2013年1月28日月曜日

◆刃牙シリーズの理念と失敗

 刃牙シリーズが完結しました。

 しかしそのラストは、長期の連載が続いた大河漫画としては、あまりにもお粗末なものでした。おそらくファンでもあのラストに満足した人はほとんどいないでしょう。

 なぜ、刃牙シリーズは、あのような悲劇的な終わり方になってしまったのでしょうか?

 その原因を突き止めるには、おそらく「グラップラー刃牙」から当シリーズの歴史を振り返って、その根本的なテーマから考えていく必要があります。

 結論を先に言ってしまうと、当シリーズに底流していた肉体賛美・肉体信仰・肉体愛の理念が途中でねじ曲がってしまったことこそが、一番の失敗の理由だろうと僕は考えています。

 以下で、詳しく述べていきます。

 ◆◆◆

 刃牙シリーズの作者は、おそらく肉体美に魅せられています。それを肉体信仰と呼ぶ人もおり、刃牙シリーズは徹頭徹尾、肉体の美しさ・肉体の強さ・肉体の勝利を描いた作品だとする見方もあるようです。

 しかし、必ずしもそうだとは僕は思いません。このシリーズに、肉体を神のように万能視する傾向が出てきたのは、シリーズ第二部である「バキ」からでした。第一部の「グラップラー刃牙」までは、人間の肉体に関する描写は比較的まともで――まあ確かに一日三十時間のトレーニングなどはぶっ飛んでいたものの――現実に即した描き方がなされていたと思います。

 ただ、いま肉体を神のように万能視するという書き方をしましたが、「バキ」以降で作者が本当に純粋な意味で肉体信仰の理念を持っていたかどうかということになると、これも怪しいものです。銃弾を浴びても平気だったり、水面を走ったり、毒が裏返ったりと、ほとんど現実味がないあれらの描写は、ただ単に作風がマンガ的なだけです。信仰と言えるほどの理念は感じられません。

 ですから、刃牙シリーズが根本的な意味で「万能の肉体」「肉体の勝利」に重きを置いていたかというと、僕はそうではないと思います。根本のテーマは、もう少し深いところにあります。

 改めて虚心坦懐に読んでみると、人間の肉体についてあくまでも現実的に描写していた「グラップラー刃牙」の頃は、むしろ勝利のシーンよりも敗北の描写のほうが美しく描かれていることに気付きます。

 なぜ敗北が美しいかというと、それもまた、格闘家が全身全霊で戦った末の結果だからでしょう。例えば勇次郎vs独歩戦などは目を覆いたくなるほど凄惨なのに、本当に力尽きるまで全力で戦い果てる独歩の姿は、勝者である勇次郎よりも格好良く見えませんでしたでしょうか。またジャックvs渋川で、渋川剛気が合気を極めてしまったがゆえに敗北から逃れられなくなる、というあの描写に、むしろ格闘家としての宿命や美学を読み取った人も少なくないと思います。

 格闘家たちの勝負がつく時というのは、どちらかの肉体が完全に滅びた時に他なりません。ですから戦いとその結末に美しさを求めるならば、敗者が美しくあるのも当然のことです。

 そのような意味で、刃牙シリーズには確かに肉体信仰の理念があります。ただしそれは、極限まで鍛えられた肉体が、戦いのために用いられ、それがたとえ敗北する場合でも、燃え尽きる最後の瞬間まで使い果たされる、そういう姿に対する信仰なのです。そこでは、肉体美は単なる個別の肉体の美としては見出されません。あくまでも、それがフルに活用される他者との関係性における美しさとして、見出されているのです。

 肉体に対する信仰というよりも、愛と呼んだほうがふさわしいかも知れません。勝利の描写も敗北の描写も、どちらも肉体に対する愛情表現のコインの裏表です。

 そして刃牙シリーズの作者は、「グラップラー刃牙」の頃は、明らかに勝利の描写ではなく敗北の描写のほうに重きを置いていました。例外的なのは最大トーナメントの優勝シーンくらいなもので、それ以外の勝利シーンはどれもわりと平凡です。一方で、敗北する側の描写はこれでもかというほどしつこく濃厚なものが多い。「グラップラー刃牙」までは、確かにこの作品は、いわば敗北の文学でした。

 それが急に切り替わったのが「バキ」です。「バキ」から、このシリーズは敗北の文学から勝利の文学へと方向性をシフトしてしまいました。そしてそのことは、このシリーズについて言えば、堕落だったと思います。

 特に大きな転換点になったのは、最凶死刑囚編でしょう。

 あの五人の死刑囚を登場させた意図は、分からなくはありません。作者は、登場人物たちに大暴れをさせたかったのです。「グラップラー刃牙」に登場したあの魅力的な格闘家たちが、ルール無用の状況で大活躍するところを描きたかったのでしょう。

 ただそれによって、「グラップラー」では敗者の位置づけだった脇役たちが、勝者へと立ち位置を変えることになりました。このため、作品の方向性が敗北から勝利へと切り替わったのです。

 まあそれだけなら、勝利の理念を重んじる少年漫画らしくなったということで、良かったかも知れません。それよりも問題だったのは、あの死刑囚たちが、単なるタフネスを通り越して不死身としか言えないような存在として描かれた点です。彼らは(なぜか)たった五人しかいなかったため、いくらダメージを受けてもすぐに蘇り、再利用されるように戦いの場に駆り出されてはボコボコにされていました。

 よって最凶死刑囚編においては、勝利の描写も敗北の描写も中途半端です。レギュラーキャラクターたちがいくら殴っても死刑囚は復活し、完全勝利する者も、完全敗北する者も誰もいません。間の抜けた戦いだけが続いていました。

 その結果なにが起きたか。当シリーズで欠かせないはずの肉体美の描写が、空回りしてしまったのです。みんなマッチョで美しく、天才的な格闘技術も持っているというのに、勝利も敗北もなく、なんとなくだらだら戦うだけ。そして気がついてみると、格闘家の肉体は、勝利も敗北もしない中途半端な存在、すなわち「ギャグ」になってしまいました。

 おそらく、細かく見ていくと、刃牙シリーズの本来の路線は花山vsスペックで終わっていたのでしょう。「グラップラー」に存在していた理念――相手の肉体を完膚なきまでに粉砕して二度と戦えなくするのが勝利に他ならないという理念――が、あのバトルでは確かに保たれていました。

 邪推と言われても仕方ないかも知れませんが、最凶死刑囚編の中盤以降は、もはや作者も何をどう描いたらいいかよく分からなくなったのではないでしょうか。そうとでも考えないと、なんで独歩は爆弾を食らわなければいけなかったのか、なんであそこでガイアが出てきたのか、なんでいきなり本部が登場したのか、なんで渋川じゃなくて勇次郎が割り込んできていきなり戦いを終わらせたのか、などなど、理解に苦しむことが多すぎます。

 こうして考えていくと、刃牙シリーズのラストがあのような悲劇的な結末を迎えたのも、納得がいくのではないでしょうか。このシリーズでは、もう最初のぎらぎらした理念は忘れられ、何もかもがギャグすれすれになり、気がついた時には取り返しのつかない地点まで来てしまっていたのだと思います。

 では、刃牙シリーズは、最後にどのような結末であれば良かったのでしょうか。刃牙と勇次郎の戦いは、どんなラストを迎えるべきだったのでしょうか。

 答えは簡単です。ごくシンプルに、シリーズの原点に立ち返れば良かったのです。お互いの肉体をフルに使って殴り、えぐり、潰し合って、親子仲良くズタボロの血みどろになって死んでしまえばよかったのです。

「そんなひどい」と思われるかも知れませんが、そういうラストであったなら、おそらくほとんどの読者は納得したに違いありません。