぞ、と心の片隅で思っている。

 可能性の問題と思っていただければ結構である。かつての僕と鏡映しの行動をとるS美さんの瞳には、奇妙な光が宿っているように見えるのだ。まるで朝一番に僕と会えることを楽しみにしているかのような、ある種の情熱を感じさせる光である。

そして、少し思い返してみると、仕事をしていてもS美さんとはよく目線が合う。大抵、あっちが僕を見ているのである。

 こういう状況について、ある飛躍した推論を立てるのはいささか自意識過剰かも知れない。だから僕はそれを、あくまでも可能性の問題と呼ぶことにしている。それはとても危険な可能性だ。

 その可能性について思う時、僕の頭の中では決まって「連鎖」という言葉が浮かぶ。机を拭く人から拭かれる人へ。拭かれていた人は拭く人から――。こうして僕の勤める会社の机は、仕事や習慣ばかりではなく、一種の感情をも連鎖的に引き継ぎ続けてきたのだろうか。

 とはいえ、続く連鎖もあれば続かない連鎖もあるものだ。

 仮にS美さんの感情が、僕にとって危険な可能性そのものだったとしても、僕はそれについて見て見ぬふりをするだろう。無視といういちばん残酷な行動を取るだろう。

 なぜなら僕には妻がいる。才色兼備にして明朗快活の才媛。「今日はもう帰りたい」と夫をして思わしめる積極的理由。僕が2年かけて口説き続け、ようやく手にしたそれは何物にも替え難い玉である。机を拭く、というまことに地味な形で磨き続けてきた、いわば本当の愛だったのだ。

(おしまい)