◆横浜歌謡ショー将棋倒し事故(1960年)

 1960(昭和35)年3月2日のことである。横浜市中区の横浜公園体育館とその周辺では、午前中から大勢の人々が集まっていた。

 この体育館は元は米軍体育館で、形はかまぼこ型で面積は約3,000平方メートルの大型のものだった。1958(昭和33)年に接収解除されて興行場法の適用を受け、横浜市が国有財産のまま委託管理していたという。普段はスポーツくらいにしか使えない、粗末な施設だった。

 当時ここに集まっていた人々の目当ては、夕方からこの体育館を会場に開催されるイベントである。開局1周年を迎えたラジオ関東(現アール・エフ・ラジオ日本)が、「開局1周年ゴールデンショー」なる歌謡ショーを催すことになったのだ。

 このショーの出演者がまた豪華で、林家三平、島倉千代子、青木光一に若山彰と、現代でいえばさしずめEXILEとAKB48がいっぺんにやってきたような――すいませんこの例えはテキトーです――絢爛たる顔ぶれだったのである。最高のショーだ。

 当時はこのような、芸能人を呼んで集客を図ろうとするイベントが一般的になりつつあった。ところがこの横浜の歌謡ショーでは、こうした豪華さそのものが仇となった。

 問題は、主催者のラジオ局が前もって配布していた無料招待券の枚数である。ラジオ局側は「招待券を配っても実際には来ない人がたくさんいるだろう」と考えて、会場の定員のなんと2倍近い6,000~8,000人にこの無料招待券を配っていたのだ。

 ところが主催者の予想は完全に外れた。ショーの出演者の顔触れがあまりにも素晴らしいため、欠席する者はほとんどいなかったのである。

 さあ大変、興行場法で決められた横浜公園体育館の定員は3,500名である。立ち見を入れても4,000名がいいところだ。午前10時の段階でも、すでに島倉千代子や青木光一目当ての10代の少女たち2,000人近くが押し寄せていたともいい、会場にはすでに暗雲が立ち込めていた。

 それでも、最初は目立った混乱もなかった。会場の体育館には正面と北側にそれぞれひとつずつ入口があり、それぞれに2列ずつ並ばせることができたからだ。

 いよいよ惨劇の時が近づいてくる。

 17時30分に入場開始となり、最初は人々も整然と入場していた。しかしほどなく館内は満席となり、立ち見として無理やり詰め込んでもこれ以上の収容はもうアカン、という状態になってしまったのだ。

 そこで主催者側がとった措置が、「それ以上の収容はあきらめる」というものだった。会場の入り口で、アルバイトの警備員などが呼びかける。

「館内はもう満席です。これ以上は中へ入れません」

 これを聞いた人々の感想は「はぁ~~?」といったところだったろう。これでは、整然と並んで入場を待っていた招待客こそ好い面の皮である。当然納得して帰るはずもなく、一部の人たちが警備員相手に騒ぎ立てた。

「ふざけるな、こっちは入場券を持ってるんだぞ。中に入れろ!」

 時刻は17時45分頃。3月のこの時刻というとほとんど夜のような暗さだったことだろう。体育館周辺に集まっていた顔の見えない群集が闇の中でわめき始め、警察官の制止を無視して突っ込んできた。

 どうやら、最初は列に並んでいない人々が割り込んできた形だったらしい。しかしそれをきっかけに、整然と並んでいた人々も隊列を崩して我先にと入口へ殺到したのだった。

 当時、会場でもぎりをしていた大学生のアルバイト学生たちによると、主に押し寄せてきたのは「早く入れろ」と叫ぶ10数人の若者だったという。

 かくして惨劇は起きた。北側入口のドアの下に、縁石が12センチほどの段差になっている部分があったのである。おそらくそこに蹴躓いたのだろう、まず2、3名が転倒し、後続の者がさらに折り重なって倒れた。

 将棋倒しは止まらない。ドドドドドッとそのまま100名ほどが巻き込まれ、うち女性や子供ばかり12名が圧死。加えて14名が重軽傷を負った。

 こんな事態になっても、招待客たち数千人はまだ暴れ、わめいていたというから呆れる。現場はかなりの混乱状態だったようだ。

 この事故から2日後に行われた衆議院本会議では、事故について緊急質問が行われている。その際、現場の状況については以下のように述べられている。

「……新聞等の描写によれば、倒れた人の上にまた倒れ、その上を踏み越えるというありさまで、一瞬、泣き叫ぶ者、うめく者、助けを求める者、血を見る騒ぎとなりました。そうして、入口付近には、すでに息絶えた者、どろまみれの者など、数十人が小山のように積み重なり、世にもむごたらしい光景を描き出しました。死者十二人、すべて女の人と子供であり、重軽傷十四人も同様であります。……」
 (第34回国会衆議院本会議議事録第11号)

 こんな阿鼻叫喚の地獄の中、横浜市内の中、南、磯子の各消防署から救急車が出動して、さらに現場は騒然とした。怪我人は警友病院、横浜中央病院、花園橋病院、国際親善病院、大仁病院などに搬送されたが、人出が足りず、警察車両や通りすがりのタクシーなども動員されたという。

 この事故のため、歌謡ショーはもちろん中止。ラジオ関東はこの日の夜の番組放送もすべて取りやめた。

 19時には神奈川県警による現場検証と関係者からの事情聴取も始まっている。群集の混乱や先述の縁石の存在ももちろんのこと、現場の北側入口のドアが狭いうえに当時は片側しか開いていなかったのも事故の原因と考えられた。

 一応、当時の現場にはラジオ関東の社員10名、アルバイト学生25名、制服警官12名、私服警官7名が配備されており、招待客の誘導や現場の警備にあたっていた。派遣された警官の数は通常の3倍だったというが、だがそれでも数千人の群集には勝てず、事故は防ぎ切れなかったのである。

 この事故のあと、警備にあたっていた加賀町警察署から、読売新聞に対してこのようなコメントが寄せられた。

「主催者(ラジオ関東)からの届出では来場者数は4千人程度との事でその数なら混乱は発生しないと判断し特に警備を通常より増員する事などしなかった」。

 まあさすがに、警察も、よもや主催者側が定員の倍以上の人々に招待券を送っていたなんて想像だにしなかったことだろう。

 後からではなんとでも言えるが、そもそも入場整理の時点でも、アルバイト学生や警察たちの連携は杜撰なものだったという。人手は足りず連絡も不十分、さらに言えば整理のための設備も不手際だらけと、これは完全に主催者側の判断ミスによって引き起こされた事故だった。

 当のラジオ関東は、先述したように事故直後には当日のイベントとラジオ放送をぜんぶ取りやめ、そして事故の詳細について報じた。さらに翌日には当時の社長が新聞にお詫びの広告も出している。

 歌謡ショーに出演することになっていたという林家三平にちなみ、ここは最後に「もう大変なんすから」でシめようかと思ったが、なんか笑えないのでやめておこう。どうもすいません。

【参考資料】
◆ウィキペディア
事件事故まとめサイト(仮名)
ウェブサイト『警備員の道』
◆衆議院会議録情報 第034回国会 本会議 第11号

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◆第二京浜国道トラック爆発事故(1959年)

 時は1959(昭和34)年12月11日、午前4時53分のこと。

 横浜市神奈川区子安台46の第二京浜国道を、一台の砂利運搬トラック――通称砂利トラ――が走行していた。

 で、このトラックがすでにして大問題。運転手がグースカ寝ていたのである。

 しかし事情を知ればそれも無理のない話で、相田みつを風に言えば「寝ちまうよなあ、にんげんだもの」である。

 なにせこの運転手、前日の早朝から砂利の運搬のために相模原と川崎を往復しており、それももう5往復目だったのだ。ほぼ24時間、まともに睡眠もとらずに一人で行ったり来たりしていたのである。

 ついでにいえば、彼は運転免許をとりたてでもあった。

 こんな事情があり、居眠り運転のトラックは対向車線にはみ出してしまう。そして折悪しく反対方向からやってきたトラックには約4トンのTNT火薬が積まれており、これと正面衝突をかましたものだから「ワッチャ~」である。

 どぼずばああああああん。

 爆発したほうのトラックは昭和火薬(現・日本工機株式会社)という会社のもので、勝浦市の工場から、横浜の戸塚工場へ向かっている最中だった。荷台には、米軍の砲弾を解体した際に生じた火薬が積まれていたのだった。

 かるく調べてみたのだが、TNT火薬というのは、ちょっとやそっとの熱あるいは衝撃では爆発しないという。だがおそらくこの事故の場合は、高速道路での大型トラック同士の正面衝突ということで、生半可な衝撃ではなかったのだろう。悪条件が重なってしまったのだ。

 爆発直後、もうもうと立ち込める黒煙が消え去った後で道路に出現したのは、巨大な穴ぼこだった。直径5メートル、深さ1メートルの大穴である。

 周辺への被害も著しかった。現場地点を中心に、半径500メートル以内にある民家31棟が全半壊。さらに201棟が一部損壊、そして99名が負傷した。

 こんな爆発のど真ん中にいたトラックも、もちろんタダでは済まない。双方のトラックに乗っていた計4人は全員死亡した。

「爆心地」の場所を示す穴ぼこは、現場の下り車線側にあった。よって、上り線のトラックが下り線にはみ出して衝突したのだろうと判断されたのだった。

   ☆

 それにしてもド派手な事故である。盆と正月が……、じゃなくて、交通事故と爆発事故が一緒にやってきたという悪夢のような事例だ。

 しかし歴史を俯瞰してみると、この事故の発生にはある種の必然性が伴っていたことが分かる。

 というのは、この事故が起きた昭和34年頃というのは、交通事故も爆発事故も増加の一途を辿っていたからだ。

 まず、荒っぽい運転をすることで有名になった「神風タクシー」が社会問題になったのが昭和33年。その翌年の昭和34年は、交通事故による年間死者数が1万人を突破した年でもあった。

 そして爆発事故である。戦後の技術革新と経済成長によって、この頃の日本では重化学工業が発達していた。そのため産業用の火薬類も多く用いられるようになり、やはりこれによる事故も多発していたのである。

 それを踏まえて改めて見てみると、この第二京浜国道での爆発事故というのは、旬のものをアレもコレも詰め込んだ「牛あいがけカレー」のようなものだったのだなと思う。

 ちなみに筆者は、カレーと牛丼の組み合わせまでなら許容範囲だが、ウナギと牛丼を組み合わせた「うな牛」はどうにも許しがたいと思うのである(本文と関係ねえ)。

【参考資料】
◆ウィキペディア
昭和49年 警察白書
衆議院会議録情報 第034回国会 本会議 第11号

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◆瀬田川列車脱線転覆事故(1934年)

 台風の歴史も調べると結構きりがないのだが、やはり有名なのは昭和の三大台風と呼ばれる室戸・枕崎・伊勢湾台風であろう。

 今回ご紹介する瀬田川脱線転覆事故は、室戸台風のさ中に発生した。マクロな視点で見れば台風による突風事故である。だがミクロな視点で見ると人間の不手際が目立ち、今では鉄道事故の一種として分類されている。

   ☆

 1934(昭和9)年9月21日のことである。

 東海道本線草津駅~石山駅間(現在の瀬田駅~石山駅間)の、瀬田川にかかった橋の上を列車が通過しようとしていた。

 この列車は、東京発神戸行きの下り急行で11両編成。記録によるとスピードは出しておらず、徐行していたそうだが、実はこの時は列車を運行するのには最悪のタイミングだった。

 滋賀県全域に室戸台風が襲来していたのだ。

 室戸台風――。最大風速31.2m/s、最大瞬間風速39.2m/sを記録することになる、化け物のような巨大台風である。

 こいつが県内で猛威を振るい始めたのが、21日の午前2時から午前4時の間のこと。そしてこの威力がもっとも強まったのが午前8時から9時の間で、先述の下り急行列車が瀬田川に差しかかったのが午前8時30分だったのである。これじゃ、暴風雨被害に遭わせて下さいと言っているようなものだ。

 もっとも、惨劇を防ぐチャンスは皆無ではなかった。通過駅ごとに、気象告知板(ホーロー板などに「暴風雨」とか「警戒」などと書かれたもの)がちゃんとあったのである。これに従って、運転を慎重にしていればよかったのだ。

 とはいえ戦前の話である。現代ならば異常があればすぐに列車を止めるだろうが、当時はどうだったのだろう。「異常があればとにかく運転を止めろ」というのは戦後の三河島事故以降のルールで、終戦より前の時代は逆に「汽車を止めるのは恥」と考えられていたというから、むしろ暴風雨の中でも汽車を進めていくほうが当たり前だったのかも知れない。

 さあ、列車が橋の上に差しかかった時である。風を遮るもののない橋梁で、室戸台風の強風が車両に襲いかかった。

 列車はたちまち脱線、一気に3両目以降の合計9両の客車が転覆してしまう。この現場の画像はネット上でも見ることができるが、9つの車両が綺麗に並んで横倒しになっている様は、なんだか可笑しくすら感じられる。

 だが笑ってもいられない。この脱線転覆によって11名が死亡し、169~202名ほどが負傷したのである(負傷者数は記録によってずいぶん幅がある)。

 さらに、倒れたのが隣の上り線の線路だったからまだよかったものの、これが逆方向だったらどえらいことだった。お分かりだろうか、場所は河川にかかる橋梁である。転覆の方向によっては、客車が水没して死者が十倍くらいに跳ね上がっていた可能性すらあるのだ。

 橋の上の脱線転覆事故というと後年の餘部鉄橋転落事故を思い出す。だがあれは、線路が一本しかなかったため、脱線イコール転落という絶望的な状況だった。それに比べると橋の上が複線になっていたこの瀬田川脱線転覆事故は不幸中の幸いだったといえるかも知れない(もっとも瀬田川のほうが死者数自体は多いのだが)。

 さてそれでこの事故、「脱線したのは台風のせいだ」という見方もあったようだが、京都地検はそうは考えなかった。事故を起こさないようにするチャンスがあったのに注意を怠ったということで、乗務員の過失を認定、起訴したのである。

 裁判がどういう経過をたどったのかは、残念ながら不明である。ネット上で調べた程度では、そのへんの資料は見つからなかった。

 ちなみに、室戸台風で事故った列車はこれだけではない。他にも、東海道本線・摂津富田駅の近くで列車が脱線転覆し25名が死傷しているし、野洲川橋梁では貨物列車が転落し水没している。さらに大阪電気軌道奈良線(現・近鉄奈良線)でも大阪府布施町(現・東大阪市)内での電車の脱線転覆が発生しているのである。

 こうやって見ると、どれも人災とはいえ、乗務員ひとりひとりの責任ではないような気がしてくる。要は全ての鉄道員の意識のあり方や、彼らに対する安全教育自体に問題があったのではないか。

 いわば、「暴風雨の中でも列車を動かす」ことは、鉄道員にとっては自然法則のようなものだったのである。原理ではないが原則だったのだ。

 ともあれこれらの事故がきっかけとなって暴風設備の研究が進められ、鉄道でも風速計が設置されるなどの措置が取られるようになったのだった。

【参考資料】
◆『続・事故の鉄道史』佐々木 冨泰・網谷 りょういち
◆ウィキペディア
神戸大学電子図書館システム
個人サイト『わだらんの鉄道自由研究』

◆青森県鰺ヶ沢村・雪泥流災害(1945年)

 1945(昭和20)年3月22日のことである。青森県青森県西津軽郡赤石村(現在の鰺ヶ沢町)の大字・大然(おおじかり)地区にて奇妙なことが起きていた。

村を流れる赤石川の水かさが、なんだかやけに少なくなっていたのである。

村の中には、この事態に気付いた者もいた。だがその意味するところまでは誰も思い至らなかったようで、村はそのまま夜を迎える。

そして運命の時が訪れた。その時刻は23時頃から、翌午前3時頃の間といわれている。

実は赤石川の上流では、この冬の豪雪が雪崩かなにかでダムとなり、水の流れを押し止めていたのである。さらに当夜は折からの豪雨で――と、ここまで言えばもう充分であろう。この大雨のため天然ダムは決壊し、大量の雪、土砂、水が村に襲いかかったのだ。

このような水流を、専門用語では「雪泥流」と呼ぶらしい。

直撃を受けた集落は、家も住民も押し流された。大然では13戸、佐内沢という集落では7戸が一瞬にして流されて88名が死亡(87名という記録もある)。内訳は男性が41名、女性が46名。遺体は7月11日になってようやく全て発見されたという。

これだけの人数が死亡し、しかも村落がほぼ壊滅したのだ。国内の土石流災害の被害としてはかなりのものである。だがこの災害、一般的にはほとんど知られていないと言っていい。それは何故か?

答えは簡単で、報道されなかったのだ。

1945(昭和20)年という終戦直前の微妙な時期だったため、少なくとも中央ではまったく報道されなかったのである。おかげで戦後、この災害は地元民しか知らないモノホンの「知られざる災害」として語り継がれることで、辛うじてその記憶が繋ぎ止められていたのだった。

そんな、災害の記憶の「発掘作業」が始まったのが1987(昭和62)年のことである。東奥日報新聞社が「消えた村」と題して、3月16日から26日にかけて、惨劇の顛末を連載。さらに翌年には郷土史家の手によって単行本にまとめられたのだった。

天然ダムの崩壊による洪水、それも雪泥流による被害というのは国内でもあまり例がないらしい。よって、この事例研究は専門の研究者にとっても、また事故災害の記録という観点からいっても、極めて貴重なものであった。

この災害が起きた赤石川の周辺は、もともと地滑りなどの土砂災害が発生しやすい地質だった。このことは前にバス事故の項目でちょっと書いたことがあるが、第三紀層を形成する箇所が多く存在するのだ。

雪泥流はあくまでも雪と水の組み合わせで発生するが、水流が発生すると、途中で土砂などを巻き込んで落下していくことになる。よってそこが脆い地層であれば、被害が拡大するのも当然であろう。

青森県で最初の砂防ダムが設置されたのがこの赤石川だったというのも、決してゆえなきことではないのだ。「青森県砂防発祥地」の記念の石碑もあるそうだが、そこには「雪泥流」という言葉もきちんと刻み込まれているという。

なお、慰霊碑も存在する。なんでも「鰺ヶ沢町自然観察館ハロー白神」なる施設のそばにあるそうで、これは昭和26年11月に建立された。そしてその裏面ではこのような説明がなされているという。

「昭和二十年三月二十二日夜来の豪雨により流雪渓谷に充塞河水氾濫し舎氷雪に埋まり大然部落二十有戸悉く其影を失ふ夜来のこととて死者八十七名生存者僅かに十六名のみ實に稀有の惨事たり爾来七星霜犬方の同情と復員者の苦闘により漸く復典の緒を見るに至る茲に浄資を集め遭難者追悼の碑を建て以て厥の冥福を祈らんとすと爾云
昭和二十六年十一月
赤石村有志代表
村長正七位 兼平清衛識」

この記事を書くにあたり、本当は上述の郷土史家がまとめた記録とやらを読んでみたかったのだが、ついにそれは叶わなかった。たぶん青森の地元とか国会図書館とかそれ専門の大学の図書館でないと置いてなかったりするのだろう。

というわけで、筆者はネット上の情報をつなぎ合わせて今回の記事を書くしかなかったのだが、一応文献のタイトルも掲載しておこう。興味がある方は読んでみて下さい。

『岩壁(くら)――昭和20年・大然部落遭難記録』
著者・鶴田要一郎
発行・青沼社
昭和63年12月20日初版発行

まあ仙台から青森まではそう遠くないし、山形在住の筆者としては、青森県の図書館にそのうち直接調べに行こうかな~なんて思わなくもないのだが。

【参考資料】
レポート『新しい雪氷災害「雪泥流」とその予測』小林俊一
総務省消防庁防災課『災害伝承情報データベース整備検討報告書(平成16年度分)』平成17年3月発行
個人ブログ『砂防に関する石碑 碑文が語る土砂災害との闘いの歴史』2008年06月30日公開記事「2-1.大然部落遭難者追悼碑」
ウェブサイト『東北自然ネット』内記事「赤石川の砂防と大然部落の全滅」

◆玉栄丸(たまえまる)爆発事故(1945年)

 ちょっと前に一世を風靡したNHKの連続ドラマ『ゲゲゲの女房』で、「第三丸爆発事故」というのが登場する。そのモデルになったのが、今回ご紹介する玉栄丸(たまえまる)爆発事故である。

 発生したのが鳥取県の境港市だから――というわけではないだろうが、まるで妖怪のように捉えどころのない不気味な事故だ(念のため言っておくと、境港市は水木しげるの生まれ育った町)。発生したのが終戦直前だったため大々的には報道されず、原因も長らく分からずじまい。事故のあった事実だけが民間伝承のように語り継がれてきたのだ。

   ☆

 1945(昭和20)年4月23日の朝のことである。鳥取県西伯郡境町大正町(現・境港市)で、接岸していた一隻の貨物船から荷物の陸揚げが行われていた。

 この貨物船が玉栄丸である。建造されたのは1917年、総重量は1,000トン弱。まあ特別大きいというわけでもない平凡な汽船だ。そこに当時は火薬が山と積まれていたのだった。

 んで午前7時40分頃、これが大爆発を起こした。船に積まれていた火薬に、どこからか引火してしまったのだ。

 どぼずばああああああん。

 この最初の爆発からして凄まじかった。なにしろ100キロ先の建物にまで聞こえるほどの大音響で、近所の住民の中には地震と勘違いした者もいたようだ。

 さっそく地元の警防団、消防隊、警察官、軍関係者が駆け付けて消火活動が行われた。野次馬も大勢やってきて、その様子を遠巻きに見ていたという。

 ここで第二の爆発が起こったから目も当てられない。港の岸壁にあった火薬倉庫に延焼してしまい、今度はこちらが大爆発を起こしたのだ。これが8時30分頃のことで、消火作業中だった人々も、野次馬も巻き込まれてしまった。

 結果、境町の市街地の3分の1が焼失。死亡者115名、負傷者309名、倒壊家屋も431戸に上った。直接間接を問わない被災者の総数は、最終的には1,790人にも上っている。これは、第二次世界大戦中に山陰地方で発生した火災としては最大のもので、なんか爆発事故プラス「境町大火」とでも呼びたくなるような趣である。爆発事故だって、広い意味でいえば火災の一種だしね。

 そして、事故の記録はいったんここでストップする。軍に関するスキャンダルということで報道管制が敷かれたのだろう、大々的に報じられることもなく、爆発の原因も不明のまま、この事故は闇に葬られる形となった。

   ☆

 さてそれで、ここからが「解決編」である。玉栄丸はなぜ爆発したのだろうか?

 これ、現在はちゃ~んと答えが分かっている。なんと煙草のポイ捨てによる引火だったのだ。それも下手人は一般人ではなく軍関係者だったというから呆れる。この真相が明らかになるまでは「あの爆発は軍に対するなんらかの謀略だったのではないか」という説も囁かれていたようだが、もう台無しである。

 この事実が判明したのはごく最近のことである。事故直後に聞き取り調査を行っていた一人の男性が手記を残しており、そこにぜんぶ書かれていたのだ。

 この手記は1985(昭和60)年に書かれたもので、かつての軍関係者のサークルの会報に寄稿されていた。よって内々では知られていたのだろうが、その情報が、2007年になってから新聞社に持ち込まれたのだ。

 その手記によると、こうである。

 事故直後の調査中に、一人の不審な上等兵と出くわした。彼はなんだか落ち着かずおどおどしていたそうで、まあ不審者の見本みたいな様子だったのだろう。それで追及したところたちまちゲロしたのである。以下、その自白内容の一部を抜粋させていただく。

「陸揚げの途中で休憩があった。煙草に火を付けて一服吸い、無意識に吸い殻を投げ捨てた。ところが、そこらにこぼれていた火薬に引火し、パッ! パッ! と火が走り出した。数秒の後、いきなりドカン! ドカン! と大爆音、その時、大爆風で前に倒され、背中に火傷を負った」

 涙ながらの自白であったという。

 この上等兵が具体的に誰かのかは分かっていない。少なくとも手記にその名前は記されていなかったという。

 問題はこれが本当なのかどうかだが、信憑性はわりあい高いようだ。事故当時、一般人の中にもこれと同様の話を耳にした者がいたのだ。どうやら噂話程度には広まっていたらしい。

 普通に考えれば、事故原因が判明してスッキリするところである。だが遺族としては複雑な心境であろう。60年経ってようやく明らかになったかと思えば「軍関係者の煙草のポイ捨て」だったのである。しかもその真相は隠蔽され続けて、誰の処罰も謝罪もないままうやむやにされてしまったのだから。

 まあ噂になっていたほどだし、軍関係者の中には、この真相を知っている者も多くいたに違いない。だとすればこれは、当世風にいえば明らかな「不祥事隠し」であろう。

 うーん、こういう書き方をするとお堅い話になってしまうけど、国には謝罪と賠償の義務があるんじゃないかなあ(個人的意見)。

 この事故は、現地に慰霊碑も建てられている。現在も、事故が発生した毎年4月23日には献花式が行われているという。

 蛇足じみた話だが、その献花式で、市長がこのように述べたことがあるという。ちょっとご紹介しておこう。

「今の時代に生きる者として二度と悲惨な歴史を繰り返さないよう、平和の尊さを後世に語り継いでいく責任がある」。

 なんでやねん、とツッコミたくなったのは筆者だけだろうか。これ、事故の真相が判明した後の言葉なのである。事故原因はただの煙草のポイ捨てであり戦争とは関係ないのだから、この言葉は明らかにピントがずれすぎであろう。

 おそらくこの言葉には「慰霊」の意味があるのだと思う。この事故の犠牲者たちは、不祥事隠しのせいでまるきり「浮かばれない」状態にある。そこで、軍イコール戦争という図式を持ちこんで、犠牲者をむりやり「英霊」に祭り上げて丸く収めようとしているのだろう。

 でもあえて書かせて頂くと、この事故から導かれる教訓はやはりただひとつだと思う。「煙草のポイ捨てはやめよう」――これだけだ。なにもわざわざ犠牲者を英霊扱いしなくとも、そっちを徹底して事故の再発防止に結び付けていくほうが、筋としては通っている気がするのである。

【参考資料】
◆ウィキペディア
個人ブログ『歴史~飛耳長目~』
ウェブサイト『近代化遺産ルネッサンス 戦時下に喪われた日本の商船』

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◆餘部鉄橋列車転落事故(1986年)

 「山陰鉄道唱歌」の11番と12番に、このような歌詞がある。

香住に名高き大乗寺
応挙の筆ぞあらわるる
西へ向えば餘部の
大鉄橋にかかるなり

山より山にかけ渡し
御空の虹か桟か
百有余尺の中空に
雲を貫く鉄の橋

 ずいぶん大げさな歌詞だな、と思われるかも知れない。しかしここで歌われている「餘部の大鉄橋」がいかに巨大であるかは、ちょっとネット上で検索すればすぐにご理解頂けるはずだ。

 餘部鉄橋――。それはまさに大鉄橋中の大鉄橋、かつては東洋一の高さを誇ったという「ザ・超巨大鉄橋」なのである。そんな建造物がかつて日本には存在していたのだ。

 ウィキペディアによると、概要は以下の通りである。

【餘部鉄橋】
◆長さ:310.59m
◆最大支間長:18.288m
◆幅:5.334m
◆高さ:41.45m
◆形式:トレッスル橋(トレッスルとは「うま」の意味)
◆素材:鋼材
◆建設:1909(明治42)年12月16日~1912(明治45)年1月13日
◆総工費:331,536円

 さてそれで『事故の鉄道史』では、餘部鉄橋についてこう書かれている。

「ここの主役は鉄橋である。列車も、日本海も、民家も、餘部橋梁の引立て役でしかない。天駆ける鉄道なのだが、ご存じのように列車の転落事故もあって美しい話ばかりではなかった」――。

 なかなかの名文だと思う。そして今回ご紹介するのが、くだんの「列車の転落事故」である。

   ☆

 そういえば最初に、名称の表記についてお断りしておこうと思う。この事故の舞台になる「あまるべ鉄橋」の漢字には「余部」と「餘部」の2種類があるようだが、ここでは「餘部」に統一させて頂く。

 特に深い意味はないのだが、筆者の愛用のvaio君で変換するとこの漢字しか出てこないのだ。

   ☆

 1986(昭和61)年12月28日のことである。

 場所は兵庫県美方郡香美町・香住区餘部地区。そろそろお昼を過ぎようかという頃、8両編成の列車が餘部鉄橋の上を通過しようとしていた。

 この列車の名は「みやび」。先頭の機関車に7両の客車を連結した、団体ツアー用の臨時列車である。山陰買い物ツアーという催し物のために運行されており、先ほども香住駅で167名を下ろしたばかりだった。

 大盛況のツアーでひと仕事終えて回送列車となった「みやび」が、鉄橋の上をガタンゴトンと走り抜けていく――。ここまではごく当たり前の光景だった。

 問題は強風である。この時、餘部鉄橋には海からの強風がもろに吹き付けていたのだ。

 このあたりの地区にとって、強風そのものは決して珍しいものではない。だが当時の風の勢いは特に凄まじく、運行を管理する福知山管理局でも警報装置が作動していた。この装置は風速25 m/s(メートル毎秒)以上で作動するのだが、それが2回も危険信号を示したのである。

 1回目の警報で、管理局は香住駅に問い合わせた。
「おおい、こちら福知山管理局。そっちは風が強いみたいだけど大丈夫か?」

 これに香住駅は答えていわく、
「うん、風が強いね。でも20m/s前後だから特に問題はないよ」

 そうか問題ないのか、と管理局は納得した。まあ今は鉄橋の上を通る列車もないし、そっとしておこう……。

 だが2回目の警報の時は、ちょうど「みやび」が橋の上を通過するタイミングだった。これでは止めようにももう遅く、ここで悲劇が起きる。

 時刻は13時24分(事故報告書では25分となっている)。鉄橋のほぼ中央にさしかかった「みやび」の中央の客車が、ブワッと膨らむように南側へ脱線した。

 さらに、それに引っぱられる形で、ズルズルズルと他の客車も脱線。7両まとめて41メートルの高さを落下した。

「みやび」が回送中でほぼ空っぽの状態だったのは、まあ不幸中の幸いだった。だが転落した場所がまずかった。真下には水産加工の工場があり、いきなり降ってきた客車の直撃を受けて全壊したのである。

 これにより、「みやび」の車掌1名と、工場の従業員の主婦5名の計が命を落とした。また、客車の中にいた車内販売員3名と、工場の従業員3名の計6名が重傷を負い、さらに近隣の民家も半壊。あげく「みやび」の車両は火災を起こし、現場はもう目も当てられない惨状となった。

 鉄橋の上には、台車の一部と、機関車だけがぽつんと取り残されていた。

 ちなみに転落の巻き添えを食らって破損した風速計があったのだが、この時の風速については33メートルを記録している。

 国鉄による復旧作業は迅速に進められた。のべ344人の作業員が投入されて、枕木220本とレール175メートルが交換。そして事故発生から3日後の31日には被害者遺族の了解を取り付け、さっそく運転を再開したのが15時9分のことだった。

   ☆

 それまでにも、餘部鉄橋ではいくつかの事故が起きていた。

 例えば、これはさすがに古い記録になるが、架橋工事の時には転落による死亡事故が2件発生している。また負傷の記録も83件残っているという。

『事故の鉄道史』によれば、鉄橋の周辺地域には鉄道関係の慰霊碑も複数存在するそうだ。地形的な問題でもあるのだろうか、もしかすると、列車の運行や工事などには、もともと慎重を要する土地柄なのかも知れない。

 とはいえ、だからといって、今回説明している列車の転落事故が「ありきたり」のケースということは決してない。むしろこれは、歴史的にはとんでもない事例なのである。

 国鉄の記録によると、これよりも前に発生した「鉄橋からの列車転落事故」は、1899(明治32)年10月7日に東北本線で発生した箒川転落事故が最後とされている。つまりこのカテゴリで見ると、餘部のは実に87年ぶりの事例ということになるのだ。

 およそ90年間も起こらなかった類型の事故が、現代に蘇ったのである。とんでもない事例と書いた理由がこれでお分かりであろう。

 しかし事故の後処理は意外と地味なものだった。

 まず、東大教授を委員長とした「餘部事故技術調査委員会」が発足したのが1987(昭和62)年2月9日のこと。そして翌年の2月には、この委員会によって事故調査報告書がまとめられている。

 筆者は、この報告書を読んではいない。とりあえず「列車の転落は強風によるものであり、不可抗力による自然災害だった」という結論になっているようだ。

 もちろん、だからといって誰も責任を問われなかったわけではなく、先述した福知山管理局の指令長と指令員2名の合計3名が被告席に立たされている。風が強かったことを知っていながら列車の停止を怠ったというのが、その罪状であった。

 刑が確定したのは、事故から7年後のこと。それぞれ、執行猶予付きで禁固2年から2年6か月という判決だった。

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 そしてここからが、鉄道事故マニアのバイブル『事故の鉄道史』による謎解きである。

 実は、著者の網谷りょういち氏は、この事故について大胆にも「裁判は茶番」と述べて、真の事故原因は風ではない、と書いているのだ。

 以下で、網谷氏が挙げている主な疑問点をご紹介しよう。

1・風速33メートルで列車は簡単に転落するのだろうか? 鉄橋ができて以来74年の間に、33メートルの強風が吹いたことは一度もなかったというのだろうか?

2・事故後の写真を見ると、鉄橋の線路のレールが、当時の風向きとは「逆」の方向に曲がっている。風で車両が押されたのならばそんなふうに曲がるわけがない。なぜ曲がった?

3・風による脱線では、普通は後部車両から転落していくものだが、この事故は中央の車両から転落している。これは何故か? 中央の車両が特に転落しやすくなる要因があったのではないか?

4・事故調査報告書では、転落時における近隣住民の目撃証言が収集されていない。また同報告書では、「当時の風速は33メートルだった」とわざわざ調べて書いている。壊れた風速計は33メートルを最初から示しているのに、なぜ改めて調べた? 風の強さを強調したかったのではないか?

 ――網谷氏のスタンスは「1」「3」「4」から明らかであろう。つまり、国鉄はこの事故を自然災害として片付けようとしているが、実際には人災の要素もあったのではないか、と疑問を示したのである。

 それでは真の事故原因は一体なんなのか。それは網谷氏によると「脱線」である。

 そのヒントは、上述の疑問点のうちの「2」にある。鉄橋上のレールの歪曲は強風が原因ではないのだから、何か他に原因があったはずだ。さらにこのレールには車輪が乗り上げた痕跡もあったという。

 つまりレールの歪みが原因で脱線が起き、そこに強風という悪条件が重なったことで大惨事に至ったのである。

 では、このレールの歪みはなぜ生じたのだろう?

 結論をズバッと言えば、これは「フラッター現象」であるらしい。

 正直に言うと筆者もいまいちイメージが掴めないのだが、飛行機や高層建築物はそれ自体で「振動」するらしい。強い風や地震がなくともひとりでにグラグラブルブルしてしまうのだ。だから、小さな風でも大きく揺れるのである(いずれこの現象による他の事故もご紹介していく)。

 餘部鉄橋は、こうしたフラッター現象が起きやすい構造になっていたのである。鉄橋の振動のせいでレールが歪曲したところに「みやび」が差しかかり、乗客がいないため軽かった中央の車両が脱線した。そしてさらに強風で浮き上がり、転落したのだ。

 実際の事故調査や裁判では、こうした点までは確認されていない。だが網谷氏は、餘部鉄橋の建築と修復の歴史を調べて、この橋が理論的にはフラッター現象を生じやすい危険な建造物だったことを証明している。

 たとえば、送電線をつなぐ鉄塔などは、鉄骨造りの巨大建築物という点では同じである。だがこうした鉄塔がグラグラ揺れたあげく倒れた、などという話はふつう聞かない。これはもちろん補修もされているのだろうが、なにより鉄塔の構造のおかげなのである。

 簡単に書くと、鉄骨の横向きの棒と、縦向きの棒、そして斜めの棒の「太さ」の問題なのだ。この3者のバランスが保たれていると、良い感じにしなやかになり、振動をうまく吸収できるのである。そうしてフラッター現象は抑えられる。餘部鉄橋は、そこのバランスを間違えていたようなのだ。

 ではさらに突っ込んで、この「間違い」はなぜ生じたのだろうか? それを説明するには、餘部鉄橋の建設の歴史をたどっていかなければならない。

   ☆

 餘部鉄橋の建設は、明治政府にとってはいわば「苦肉の策」だったと言えるのではないだろうか。

 香住~浜坂間は山と海に挟まれている上に断崖が多い地域である。そこに無理やり線路を通そうとした結果が、あのような超巨大鉄橋だったのである。

 とにかく、列車にはなんとしても山を上らせなければならない。なおかつ谷も渡らせねばならない。そうでなければ長大な迂回路とトンネルを造らねばならず費用もかかる。方法としては谷底の村を埋めて築堤を造るか鉄橋を建てるしかないが、「安い、早い」方法は断然後者だった。

 こうして、1911(明治44)年から大規模な工事が行われた。完成までには、当時の金額で33万円を超える費用と、延べ25万人を超える人員が投入されたという。おかげで餘部の村は「架橋ブーム」に湧いたそうな。

 できあがった餘部鉄橋は、管理上、雪の重みや風による揺について神経を使わざるを得なかった。今なら、こういう負荷の計算はコンピュータで即座にできる。だが当時は勘と経験に頼るしかなかった。

 ここで読者諸賢は思われるかも知れない。なるほど勘と経験などという漠然としたものを頼りにしていたのか、それではフラッター現象が起きて事故につながっても当然だよな――と。

 ところがどっこい、むしろ建設から数十年間はなんの問題もなかったのだ。少し詳しく書くと、もともと餘部鉄橋では、列車進行方向と直角方向とでは横向きの鉄骨がそれぞれ違っており、列車の振動をうまく吸収するようにできていたらしいのだ。むしろ初期の、勘と経験に頼った建設方法は適切だったのである。

 もちろん、部品の交換や修復は何度も行われた。むしろ、この鉄橋の歴史は修復と補修の歴史と言ってもいいかも知れない。とにかく先述したように潮風と積雪に常にさらされているため、定期的な部品交換や錆止めのペンキ塗装は不可欠だった。

 さて、そのように平穏に運用されていた餘部鉄橋だが、『事故の鉄道史』によると、それにケチがつき始めたのが1968(昭和43)年のことである。この年からから1976(昭和51)年度にかけて行われた第3次修繕8カ年計画が問題だったのだ。

 この修繕計画で行われた部品交換作業は、実に地道なものだった。鉄橋にはいつも通りに列車を走らせつつ、隙をみてコツコツ作業を進めたのだ。

 しかし、ここで横の鉄骨と斜めの鉄骨だけが交換・補強され、縦の鉄骨とのバランスが悪くなってしまった。

 致命的なミスはもうひとつあった。橋脚の足元を、コンクリートでガッチリと固めてしまったのだ。

 ガッチリ固めたほうが頑丈でいいんじゃない? という声が聞こえてきそうだが、これはマズイらしいのである。足元があまりにガッチリしていると、鉄橋の振動を吸収できないのだ。分かりやすく言えば「しなやかさを失う」ということか。実際、この改修工事の直後から、列車が鉄橋上を通過する時の振動が大きくなったという。

 こういうことを勘と経験だけで理解していたのだから、先人の知恵というのは凄いものだ。だが同時に、その罪深さを感じる話でもある。勘と経験が素晴らしく研ぎ澄まされていたのは結構だが、修復する時の要領についても定めておいてくれればよかったのだ。

 以上が網谷氏の説である。

 ただまあ、事故の原因の真相については、筆者は素人なのでよく分からない。ただ『事故の鉄道史』の脱線説は非常に説得力があるし、有名でもある。餘部の事故について多少なりとも学術的に解説する場合は、これを抜きにしては片手落ちという感があるのでご紹介させて頂いた。

 こうして事故の解説を通して餘部鉄橋の歴史をざっと眺めてみると、ひとつ強く感じることがある。転落事故はつまり、あらゆる意味でこの鉄橋の「賞味期限切れ」を意味していたのではないか、ということだ。

 賞味期限というか、要するに「もの」には耐用年数というやつが存在する。ここでいう「もの」とは、建造物やシステム全体までをも含むと考えて頂きたいのだが、それをもっとも極端に、悲惨な形で示すのが事故や災害である。餘部鉄橋の大事故は、まさにそれだったのではないかと思うのだ。

 歴史を見ると、この鉄橋は建設後少なくとも数十年は役に立っていたようである。だが鉄橋が存在することによるメリットとデメリットのバランスは、元々かなり危うかったのではないだろうか。

 メリットは、もちろん輸送や観光などの経済効果である。この鉄橋は土木学会からAランクの技術評価を受けており、歴史的な価値も高かった。それにまた、鉄橋のある餘部の風景や、鉄橋そのものの構造なども、鉄道ファンのみならず山陰地方を訪れる観光客全般には人気があったという。

 一方デメリットは、補修修繕の難しさと維持管理費の莫大さ、そして地元住民にとっても悩みの種だったという騒音、落下物、飛来物などの被害である。

 それに加えて、転落事故後は風速規制も強化され運行基準も見直された。1988(昭和63)年5月以降、風が強い場合は香住~浜坂間で代行バスが使われることになったのだ。

 安全対策上は必要だったかも知れないが、ここまでくると羹に懲りてなんとやら、という感がしなくもない。これによって輸送の安定感もなくなり餘部鉄橋は斜陽の時代を迎え、ついに2010(平成22)年には運用終了と相成った。

 少し順序が前後するが、1988(昭和63)年10月23日には事故現場に慰霊碑が建立され、毎年12月28日には法要が営まれてきたという。

 そして2010年(平成22年)12月28日の25回忌が、遺族会による最後の合同法要となった。橋が新しく造り変えられることに決まり、ひとつの節目を迎えたのである。

。こうして、次に造られたのが今のコンクリート製橋である。これは2007(平成19)年3月29日から3年ほどかけて建設され、2010年8月12日に開通した。

 建設位置は、かつての餘部鉄橋よりも7メートルほど内陸に近く、費用は30億円に上ったという。ウィキペディアあたりでちょっと調べて頂ければ、その雄姿を見ることができるので是非どうぞ。リニア・モーターカーの走行が似合いそうな、シャープでかっこいい橋である。

 で、かつての餘部「鉄橋」はどうなったか。これについては「余部鉄橋利活用検討委員会」が設けられ、県と地元で協議した末、橋脚と橋桁の一部を残して「空の駅」と称する展望台を造ることが決まったという。また道の駅も建設し、かつての鉄橋を偲ぶ記念施設にするそうな。

 この「空の駅」はまだできあがっていないようだ。だが建設予定図などをネットで見てみるとなかなか面白そうである。素直に、一度行ってみたいと思う。

   ☆

 こうして、日本一の巨大さを誇った餘部鉄橋は、いくつかの汚点を歴史上に残してその役目を果たしたのである。あとから振り返ってみれば、この転落事故こそが、餘部鉄橋の落日のしるしであった。

 これは想像だが、あの鉄橋は人々から愛され、守られてきたと同時に、同じくらいに恨まれ、憎まれ、疎んじられてもきたのではないだろうか。

 良くも悪くもシンボル、愛着と諦め、愛憎半ば。家族と同じで、身近であればあるほどえてしてそういう感情を呼び起こすものだ。その解体が決まった時の地元の人々の思いは、果たしていかばかりであったろうかと、筆者は思わず想像してしまった。

【参考資料】
◆『続・事故の鉄道史』佐々木 冨泰・網谷 りょういち
◆ウィキペディア
ウェブサイト『キノサキ郡の橋』
同『鉄道サウンド広場(資料館)』
同『失敗百選』
2010年7月14日アサヒ・コム『余部鉄橋 一部は「空の駅」に整備へ 廃材は研究機関に』

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