◆第二京浜国道トラック爆発事故(1959年)

 時は1959(昭和34)年12月11日、午前4時53分のこと。

 横浜市神奈川区子安台46の第二京浜国道を、一台の砂利運搬トラック――通称砂利トラ――が走行していた。

 で、このトラックがすでにして大問題。運転手がグースカ寝ていたのである。

 しかし事情を知ればそれも無理のない話で、相田みつを風に言えば「寝ちまうよなあ、にんげんだもの」である。

 なにせこの運転手、前日の早朝から砂利の運搬のために相模原と川崎を往復しており、それももう5往復目だったのだ。ほぼ24時間、まともに睡眠もとらずに一人で行ったり来たりしていたのである。

 ついでにいえば、彼は運転免許をとりたてでもあった。

 こんな事情があり、居眠り運転のトラックは対向車線にはみ出してしまう。そして折悪しく反対方向からやってきたトラックには約4トンのTNT火薬が積まれており、これと正面衝突をかましたものだから「ワッチャ~」である。

 どぼずばああああああん。

 爆発したほうのトラックは昭和火薬(現・日本工機株式会社)という会社のもので、勝浦市の工場から、横浜の戸塚工場へ向かっている最中だった。荷台には、米軍の砲弾を解体した際に生じた火薬が積まれていたのだった。

 かるく調べてみたのだが、TNT火薬というのは、ちょっとやそっとの熱あるいは衝撃では爆発しないという。だがおそらくこの事故の場合は、高速道路での大型トラック同士の正面衝突ということで、生半可な衝撃ではなかったのだろう。悪条件が重なってしまったのだ。

 爆発直後、もうもうと立ち込める黒煙が消え去った後で道路に出現したのは、巨大な穴ぼこだった。直径5メートル、深さ1メートルの大穴である。

 周辺への被害も著しかった。現場地点を中心に、半径500メートル以内にある民家31棟が全半壊。さらに201棟が一部損壊、そして99名が負傷した。

 こんな爆発のど真ん中にいたトラックも、もちろんタダでは済まない。双方のトラックに乗っていた計4人は全員死亡した。

「爆心地」の場所を示す穴ぼこは、現場の下り車線側にあった。よって、上り線のトラックが下り線にはみ出して衝突したのだろうと判断されたのだった。

   ☆

 それにしてもド派手な事故である。盆と正月が……、じゃなくて、交通事故と爆発事故が一緒にやってきたという悪夢のような事例だ。

 しかし歴史を俯瞰してみると、この事故の発生にはある種の必然性が伴っていたことが分かる。

 というのは、この事故が起きた昭和34年頃というのは、交通事故も爆発事故も増加の一途を辿っていたからだ。

 まず、荒っぽい運転をすることで有名になった「神風タクシー」が社会問題になったのが昭和33年。その翌年の昭和34年は、交通事故による年間死者数が1万人を突破した年でもあった。

 そして爆発事故である。戦後の技術革新と経済成長によって、この頃の日本では重化学工業が発達していた。そのため産業用の火薬類も多く用いられるようになり、やはりこれによる事故も多発していたのである。

 それを踏まえて改めて見てみると、この第二京浜国道での爆発事故というのは、旬のものをアレもコレも詰め込んだ「牛あいがけカレー」のようなものだったのだなと思う。

 ちなみに筆者は、カレーと牛丼の組み合わせまでなら許容範囲だが、ウナギと牛丼を組み合わせた「うな牛」はどうにも許しがたいと思うのである(本文と関係ねえ)。

【参考資料】
◆ウィキペディア
昭和49年 警察白書
衆議院会議録情報 第034回国会 本会議 第11号

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