2012年7月3日火曜日

◆ロラン・バルト「作者の死」抜き書き

 個人的な趣味で「哲学者bot」というツイッター上のつぶやきbotを登録しています。

それで最近ロラン・バルトの「作者の死」を読んで感動&興奮し、それが醒めないうちに抜き書きをつぶやき登録しました。

せっかくなので、その一覧を公開しておきます。バルトのことを知らない方は、試しに眺めてみて下さい。ちょっとだけ知っているという方は、味わってみて下さい。もうとっくに読んだという方は、もう一度学生に戻った気分でどうぞ。

◆読者の誕生は、「作者」の死によってあがなわなければならないのだ。(ロラン・バルト)

◆読者とは、歴史も、伝記も、心理ももたない人間である。彼はただ、書かれたものを構成している痕跡のすべてを、同じ一つの場に集めておく、あの誰かにすぎない。(ロラン・バルト)

◆読者とは、あるエクリチュールを構成するあらゆる引用が、一つも失われることなく記入される空間にほかならない。あるテクストの統一性は、テクストの起源ではなく、テクストの宛て先にある。しかし、この宛て先は、もはや個人的なものではありえない。(ロラン・バルト)

◆一遍のテクストは、いくつもの文化からやって来る多元的なエクリチュールによって構成され……しかし、この多元性が収斂する場がある。その場とは、これまで述べてきたように、作者ではなく、読者である。(ロラン・バルト)

◆多元的なエクリチュールにあっては、すべては解きほぐすべきであって、解読するものは何もないのだ。(ロラン・バルト)

◆批評は、作品の背後に「作者」(または、それと三位一体のもの、つまり社会、歴史、心理、自由)を発見することを重要な任務としたがる。「作者」が見出されれば、《テクスト》は説明され、批評家は勝ったことになるのだ。(ロラン・バルト)

◆ひとたび「作者」が遠ざけられると、テクストを《解読する》という意図は、まったく無用になる。あるテクストにある「作者」をあてがうことは、そのテクストに歯止めをかけることであり、ある記号内容を与えることであり、エクリチュールを閉ざすことである。(ロラン・バルト)

◆作家は、常に先行するとはいえ決して起源とはならない、ある(記入の)動作を模倣することしかできない。彼の唯一の権限は、いくつかのエクリチュールをまぜあわせ、互いに対立させ、決してその一つだけに頼らないようにすることである。(ロラン・バルト)

◆テクストとは、無数にある文化の中心からやって来た引用の織物である。(ロラン・バルト)

◆現代の書き手は、テクストと同時に誕生する。彼はいかなることがあっても、エクリチュールに先立ったり、それを越えたりする存在とは見なされない。彼はいかなる点においても、自分の書物を述語とする主語にはならない。……あらゆるテクストは永遠にいま、ここで書かれる。(ロラン・バルト)

◆言語学が示すところによれば、言表行為は、全体として一つの空虚な過程であり、対話者たちの人格によって満たされる必要もなしに完全に機能する。言語学的には、作者とは、単に書いている者であって、決してそれ以上のものではなく……わたしとは、わたしと言う者にほかならない。(ロラン・バルト)

◆作者というのは、おそらくわれわれの社会によって生み出された近代の登場人物である。われわれの社会が中世から抜け出し、イギリスの経験主義、フランスの合理主義、宗教改革の個人的信仰を知り、個人の威信、あるいはもっと高尚に言えば《人格》の威信を発見するにつれて生み出されたのだ。(バルト)

◆ある事実が、もはや現実に直接働きかけるためにではなく、自動的な目的のために物語られるやいなや、つまり……象徴の行為そのものを除き、すべての機能が停止するやいなや、ただちにこうした断絶が生じ、声がその起源を失い、作者が自分自身の死を迎え、エクリチュールが始まるのである。(バルト)

◆エクリチュールとは、われわれの主体が逃げ去ってしまう、あの中性的なもの、混成的なもの、間接的なものであり、書いている肉体の自己同一性そのものをはじめとして、あらゆる自己同一性がそこでは失われることになる、黒くて白いものなのである。(ロラン・バルト)

以上です。ちなみに引用文献は『物語の構造分析』花輪光訳・みすず書房1997年 です。