◆三陸鉄道南リアス線脱線転覆事故(1994年)

 今、明治時代に発生した箒川列車転落事故について調べているのだが、調べていくなかで偶然見つけた鉄道事故である。

事故が発生したのは、三陸鉄道南リアス線。岩手県大船渡市の盛(さかり)駅と、釜石市の釜石駅を結ぶ路線である。

この路線、もとは国鉄のものだったらしい盛線と、なんだかよく分からないが「日本鉄道建設公団建設線」とやらを、第三セクター「三陸鉄道」がまとめて引き受けつつ開通したものらしい。開通したのは1984(昭和59)年4月1日のことである。

その名の通り、沿線の海岸はみ~んなリアス式海岸だそうな。ただ、ほとんどの区間は長大なトンネルになっているため、海が見える箇所はあんまりないらしい。ともあれ今では、気仙沼線・大船渡線・山田線・三陸鉄道北リアス線・八戸線とともに、「三陸縦貫線」を構成する路線の一つである。

さてそんな路線で事故が発生したのが、1994(平成6)年2月22日のこと。

件の南リアス線小石浜~甫嶺間には、矢作川という川を渡る橋がある。15時20分、そこを通りかかった普通列車が突風にあおられて引っくり返った。

この列車は、36-100形と36-200形からなる2両編成で、盛発久慈行きのものだった。筆者はここの地形を見たわけではないが、コケたのは橋の上ではなく陸地で、築堤下への落下で済んだのは幸いだったのかも知れない。水の中に落ちていれば被害はもっと大きかったのではないだろうか――結果として死者はなく、5名の負傷で済んでいる。

もちろん、陸地なら転覆しても大丈夫、なんてことを言うつもりはない。車両は2台とも廃車となり、紛うかたなき大惨事である(余談になるが、予備車が不足したため36-500形を代替製造することになったとか何とか。鉄道の何とか形とかには興味がないのでサッパリだ)。

この事故を受けて、その後現場には暴風ネットや風速計が設置されるようになった。また列車無線の整備や運行規定の見直しが行なわれ、今でも三陸鉄道では毎年2月22日を「安全を考える日」と定めているという。

ウィキペディアではこの事故について、「乗客が撮影中、事故に遭遇した映像はあまりにも有名。」とちょっと下手な文章で書き添えられていたが、この映像というのがどんなものなのか筆者は知らない。とりあえず、あまりにも有名だそうです。

なお、この三陸鉄道南リアス線は、かの東日本大震災ではもろに影響を受けて、約2年間の全線不通を余儀なくされた。運行が再開されたのは2013(平成25)年の4月3日で、現在は震災を乗り越えた路線として「震災学習列車」というユニークな列車も運行されている。

【参考資料】
◆『続・事故の鉄道史』佐々木 冨泰・網谷 りょういち
◆ウィキペディア
三陸鉄道ホームページ

◆日光市湯ノ湖バス転落事故(1965年)

 栃木県は日光市湯元に、湯ノ湖(ゆのこ)という名の堰止湖がある。

 なんでも北東の三岳(みつだけ)火山の噴火によってできたものらしい。日光観光協会のホームページによると、標高1,478メートルの場所に存在しており、一時間ほどで一周できるサイズだとか。筆者はこういうのに疎いのだが、まあ観光地なのだろう。

 1965(昭和40)年12月21日、事故はこの湯ノ湖で発生した。

 場所をもっと詳しく言えば、この湯ノ湖の東側にある「旧国道のカーブ」である。

 現在、湯ノ湖の湖畔には日本ロマンチック街道という名前の120号線が走っている。事故当時でも旧国道と呼んでいるくらいだから、現場はこの道路ではあるまい。それで地図をよく見るともう一本、北から遠回りをする形で湯元に向かう道路がある。これも湯ノ湖沿いの道で、他に目ぼしい道路もないのでおそらくこれが現場であろう。

 時刻は午前8時50分。この道路を一台のマイクロバスが走っていた。

 乗っていたのは11人。紺野組という、たぶん建築関係の業者さんたちと思われるグループである。彼らは湯ノ湖の湖畔の遊歩道を作るため、朝から作業現場へ向かっていた。

 しかし悲劇が起きる。当時の新聞記事によると、「前の車を避けようとブレーキをかけた」とあるので、前の車とやらが急ブレーキでもかけたのではないだろうか。しかし季節は12月。道路は凍結しており、マイクロバスはたちまちスリップして湖へ転落してしまった。

 道路から湖までは、3メートルの高さがあったという。これにより、乗っていた11人のうちほぼ半分の5人が死亡した。36歳の男性が一人と、32、37、38、39歳の女性が一人ずつという内訳だった。

【参考資料】
◆ウィキペディア
◆ウェブサイト『誰か昭和を想わざる』
◆一般社団法人日光観光協会ホームページ

◆上郷村花火工場爆発事故(1959年)

 昭和30年代は、とにかく花火事故が頻発していたらしい。

 武藤輝彦『日本の花火のあゆみ』によると、その中でも特に多いのが花火工場での事故であるという。記録では、昭和30年代は毎年10件以上も花火工場が爆発しており、年間10人前後が死亡、負傷者もひどい場合には200人以上に上っていたらしい。

 んで、今回ご紹介する上郷村(かみさとむら)花火工場爆発事故も、そんな事故の一例である。

 時は1959(昭和34)年5月29日。長野県、下伊那郡上郷村の別府地区で事故は起きた。午後2時25分、花火を製造中だった「内山煙火製造所」がいきなり大爆発を起こしたのだ。

 どぼずばああああああん。

 この爆発で、まず工場の敷地内にあった建物9棟があっという間に吹き飛ばされた。内訳は木造の作業場6棟、土蔵の火薬保管庫2棟、経営者の自宅1棟である。

 これにより工場の経営者の妻と、それに4名の従業員が死亡。さらに爆発地点を中心に、半径数百メートル以内の民家は、どれもこれも全壊あるいは半壊、もしくはガラス窓が割れるなどの被害をこうむった。

 後の飯田署の調べで、以下のことが判明した。どうやら爆発当時は、12名の作業員が打ち上げ花火を製造中だったらしい。なんでも花火玉を金型に入れて加圧成型していた……と言われても素人にはさっぱり分からないのだが、とにかくその作業中に、どういうきっかけか花火玉が爆発してしまったのだ。しかも他の火薬にもどんどん引火し、大爆発に至ったのである。

 ところで、事故があった内山煙火製造所だが、これは上郷村と飯田市の境に位置していた。そして工場から50~100メートル程の飯田市側には、2つの学校校舎があった。飯田市立浜井場小学校と長野県飯田風越高等学校である。

 事故当時、この2つの学校ではちょうど授業中だった。記録を読んでいると、特に不運だったのは小学校の方である。6年6組の児童たちが外で体操をしていたところで爆発が発生し、全員が吹き飛ばされたのだ。これにより女子児童1名が死亡している。

 記録をざっと見た限りでは、高校の方では、こういった形での大きな人的被害はなかったようだ。この規模の爆発が近所で起きたわりには、ラッキーだったと言えるかも知れない。この高校は1976(昭和51)年には風越山の山麓に移転し、跡地には現在の飯田警察署が建てられたという。

 死者1名を出した小学校は、かるく検索してみると今でもちゃんと存在している。この学校のシンボルである円筒形の校舎は、事故当時はほぼ全ての窓ガラスが爆発により窓枠ごと破壊されたらしい。しかし、今でもこの校舎自体は健在であるようだ。

 最終的に、この事故による被害者数は死者7名、負傷者266名に及んだ。

 現場となった上郷村は、1974(昭和49)年にいったん「上郷町」となったものの、1993(平成5)年には飯田市に編入されている。

【参考資料】
◆ウィキペディア
◆武藤輝彦『日本の花火のあゆみ』あずさ書店・2000年
◆飯田市立浜井場小学校ホームページ

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