2012年8月21日火曜日

◆イジメ問題をどう捉えるべきか

 イジメ問題とどう向き合うべきか。

この問題の悩ましさは、解決のための「伝家の宝刀」が存在しない点に由来します。

たとえば犯罪が起きれば、刑事手続きに則って加害者を罰すれば、とりあえず事態の解決にはなります。また必要でしたら民事の手続きに則って損害賠償なりを求めればいい。でもイジメ問題についてはそういう、解決のための決まり切った筋道がありません。

もっとも、最近は警察に介入してもらって事件として扱わせる、という選択肢も一般的になりつつあるようですけどね。

それはそれでアリですが、まだ状況としては「過渡期」です。イジメという事態を、加害者と被害者が存在する犯罪と同様に取り扱っていいものかどうか、我々はどのような手つきでイジメを「取り扱う」べきなのか、迷っています。

で、こういう状況で改めて、イジメ問題とどう向き合うべきか。

これはもう、ぶっちゃけそういう問題に直面した関係者たちは「運が悪かった」と諦めてもらうほかはありません。

加害者も、被害者も、傍観者も、周囲の関係者も、ことイジメ問題に関しては「運悪く」そういう事態に巻き込まれたと考えるしかないのです。解決のための決まり切った筋道がない以上、その状況の中でもがいてもらうだけです。

ひどい言い方をしているようですが、これはまあ当たり前といえば当たり前のことです。

犯罪の被害者と加害者の関係にだって似たようなところはありますね。これも要は世間のひとつの人間関係が「犯罪」という括りの中で捉え直されたものですが、そもそもそういう人間関係に陥ってしまったこと自体は誰が悪い、と責められるものではなく、運が悪いと言いようがない部分が必ずある。原因の原因を掘り崩していくと、「結局のところ不運だった」としか言えない岩盤に必ず突き当たるわけで。

かといってイジメ問題はどうしようもないからほっとけ、と言いたいわけではありません。今は単に過渡期なのだと思っていますし、それに問題解決のために絶対必要なものもあります。それは当事者や関係者の「気付き」です。

イジメがイジメ問題として問題化するにはいくつかの局面があると思います。関係者が、それぞれの立場から「これはイジメである」と認識した時です。

この、「これはイジメである」という気付きが大事なんですね。自分は今どういう事態に遭遇していて、そして目の前で起きているこれはなんなのか、ということに対して「気付く」ことなのです。

そこでひとつ問題になるのは、子供たちの「気付き」の能力をいかに鍛えるか、ということ。子供たちは、当事者から傍観者まで、それを客観的に見てイジメという由々しき問題だと思わないことが結構あります。

この「気付き」の能力を鍛えるのに必要なのはただひとつ、人生経験、それだけです。ですから見方を変えれば、人生経験を積んでいる大人はそれだけ子供よりも問題に対する責任が大きいのです。

では人生経験の子供はどうすればいいかというと、そのために教育があるわけです。子供にいきなり、倍以上の年齢の大人と同じ人生経験をさせるわけにはいきません。だけど教育によって疑似的に人生経験をさせる、ということはありうる。

ただし、イジメに関する問題意識を高めるためにしっかり子供たちを教育する……などといっても、「命の尊さ」「大切さ」を教えるということで即座に教育したことになると考えてはいけません。ここで最初に書いたことに戻りますが、イジメ問題に特効薬はありません。概念を言葉だけで子供たちに教えてそれで解決になるなんてありえません。

大人たちにできるのはただひとつ、子供たちの「気付き」の能力に期待しながら、彼らが必要に応じて「気付」いてくれるための環境をひたすら丁寧に整えてやることだけです。