2012年8月26日日曜日

◆「哲学者bot」つぶやいてます

「ブログ記事を新しく何か書かなくちゃ」と気張るから更新が億劫になる、という部分もありますよね。

 必ずしもオリジナルの文章を作らずとも、何かしら「書いた」ものがあれば、それをブログで紹介してもいいんだよな、と思いました。

 まあ年に何回か、同じことを考えているのですが(笑)

 というわけで、僕がツイッターでやっている「哲学者bot」のつぶやき内容をご紹介します。

 以前、ロラン・バルトの『作者の死』について、同様の形式で紹介したことがあります。

 でも今回は、ヘーゲル、西田幾多郎、フッサール、マルクス、高山岩男、カミュの著作からの抜き書きです。

 とりあえず、今日はこのブログ記事を書く前に、以下のような内容をbotとして登録しました。

◆ぼくらは思考の習慣よりまえに生きる習慣を身につけているのだ。(カミュ)

◆とにかく説明できる世界は、親しみやすい世界だ。だが反対に、幻と光を突然奪われた宇宙の中で、人間は自分を異邦人と感じる。(カミュ)

◆真に重大な哲学上の問題はひとつしかない。自殺ということだ。人生が生きるに値するか否かを判断する、これが哲学の根本問題に答えることなのである。(カミュ)

◆哲学も哲学の立場からでなく現実から出立する、知識としての哲学からではなく現実そのものの深い直証から出立する、ということが必要なのである。然るに我々の見る所では未だこのような出立が十分に遂げられたとはいえない。(高山岩男)

◆それは考える現実ではなく、考えられた現実である。我々は考えられた現実をそのまま生きた現実と混同してはならない。考えられた現実から出立して生きた現実を説明することはできない。(高山岩男)

◆現実は対象ではなく、客観ではなく、存在ではない。現実の行動は運動ではない。要するに、純粋知識の立場でいう現実なるものは、知識の立場から矛盾率の論理を基礎として構想せられた現実に過ぎないのである。(高山岩男)

◆資本の本質は……生きている労働が、蓄積された労働のために、それの交換価値を維持し、ふやす手段として役立つ、という点にあるのである。(マルクス)

◆労働の価格は生産費によって…きめられるであろう。では、労働力の生産費とは何か? それは、労働者を労働者として維持するために、また労働者を労働者に育て上げるために必要な費用である。(マルクス)

◆具体的体験こそ、まさしく注視のまなざしが向けられるものであり、ただ哲学的自我である注視する字がは、直観されたものに対して態度を決定することをさし控えるのである。(フッサール)

◆世界は単純に存在するのではなく、すなわち経験の存在信憑の中で自然なしかたでわれわれに妥当するのではなく、世界はわれわれにとっては、単に存在を要求するものにすぎない。(フッサール)

◆もしも世界は結局、決して判断にとっての絶対的に第一の地盤ではなく、世界の存在によってすでに、それ自身世界の存在に先だつ存在地盤が前提されているとすればどうであろうか。(フッサール)

◆有の否定には一意義しかないが、価値の否定には二意義ある。……この標準によってみれば意味というものはこの価値の一種であることはいうまでもない。(西田)

◆何となれば疑うということはすでにこの仮定を許しているのである。真に認識が不可能であるならば疑うということもない、疑うということはすでに何らかの意味において認識の可能を許しているのである。(西田)

◆独創性と真の客観性とは表裏一体をなしていて、そこでは、表現の主観面と事象面が、たがいに反りの合わない部分を残すことなく、融合しています。(ヘーゲル)

◆手法に身をゆだねた芸術家は、最悪の状態にあるといってよく、かれは自分の限られた主観性の中でいい気になっているにすぎない。(ヘーゲル)